第22話 ブリジットの視察と魔物の襲来
セーラさんがもたらした不穏な情報の数々は、サルーテ村の空気をさらに重くしていた。
魔物の脅威、盗賊の影、そして厳しい税の取り立て……。
村人たちの顔には、不安と疲労の色が濃く浮かんでいる。
バルガスさんの指導する若者たちの訓練も、より一層真剣味を増していた。
そんなピリピリとした雰囲気が続く村に、ある日、一本の槍のように真っ直ぐな緊張感をもたらす人物が現れた。
領主様からの使者だという、一人の女騎士だった。
その知らせを聞いた時、俺は畑で作業の真っ最中だった。
「領主様の騎士!? なんでまた、こんな辺境の村に……?」
胸騒ぎがする。
ろくなことじゃなさそうだ。
俺は、本能的に関わり合いになりたくないと感じ、今日のところはもう畑に引きこもることを決めた。
後でリリアさんや若者たちから聞いた話によると、その女騎士はブリジットと名乗り、凛とした佇まいの、真面目そうな人物だったらしい。
銀色の鎧を身にまとい、腰には立派な剣を帯びている。
村人たちは、突然の騎士様の訪問に緊張し、かしこまって出迎えたという。
彼女の訪問目的は、表向きは「辺境地域の状況視察と、近隣で活発化している魔物への対策状況の確認」ということだった。
村長さんとバルガスさんが代表して対応し、村が直面している厳しい状況……不作による食料不足や、魔物の脅威について、正直に説明したそうだ。
ブリジットと名乗る女騎士は、冷静沈着に彼らの話を聞き取り、村の備蓄状況や、バルガスさんが行っている若者たちの訓練の様子などを、鋭い目で視察していったという。
「それでな、コースケ師匠! あの騎士様、師匠のことにも興味津々だったぜ!」
報告に来てくれたダリルが、興奮気味に言う。
「えっ!? 俺のこと!?」
「おう! 村長さんたちが、『村の食料事情は厳しいが、コースケという男が育てている特別な野菜のおかげで、なんとか凌いでいる』って話をしたらしいんだ」
「(村長さん! 余計なことを……!)」
俺は心の中で頭を抱えた。
「そしたら、騎士様、『そのコースケという農夫に、直接話を聞きたい』って言ってたそうだぜ!」
「げっ……!」
最悪の展開だ。
どう考えても、面倒ごと以外の何物でもない。
領主の騎士なんて、俺みたいな怪しい経歴(記憶喪失のふり)の人間が、まともに相手できるはずがない。
「師匠、騎士様が呼んでるぜ! 行こうぜ!」
「いやいやいや! 俺はいい! 体調が悪いから、今日はもう休むって言っといてくれ!」
俺は全力で拒否し、若者たちを追い返した。
そして、小屋に閉じこもる。
「(頼むから、俺のことなんか忘れてくれ……!)」
しかし、どうやらそう簡単にはいかないらしい。
ブリジット騎士は、その日は村長さんの家に泊まり、明日以降も村に滞在して、さらに詳しく状況を調査するつもりだという。
その中には、俺の畑の視察や、俺自身への聞き取りも含まれている可能性が高い。
「(終わった……絶対に何かボロが出る……)」
俺は、暗い気持ちで小屋の壁に寄りかかった。
魔物の脅威だけでも大変なのに、今度は領主の騎士だ。
俺の静かな(?)異世界農業ライフは、いよいよ大きな転機……というか、危機を迎えようとしているのかもしれない。
明日、俺は無事に(?)ブリジット騎士との接触を乗り切ることができるのだろうか。
不安だけが募る、長い夜が始まろうとしていた。
目立ちたくない。
関わりたくない。
俺のささやかな願いは、どうやらこの異世界では通用しないらしい……。
*****
女騎士ブリジットさんの突然の来訪に、俺は完全に縮み上がっていた。
どうにかして顔を合わせずにやり過ごせないか、そんなことばかり考えながら、小屋の中で息を潜めていた。
我ながら情けないとは思うが、領主様の騎士なんて、相手にするには荷が重すぎるのだ。
しかし、そんな俺の個人的な悩みなど、吹き飛ばしてしまうような事態が、ついに発生した。
カン! カン! カン!
村の方から、けたたましく鐘の音が鳴り響いたのだ。
それは、緊急事態を知らせる合図。
普段のどかなサルーテ村では、めったに鳴らされることのない音だ。
「な、なんだ!?」
俺は慌てて小屋を飛び出した。
畑のそばから村の方を見ると、人々が慌ただしく動き回っているのが見える。
女子供が家の中に駆け込み、男たちが武器……といっても粗末な槍や鍬などだが……を手に広場へ集まっていく。
そして、若者たちが叫ぶ声が聞こえてきた。
「魔物だ! でかいのが森から出てきたぞ!」
「大牙猪だ! 村に向かってくる!」
「(ついに、来たか……!)」
セーラさんが警告していた、あの巨大なイノシシの魔物。
最悪のタイミングで現れたものだ。
俺は、自分の畑の方向……村のはずれ、森に近い場所へと視線を向ける。
すると、木々をなぎ倒しながら、巨大な影がこちらへ向かってくるのが見えた。
全長は……大型のトラックくらいあるんじゃないか?
二本の巨大な牙が、夕日を浴びて鈍く光っている。
地面が、その巨体の移動に合わせて、ビリビリと震えているのが分かる。
スキルで感じ取っていた、あの不快な振動の正体はこいつだったのだ。
ドォォン!!
大牙猪は、俺が設置した畑の柵の一部を、まるで玩具のように軽々と破壊し、畑の中へ侵入しようとしている。
「まずい! 畑が!」
それだけじゃない。
あのまま進めば、村の中心部へ到達してしまう。
村の広場では、すでに戦闘態勢が整えられつつあった。
バルガスさんが、落ち着いた声で若者たちに指示を飛ばしている。
そして、その隣には、銀色の鎧を輝かせ、抜き身の剣を構えるブリジット騎士の姿があった。
彼女も、この予期せぬ事態に、即座に対応しているようだ。
「総員、配置につけ! 怯むなよ!」
バルガスさんの号令一下、若者たちが槍を構え、村の男たちが鍬や斧を手に、大牙猪の前に立ちはだかる。
ブリジット騎士は、誰よりも先に前に出て、剣を構えた。
グオオオォォォッ!!
大牙猪は、人間たちの抵抗など意に介さないとばかりに、猛烈な勢いで突進してきた。
その突進力は凄まじく、先頭にいた若者たちの何人かが、盾ごと吹き飛ばされる。
「うわあっ!」
「持ちこたえろ!」
悲鳴と怒号が飛び交う。
バルガスさんが巧みな槍さばきで側面を突き、ブリジット騎士が鋭い剣撃を叩き込む。
ギャイン! と硬い音を立てて、剣が牙とぶつかり火花を散らす。
「硬い……!」
ブリジット騎士が、苦々しげに呟くのが聞こえた。
騎士の剣をもってしても、容易には貫けない頑強な皮膚と牙を持っているようだ。
若者たちも必死に槍で突くが、効果は薄い。
大牙猪は怒り狂い、その巨体で家屋の壁を薙ぎ払い、地面を踏みしめて威嚇する。
その圧倒的なパワーとタフネスを前に、村人たちの顔には次第に絶望の色が浮かび始めていた。
訓練を積んだとはいえ、若者たちは実戦経験がない。
バルガスさんは老練だが、全盛期の力はない。
ブリジット騎士は強いが、一人でこの巨体を相手にするのは無謀に近い。
「このままじゃ、村が!」
俺は、遠巻きにその光景を見ながら、拳を握りしめることしかできなかった。
戦闘力のない俺が飛び出したところで、何もできない。
分かっている。
分かっているけど……!
目の前で、必死に戦う村の人たち。
いつも親切にしてくれたリリアさんや、からかってきたけど心配もしてくれたセーラさん、俺を師匠と呼んでくれた若者たち、頼りになるバルガスさんやゴードンさん、そして、静かに寄り添ってくれたシルフィさん……。
彼らが、あの魔物に蹂躙されていくのを、ただ見ているだけでいいのか?
グシャッ!
鈍い音と共に、村の備蓄小屋の一部が、大牙猪の突進によって破壊された。
貴重な食料が、地面に散らばる。
「ああ……!」
村人から悲鳴が上がる。
もう、限界が近いのかもしれない。
絶体絶命のピンチが、すぐそこまで迫っていた。
「何か……何か、俺にできることはないのか……!?」
俺は、震える手で、自分のスキル【土いじり】のことを考える。
この力が、この絶望的な状況を、少しでも変えることはできないのだろうか……?
答えは分からない。
だが、もう、ただ見ているだけではいられなかった。