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藍の果てまで

作者: Yoi


 膝に置いたスクール鞄をただ眺めている。

 外の景色を見たって、どうせこの季節は雨か曇り空だ。

 激しく揺れる車体は、僕を居心地の悪い場所から遠ざけてくれているみたいで、どこか心地よかった。



 車内のアナウンスに気付き、近くの手すりについている降車ボタンへ手を伸ばす。

 家に近い停留所はまだ先だが、憂鬱な学校が終わって、誰もいない家に帰るのは寂しいので、僕はいつも決まってこの停留所で降りている。


 ICカードをかざして運賃を支払い、バスから歩道への高い段差を勢いよく飛び降りた。

 すると、バスは扉を早々に閉め、誰を待つこともなく走り去っていった。


 降りてすぐ目に入るのは、大きな総合病院だ。


 最初の頃は、休日に両親と行くことが多かったが、最近は一人で行くことが増えた。

 そのほうが、ゆっくり話ができるからだ。


 入り口までのわずかな距離の間に、僕は鞄からマスクを取り出し、設置された『マスク着用』と書かれた看板を一瞥しながら、それを見せつけるように着けた。


 センサーが反応して自動扉が開くと、病院特有の消毒薬の匂いと、完備された涼しい清潔な空気が体を包み込んできた。


 中に入る直前、ふと目に入った扉横の小さな花壇には、アジサイが咲いていたような気がした。



 僕と同じ苗字が記載された名札の前に立つほんの手前で、中から看護服姿の女性が、ゴミ袋のようなものを抱えて出てきた。


 目が合ったので軽く会釈をすると、「今日も来てるのね」とその女性は僕に言った。

 その言葉に「他に行くとこ無いんで」と返し、僕は病室の扉を開けた。


 大きく置かれた病室のベッドに背を預け、背もたれを起こしたいつもの体勢で、姉は今日はスケッチブックに絵を描いていた。


「何描いてるの?」


 僕が来たことに気付いているはずなのに、姉はその手を止めることもなく、視線を移そうともしない。


「アジサイだよ」


 そう答える姉は、いつものように楽しそうだった。


「ああ、そう言えば病院の前にも咲いてた気がする」


「そうらしいね。さっき看護師さんが教えてくれたの」


 オーバーベッドテーブルに置かれたスマートフォンの画面には、[アジサイ]と検索されたまま、色とりどりの花の画像が並んでいた。

 この病室から出られない姉は、どうやらその画像を見ながら、アジサイの絵を描いているようだった。


「今日の学校はどうだったの?」


 僕が鞄を下ろし、近くにある椅子に腰を下ろすと、姉はそう聞いた。


「……楽しくなかった」


「またそんなこと言って」


「だってあいつら、俺のことをからかうんだ。もう学校行きたくないよ」


 小学校の頃から内気で、人と関わるのがあまり得意でなかった僕は、中学校に進んでも変わらず、学年の中心人物に毎日のようにいじめられていた。

 そんな僕に友達がいるはずもなく、放課後に遊ぶ約束の一つもない。

 だから、こうして姉の見舞いと称して病院に遊びに来ているのだ。


 けれど姉は、そんな僕を心配する素振りをいつも見せなかった。


「そっか、そっか」


「本当なんだって。……姉ちゃん、俺が心配じゃないの?」


 意地になった僕に対しても、姉は絵を描く手を止めることなく、優しく「わかった、わかった」と宥めるように笑って見せた。


「姉ちゃんが家にいてくれたらいいのに……」僕はそう小さく呟いた。


 すると今度は、先ほどまで休めることなく動かしていた手が、一瞬だけ止まったような気がしたが、すぐにまた動き出した。


 少し間を置いてから「アジサイってさ、色を変える花なんだって」と姉が言った。


「色を変える?」


「うん、土壌の酸性度によって青色に咲いたり、紫色に咲いたりするらしいの。その性質から、「移り気」っていう花言葉があったり、人の変わりやすい言葉や態度として描いた詩もあるんだってね」


 淡々と話す姉の言いたいことが分からず、僕の頭は混乱してきていた。

 その様子を見て、姉はまた楽しそうに笑う。


「だからね、そんなに思い詰めることないよ」


 そう微笑む姉の表情は、柔らかく優しかった。


「それに、こんなところに毎日来てないで、友達作って遊びに行っておいでよ」


「友達なんかできないよ」


「できるよ、優しい子だもん」


 そう言って僕の頬を撫でる。

 薄く冷たい手は優しく、それは心配ではなく、姉なりの僕への応援のようにも思えた。


「それに明日が来るのはチャンスなんだよ」


「チャンス?」


「そう、変わるきっかけをくれるチャンス。永遠なんてないんだよ、いつかは変われる時が来る。だから大丈夫、負けないで、ほら笑って」


 そう言って姉はまた、僕に笑って見せる。


 この時間が好きだ。

 姉と話していられる、この時間が。


 けれど、それも永遠ではないのだろうかと、ふとそんな思いがよぎった。

 もしそうなら、やっぱり友達なんていらない。

 時間の許す限り、こうして姉と過ごしていたい——そんな願いが胸をよんだ。



「そう言えば、アジサイの色が変わるのは、もう一つあるんだってね」


 帰りの支度をしていると、絵の続きを描いていた姉が呟いた。


「そうなの? それはどんな変化?」


 そう聞いても言葉が返ってこなかったので、振り向いて姉の顔を見ると、いつもの楽しそうな表情ではなく、どこか悲しそうな表情をしていた。


 それから姉は「内緒」と小さく囁いた。



 病室を出て、病院の出口に着きマスクを外す。

 鞄にしまい、薄暗く染まった外へと出た。


 雨は降りそうにないが、空は変わらず曇っている。


 バス停まで歩き出そうとした時、病室で絵を描いていた姉のことを思い出し、入る時に見かけた花壇へと目を向けた。


 そこに咲く数輪のアジサイは鮮やかさを失い、今の明るさでは色の判別ができないくらい、色褪せていた。


 暗く染まってゆく景色にひっそりと咲く淡いアジサイは、無常で無情な僕の見る世界そのもののようにも思えた。

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