世界寿命と最後の一日
いんだけど、もし、世界が終わると聞いたらどう思うだろう。
恐らくだけど、「どこのSFだよ」とか「安直な設定だな」とかだと思うんだよな。僕だって最初は疑いすらしなかった。なにせ、最初にその情報を目にしたのはSNSの情報だったからね、真実と虚の概念が破綻している世界だ。そういうフェイクニュースを愉快に装飾したサイトが有名になっただけだと思っていた。
でも、どうやら違った。
時間とともに増えていく情報が深ければ深いほど、より「地球が終わる」という事実が鮮明になっていくだけだった。
なんで地球が終わるかというと、それもまたすごく単純なんだけど、エベレストくらいの大きさの隕石が地球に当たるんだって、すごい確率だと思ったよ。「ほぼ高速のスピードで、4.02×10の21乗の力で向かってきている」とNASAが発表していた。僕みたいなただの高校生でさえ宇宙の広大さは理解しているつもりだ。けれども宇宙に、殊、太陽系においては隕石が降ることは別に珍しいことじゃないらしいんだ。『地球は隕石の射撃場』だってさ、地球が終わる今、皮肉にもならないよ。
地球が滅びるってわかった時、世界が混乱した。有名な宗教の教祖は神の御裁きが起こると嘯いていたし、中には集団自殺をするところもあったっけ。
そんなわけでこの話は地球が終わるまでの話だ。
1 11月10日
秋の暑さにようやく慣れてきたころ、僕は大学の受援勉強の傍ら自動車学校に通っていた。その日は確か日曜日で、時計の針は午後の3時を指していた。自動車学校の帰り道だった。SNSのとあるつぶやきが目に飛び込んできた。
『俺ら、やっと死ねるな』
という文章とともにとあるURLが記載されていた。つぶやいていたのはネットで仲良くなった「慄」という名前の人物だった。そのURLに飛ぶと、とあるネットニュースの記事にリダイレクトされた。
『エベレスト超の隕石が地球に衝突、避けられない事実』
ネタかと思ったよ、もちろん「慄」もそのつもりでつぶやいたんだと思うけどね、だれも本気にしなかったさ、最初のうちはね、でも段々と信じるようになった。普段そんなにみないテレビを見て、宇宙開発をしている大企業の研究者から難しい言葉の羅列をして、いかにこの隕石が恐ろしいか、そしてどうやらその隕石がぶつかるか否かは五分五分らしいことを放送していた。(結局、この隕石は地球に当たることになるのだが)
コメンテーターやMCは頷いてこそいたけれどどこか半信半疑の様なリアクションだったね、とある毒舌で売っている若い俳優はこんなことを言っていた。
「犯罪者だけを殺す隕石なら大歓迎なんですけどね」と笑った。それはネットで少し荒れた。僕もその発言は浅はかだと思ったよ、声に出したり文字に起こしたりはしなかったけどね。
そうして世間は少し前まで芸能人の不倫とか、西欧二国の戦争を報道していたのに、一週間もすぎればどの番組もこの隕石のニュースばかり報道するようになった。ゆえに僕も徐々に人類の余命宣告を受け入れざるを得なくなった。その期間は1か月だった。
こうして19歳になれないまま死ぬことが確定したわけだけど、僕はなぜか取り乱すことも、なければ涙を流すこともなかった。それはただ単純に話が大きすぎるからその悲劇の全貌を僕が見切れていないだけだってあと一か月で人類がこの世からすべて消え去って、生命は滅びます。これだけ言われて心の底から悲しみがあふれてくる人間は馬鹿だよ。そんなわけないじゃないかって思うのが普通じゃないかな。世界は誰も最初は信じなかった。裸の王様ってやつさ。
少し僕の話をしようか、自分の事を沢山話すとSNSの世界は煙たがられるんだ、だから手短に話すよ。
僕は父子家庭で、母親は父親のマイナス思考に嫌気がさして出て行ってしまった。
話を聞くに、母もなかなかの鬱傾向だったみたいだけど、父親がそれ以上だったみたいでさ、私が出て行ってから父もやっとちゃんとしてくれたって、前、母にあった時に言っていたな、僕はマイナス思考がちゃんとしてないとは思わないけどね、まあそれはいいよ、お互いの価値観の違いだ。そんなわけで、平凡な機能不全家族になったわけだ。
そんな親に生まれた僕も漏れずにネガティブな思考回路が組み込まれてしまったわけなんだけどさ、唯一、それを表に出さないように振る舞えることができるのが僥倖だったな。
すこし話がそれるけどネットの世界には「病みアカ」という文化があるみたいで、僕もそれに興味をもってSNSを始めてみた、一般に言われる普通という生活を送っていると普段言えない弱音や、愚痴の様なものを吐くいわば感情のゴミ箱のようなところさ。
だが思っていたものとは違った。そこはネットの地獄だった。想像していたものとはかけ離れていた。自分の弱さをさらけ出し、傷だらけの心を舐め合いながら深淵へと沈んでいく。挙句の果てに、自傷行為の画像を無加工でつぶやくというネットのマナーやメディアリテラシーのかけらもない行為が恒常的に行われている場所など、地獄以外の何物でもない。そんな場所に僕は居たくなかった。もちろん、その人たちもそういう行為で安寧を見出していることは知っていた。だが僕には承認欲求や自己顕示欲はさほどなかったからむしろそういった風に、愚かな行為をする人々に対して嫌悪感を抱いていた。
マイナス思考の人間の性格は煩雑で、入り組んでいるからプロファイリングできないってと思うんだけど、それは人によって変わるような複雑なものじゃなくてある程度、整合性があるものだと僕は思うんだ。具体的に言うと、「自己評価が低いと自称している人間は自分の境遇を人のせいにする」とか、「明るく振る舞っているマイナス思考人間は、その本質をばらすことを恐れる、その本質を覗こうとするものを嫌悪する」とかね。より高度な欠陥人間になるとその名札付けさえも恐れて自分は何物にもならないぞという強いけれどとても弱い意志が感じられる。まあ僕は後者だったわけなんだけどね。なぜかコミュニケーション能力だけはそこそこ持ち合わせていたからその本質を悟らせるほどのほつれすらも僕は見せることはなかった。もちろん、「心配されたいけれど、直接的に言うのは憚られるので故意に少しずつ糸のほつれを見せる」というような姑息な人間もいるようだけど、僕は単純に知られたくなかったんだ。ある程度友人もいたしね。
さて、結局長くなってしまったね、でももういいじゃないか地球が終わってしまうという免罪符があるんだから。この先僕が生きるはずだった時間はこれ以上だったんだから。
そのようにして人類の余命宣告が隕石という悪性新腫瘍によって下された。結局何を話していたっけな。そうそう。11月10日の話だったね。あのつぶやきを見たあと、僕は「慄」に返信を送った。「よかったな、死ぬときは一緒だ」もちろん信じなかった。これは漫才とも呼べない「なにか」だ。二人だけに通ずるある種の喜劇の様な会話だ。そのあと「慄」のつぶやきは流れてきたが、「よかったな」の返信は二度と来なかった。
病みアカはやめたけれど、SNS自体は続けていた。顔も知らない人とコミュニケーションをとるのは意外と楽しかったからね。
家に帰ってテレビをつけるとどの番組も緊急速報をしていた。どこかの人工衛星の動画流れ続けていたな。これでようやく実感したよ。人類は終わるってね。けれども前にも言ったように僕は何も感じなかった。実感しただけで、絶望はしなかった。それがおかしいと思ったけど、どうやら父親もそのようだったし、学校も休みの連絡はなかった。インスタグラムで同じクラスの人が滅亡について投稿していたっけ。あくまで世界は順調に回っていた。まるで隕石衝突なんてフェイクニュースかのように。
次の日の学校はクラスの不良数人を除いて全員が来た。来ない人々はもともとさぼりがちなだけで、ここでも隕石の影響はなかった。案外このようにして静かに人類が滅亡していくのかと思ったね。
けれども僕はそのようにしてこの残り少ない人生を昨日の続きのように空費するつもりは毛頭なかった。
2.11月15日
この生活が数日続いた後に僕は家出をした。
幸い、父もどこかに行ってしまったみたいだったしね。
出たのはその日の夕方だった。やけに夕日が大きく見えた日だった。わざわざ高台に上ってその陽光の全貌を見た。その不気味さにエジプト人は神を重ね合わせたのに納得いった気もしたな。変な表現だけど、僕はそういうのが好きなんだ。慣れてくれよ。
結果として僕は東京に向かうことに決めた。そこそこ離れていたけど、僕は最近までアルバイトをしていたからお金には困っていなかったし、お金はあの世まで持っていけるものではないから、どうにかして使い切りたかった。
けれども新幹線で向かうという暴挙に出るわけではなくて、あくまで普段より少しだけ豪かな暮らしをすることを目指した。
もうすぐなくなる電車に乗り込み、終点での乗り換えを数回繰り返してあたりはすっかり夜になった。
腕時計は0時を指していた。その日はあこがれていたネットカフェで寝ることにした。なぜか受付の人の態度は剣呑だった。まるで東京は隕石のニュースが行き届いていないかのようだったけれど、実は水面下で疎開じみたことは起きてたいたようだった。だが僕はもうここで死ぬことを決めていたし、同じことを思っていた人は少なからずいた。
もともと狭いところが好きな僕にとってネットカフェの隔絶された薄暗い空間は天国だったね、周りから邪魔されることなく、ドリンクバーは飲み放題で、シャワーも入れるという非の打ちどころがない聖域だった。唯一不便だったのがマウスが右にあったことだね。
そうそう、なんで東京に来たか詳しく言ってなかったね。最初のほうに話に出てきたネットの友人に会うためだ。「慄」という人物は文字でしか会話したことがなかった。勿論会うつもりは一週間前までなかったんだけど、どうせ死ぬなら、ということで会うことを提案した。「慄」もどうやら同じことを考えていたようで、会うことを快諾してくれた。勘違いしてほしくないのは、僕は見ず知らずの人間と気軽にあったりするような防犯意識の低い男じゃないってことだ。それもこれも隕石が落ちるからだ。今ごろ世界の偉い人たちが必死になって隕石を破壊もしくは進路を変えようと命をかけているのだろうが、僕たちはこの世が終わろうと、生物が死に絶えようと、文明が滅びるようと一向に構わなかった。地球が滅びればみんな結末は平等に訪れる。それでいいじゃないか。もちろんこのことを僕の学校の担任に話すと容赦なく殴られただろうね、向こうも体罰とかいちいち言っていられないから。それくらい自分の言っていることが身勝手だってわかっていたし、自分の考えを正当化するつもりもなかった。だってこの場合、間違っているのはどう考えても僕だものね。けれども僕は自分の価値観を変えようとは思わなかった。何らかの形で僕の考えを表明しなければ僕の価値観が一般論とかけ離れていることは露見しないからね。
また話がそれたね、そうだった。そうして「慄」に会うことにした僕は遠路はるばる東京にやってきたわけなんだけど、僕は「慄」のことを全く知らなかった。もちろん文字でしか話したことがないから声も聞いたことがない。お互い個人情報は不可侵だったからね。でも一回だけ苗字を教えてくれたことがあったな。たしか「村上」とかいったっけ。
そんなわけで明日会うことにしたから早く寝ようと思ったけれど、隣の部屋から喘ぎ声が聞こえて眠れなかったね。ネットカフェの醍醐味らしいけれど眠気に侵されていたからかえってイライラしたな。
無駄に早起きして腕時計を見ると6時だった。付属品の毛布を綺麗にたたみ、コップをドリンクバーの横のスペースに戻してから受付にお金を払った。外は秋らしく木々には赤い葉っぱが色づいていた。
「慄」に会う時が近づいてくるたびに心臓の音が大きくなっていった。耳の隣に心臓があるように感じたね。でも試しに耳をふさいでみたら鼓動はより明瞭に聞こえた。当たり前だけどね。
待ち合わせは原宿駅になった。東京の土地勘がなさすぎて電車を二回乗り過ごして1回電車を乗り間違えた。あれは逆に不便だ。もうすぐ地球が終わってしまうというのに、こんな間違えを犯すなんて神も意地悪だね、いや、これは僕のせいか。
そのようにして当たり前のように30分遅れてしまった。事前にメッセージを送っておいたら、向こうも今起きたと言ってきたので、僕が待つ羽目になったよ。まあでも待たせるほうが嫌だから結果オーライだった。
「慄」とのメッセージを読み返しながら「慄」が来るのを待っていた。
心臓が激しかったのは長い階段を上ったせいなのか人見知りのせいなのかは分からなかった。
「おまたせ~」
その声が隣から聞こえたから、驚いて顔をスマホ画面から話した。
目を丸くした僕を見て「慄」は笑った。
そしてなにか観念して僕は言った。
「女装趣味なんてきいてないな」
「もしそうなら先に言っているよ」
明らかに女性の声で「慄」は言った。
そう、「慄」は女だったのだ。髪は肩にかかるくらいの金髪で、耳にはピアスが2,3個開いていて、秋だというのに短いスカートで謎に小さいリュックを担いでいて、かわいいキャラがプリントされた身体のサイズにトレーナーを着ていた。俗にいう「地雷女」というやつさ。
「驚かせようと思って」
「十分驚いたよ、地球が終わる報せが届いた時より驚いた。」
「うそでしょ、そんなわけない」
「それがそうでもないんだよ」
本当にそうだった。
「ふーん、まあいいや、驚いた顔が見えたし」
僕の経験上、文字はある程度その人の人格が現れると思っていた。文字で性別や、性格が浮かび上がっていくと思うんだよ、杓子定規の人間は文字のバリが何もなかったり、逆に感情豊かな人間は「笑」や「w」を多用したりってな具合でさ。
僕は完全に「慄」が男であると思っていた。言葉遣いはもちろん、これは今や完全に差別と思われてしまうんだろうけど、話の流れで下ネタになるときがあったんだけど、僕のイメージで女子はそういうのを嫌うと思っていたんだ、「慄」はむしろ自分からその話をしてきたりしたからこの勘違いに拍車をかけたこととなったんだ。確か「慄」のほうから男って言ってたんだっけ、忘れてしまったな。
「ねえ、どこいく?」
僕がそのようなことを考えていると、「慄」がそういった。
「どこでも楽しそうだ、僕は田舎出身だから。」
「じゃあ、まずは都会を実感しに行こう。」
そう言っておもむろに「慄」は歩き出した。いい加減名前を聞きたかったけれどなぜか聞けなかった。「なぜか」というのは原因の所在が不明という時によく使うけれど、まさにその時でさ、なぜか、なんだ。聞こうと思えばすぐ聞けるんだけれど、聞くに至らない、聞いてはいけない何かがあった気がした。勿論それは推測の域を出ないで、ただの気のせいの場合もあるんだけれどね。
「それで、どこにいくの?」僕がそういうと、「慄」が答える。
「渋谷」
少しだけ楽しみになってきた。
平日にしては人が多かった。でも大きな電光掲示板にはニュースが絶え間なく流れていたからやはり東京にも隕石が落ちるみたいだ。(正確に言えば隕石が落ちるのは日本ではなくて、太平洋だと言われているから、隕石が落下してから少しの猶予があるらしい)
都会人は感情の起伏が少ないと聞いていたが方がぶつかるたびに舌打ちを食らったので都会に住む人は喜怒哀楽の感情が全部怒に行くらしい。勿論これは僕の偏見だ。
渋谷は思ったより近かった。僕が田舎で歩きなれていただけなのかもしれないけれど。
「ところで、『慄』は何歳なんだ?」
「18歳だよ、前教えたじゃん」
もちろん覚えていたが、大きい間違いを犯した僕は確認せずにはいられなかった。
「じゃあ、誕生日は、12月25日で間違いないんだね?」
「そうだよ、一番嘘っぽいよね」
「慄」はそういって笑った。
また僕たちは無言に戻った。
人ごみに塗れた僕たちは雑踏の中に溶けていった。そのなかで「慄」の高いヒールの足音だけが僕の心臓の鼓動と合わさっていた。
数分無言が続いて歩いていると不意に「慄」は言った。
「ねえ、そういえば前に『日陰者』の話したよね」
「慄」が話し出した。その話は僕も覚えていた。その時の「慄」の返信がいつもより早かったというのもあるのかもしれない。
「ああ、したね、それがどうしたの?」
「あの時言ってたよね、『ネットのように負の感情があふれていたいり、何か後ろ暗いものを持っている人を見ると優しい気持ちになるって』」
「ああ。確かに言ったな」
僕は今思い出した風に言ったけれど、「慄」が日陰者という単語を発した時点でそのとき話したことすべてを思い出していた。
「それでね、その話聞いたときは性格悪いなと思ってたの」
「失礼だな、でも否定できない」
僕は続きを促す話し方をした。
「でも、もうすぐ地球が終わるってわかったとたん、その気持ちがよく理解できたの、優しい気持ちというか、同族意識というか、同じものを抱えてる気がして。ある種の慈しみというか」
「そうだね、つまり君も性悪人間の仲間入りってことだ。」
「そういうことじゃない」
僕たちは笑った。けれども、僕は恥ずかしかった。だって、作文を音読されてるようなものだからね、居ても立っても居られないというんのは、こういうことを言うのだろうね。だからこんな茶化すような言い方をした。
「『慄』は今日何時まで遊べるの?」話を変えることにした。思ったより幼稚な質問だったと自分で言った後思った。
「いつでもいいよ親はもういないし」
「それは聞いてもいいやつなのかな?」
別にいいけど、そういって彼女は続ける。
「もともと私の両親仲悪くてさ、でもお互いにお互いがいないと生きていけないってわかってたから一緒に居たみたいな感じだったの、珍しくないでしょ、そういうの、それでとうとう地球が終わるってなった時に、切り捨てるように家出てったの。二人別々に。お母さんが最初に出ていった。でも、お父さんはお母さんのマネみたいになるのが嫌だったみたいで、出てった時に30万円おいて行った。」
随分と重い話だった。境遇は似ていたけれど他人がそうだとこうも気を使うものなのか、と思っていると「慄」は言った。
「あ、でも気は使わなくていいよ、私も両親のこと嫌いだし、いなくなって嬉しい。強がりじゃなくて本当に。」僕はここまで振り切っていはいないけれど、父親がいなくなったからと言って特別変わった感情は持たなかった気がした。
けれどもなんでも肯定するのはおかしい気がしたから頷くだけにとどめた。
「今日は秋だというのに熱いね、そろそろ海に行かなきゃ」
「それわかる。プールに頭から入りたい」
「泳げるの?」
「都会人だからって舐めてる?」
そのように無益の会話を繰り返していると、やがて一駅分の距離を歩いていた。
「そういえば、なんて読んだらいい?」
歩き疲れて座っていると「慄」が聞いてきた。
「なんでもいいよ、ネットの名前でも、本名知りたいなら教えてもいいし」
「意外だ。君はネットだとガードが堅かったから。」
「これから死ぬっていうのにメディアリテラシーなんて気にしてられないよ、ほら今だって」
そう言って僕はスマホ画面のつぶやきを見せた。画面にはいわゆる「捨てアカ」と呼ばれる初期設定のアイコンで、名前も「虚無僧」とかいう意味の分からない名前とともに、どこかの住所が映し出されていた。
「なにこれ、検索してみようよ」
そう言って「慄」は自分のスマホで住所を打ち込み始めた。
僕も気になって検索結果をのぞき込むと、国会議事堂だった。
僕たちは笑いを抑えられず吹きだした。一瞬周りの目を気にしたが、都会人は喜哀楽がないのだから気にしなくていい。僕の名前は教えそびれてしまった。
渋谷に着いた頃には夕方だった。すでに歩き疲れていたから観光する余裕がなかった
。人生最後の、最初の一日としては最悪に近い。疲れたのを『慄』は気が付いていたようで
「そういえば、今日はどこで寝るつもり?」と言った。
「決めてないけど、同じ場所に泊まるのはもったいないと思ったから荷物はすべて持ってきたよ」
と僕は言った。
「じゃあ今日はホテルだね」
「え?」
もちろん聞こえる距離だった。
「ホテルだよいい場所知ってるんだ」
なるほど、ビジネスホテルか、勘違いしていた。
その2時間後、僕はネオンサインの派手なホテルに入っていた。
「まってまってまって、なんでこんな場所に?」
記憶が吹っ飛んでいた。
「だってただのホテル高いんだもん、いくら1か月で終わるって言っても私は無駄遣いしない主義だからね」
見た目と違って堅実なのだな。そう思った。納得せざるを得なかったけれど、引き下がるわけにもいかなかった。
「でも、同い年、異性、ネット、この三拍子そろっちゃってるんだ」
「だからなに?」
彼女は馬鹿なのだろうか、それとも貞操観念がまるでないのだろうか。
押し問答の末僕が負け、10分後にはおとなしく座っていた。
もちろん変な気を起こす気は微塵もなかった。僕は本来年頃の男子に持ち合わせている欲がどうやら薄いみたいで、友人達が昼休み話している猥談も詳しい意味は分からず作り笑いをしていた。
備え付けの小さい食用自動販売機に200円を投入し、乾いた音とともにカップラーメンが落ちてくる。お釣りの音は3回鳴った。
「慄」は同じ種類の別の味を選んでいた。
「それ美味しい?」
「ああ、久しぶりに食べたけど、こんなにおいしかったっけ」
「交換こしよ」
そう言って青いパッケージのプラ容器を差し出してきた。空いた手で受けとり、同じように赤いパッケージの容器を渡す。
「私のほうがおいしい」
そういったから、僕はこう返した。
「君が作ったわけじゃないと思うんだけど」
「お湯入れた」
「だけでしょ」
そうして二人の晩餐が終わったら時刻は20時になっていた。
「お風呂、先は言っていいよ」
「慄」がそういう。今までの彼女の性格上、僕が気を遣うような言動をとるとかえって向こうに気を使ってしまうことがなんとなくわかった。だから僕はそれを了承して先に入ることにした。せめてもの心遣いとして、10分で上がることにした。あまり早すぎてはかえって気を使ったことがばれてしまうからね。
入れ替わりで「慄」が風呂場へと向かう。かすかに漂う煙草の香りと煙は気付かない振りをした。
ホテルのフリーWi-Fiにつなげて、動画サイトを見ていた。やたらと法に触れる動画が増えてきた中、運営側も職務放棄が目立ってしまったおかげでその動画サイトは今ではネットのお化け屋敷のような場所になっていた。
いつのまにか眠ってしまっていた。
目を覚ますと「慄」の顔が目の前にあった。驚いてのけぞると頭を壁にぶつけた。「慄」は心配した風にしていた。
「ごめん、寝てるのかと思って」
「ああ、どうやら寝てしまっていたみたいだ。」
「スマホ落ちてたよ」
「慄」は僕のスマホを渡してくれた。
「にしても、こういうのが好きなんだね」
「え?」
自動再生がオンになっていたおかげで、それに関連した動画が次々と再生されていたみたいで、最終的にはアイドルの水着のプロモーションビデオになっていた。
恥ずかしさが勝って何も言えなかったな。だから、自動販売機でお酒を買って、飲み始めた。
「私も」そう言って「慄」はレモンチューハイのボタンをおした。
時間がたつと二人とも出来上がってしまって、隣の部屋のきしむ音が聞こえるくらい静かになったな。同じベッドに座っていた。朝のことは想像できなかったな。
「慄」が言った。
「ねえ、一人で死ぬことについてどう思う?」
それを聞いて、僕は言った。
「みんな一人で死んでいくものだと思うよ、でも、君が欲しいのはこんな陳腐でありふれた答えではないだろうけどね」
「君はどう思うの」
「これはこの先地球が終わらない世界でも言えることだけど、死にたければ無理に生きる必要はないと思うんだ、人にはそれぞれ地獄があって、その深さはそれぞれだ。躓いたレベルのなんのことのない穴があったり、二度と這い上がることができないほど深い地獄があったり。でも他人の地獄は、本来の死んだあと行く地獄と同様、見たことがあるものはいないだろ、決して見えないものを過少評価するべきではない。『こんなことで死ぬなんて』とかね。」
すこし喋りすぎたと言い終わってから気が付いた。
「同じこと思っている人がいてよかった、いや、もしかしたら私は私の存在を肯定してくれる人が欲しかったのかもしれない」
「慄」がこういう弱い部分を見せるのは初めてではなかったけれど、実際に普通に話して耳で聞くと新鮮な気分でなぜかちょっと緊張したな。
「というと?」と僕が言うと
「私も死ぬのは自分の勝手だと思っててさ、でも死ぬ勇気も出ないし情けないのもわかってるんだけど、でも今生きているのはやっぱり辛くて。今まで生きてていいことなんて、なかった。これからだってないはずなのにおかしいよね」
数秒の沈黙の後僕は言った。
「そう思っている人はきっと多いはずだよ君だけじゃないし、僕だけじゃない、でも一つ気になったな、君は『今までこうだったから、これからもこうだ」って考えを持っているみたいだね、でもそれはおかしい。君だってこうなりたい、こういきたいって夢を見ただろ、その夢を現実にするのは君自身だ今までこうだったから、とかあの人がそうだったからなんて考え方なんて無駄だと思うんだ」
過去の僕にも諭すように言った。
「慄」は顔を前に向けて膝に手を置いて目の前の冷蔵庫を眺めていた。なぜかその冷蔵庫が小さく見えたな。
酔っぱらっていると自分の死生観や人生観みたいな、大きくいうと価値観を押し付けたくなるんだな、それは居酒屋で横柄な態度をとっていて部下に気を使わせているおっさんとなんら変わらなかった
「そろそろ寝ようか」
「そうだね、長く話しちゃってごめんね」
まあそのようにして眠りについたわけなんだけど、寝ているときに起きたことなんかわかるわけないよね。別に君たちが想像しているように変なことは起こらなかったわけなんだけど。
そこから3日間は東京を観光していた。そうそうその時の話なんだけど、僕たちは深夜に歌舞伎町を歩いてたんだ、もちろんイメージ通り、おっかないところだったよ。道路を挟んだ反対側で喧嘩している人を見た。動物みたいに大きい声で、暴力をふるっていた人がいた。やられっぱなしではなく、殴られていたほうもとび膝蹴りをしていたのを見た。気分がとても高揚した。そのあとに「慄」がしつこくナンパされて肩をつかまれたから同じようにとび膝蹴りをして怯んでいる隙に手を引いて逃げた。恥ずかしかったね。なにかの主人公みたいな気がしたから。
そして二人の息が切れ、足も重たくなってきたところで路地裏に入った。二人して呼吸が馬鹿みたいに乱れていた。
「どうしてあんなことしたの」
「やってみたかったんだ」
僕がそう答えると「慄」は笑った。治りかけた呼吸がさらに乱れていたね。あれは申し訳なかったな。「バカみたい」と「慄」は言った。
歌舞伎町のあのアーチを見たときは感動したな。おまけに詐欺の注意喚起の音声が流れ時はさらに嬉しかった。楽しいことなんて一つもないのにね。それもこれも酒に呑まれていたからだな。僕はその時初めて吐いた。
また別のホテルに入って泥のように寝た。次に目を覚ますことがありませんようにと思いながらね。ちょうど気分が沈み切った夜だった。
次の日は雨が降った。土砂降りだったから外に出るのをやめた。
その次の日は「慄」の喘息がひどかったから外に出るのをやめた。
結局渋谷の観光をしたのは渋谷に着いてから三日目だった。
会う前から「慄」抱いていた謎の感情の名前を知ったのはあの日だ。
3,11月30日
「慄」はお酒を飲まなかった。でもたった一度だけたくさん飲んだ日があったな。その時は「慄」はいろいろな話をしてくれた。
その日は池袋を探索して「慄」の趣味であるアニメの店に行った。普段からアニメを見ない僕は、あまり興味はなかったが、どうやらそれが伝わってしまったみたいで、早めに切り上げてくれたみたいだった。その次に映画を見に行った。その映画の内容っていうのがおかしくてさ、恋人同士の片割れが余命宣告されて涙ながらに死んでいくっていう話で、普段の僕たちなら涙流していたんだろうけど、地球が終わってしまうと知ったらただの喜劇だものね。確かこの映画の主演女優は自殺してしまったんじゃないかな。
映画の感想を語り合いながら「慄」は両手いっぱいの荷物を持って歩いていた。
歩き疲れたから今夜は目に入ったホテルに泊まった。最初に取ったラブホテルより壁が薄くて、部屋も薄暗かった。ベッドは一つしかないうえに部屋もまあまあ狭かった。
歩き疲れながらも「慄」は充実していたみたいで、やたらとうるさかったのを覚えているよ。
このアニメの押しキャラはこういう性格でこういうセリフのこの部分がかっこいいとか、昼間のアニメの店の分を取り返すかのように話していた。。僕も聞くのが楽しかったからついお酒を飲みながら聞いてしまったよ。僕だけ飲むのも忍びなかったから、未成年飲酒の共犯を作ろうと「慄」を誘った。断られると思ったけれど、ご機嫌だったから受け取ってくれた。お互いにお酒を飲む手が止まらなかった。
「慄」のアニメの話がある程度区切りがついて、ついに沈黙が降りてきた。
聞くのに割と勇気がいったな。
「君は学生生活はどうだったの?」
「私?生徒会長してたよ」
そんなわけあるか
「そんなわけあるか」
本音が言葉として出た。そんなわけない。出会ったときの姿を思い浮かべる。
金色に明るい髪、明らかに短いスカート、そして、ネットでの不真面目さの象徴の様な言動。生徒会長か否かと言われたら確実に否だよ。
「本当だよ。髪染めたのも、ピアスを開けたのも、隕石が落ちるって知った日から。」
勿論信じていなかった。お互い浴びるほどお酒を飲んでいたし、見た目からは想像もできなかったものね。
疑いの目で見ていると、「慄」が自分の財布から学生証を取り出した。見ると今とはかけ離れた様相をしていた。髪の毛は黒だったし、化粧もしていなかった。けれども面影というか、「慄」の核はそこにあった。これはその人だと決めつけるものがあった。そしてその学生証は僕でも知っているくらい有名な私立高校のものだった。けれどもまだ「慄」が生徒会長をしていたというのは信じられなかった。
言葉も出ないでいると、「慄」が言った。
「もうすぐ地球が終わってしまうならせめて自分らしく生きようと思った。親のいうことを聞いて勉強ばっかりしてきたの、今まで。余生は自分の好きなように生きてみたいって、そう思ったの。ようやく死ぬ前にそのことに気が付いた。でも残酷だよね、無限の時間があるときは死にたいって思っているのに、いざ余命なんてものが付いたとたん、死ぬのがこわくなっちゃった」
そう言って目に涙を浮かべた「慄」の顔を見て、とても悲しい気持ちになった。そしてその次の瞬間、「慄」を抱きしめてしまっていた。それは、酔っぱらったという予防線を張って、異性に抱き着くという極めて姑息な手段だった。でも、それでも我慢することができなかった。「慄」の柔らかな肌が、明るい髪が、甘い匂いが、僕にそれを記憶させている。強烈に焼き付けるようにきつく抱きしめる。
「痛いよ」優しく抱き返す「慄」も泣いていた。世界が明日終わるわけではないというのにね。
隕石なんか落ちなければいいと、その時本気で思った。僕には隕石を止められる力はないけれど、何とか君には生き残ってほしかった。運命の奴隷にならないでほしかった。この人を、僕は失おうとしている……自分でも驚くほど急に感情が込み上げてきた。
そのようにして、人生で、最初で最後の恋をした。
いつまでも抱き合いながら眠りに落ちた。
次の日も同じ朝を迎えたけれど、昨日のことについて触れることはしなかった。
けれどもその日を境に二人の距離が少しずつ近くなっていくのを僕は感じた。どのホテルに行こうが、何個のベッドがあろうが同じベッドで寝たし、ハグやキスは日常的にするようになった。
着替えも同じ部屋でしていたし、「愛してる」も言えるようになった。
3,12月15日
「今日はどこにいく?」
「慄」は言った。
「今日は一日のんびりしよう」そう言って使い道のないベッドが一つある部屋で体を寄せ合っていた。
「『慄』は誰かと付き合ったことあるの?」僕が聞いた。
「ないよ、ずっと勉強ばっか」
意外だった。先入観なしに、「慄」の顔は整っていた。丸い形の頭に、柔らかい髪の毛、大きな瞳に綺麗口元、もしあの学生証の姿のままあっていたとしても僕は「慄」のことを好きになっていたと思う。
「そうなんだ」
話の話題を探していた。
「ねえ、名前で呼んで欲しい私の名前。『紬』っていうの」
不意に言われたその言葉は、稲妻のように僕の身を貫いた。名前を教えてくれた。これほどうれしいことはない。まるで聖書の一部のように素敵な名前だった。
「つ、むぎ……?」
「うん、そうだよ紬、ありがとう」
「お礼を言うのはこっちのほうだよ嬉しい、ありがとう」
「僕の名前は、『律」だよ」
「りつ?」
「そう、律。君と同じ名前だ。」
「慄」と「律」今まで運命なんて馬鹿みたいだと思っていた。気のせいだと。けれども、もう信じざるを得なくなった。運命はある。こんな世界でも神は居る。
「すごい、こんなことってあるんだ。」
「僕もこの名前で生まれてよかったよ、親に感謝しなきゃ。」
その日の夕方、僕たちは疎開が激しい地域のガソリンスタンドにあった小さな軽自動車を盗んだ。少しだけ引け目を感じたから、一番小さい車を選んだ。
「シロ」にしよう、紬がそういったから、この車の名前は「シロ」になった。天使にその名前がいてもおかしくないなと思った。
なぜ急にこうなったかというと、紬の願いからだった。
ここに来て自動車学校に通っていたことが役に立つとは思わなかったな。
ここまで一度も同じ場所に泊まってこなかったから車中泊は新鮮だったな。向かう先は新潟県だった。日本海に沈む夕日を見てみたいと紬は言った。
「昔、おばあちゃんが亡くなった時に新潟県に行ったことがあってね、めったに合わなかったけど大好きで、悲しくて、好きだからこそ、おばあちゃんの家に居たくなくて、その時に港に行ったの、そこで見た夕日が誰のどんな言葉よりも、暖かかったの」
その場所に死ぬ前に行きたい。と紬は言った。その日にホテルを出て、車を盗み、東京を出た。紬が「行きたい」と言ったから。僕の行動の指針は、中心は紬と同じ方向を向くことだ。
隕石が落ちるまでは、10日を切っていた。
最期の場所をそこにしよう。二人は思った。
僕が運転をし、疲れたら近くのコンビニで休み、夜は椅子を倒して二人で寝た。そうして空を見上げると月の隣に赤々と光る隕石が、長い尾を伴って浮かんでいた。それは逃れられない運命の答えが残酷にも示されていた。僕たちと同じ方向を向いていたから、なぜか速く走っている気分だった。恋人と一緒に居られる幸せと、いずれ失う悲しみが混在していたけれど、後者は手に入れた瞬間に失うことは約束されてしまうから、今は前者の特別な幸せに浸っていたかった。
三日目あたりから夜の星を見ながら走るために、夜明けの最前線を走るようになった。紬も眠たそうに眼をこすりながら耐えていたけれど、やがて眠ってしまう。寝顔をみながら、一緒に死ねるのだとしたら、もう望むものはない。これ以上望んでしまったら罰が当たってしまうのではないかとも思った。
紬が寝ている。寝息を立てて、生きている。僕はこの人と会うために生きてきた。幸福なことだ。紬と会って初めて、僕は僕として生きることができた。彼女が僕に存在を与えてくれた。人生が終わってしまう前にそのことに気が付くなんて、不幸かもしれないけれど僕はそうは思えなくて、幸せは幸せであって、何物にも染まらない神聖な感情だった。
残りの時間をほとんど移動に裂いてしまった。
そしてとうとう地球が終わる最後の一日の夜が明けた。
日が昇ってからも隕石は存在感を薄めることなく、むしろ日に日に大きくなっていきその禍々しさを物語っていた。
けれども僕たちは幸せだった。紬とハグをしたり、キスをしたりするだけで何百年だって生きていられそうな気がした。紬は恥ずかしがりながらも、嬉しそうにしていた。
そうして新潟県に着くころ、山道を抜ける途中でカモシカを見た。紬は興奮して写真を撮った。停まった無人のコンビニでその写真を見せてくれたけれど、内カメラで紬の興奮している顔が写っているのみだった。
途中ランタンを買おうとしたけど「慄」が怖がったからやめて、車に戻った。
山道の長いトンネルを抜けると、海沿いの道路へ抜けた。カモメが一緒に飛んでいる。窓を開けると潮の香りがした。僕たちは海の大きさに圧倒されて言葉も出なかった。車は僕たちしか走っていなかったから道路上に車を止めて外に下りた。
遠くに島が見えた。「ねえあれ韓国?」僕が聞いた。
「あれは佐渡島だよ」紬が笑いながら答える。
恥ずかしくなり車に戻ろうとする。紬はそれを追いかける。
夕方になるまで待とう。そう二人で決めて新潟県内を回った。広すぎたから少ししか回れなかったけどね。
車を降りたら散歩をしている老人に会った。「おばあちゃんこんにちは」紬がいうと、
「あら、まだこんな若い子がいるのね」と言った。
「この街にいた若い子はみんな疎開したわよ、あそこに居たらきっと助かるって乗り込んでいったわ。まだ開発も進んでいないのに、見切り発車で行ってしまった。」
と続けた。
「おばあさんは逃げなかったんですか?」
と僕が言う。
「私はこの星に生まれて、この街で育った。ほかのところに行って長生きするくらいなら、この地球という回る岩の上で死にたいもの」
「僕たちもです」
幾千もの皺が刻まれた顔が笑った。とてもやさしい顔だった。
「お元気で」
そう言って別れた。
車に乗ってラジオを流すと、ご機嫌なDJが話していた。
「……まはもうこの放送局にはだれも居ない、一人で話しているよ、BGMは流れているけど変え方が分からないからリクエストは答えられない、いつもはほかの人がやっていたから。すまないね、だれが聞いているのだろうか、この馬鹿の独り言を。なあ、名前も顔も知らない君たちにに語り掛けている。沢山いいことがあっただろう、つらいことがあっただろう。生きててよかったって、何度も思っただろう。そう、俺だってそうだ。でも、運命は変えられない。ならせめて自分の生きがいを全うしたい。そう思って今話している。もし、このラジオを聞いてくれている人がいるならば、電話をくれないか。最後に俺と話をしよう。電話番号は」
その時に紬は音量を0にした。
その真意は一生わからなかった。
今は午後4時30分で、今日は12月25日。紬の誕生日だ。プレゼントは渡さなかった。おめでとうとだけ言って、それで終わった。紬がそれがいいといったから。
夕日が綺麗だった。この先80年生きていても、こんな綺麗な夕日はきっと見られないなと思った。けれども、同時にこうも思った。「僕たちがこの先生きるはずだった80年の綺麗な夕日を一日に凝縮したのだ」としたら、この荘厳華麗で巨大な夕日も失うことを惜しまない。
シロから降りるときに紬はまたラジオの音をあげた。
シロから降りた僕たちはいつまでも砂浜に居た。持ち主がいないシロのラジオが、行き場もなくノイズ交じりの音声を吐き続けていた。
「2090年、12月25日俺は最後の仕事を終わらせた。俺は地球脱出のロケットには乗らない。地球で人生の最後を迎える。」ラジオのパーソナリティが最後にそういった。
僕たちもそうだ、でも、僕たちは運命に逆らった。隕石によってもたらされるすべてを拒絶した。
僕たちは再び車に乗り込んだ。
30年後、地球への帰還者が海にとある線を見つけた。それはどうやら車のタイヤ痕のようで、その轍を辿っていくとやがて海のなかへと消えていった。
プロローグ
そう、僕たちが望めば、ヨーロッパの国々が急ピッチで開発した地球脱出のロケットに乗り込んで逃げることができた。電車ももうすぐ物体転移装置へとかわる途中だったし、車も今やさらに高速で動くようになり、シロの様な鈍足の車は僕たちが生まれる前に生産は終了してしまっていた。
けれども僕たちはそのロケットに乗らなかった。僕たちは、人間の原罪の一つである負の感情に侵され切ってしまっていた。この先、生きる世界は僕たちにとって眩しすぎた。
地球温暖化と引力、地軸のずれの影響で冬には雪が降らなくなった。そして日本には四季が無くなった。
数羽のカモメが、シロに驚いて海面から飛び去った。
僕たちは穏やかな気持ちで、原始の故郷へ帰っていった。
〈了〉