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第8話 エルフと畑と不思議な空気

 村の畑に良い変化の兆しが見え始めてから、俺への風当たりはますます弱くなった。

 いや、むしろ、感謝されることの方が多いくらいだ。

 相変わらず恐縮しきりだが、村での居心地が良くなったのは確かだった。


 季節は、夏から初秋へと移り変わろうとしている頃だろうか。

 日差しはまだ強いが、吹く風に少しだけ涼しさが混じるようになった。

 俺の畑では、夏野菜が終わりを迎え、新たに秋向けの作物の準備を始める時期だ。


 その日は、畑に鋤き込むための堆肥の材料……主に落ち葉や枯れ草をもう少し集めようと、畑の裏手にある森へ少し深く足を踏み入れていた。

 村の共有地でもあるこの森は、木々が豊かで、堆肥の材料には事欠かない。


「この辺りの落ち葉は質が良いな……これもスキルの影響か?」


 地面に触れて、土壌の状態を確認しながら、質の良い腐葉土が集まりそうな場所を探す。

 夢中で歩いているうちに、普段はあまり立ち入らない、少し奥まった場所まで来てしまったようだ。


 その時だった。

 微かに、獣が苦しむような、低い呻き声が聞こえた気がした。


「ん? なんだ?」


 耳を澄ます。

 確かに、茂みの奥の方から、何かか細い音が聞こえる。

 獣だろうか? それとも……。


「(まさか、人が怪我でもしてるのか……?)」


 放っておくわけにもいかない。

 俺は音のする方へ、慎重に近づいていった。

 茂みをかき分けると、そこには信じられない光景が広がっていた。


「…………!」


 倒木の下に、罠が仕掛けられていた。

 動物を捕らえるための、簡素な金属製の罠だ。

 そして、その罠に足を挟まれ、苦しげに呻いているのは……獣ではなかった。


 長く尖った耳。

 透き通るように白い肌。

 月光を思わせる、銀色の長い髪。

 美しい、としか言いようのない容姿の……それは、いわゆる「エルフ」と呼ばれる存在だった。


「(エルフ……!? 本当にいるのか……!)」


 驚きで声も出ない。

 彼女は薄手の緑色の衣服を纏い、苦痛に顔を歪めながらも、鋭い警戒心を宿した目で俺を睨みつけている。

 その目には、人間に対する不信感が露わだった。


「くっ……!」


 彼女が身じろぎすると、罠が食い込み、さらに苦痛が増すようだ。

 足からは血が滲んでいる。


「だ、大丈夫ですか!?」


 俺は思わず駆け寄ろうとした。

 しかし、彼女は低い声で威嚇するように言った。


「……来るな、人族」

「えっ……」

「私に構うな。立ち去れ」


 拒絶の言葉。

 その声はか細いが、強い意志が感じられた。

 普通の人間なら、ここで怖気づいて立ち去るのかもしれない。

 でも、俺は……。


「(いや、でも、怪我してるじゃないか……! 放っておけない!)」


 お人好し、と言われればそれまでだが、目の前で苦しんでいる存在を見捨てるなんて、俺にはできなかった。


「で、でも、ひどい怪我ですよ! 手当てしないと……!」

「人族の手当てなど、受けるものか……!」


 彼女は頑なに俺を拒絶する。

 どうすれば……。


 俺は、ゆっくりと両手を上げて、敵意がないことを示そうとした。


「俺は、あなたに危害を加えるつもりはありません。ただ、その怪我を……少しでも手当てさせてほしいんです」

「…………」


「信じられないかもしれませんが、俺はこの近くで畑をやっている、ただの農夫です。このままじゃ、傷口から菌が入って大変なことになるかもしれない」


 俺は、できるだけ穏やかに、ゆっくりと語りかける。

 元営業職の経験が、こんなところで役立つとは思わなかったが……。

 必死に、害意がないこと、ただ助けたいだけだということを伝えようとする。


 彼女はしばらく、疑いの目で俺をじっと見つめていた。

 俺の目、表情、纏う雰囲気から、何かを読み取ろうとしているのかもしれない。

 森の中に、沈黙が流れる。


 やがて、彼女はふっと警戒心を少しだけ解いたように見えた。

 諦めたのか、あるいは、俺の言葉に嘘がないと感じてくれたのか……。


「…………好きにしろ」


 ぽつりと、そう呟いた。


「! ありがとうございます!」


 俺は許可を得て、慎重に彼女に近づいた。

 まずは、罠を外さないと。

 幸い、罠の構造は単純だった。

 力を込めて金属部分を広げると、パチンと音を立てて罠が外れた。


「っ……!」


 解放された足を押さえ、彼女は顔をしかめる。

 傷は思ったよりも深いようだ。


「すぐに手当てしますから、少し我慢してくださいね」


 俺は鞄の中から、いつも持ち歩いている応急手当用の布(清潔な古着を裂いたもの)と、水筒を取り出した。

 まずは傷口を綺麗に洗い流さないと。


 美しいエルフとの、予期せぬ出会い。

 彼女は一体何者で、なぜこんな森の奥で罠にかかっていたのか。

 疑問は尽きないが、今はただ、目の前の命を助けることだけを考えて、俺は慎重に手当てを開始した。

 彼女は、俺の手当てを、黙って受け入れていた。

 その翡翠のような瞳は、相変わらず俺をじっと見つめていたけれど。


 *****


 罠から解放されたエルフの女性……名前もまだ分からないが……の足の傷は、思ったよりも深かった。

 俺は持っていた清潔な布を水筒の水で濡らし、慎重に傷口の汚れを拭き取っていく。


「(うっ……痛そうだ……)」


 彼女は顔をしかめるが、声は上げない。

 ただ、じっと俺の手元を見つめている。

 その翡翠のような瞳は、感情を読み取らせない、静かな光を宿していた。


 俺にできるのは、あくまで応急手当だけだ。

 消毒薬も、ちゃんとした包帯もない。

 それでも、やらないよりはましだろう。

 傷口を綺麗にした後、残りの布でできるだけしっかりと圧迫するように縛る。


「……これで、ひとまずは……」


 手当てが終わると、俺は立ち上がった。

 問題は、これからどうするかだ。

 彼女は足を怪我していて、一人で歩くのは難しそうだ。

 かといって、この森の奥に一人で置いていくわけにもいかない。


「あの……動けそうですか? 無理なら、俺が肩を貸しますけど……あるいは、背負っていきましょうか?」


 俺が尋ねると、彼女は眉をひそめた。


「……人族に、借りを作るつもりはない」

「いや、借りとかそういうことじゃなくて! このままじゃ危ないでしょう?」

「私のことは、放っておけと言ったはずだ」


 相変わらず、頑なな態度だ。

 困ったな……。


「でも、ここじゃあ休むこともできないでしょう? 俺の住処がすぐ近くにありますから、そこまで行きませんか? 大した場所じゃないですけど、雨風はしのげますし……」


 俺の住処と言っても、畑のそばに建てた、掘っ建て小屋のようなものだ。

 それでも、森の中にいるよりはずっと安全だろう。


 俺が食い下がると、彼女はしばらく黙って何かを考えているようだった。

 そして、諦めたように小さく息をついた。


「…………分かった。肩を貸せ」

「! はい!」


 俺は慎重に彼女の脇に腕を入れ、ゆっくりと立たせる。

 思ったよりもずっと軽い。

 彼女は俺の肩に体重を預けながら、ゆっくりと歩き出した。


 森を抜け、俺の畑が見えてきた時だった。

 彼女が、ふと足を止め、周囲の空気を探るように目を細めた。


「…………?」

「どうかしましたか?」

「……いや。なんでもない」


 彼女は短く答えただけだったが、その横顔は、何か特別なものを感じ取ったかのように見えた。

 俺の畑から発せられる、スキル由来の清浄な気に気づいたのだろうか?

 エルフは自然の気に敏感だと、どこかで聞いたことがあるような気がする。


 俺は彼女を、畑のそばの小さな小屋……というより、雨露をしのぐための簡単な作業小屋と言うべきか……の中へ案内した。

 粗末な藁の寝床しかないが、今はここで休んでもらうしかない。


「すみません、こんなところで……」

「…………」


 彼女は何も言わず、静かに壁に寄りかかって座り込んだ。

 俺は、近くにあった水差しと、収穫したばかりのトマトをいくつか彼女のそばに置いた。


「お腹が空いたら、どうぞ。毒なんて入ってませんから」

「…………」


 返事はない。

 俺は、これ以上ここにいても仕方ないと思い、小屋を出て畑仕事に戻ることにした。


 それから数日後。

 彼女の足の傷は、驚くほどの速さで回復していった。

 エルフの治癒能力が高いのか、あるいは俺の下手な手当てが功を奏したのか……。

 どちらにしても、良かった。


 彼女は、その間、ほとんど小屋から出ずに静かに過ごしていた。

 俺が時々様子を見に行っても、相変わらず口数は少ない。

 名前すら、まだ教えてくれていない。


 そして、傷がほとんど癒えたある日、俺が畑で作業をしていると、不意に彼女が小屋から出てきて、黙って俺の隣に立った。


「え?」


 俺が戸惑っていると、彼女は何も言わずに、畝の雑草を抜き始めたのだ。

 その手つきは、慣れないながらも丁寧だった。


「あ、あの……いいですよ、そんなことしなくても!」

「…………借りは、返す」


 ぽつりと、それだけ呟いた。

 どうやら、助けてもらったことへの借りを返そうとしているらしい。


「いや、借りなんて思ってませんから!」

「…………」


 彼女は俺の言葉を無視して、黙々と作業を続ける。

 仕方がないので、俺も自分の作業に戻った。


 それから、彼女は時々、こうして畑に現れては、黙って作業を手伝うようになった。

 相変わらず、自分からはほとんど話さない。

 俺が話しかけても、短い返事が返ってくるだけだ。

 不思議な存在だった。


 それでも、彼女がそばにいると、畑の空気がより澄んでいるような気がした。

 それに、彼女は時々、驚くほど的確なアドバイスをくれることもあった。

 例えば、特定の虫が嫌うハーブを畑の隅に植えることを提案したり、作物の微妙な変化から病気の兆候をいち早く見抜いたり。

 それは、俺のスキルとはまた違う、自然との深い繋がりから来る知識のようだった。


「(この人、やっぱりただのエルフじゃないのかもな……)」


 俺は、黙々と雑草を抜く彼女の横顔を盗み見ながら、そんなことを考えていた。

 言葉は少なくとも、彼女との間には、少しずつ奇妙な信頼関係のようなものが生まれ始めているのかもしれない。

 謎めいたエルフと、しがない農夫。

 畑に流れる、少し不思議で、穏やかな空気。

 そんな日々が、また始まった。

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