第1話 リストラおっさん、異世界に放り出される
はぁ、とため息が漏れる。
また、お祈りメールか。
これで何社目だろう。
「俺、もうダメなのかな……」
俺、畑中耕助、35歳。
先日、勤めていた中小企業をリストラされた。
理由は、業績不振による人員整理。
まあ、表向きはそうだけど、実際は上司のミスを押し付けられた形だ。
俺が何か大きな失敗をしたわけじゃない。
でも、言い返せるほどの自信も、実績もなかった。
昔からそうだ。
何をやっても中途半端で、人に迷惑ばかりかけてきた気がする。
自己肯定感なんて、地面を掘り進んでも見つからないくらい低い。
唯一の癒しは、狭いベランダでやっている家庭菜園だった。
小さなプランターに植えたトマトやハーブが、健気に育つ姿だけが、今の俺を肯定してくれているような気がした。
「こいつらだけだな、俺の味方は……」
今日も、どんよりした気持ちで帰り道を歩いていた。
もう、どうにでもなれ。
そんな投げやりな気持ちが心を支配しかけた、その時だった。
眩しいヘッドライトと、けたたましいクラクションの音。
体が宙に浮く感覚。
最後に聞こえたのは、無機質な、女の声のようなものだった。
「……スキル【土いじり】を授与します」
そこで、俺の意識は完全に途切れた。
……ん?
「ここは、どこだ……?」
ひんやりとした土の感触と、濃い緑の匂いで意識が浮上する。
目を開けると、見慣れない木々の天井が視界に広がっていた。
森の中、か?
さっきまで、俺はアスファルトの上にいたはずだ。
リストラの帰り道で、トラックに……?
「そうだ、俺ははねられたんじゃ……」
混乱する頭で体を起こす。
幸い、痛みは特にないようだ。
服装も、リストラ面談に行った時の安っぽいスーツのまま。
「持ち物も……そのままだな」
鞄もそばに落ちている。
中身は……財布、スマホ(当然圏外だ)、履歴書、そしてベランダ菜園用に買った野菜の種の袋がいくつか。
なんでこんなものを持ち歩いていたんだか。
状況が全く理解できない。
夢か? それとも……
「まさか、異世界転移とかいうやつか……?」
最近、ネット小説でよく見るけど。
だとしたら、あの最後の声は。
「スキル【土いじり】……?」
思わず声に出してみる。
特に何も起こらない。
ステータス画面みたいなものが見えるわけでもない。
「土いじり、って……あの、ベランダでやってる、あれか?」
地味すぎるだろ……
いや、地味とかそういうレベルじゃない。
スキルって、もっとこう、魔法とか剣技とか、そういうものじゃないのか?
「やっぱり俺はダメだ……どこへ行っても、こういう中途半端なものしか……」
はは……と乾いた笑いが漏れる。
絶望するには、まだ早すぎるのかもしれないが、期待するだけ無駄な気もした。
しばらく呆然としていたが、やがて腹の虫が鳴る。
ぐぅぅ……
「……腹、減ったな」
生きている、ということは腹が減るということか。
この森で、何か食べられるものを見つけなければ。
そう思って立ち上がり、ふらつきながら歩き出す。
何かないか、何かないかと地面を見ながら歩いていると、不意に足元の土に手をついた。
その瞬間、頭の中に奇妙な感覚が流れ込んできた。
(……この辺りの土壌は、やや粘土質だが、栄養はそこそこあるな。水分量は適度。ん? この近く、地中に栄養価の高い塊根があるぞ……方向は、こっちか?)
「なんだ? 今の……」
まるで土の声を聞いたような……いや、土壌分析の結果が直接頭に入ってきたような感じだ。
半信半疑のまま、その「感覚」が示した方向へ数歩進む。
そして、手頃な木の枝で地面を掘り返してみると……。
あった。
「これか……!本当にあったぞ」
本当に、芋のようなものが土の中から出てきた。
大きさはこぶし大くらいか。
見た目はジャガイモに似ているが、少し色が紫がかっている。
これが、あの「土いじり」スキルの力なのか?
試しに、別の場所の土にも触れてみる。
(この土は痩せている。栄養不足だ。……近くに生えているこの草は、毒性はない。食用可能。少し苦いが、栄養はある)
「まただ……今度は草か」
今度は、近くの雑草のようなものが食べられると教えてくれた。
恐る恐る、その草を少しちぎって口に入れてみる。
「うっ……苦いな。でも……」
確かに、少し苦いが、青臭い味の奥に、微かな甘みも感じられる。
これなら、食べられそうだ。
「すごい……かもしれない」
【土いじり】。
地味だと思ったけど、この状況で生き抜くためには、とんでもなく役に立つスキルなんじゃないか?
攻撃魔法みたいに派手さはない。
でも、確実に「生きる」ことに繋がる力だ。
「俺みたいな何の取り柄もない人間に、これ以上ないくらいお似合いのスキル……なのかもな」
少しだけ、ほんの少しだけ、希望が湧いてきた。
芋と食べられる草をいくつか鞄に詰め込み、森を抜ける道を探して歩き始める。
「よし、まずはここを抜けないと」
どれくらい歩いただろうか。
木々の隙間から、少し開けた場所が見えてきた。
どうやら、森を抜けられそうだ。
道のようになっている場所に出ると、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
「ん? 人か?」
まずい、この世界の住人か?
どんな反応をされるか分からない。
緊張しながら身構えていると、相手はこちらに気づいて足を止めた。
年の頃は、15、6歳くらいだろうか。
亜麻色の髪を後ろで束ねた、素朴な雰囲気の少女だった。
手には薪のようなものを抱えている。
彼女は、俺の姿……場違いなスーツ姿を見て、少し驚いたように目を見開いた。
そして、心配そうな表情で、おずおずと口を開いた。
「あの、大丈夫ですか? 見かけない顔ですけど……」
優しい、少しだけ不安げな声だった。
異世界に来て、初めて出会った人間。
突然の問いかけに、俺は固まってしまった。
目の前の少女は、警戒しながらも心配そうにこちらを見ている。
亜麻色の髪、素朴なワンピース。
森で薪を集めていたのだろうか。
「え、あ、あの……」
しどろもどろになりながら、何とか声を絞り出す。
「だ、大丈夫です。ちょっと道に迷ってしまって……」
「道に? こんな森の奥まで?」
少女は不思議そうな顔をする。
そりゃそうだ。
こんなスーツ姿の男が森の奥から現れたら、怪しいに決まっている。
「その……色々と事情がありまして……」
正直に「異世界から来た」なんて言えるはずもない。
ここは、記憶喪失のふりをするのが無難だろうか。
「気がついたら、この森にいたんです。自分が誰なのか、どこから来たのかも、よく分からなくて……」
我ながら苦しい言い訳だ。
だが、少女は意外にも素直に聞いてくれた。
「記憶が……ないんですか? それは大変……! 私、リリアっていいます。ここはサルーテ村の近くの森ですけど……」
リリアと名乗る少女は、俺の汚れたスーツや疲れた顔を見て、同情してくれたようだ。
根っからの善人なのかもしれない。
「サルーテ村……」
聞いたことのない名前だ。
まあ、当然か。
「あの、もしよろしければ、村まで案内していただけませんか? どこか、休める場所とか、お話を伺える方がいれば……」
「はい、もちろんです! 村長さんに相談してみましょう。きっと力になってくれますよ」
リリアは快く頷いてくれた。
よかった……これで、ひとまずは森の中で野垂れ死ぬ心配はなさそうだ。
リリアの後について、村へ向かう道を歩き出す。
道中、彼女は村のことを少し話してくれた。
「サルーテ村は、この辺りでは一番大きな村ですけど……それでも、辺境にある小さな村なんです」
「辺境……ですか」
「はい。王都からはすごく遠いですし、最近は少しずつ人も減ってきて……」
リリアの声が少しだけ曇る。
「食べるものとかも、あまり豊かじゃなくて。畑で作物は作ってますけど、ここの土地、あまり良くないみたいで……」
なるほど。
どこの世界でも、厳しい現実はあるということか。
同時に、俺の【土いじり】スキルが役立つ可能性も感じた。
いや、期待しすぎるのはやめておこう。
まずは、この村で受け入れてもらえるかどうかだ。
「見えてきました。あれがサルーテ村です」
森を抜けると、視界が開け、いくつかの家々が見えてきた。
石や木で作られた素朴な家が立ち並び、畑が広がっている。
活気があるとは言い難い、静かな村という印象だ。
リリアは俺を連れて、村の中でも少し立派な家、村長の家へと案内してくれた。
突然現れた見慣れぬ男に、村人たちが訝しげな視線を向けてくるのが分かる。
居心地が悪い……。
村長の家で、リリアが事情を説明してくれた。
俺は記憶喪失ということになっている。
村長は、恰幅のいい初老の男性で、鋭い目で俺を値踏みするように見てきた。
「ふむ……記憶喪失、とな。身元も分からぬ者を、そう易々と村には置けんのだが……」
厳しい口調だ。
やっぱり、そう簡単にはいかないか。
リリアが隣で心配そうにしている。
「ですが村長さん、このまま放っておくわけにも……! 見ての通り、とても困っている様子ですし……」
リリアが必死に庇ってくれる。
本当に、ありがたい。
「……分かった。リリアがそう言うなら、ひとまずは様子を見よう」
村長は少し考えてから、渋々といった感じで頷いた。
「ただし、条件がある。村のはずれに使われていない荒れ地がある。そこを使っても良い。だが、自分の食い扶持は自分で稼いでもらう。それができなければ、出て行ってもらうぞ」
「荒れ地……ですか?」
「そうだ。元々は畑だったが、土地が悪すぎて誰も使わなくなった場所だ。お前にそれが耕せるなら、好きに使うがいい」
願ってもない提案だった。
土地が悪い?
むしろ好都合かもしれない。
俺のスキルが試せる。
「ありがとうございます! やらせてください!」
俺は深々と頭を下げた。
こうして、俺はサルーテ村に一時的に滞在する許可を得ることができた。
リリアが、その荒れ地まで案内してくれた。
村のはずれ、少し小高い丘の上にある、石がゴロゴロと転がり、雑草が生い茂った土地だった。
確かに、これはひどい状態だ。
「ここが……」
「はい。昔は畑だったって聞いてますけど……見ての通りで」
リリアが申し訳なさそうに言う。
「いえ、とんでもない。場所を使わせていただけるだけで、ありがたいです」
俺は荒れ地に足を踏み入れ、そっと地面に触れてみた。
スキル【土いじり】が発動する。
(……やはり、ひどい土壌だな。石が多く、養分も極端に少ない。水はけも悪そうだ。だが……改良の余地は十分にある)
頭の中に、具体的な改善策が次々と浮かんでくる。
石を取り除き、近くの森の落ち葉や枯れ草を集めて堆肥を作り、土に混ぜ込む。
水はけを良くするために、溝を掘る。
時間はかかるだろうが、不可能ではない。
「あの、これ……少しですけど、うちの畑で採れた種です。良かったら使ってください」
リリアが小さな布袋を差し出してくれた。
中には、カボチャのような野菜の種が入っている。
「いいんですか? ありがとうございます、リリアさん」
「困った時はお互い様ですから。……何か私にできることがあったら、いつでも言ってくださいね」
リリアはそう言って、少し頬を赤らめながら村の方へ戻っていった。
本当に、優しい子だ。
彼女のためにも、この村でしっかりやっていかないと。
俺は鞄から、日本から持ってきた野菜の種……トマトと、トウモロコシの種を取り出した。
異世界の種と、現代日本の種。
そして、この荒れ地と、【土いじり】スキル。
「よし、やってやるぞ……!」
俺は決意を新たに、まずは邪魔な石を取り除く作業から始めることにした。
俺の異世界での農業生活が、今、本格的に始まろうとしていた。
数日後。
俺は黙々と荒れ地の開墾を進めていた。
スキルのおかげで、効率的な作業方法が分かる。
どこをどう改良すれば土が良くなるのか、直感的に理解できるのだ。
石を取り除き、即席で作った堆肥を混ぜ込み、畝を作る。
見た目はまだまだ荒れ地だが、土の色は明らかに良くなってきている。
そして、リリアからもらった種と、持参したトマトの種を、改良した一角に植えてみた。
毎日、水をやり、雑草を抜き、土の状態をスキルで確認する。
「頼むぞ、育ってくれよ……」
そんな俺の祈りに応えるかのように、数日後、それは起こった。
「こ、コースケさん!」
リリアが、いつものように様子を見に来て、畑の一角を見て目を見開いた。
彼女が指さす先には、数日前に植えたばかりのはずの種から、勢いよく芽が出て、小さな双葉が開いている姿があった。
それも、尋常ではない速さで。
「これ……どうやったんですか!? まだ植えたばかりなのに!」
リリアが驚愕の声を上げる。
俺も、目の前の光景に内心驚いていた。
「え? あ、いや……普通にやっただけですが……(やっぱりこのスキル、何かある?)」
俺の【土いじり】スキルは、ただ土壌を改良するだけじゃない。
植物の成長を、明らかに促進している。
驚くリリアと、育ち始めた小さな芽。
俺の異世界での農業は、どうやら想像以上に波乱に満ちたものになりそうだ。