第26話 ブリジットの報告とセーラさんの商機
大牙猪との激闘から数日が過ぎ、サルーテ村は少しずつ日常を取り戻しつつあった。
壊れた建物の修繕はまだ途中だし、失われた備蓄食料への不安は残るものの、村人たちの表情には、危機を乗り越えた安堵と、以前よりも強い結束が見て取れた。
そんな中、村に一時的な緊張感をもたらしていた人物……領主様の騎士であるブリジットさんが、領都へ帰還する準備を始めた。
彼女は、短い滞在期間ではあったが、村の状況を精力的に調査し、そして、あの魔物との戦いにも身をもって参加してくれたのだ。
出発の日、ブリジットさんは、村長さんやバルガスさんと共に、わざわざ俺の畑まで挨拶に来てくれた。
もちろん、俺は事前にその情報を聞きつけ、逃げ出したい衝動に駆られたが、さすがにそれはできなかった。
俺の前に立ったブリジットさんの表情は、最初に会った時とは全く異なっていた。
以前の、俺を値踏みするような、あるいは少し侮るような視線は消え失せ、今はただ、真っ直ぐで、真摯な眼差しが俺に向けられている。
そこには、明確な敬意の色が浮かんでいた。
「コースケ殿」
ブリジットさんは、騎士らしい、凛とした声で俺を呼んだ。
「この度の滞在中、そして先日の魔物との戦いにおいては、貴殿の知恵と機転に、我々は大いに助けられた。貴殿がいなければ、このサルーテ村は、あるいは壊滅していたかもしれぬ。領主様に代わり、心から感謝申し上げる」
彼女はそう言うと、銀色の鎧を鳴らし、俺に対して深く頭を下げたのだ。
「ひえっ!? ぶ、ブリジット様! やめてください! 頭を上げてください!」
俺は慌てふためいて、彼女の肩を支えようとする(が、鎧に阻まれて意味がない)。
領主様の騎士に、こんな風に頭を下げられるなんて!
心臓が飛び出しそうだ!
「い、いえ、俺は本当に、運が良かっただけなんです! それに、ブリジット様こそ、あの恐ろしい魔物と勇敢に戦ってくださって……!」
俺がしどろもどろに言うと、ブリジットさんは静かに顔を上げた。
「確かに、私も騎士としての務めは果たしたつもりだ。だが、あの状況を覆したのは、間違いなく貴殿の力だ。……それにしても」
彼女は、そこで少しだけ言葉を切り、探るような目で俺を見た。
「貴殿のような人物が、なぜこのような辺境の村に、一介の農夫として身を置いているのか……。その疑問は、正直、深まるばかりだ」
「(うっ……やっぱりそこか……!)」
俺は冷や汗をかく。
記憶喪失という設定(嘘)は、いつまで通用するだろうか……。
「そ、それは……色々と事情がありまして……」
俺が曖昧に口ごもると、ブリジットさんはそれ以上追及はせず、ふっと息をついた。
「まあ、よかろう。貴殿の事情に、私が深く踏み込む権利はない」
そして、彼女は本題であろうことに話を移した。
「今回の視察の結果、そして先日の魔物との一件については、ありのままを領主様に報告させていただく。貴殿の存在も、もちろん含めてな」
「(やっぱりーーー!!)」
俺は心の中で絶叫した。
領主様に俺のことが報告されるなんて!
絶対に面倒なことになるに決まってる!
貴族とか、偉い人とか、そういうのは本当に苦手なんだ!
俺の内心の動揺など知る由もなく、ブリジットさんは続ける。
「同時に、この村が置かれている厳しい状況……食料不足や、防衛力の脆弱さについても、正確に報告し、領主様からの支援を要請するつもりだ。減税措置や、あるいは何らかの物資援助が得られるよう、私もできる限り働きかけてみよう」
その言葉は、村にとっては間違いなく朗報だろう。
村長さんやバルガスさんも、安堵の表情を浮かべている。
俺個人にとっては不安要素満載だが、村全体にとっては良いことなのだ。
そう思うしかない……。
「……では、私はこれで失礼する。コースケ殿、達者でな」
ブリジットさんは、最後に俺に鋭い一瞥をくれると、颯爽と馬上の人となり、村を後にしていった。
その後ろ姿は、潔く、そしてどこか近寄りがたい威厳に満ちていた。
「(行っちゃった……)」
俺は、彼女が見えなくなるまで、呆然とその場に立ち尽くしていた。
女騎士からの予期せぬ敬意と、領主への報告という新たな爆弾。
俺の異世界生活は、どうやら俺の意思とは関係なく、どんどん大きな渦に巻き込まれ始めているようだ。
「はぁ……どうなることやら……」
俺は、これから先の展開を想像して、重いため息をつくしかなかった。
畑の土だけが、変わらず俺を受け入れてくれる、唯一の存在のように思えた。
*****
ブリジット騎士が村を去り、領主様への報告という新たな爆弾を抱えつつも、俺たちの日常は続いていた。
大牙猪の解体も終わり、その肉や皮は村の貴重な資源として分配され、壊れた箇所の修繕も急ピッチで進められている。
村全体が、冬の到来と、領主様からの沙汰を待ちながら、必死に立て直しを図っている、そんな時期だった。
そんな中、一人だけ、この状況を「チャンス」と捉えている(ように見える)人物がいた。
もちろん、行商人のセーラさんだ。
魔物騒ぎで一時的にストップしていた俺の野菜の仕入れと販売を、彼女は意気揚々と再開した。
いや、再開どころか、以前にも増して積極的になっている。
「聞いたわよ、コースケさん! また大活躍したんですって?」
今日も今日とて、畑に顔を出したセーラさんは、ニヤニヤしながら俺をからかう。
「ち、違いますって! 俺は何も……」
「ふふ、もうその謙遜は聞き飽きたわ。でもね、おかげでサルーテ村の名前と、あなたの作る特別な野菜の評判は、近隣の町じゃますます上がってるのよ!」
セーラさんの目が、商売人のそれになる。
「これはね、絶好のチャンスよ! 今なら、もっと高く、もっと大量に売れるわ! 王都の大きな商会にも、コネクションを作れそうだし……ねえ、あなたの野菜を使った保存食とか、何か新しい商品開発も考えてみない?」
彼女は次々とビジネスプランを語り出す。
その熱意と行動力には感心するが、正直、俺はあまり乗り気になれない。
話がどんどん大きくなっていくのが、怖いのだ。
しかし、今日のセーラさんは、ただ商機に目を輝かせているだけではなかった。
一通り商売の話をした後、彼女はふっと表情を引き締め、真剣な目で俺を見た。
「……でもね、コースケさん。良いことばかりじゃないわ」
「え?」
「あなたの野菜の価値と評判が上がれば上がるほど、それを横から掠め取ろうとする輩が出てくる可能性も高くなるのよ」
セーラさんの言葉に、俺はどきりとした。
「横から……?」
「そう。例えば、他のずる賢い商人とかね。あるいは……」
彼女は少し声を潜めた。
「今回の魔物騒ぎで、この村の守りが手薄になった、なんて情報が流れれば、それを狙ってくる盗賊だって現れないとも限らないわ」
盗賊……。
以前にも彼女が口にしていた言葉だ。
魔物の脅威だけでなく、人間による悪意の可能性。
「あなたはもう少し、自分の置かれている状況と、その価値が生み出す危険について、自覚を持った方がいいわ」
セーラさんの言葉は、いつものからかいとは違う、本気の響きを持っていた。
「無防備すぎるのは、命取りになることもあるのよ? 特に、あなたみたいなお人好しはね」
彼女は、行商人として様々な場所を渡り歩き、多くの人間を見てきたのだろう。
その経験から来るであろう警告は、妙な説得力があった。
「(危険……か)」
俺は改めて、自分の状況を考える。
特別なスキル、異常に美味しく育つ作物、そして、それに群がる(?)人々……。
セーラさんの言う通り、俺は少し、この異世界を甘く見ていたのかもしれない。
ただ畑を耕して、静かに暮らす。
そんなささやかな願いすら、この状況では難しくなってきている。
「……気をつけます」
俺がそう言うと、セーラさんは少しだけ安心したような顔をした。
「そうしてちょうだい。まあ、何か本当にヤバい情報が入ったら、教えてあげないこともないけど……その時は、ちゃんと情報料をもらうからね?」
最後にちゃっかり商売根性を覗かせるところは、彼女らしいと言えば彼女らしい。
セーラさんは、仕入れた野菜を積み込み、いつもより少しだけ心配そうな表情を残して去っていった。
彼女が去った後、俺は一人、畑に立ち尽くす。
商機と、危険。
価値と、それに伴うリスク。
俺の野菜が生み出すものは、どうやら表裏一体らしい。
これから俺は、どうやってこの畑と、自分自身を守っていけばいいのだろうか。
セーラさんの警告は、新たな課題となって、俺の心に重くのしかかってきた。
穏やかな日常は、やはり幻想だったのかもしれない。
冬の足音と共に、新たな緊張感が、俺の周りに漂い始めていた。