7話 初夏、通り雨、舞い落ち
その日の夕方。
夕飯の準備をしている母さんは氷花さんに話しかけた。
「氷花ちゃんの好きな厚揚げ買って来たから後で軽く炙るね」
何気ない一言だったが、重要な一言だった。
母さんが帰って来る前に、氷花さんは部屋にはいるけれど姿隠しの術で完全に気配を消していた。
さとりの眼で見ないと僕にも見えない状況だ。
でも母さんは普通に氷花さんへ話しかけた。
「真衣。完全に気配を消しているわたしが見えているんだね……」
母さんは黙った。
「それに……君、爺様の幻術が効いてないんじゃないの?」
どうやら母さんは天狗の広範囲幻術も効いていないようだ。
氷花さん曰く、稀にこういった術の効かない体質の人間はいるらしい。
母さんの場合は陰陽術の陰の法に耐性があるようで幻術等にはかからず、化け物が姿隠しの術を使っても丸見えになるようだ。
逆に陽の法への耐性はまったく無いようなので、攻撃系の術を受ければ一溜まりもないとのことだ。
試してはいないけど、さとりの眼は陰の法に当たるので僕は母さんの心を読むことはできないそうだ。
「わたし達には正直に話していいんだ、君の息子も今から色々話すことがあるようだしね。わかってるだろうけど、わたしは君に危害を加えたりする者じゃない」
母さんは腰砕けにあった様に冷蔵庫前にしゃがみ込んだ。
張り詰めた緊張感から一気に解放されたようだった。
「わたしは君たちを護衛する立場さ。だから信用して話してほしいだ」
氷花さんの言葉を聞いて、母さんは重い口を開き始めた。
「……ずっと、どうしていいかわからなくて。煉が事故で運ばれてからお化け達が病院うろついていたし、氷花ちゃんは煉を護ってるようだったから安心していたけど、なんで煉のそばにいるのかわからないし……。とにかく誰も刺激しないように過ごすことに必死で」
そうだよな。
母さんは母さんで大変だったんだ。
何が起こっているのかわからない状況で、家族の周りに化け物がうろつき始めたら普通の人はどうするのだろう?
その化け物に理由を聞いてみるだろうか?
いやいや、流石にそんな怖いことはできない。
母さんのように、家族に危険がない限り黙って様子を見ておくかもしれない。
その状況に置かれない限り、どのような行動を取るかなんてわからないものだと思う。
安心した母さんは、それから自身が幼い頃の話をしてくれた。
母さんは幼い頃から化け物を お化け と呼んで、普通に見えていたらしい。
たまに遊んでくれる お化け もいたようで、すべてが怖い者ではないと理解していた。
幼い頃は遊び相手に お化け が居たこともあり、化け物への恐怖心が軽薄だったようだ。
そんな中、中学生の時に人を喰らう化け物と出会ってしまい考えが一変してしまう。
食い殺されそうな大ピンチを助けてくれたのもまた お化け であり、そのお化けのおかげで今の母さんは生きているらしい。
助けてくれた お化け から、今後の危険から回避するための注意をいろいろ受けたようで、母さんはずっとそれを守って生きてきた。
「見るな、気付くな、近づくな」
何かの標語みたいな文句で覚えやすい言葉だ。
覚えやすいけど、化け物相手に「見るな、気付くな、近づくな」なんて簡単なことではない。
そんな状況の母さんに、その お化け は、化け物を見なくて済む眼鏡をくれたそうだ。
成長と共に眼鏡のサイズが合わなくなり、さらに眼鏡のデザインが気に入らない事もあって、ある時からお化けを見て見ぬふりして過ごして行ける技術を習得したらしい。
うん?
化け物を見なくて済む眼鏡?
なにか聞き馴染みのあるアイテム名だ。
「母さんを助けてくれたお化けの名前ってわかる?」
「牛丸っておじいさんだよ。この前病院で久しぶりに見かけたんだけど……わたしのことにまったく気付いていなかったみたい」
なんてことだ、親子2代でお世話になっているだなんて。
僕が急に眼鏡をかけていても、母さんは突っ込まなかった訳がわかった。
眼鏡を掛けている理由がなんとなくわかっていたからだ。
驚きの告白があったけれども、逆にこちらからの話がし易くなった。
僕は母さんにも店長と同様、事故からの一部始終を話した。
母さんは流石に驚いた様子だった。
さとりの眼と鳳凰の手に関しても話をしたのだけれども、そんな特別な眼と手を貰ってラッキーね!ってくらいのリアクションだった。
いやいや、そこはもっとおどろくところだろ!と、思った。
死ぬはずだった僕を助けてくれた天狗に対しては、感謝なんかでは足りないほどの大感謝だと言っていた。
過去の母さんだけでなく、自分の命よりも大事な息子の命を救ってくれた恩人にどのような感謝を伝えればいいのかを悩み始めるくらいだった。
息子を化け物にしたひとなんかに感謝なんてしなくて良いんだよ。と、僕は母さんに言った。
それでもこんなに元気に生きていることへの感謝しかないようだ。
店長の話をしたのだけれど、母さんはやっぱり化け物だと気付いていた。
ただ、本当に優しくて良い店長。と、いった印象を母さんは持っている 。
その店長から勤務上のフォローの約束や、母さんを守るように言われた話を伝えると。
「20代半ばくらいの若い店長さんなのになんて立派なの!あの店長さんなら煉を安心して任せられると思ったわ!」
と大絶賛だった。
「お化けっていいひと本当に多いのよ。小学校の低学年の時によく遊んでくれた咲ちゃんって子がいたの」
咲という名前を聞いたとたん、氷花さんがすぐさま反応した。
「君、咲を知っているのかい?」
「えぇ、あの頃は同い年くらいだったので良く遊んでいたのよ。突然会えなくなったんだけど、氷花ちゃん知ってるんだ」
「もちろんさ、あの子は昔から人間好きな子だからねぇ。人に深入りしないよう爺様から説教を受けてたくらいさ。そのことで喧嘩になって姿を消したんだよ」
「そうなの?」
「咲は君の体質知らないから記憶飛ばしの術で自分の記憶を消せたと思っていたのだろうね」
「最後に会った日、咲ちゃん泣いてたわ。ごめんねって言って、全部忘れられるから大丈夫だよって」
「今後見かけたら言っとくよ、真衣が会いたがってるってさ。きっと驚くよ」
母さんと氷花さんが楽しんで会話を交わしている。
流浪の河童を見た時はすべてが詰んでしまった気分になった。
でも店長との会話、母さんとの会話でずいぶんと僕は救われ始めてきた。
僕の話なんて受け入れられないと思っていた。
これからの僕を受け入れてくれる人などいない、家族でも無理だと昨日まで思っていた。
でも違った。
理解者がいるって、なんて幸せなんだろう。
――――――
その日から母さんの表情は見るみる元気になった。
不安や、疑問に思っていたことが解消されたからだろう。
それと氷花さんにミサンガのような物を渡されたことも良かった。
その妖力入りのミサンガを巻いているだけで、化け物は母さんへ近づくことも難しくなる代物らしい。
かなりの妖力を練り込んだ氷花さん自慢の一品だ。
ミサンガを付けている時に近寄ることができる化け物は、せいぜい天狗の爺様か土蜘蛛の店長くらいなんだとか。
(本当に店長ってそんなに強いのだろうか?)
氷花さんは知り合いの化け物にも声を掛けて咲ちゃんを探しているようだけど、なかなか見つからないようだ。
人間と仲良くしたい咲ちゃんは口うるさい天狗に愛想をつかして、ずいぶん前に山を出て行ってから行方知れずらしい。
母さんは残念がっていたけれども朗報もあった。
中学生時代に人を喰らう化け物から母さんを救ったお化け。
それが実は咲ちゃんだったらしいのだ。
母さんと離れてからも、心配でたまに遠くから見守っていたようだ。
そしてある日危険が迫っていることに気付いた咲ちゃんが助けに入った。
そこで再会を果たしても良かったのだけれども、これからの母さんの人生に自分は不要だと判断し、後のことを天狗に任せて去って行ったらしい。
なんともしっかりした化け物だ。
個人的に今一番会いたいひとになった。
明日のアルバイトで店長に会うので、咲ちゃんのことを聞いてみよう。
店長なら何か知っているかも知れない。
母さんと咲ちゃんの再開。
このイベントは絶対に達成させてあげたい。
――――――
テレビではもうすぐ梅雨入りだと言っている。
今日は折り畳み傘を持つようにと、天気予報士がしきりに言っていた。
突然の通り雨に注意らしい。
退院してからすでに2週間が経った。
アルバイトは朝から昼過ぎまでの時間を中心に勤務をしている。
今日は欠員が出たので14時までだった勤務が17時までになったけど、氷花さんが待機しているから不安はなかった。
店長に咲ちゃんのことを聞こうと思っていたけれど、残念なことに店長はOFFだ。
あまり休みの無い店長だから、今日はゆっくり休んでもらおう。
アルバイト終わりにフライドチキンを買って帰る予定だ。
氷花さんがフライドチキンに興味津々だからだ。
「君の店で作ってるチキンてやつ。美味しそうな匂いを漂わせているね。興味があるんだよね」
普通に食べたい、と言わない面倒臭い妖狐の分も含めて3人分のチキンを買って店を出た。
17時過ぎ、雨が降り始める。
僕は持って来た傘をさした。
「君、準備がいいねぇ」
「氷花さんもね」
氷花さんはどこからともなく和傘を出してさしていた。
チキンを買ったことに上機嫌の様子だ。
今すぐに食べたいと言ってきたけど、帰ってからみんなで食べるためお預けにした。
母さんもパートが17時までだと言っていたから、家に着いたらすぐに夕飯になりそうだ。
蒸し暑い初夏の突然の通り雨。
いつもそうだ、良いことや悪いことは通り雨と同じで突然やってくる。
「発情鬼……」
「……はい?」
「まずいよ、走れ!」
氷花さんの表情が一変した。
真剣な顔。
河童との対峙でも、店長との対面でも見せなかった本気の顔だ。
「急ぐよ!」
すごい速さで氷花さんが走り出した。
僕は訳が分からないまま後を追うように走る。
「氷花さん!」
呼びかけても振り返りもせず進んでいく。
化け物の襲撃?
いや、眼が疼いていない。
眼鏡の力で感知能力が抑えられているから気付けていないのか?
味わったことのない焦燥感に、怒られることは承知で眼鏡を外した眼で氷花さんを見た。
「……!」
「……嘘だ」
「……」
「氷花さん……!ねぇっ!」
「急ぐんだよ!」
「嘘だあぁぁー!」
頭の中が真っ白になった。
急いでいるのに世界がスローモーションに動いて見える。
足が希望の動きをしてくれない。
耳は街の音と雨の音を聞き忘れ、景色を見ることを忘れた眼は氷花さんだけを追いかけた。
事故から信じられないことばかりが身の回りで起こっている。
見えているものや聞いた話は、すべてが嘘みたいなことなのにすべてが事実だった。
知らない間に入り込んだ化け物がいる世界。
それは想像を超えた世界。
この世界はこれからどれほどの物を僕に与え、どれほどの物奪っていくのだろう。
間違いであってほしい、嘘であってほしい……。
初夏、通り雨が降る今……。
母さんが死んだ。