結婚情報誌ゼ○シィで学ぶ異世界恋愛〜捨てられてお可哀想なのはどちらかしら?〜
「クラリス・ルーベン、お前との婚約を破棄する!」
華やかな舞踏会の只中で、王国の第三王子エドワード・ルッセルは高らかにそう宣言した。天井から吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアが燦然と輝き、艶やかなドレスと軍服を纏った貴族たちがその声に驚きの表情を浮かべる。
エドワードの隣には、美しくもどこか怯えた表情をした伯爵令嬢——リリアーナ・ロッシュフォールが寄り添っていた。その華奢な肩を守るようにエドワードは腕を回し、誇らしげに言い放つ。
「僕はもう、お前のような気位ばかり高い女とはやっていけない。リリアーナこそ、僕が本当に愛する女性だ!」
その言葉に、貴族たちはさらにざわめいた。リリアーナは伏し目がちに震えながらも、ちらりとクラリスを見上げる。その瞳には微かな勝ち誇りの色があった。
しかし、彼らが最も注目したのはクラリスの反応だった。
──彼女は動じない。
むしろ、静かに瞳を細め、冷静な声で応じた。
「……そうですか。それでは、正式な手続きを進めてくださいませ」
毅然とした態度。取り乱すどころか、悲しむ素振りすら見せない彼女に、周囲の貴族たちは息を呑んだ。
「な、なんだその態度は?」
エドワードが苛立たしげに声を荒げる。
「もっと悔しがるものだろう。捨てられた女として、嘆き悲しむのが当然ではないのか?」
彼の言葉に、クラリスは静かに微笑んだ。その微笑みは、まるで冷えた刃のように鋭い。
「悔しがる? どうしてですか? あなたが私を選ばなかったことを、私が喚き散らすとでも?」
シルクのドレスの裾を軽く整えながら、彼女は優雅に言葉を紡ぐ。
「それとも、私があなたを失って悲しむとでも?」
エドワードの表情が歪む。言い返そうとするも、周囲の視線が彼に重圧をかける。顔を赤くしながら、彼はリリアーナの手を強引に引き、その場を去った。
リリアーナが彼の腕に抱かれながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべるのを、クラリスは冷ややかに見送った。
──くだらない。
クラリスは深く息を吐き、心の奥にわずかに疼く痛みを押し殺した。
──だが、これはむしろ好機。
彼に執着する理由など、どこにもない。
その夜、屋敷に戻ったクラリスは静かにため息をついた。
「とはいえ、これからどうしようかしら……」
エドワードによる婚約破棄は、すぐに社交界中に広まるだろう。彼の放った侮辱的な言葉とともに、噂は誇張され、さぞかし面白おかしく語られるに違いない。
──冷酷な令嬢は見捨てられた。
──新たな恋に敗北した可哀想な女。
そんな陰口が聞こえてくるようだ。
クラリスは窓の外を見つめた。月の光が静かに庭を照らしている。
ふと、机の上に置かれた一冊の本が目に入る。
『すべての女性が幸せな結婚を手にするための指南書──最新・結婚情報誌セグシィ』
「結婚情報誌? こんなもの、いつの間に……?」
クラリスは不審に思いながらも、そっと本を手に取った。豪華な装丁に金の箔押しが施され、異国の書物のような雰囲気を醸し出している。
「誰が置いたのかしら……?」
しかし、妙な違和感よりも先に、彼女の好奇心が勝った。
本を開くと、目に飛び込んできたのは、「男性に選ばれる女性とは?」という見出しだった。
「……なにこれ」
半ば呆れながらも、クラリスは目を走らせた。そこには、男性を惹きつける女性の仕草や、効果的な会話術が細かく記されている。内容は驚くほど論理的で、今までの彼女の常識とは異なる視点に満ちていた。
「私は完璧であろうと……でもそれは間違っていたのね」
これまで貴族社会の「理想の令嬢」として生きることに囚われ、周囲と柔軟に関わる余地を作ってこなかった。だが、この本が示しているのは、そうした堅苦しさではなく、「人として魅力的であること」の重要性だった。
「試してみる価値はありそうね」
クラリスの心に、新たな決意が芽生え始めていた。
◆
翌日。彼女は、まずは表情の作り方から練習することにした。鏡の前で柔らかい笑顔を作ろうとするが、どうしてもぎこちなくなる。
「こんな顔をしていたら、ただの気味の悪い女になってしまうわ……」
試行錯誤の末、彼女は意を決して屋敷の使用人たちに向けて実践してみることにした。
「クラリス様、今日はご機嫌ですね!」
使用人の一人が、彼女の変化に驚きながらも微笑みを返してくれた。その穏やかな表情に、クラリスは心の奥で小さな手応えを感じる。
「悪くはないわね……」
だが、それはまだ第一歩に過ぎなかった。
もっと多くの場面で実践しなければ、真に身についたとは言えない。
そう考えたクラリスは、社交界での舞踏会という次なる試練に挑むことを決意する。
そう、社交界である。
まずは直近にあった舞踏会で試すことにした。派手すぎず、上品なデザインのドレスを選び、メイクも少しナチュラルなものに変える。
そして、意識して穏やかな笑みを浮かべながら会場へと足を踏み入れた。
「……っ!?」
――会場のざわめきが、微かに変わった。
「クラリス様、随分と雰囲気が変わりましたね」
「なんだか以前よりも柔らかくなられた気がします」
貴族たちの反応は、彼女の変化をしっかりと認識していた。婚約破棄された令嬢が落ちぶれるどころか、以前よりも輝いていることに驚く者もいた。
そんな彼女に最初に気づいたのは、親友のソフィア・ランカスターだった。
「クラリス、どうしたのよ!? すごく魅力的になったじゃない!」
舞踏会の会場で近づいてきたソフィアは、興味津々といった様子で彼女を見つめる。
彼女は社交界の華ともいえる侯爵令嬢で、人懐っこい性格で知られている。
「そんなことはないわ。ただ、少し考え方を変えただけよ」
「でも、その『考え方の変化』がすごく良い方向に進んでいるのよ」
ソフィアは微笑みながらささやく。
友の純粋な誉め言葉を聞いたクラリスは内心驚いた。婚約破棄されて孤立するかと思っていたが、むしろ周囲の注目を集めることになるとは。
「……おかしな話ね。私はただ、新しいことを学んでいるだけなのに」
「一体、何を学んでいるの?」
ソフィアが興味深げに尋ねると、クラリスは周囲を見回し、誰にも聞かれていないことを確認した。
「実は……これなの」
そう言って、クラリスはバッグの中から一冊の本を取り出した。
「これは……本? でも、見たことのない表紙ね」
「『結婚情報誌』というものよ。異国の書物らしいのだけれど、驚くほど有益なことが書かれているの」
クラリスは声を潜めながら、その本の中に書かれていたことを簡単に説明した。
「なるほどね……貴女が変わった理由がわかったわ」
ソフィアはしばらく考え込むようにしていたが、やがていたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ねえ、それって私も読んでもいいかしら?」
クラリスはすぐに微笑み、そっと本の表紙を撫でた。
「もちろん、ソフィアになら良いわ。ふふっ。これを貴女が読んだら、私以上に注目の的になるわね」
「それは……」
ソフィアは言いかけて、ふと考え込むように視線を落とした。そして、やがて柔らかく微笑み、肩をすくめる。
「やっぱり私は遠慮しておくわ」
「え? でも……」
「誰にも言っていない秘密の本なんでしょう? それにクラリス自身がどう変わっていくのか、見ているほうが楽しそうだもの」
その言葉に、クラリスは少し驚いたが、すぐに目を細めて微笑んだ。
「……ソフィア、ありがとう」
「まぁその本がなくても? 私は十分に魅力的だし?」
「ふふっ、そうね。その通りだわ」
二人は微笑み合い、言葉の端々に信頼と親しみが滲んでいた。
和やかな空気も束の間。
舞踏会の扉がゆっくりと開いたのをキッカケに、会場の雰囲気が一変した。
そして重厚な扉がきしむ音とともに、低く落ち着いた声が響いた。
「遅れて申し訳ない」
低く、だが確かな威厳を感じさせる声。その響きが広間に流れた途端、貴族たちは思わず息を呑んだ。
人々の視線が自然と扉の方へと向く。
「……やはり賑やかな場所は苦手だな」
そこに立っていたのは、ヴォルフ・グランディール侯爵だった。
長身で引き締まった体躯、黒曜石のような漆黒の髪。切れ長の青い瞳は、冷ややかでありながら、どこか鋭く人を見透かすような光を宿している。
彼は若くして侯爵位を継ぎ、政務に忙殺される日々を送っているため、公の場に出ることはほとんどなかった。それゆえに、彼の一挙一動に広間の空気が静まり、緊張が走る。
「どうしてヴォルフ様が……?」
ざわめきが広がる中、ヴォルフは周囲の視線など意に介さず、悠然と歩みを進める。
そして、ふとクラリスの存在に気づいた。
青い瞳が彼女を見据える。
クラリスは、一瞬、彼の視線に囚われた。
「ヴォルフ!? 珍しいじゃない、あなたがこんな場所に来るなんて!」
親友のソフィアが驚きの声を上げる。どうやら彼女とヴォルフは以前からの知り合いのようだ。
「たまには顔を出せと言われてな」
ヴォルフはわずかに肩をすくめ、関心のなさそうな素振りを見せながらも、会場を見渡す。だが、その視線はすぐに一人の女性へと吸い寄せられた。
「……君は?」
低く落ち着いた声が、クラリスを指名する。
彼の鋭い視線がクラリスを捉えた。
「クラリス・ルーベンです。今年十八歳になりますわ。お初にお目にかかります、ヴォルフ様」
クラリスは一瞬驚いたものの、冷静に礼儀正しく頭を下げる。
ヴォルフの目がじっとクラリスを見つめる。まるで噂と実物を照らし合わせるかのように、彼は彼女を観察していた。
婚約破棄された高慢な令嬢――そう聞いていたはずなのに、目の前の彼女は毅然としており、その振る舞いには洗練された優雅さが漂っている。
「聞いていた話とだいぶ違うな」
ぽつりとヴォルフがつぶやいた。
クラリスはその言葉の意味を問いただそうとしたが、彼の目がどこか試すような光を帯びていることに気づき、思わず口をつぐむ。
彼の視線は鋭く、しかしどこか興味を含んでいた。
そのとき、背後からヴォルフを呼ぶ声がした。
「ヴォルフ様、少しお時間をいただけますか?」
振り向けば、王宮の高官と数名の貴族が彼を求めて立っていた。どうやら、この場に出席した理由の一つに、彼らとの話が含まれているらしい。
「……失礼する」
ヴォルフはクラリスを一瞥し、口元にわずかに笑みを浮かべたように見えたが、すぐに表情を引き締めて歩を進めた。
王宮の高官たちのもとへ向かう彼の背中を、クラリスは無意識のうちに目で追った。
ヴォルフの姿が人混みに紛れ、完全に見えなくなると、クラリスはふと我に返る。胸の奥に残る妙な感触を振り払うように、そっとドレスの裾を整えた。
「クラリス、大丈夫? アイツ怖かったでしょ!?」
「うぅん……すごく真面目な方なのね」
「そう? 不愛想なだけだと思うけど。それより、少し会場の中を歩きましょう?」
ひとたびクラリスが歩けばドレスの裾が優雅に揺れ、髪飾りが月の光を受けて繊細に煌めく。そのすべてが、かつての彼女にはなかった魅力を放っていた。
貴族たちは、その変化に目を見張った。
「この舞踏会の後、ぜひお茶会にご招待したいのですが……」
「次の乗馬会でご一緒できれば光栄です」
貴族の令息たちは次々にクラリスに声をかけ始めた。その中には、これまで彼女を敬遠していた者まで含まれていた。
彼らの視線には明らかな関心が宿り、まるで新たな光を見つけたかのように彼女を賞賛していた。
クラリスは微笑みを絶やさず、丁寧に受け答えをしていたが、内心ではこの急激な変化に戸惑いを覚えていた。
(これは……結婚情報誌の影響なのかしら?)
かつての彼女なら、こんなにも多くの人が寄ってくることはなかった。むしろ、彼女の堂々とした態度や強すぎる自尊心が敬遠される要因になっていた。
しかし、情報誌を参考にした立ち居振る舞いと、相手を受け入れるような微笑みを意識するだけで、ここまで変わるものなのだろうか。
「どうしてだ? なぜアイツに人が集まる? クソッ、こんなはずでは……」
そんな彼女の様子を、会場の片隅から静かに見つめる影があった。
◆
舞踏会から数日が経ち、クラリスのもとには令嬢たちからの相談が舞い込むようになっていた。
「クラリス様、どうすれば男性に好かれるのでしょうか?」
「まずは、相手の話をよく聞くことですわ。人は自分の話を聞いてくれる人に安心感を覚えるものです」
「どんな話題をすれば、うまく会話が続くのかしら?」
「笑顔も大事ですのよ。自然な微笑みを意識するだけで、相手も話しやすくなるものですわ」
クラリスは戸惑いながらも、結婚情報誌で得た知識を活かし、彼女たちにささやかなアドバイスをするようになった。
それが次第に社交界で「クラリスの恋愛指南」として評判になり、ついには「恋愛相談会」という名目で、彼女が主催のお茶会が王城の庭園で開かれるまでになった。
「クラリス様、恋文を書く際の心得などはあるのでしょうか?」
「気になる殿方に好印象を与えるには、どんな言葉を使えばよいのかしら?」
そんな相談を受けたある日、クラリスは結婚情報誌の一節を思い出した。
『気になる相手に向けたメッセージは、過度に情熱的でなくともよい。相手を尊重し、軽やかな好意を伝えることが大切である』
『また、言葉の選び方も重要である。特に、相手にとって負担にならない距離感を意識し、あくまで自然な形で気持ちを伝えることが望ましい』
『例えば、感謝の言葉を添えたり、相手のことを尊敬していることをほのめかす表現が効果的である』
……などなど。
「試しに書いてみるのも良いかもしれませんわね」
クラリスは興味本位で、架空の相手を想定しながら一通の手紙を書いてみた。
『貴方の言葉はその青い瞳と同じく時に厳しく、漆黒の髪のように闇へと誘う。けれど私には、それがただの冷たさではないと分かるのです。貴方はきっと誠実な人なのでしょう。そんな貴方に、私は心惹かれるのかもしれません』
「……こんな感じでいいかしら?」
書き上げた手紙を他の令嬢に見せようとしたが、ちょうどそのとき、クラリスの手元から手紙がするりと滑り落ちた。
「……!」
風に乗って舞い上がった手紙は、誰かの手へと渡ってしまう。
「これは……?」
低く落ち着いた声がした。
顔を上げると、そこにはヴォルフ・グランディール侯爵がいた。
「ヴォルフ様……!」
彼は手紙を見つめながら、静かに目を細めた。
「青い瞳に漆黒の髪……まるで俺を指す言葉だな」
「えっ……!? ちっ、違いますわ!」
ヴォルフは指先で紙を軽く弾きながら、どこか試すような視線をクラリスに向けた。
クラリスは慌てて否定しようとするが、ヴォルフはじっと手紙の内容を読み込んでいた。
「『けれど私には、それがただの冷たさではないと分かるのです』……」
彼の口元がわずかに持ち上がる。
「……ほう?」
「ですから、それは違いますの!」
クラリスは顔を真っ赤にしながら手紙を奪い取ろうとするが、ヴォルフはさらりとかわす。
「誰か特定の相手に向けたものではないと?」
「そ、そうです! ただの練習として書いただけで……!」
ヴォルフは少し考え込むように視線を落とし、次にクラリスを見たとき、その瞳には妙な色が宿っていた。
「ふむ……そうか」
そう言いながらも、彼の態度はどこか変化していた。
その日以降、ヴォルフの態度が微妙に変わった。
それまでの彼は社交の場ではどこか距離を取るような雰囲気を持っていたが、クラリスに対してだけ、時折妙に紳士的な態度を見せるようになった。
「お前の乗る馬、調子が悪かったそうだ。……新しいのを選んでおいた」
「お茶会には付き添いが必要だろう。送っていこうか?」
「そのドレス、悪くないな」
(……何かがおかしい。ヴォルフ様は、こんなふうに気をかけるような方ではなかったはず)
それなのに、彼女の周りに気を配るようになった。
まるで……あの手紙に書かれた男性像をなぞるように。
クラリスは戸惑いを隠せなかった。
「ヴォルフ様、なぜ急にそのように振る舞われるのですか?」
そう尋ねても、彼は薄く微笑むだけで何も答えない。
――それが、かえってクラリスの心をざわつかせるのだった。
◆
クラリスの社交界での評価が急上昇するにつれ、彼女を取り巻く環境も変わっていった。
多くの貴族が彼女に注目し、新たな求婚者が現れる中、一人だけ、それを面白く思わない人物がいた。
――元婚約者、エドワード。
「なぜ王子はクラリス様をお捨てになったのだ?」
「見る目がなかったのでは……」
「彼の部下にはなりたくないものだな」
その悪評はたちまちに広がり、リリアーナの王子に対する言動にも変化が訪れた。
「殿下、わたくし他に好きな人ができましたの」
「……は?」
「可憐なわたくしには、やはりヴォルフ様のような、頼り甲斐のある殿方がお似合いですわ!」
そうして彼はあっさりと振られてしまった。
不敬の極みであるが、誰も彼に同情もしてくれなかった。
そしてそのヴォルフ・グランディール侯爵が、元婚約者であるクラリスに関心を寄せている様子を見たとき、エドワードの胸には嫉妬と怒りが渦巻いた。
その感情の矛先は――
「クラリス……すべてお前のせいだ」
ある日、クラリスが庭園でお茶を楽しんでいたとき、彼は静かにその場に現れた。
「エドワード……?」
クラリスは驚いたが、冷静に彼を見つめた。エドワードの目には焦燥と苛立ちが浮かんでいた。
婚約破棄をした瞬間は、クラリスが泣いてすがる姿を期待していたのに、現実はまるで違った。むしろ彼女は以前よりも輝きを増し、社交界の中心に立っていた。
そして、その隣には、ヴォルフ・グランディール侯爵がいる。
(なぜだ……俺ではなく、あんな男の隣に……)
嫉妬と焦燥が入り混じり、彼は思わず拳を握り締めた。
「俺を裏切ったお前が、なぜ笑顔でいられる?」
「……裏切ったのは貴方でしょう」
クラリスの毅然とした態度に、エドワードの表情が歪んだ。そして次の瞬間、彼は懐から短剣を取り出した。
「お前さえいなければ……!」
鋭い刃が振り下ろされる――その瞬間、クラリスは反射的に結婚情報誌を抱え込んだ。
「……!」
刃は紙を貫くことなく、硬い表紙に阻まれた。
「何……?」
エドワードが動揺した次の瞬間、彼の手を鋭く弾く音が響いた。
「……随分とつまらない真似をするな」
低く冷ややかな声。そこに立っていたのはヴォルフだった。
「ヴォルフ様……!」
クラリスは驚きと安堵の入り混じった表情を浮かべた。
「貴族の誇りを捨て、女性に刃を向けるとは……下劣な真似をする」
ヴォルフの声には怒気が滲んでいた。
彼の青い瞳は冷たく、鋭くエドワードを見据えていた。
まるで、一瞬でも彼が再び刃を振るえば、その場で終わらせると言わんばかりの視線だった。
次の瞬間、エドワードは衛兵に取り押さえられた。
「ぐっ、貴様……!」
「貴族社会において、このような行為は許されるべきではない」
ヴォルフは冷たく言い放ち、エドワードはそのまま連行されていった。
クラリスはゆっくりと息を整えた。
「……助かりましたわ」
「いや、止めるのが遅れてすまなかった。まさか王子がこんな愚かな真似をするとは……」
ヴォルフはそう言いながら、彼女の手元に視線を落とした。
「しかし、そんなもので身を守るとはな……」
クラリスが胸に抱えていたのは、傷ひとつない結婚情報誌だった。
「ふふふっ。私もまさか、この本に命まで救われるとは思いませんでしたわ」
「妙な本を持ち歩いていると思えば、役に立つものだな」
ヴォルフは呆れたように微笑んだ。
◆
数日後――
クラリスは親友のソフィアと共に、王城の庭園にある小さな東屋で、新しい結婚情報誌をめくっていた。
使用人もつけず、気心知れた二人だけのお茶会。
心地よい風が頬を撫で、テーブルには温かい紅茶と焼き菓子が並んでいる。
「……何かしら、これ?」
情報誌の最後に、豪華な装飾が施された一枚の書類が挟まれていた。
『この誓約の証書に名を記した者は、運命の相手と結ばれる』
ソフィアはその一文を見つめたまま、わずかに眉をひそめた。
「……また変なのが出てきたわね?」
「くだらなくはあるけれど、デザインはなかなか素敵ですわね……試しに自分の名前を書いてみようかしら」
そう呟きながら、サラサラと名前を書くクラリス。まるで躊躇のない行動に、ソフィアは目を丸くする。
「クラリスって意外に肝が据わっているわよね。この本だって、怪しさだらけなのに……」
「ふふふ、そうね。でもきっと、本の妖精さんが悪戯でやっているのよ」
嬉しそうに微笑む友を見て、ソフィアは軽く肩をすくめた。
突然現れた不思議な本。著者も分からなければ、誰がクラリスの部屋に置いたのかも不明。
どれをとっても怪しさだらけだが、クラリスに良い変化をもたらしたのは事実。なのでソフィアも、深くは考えないことにした。
「さて、紅茶のおかわりでも用意しましょう」
「あら、私が行くわよ?」
「ううん。ソフィアはここで待っていて」
そう言って、クラリスは証書をテーブルに置き、席を立った。
彼女を待つ間、ソフィアは友人の名が書かれた証書を眺めていたが――。
「これは……ふふ、ちょうどいいわね」
庭園の奥から、落ち着いた足取りの影が近づいてくる。陽の光を背にして現れたのはヴォルフだった。彼はゆったりとした仕草で視線を巡らせ、東屋の中の様子を確かめる。
「クラリスは?」
低く響く声が、静かな庭園に広がった。
「お茶を取りに行ったわ。ああ、ヴォルフ。ちょうどよかった!」
ソフィアはさりげなくテーブルの上を片付けながら微笑んだ。
「少し試していただけません? このペン、どうもインクの出が悪くて……」
ヴォルフは軽く眉を寄せたが、ペンを受け取り紙に試し書きをする。
「……問題なく出るが?」
「まあ、助かりましたわ! ところでヴォルフの家名って、どのような綴りでしたっけ? ここに書いていただけます?」
ソフィアが差し出した書類の束の中には、一枚の誓約の証書が紛れ込んでいた。
ヴォルフは特に気にせず、すらすらとサインを走らせた。
ソフィアが書類を回収したとき、クラリスが戻ってきた。
「お待たせしました……え? 何かあったのですか?」
「いや、何でもない。ソフィアに頼まれて――」
次の瞬間、書類がかすかに光を帯び、薄い金の文字が浮かび上がる。
『誓約成立』
クラリスの目が大きく見開かれた。
「……これは?」
ヴォルフも眉をひそめ、書類をもう一度見つめた。
「つまり……俺たちは、誓約を交わしたということになるのか?」
彼はため息をつきながら、ソフィアへ視線を向ける。しかし彼女は素知らぬ顔で微笑むだけ。
「まあ……俺としては、悪くないが」
ヴォルフはわずかに微笑み、今度はクラリスを見つめた。
「……私も、ヴォルフ様なら」
クラリスは、誓約成立の光が静かに消えていくのを見届けながら、胸の奥に熱いものを感じていた。
一方でソフィアがにっこりと笑みを浮かべた。
「ふふっ、見事なハッピーエンドね! あとは二人でゆっくりどうぞ」
とウインクを残し、席を立って庭園の小道へと去っていく。そのすれ違いざま、クラリスに耳打ちした。
「ちゃんと結婚式には呼んでよね! もちろん、特等席で!」
クラリスは顔を赤くしながらも、微笑みを返した。
「……これって、本当に誓約が成立したのかしら?」
戸惑い混じりに呟いたクラリスに、ヴォルフは照れを隠すように小さく笑った。
「仮にそうじゃなくても、俺は貴女と一緒になりたい」
クラリスはその言葉に目を見開き、そっと手を彼の上に重ねた。
「これからは逃げずに、貴方と向き合いますわ」
ヴォルフはその手を優しく握り返し、低く囁いた。
「……なら、俺も全力で甘やかそう」
◆
しばらくした後――王宮では「冷酷と噂された侯爵と、かつて悪役令嬢と呼ばれたクラリスが運命の誓約を交わした」という話題で持ちきりだった。
結婚情報誌は『奇跡を起こす伝説の指南書』として貴族令嬢たちの間でますます神格化され、新たな伝説が静かに幕を開けたのだった。
作者は婚約破棄された人間なので結婚情報誌は買う機会はありませんでした(´;ω;`)
悲しさを胸に書いたので、もしよかったら星評価いただけると嬉しいです……
作者へのとても大きな励みになります。
よろしくお願いいたします(*´ω`*)