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「うぃーっす」
例の如く、倉木がノックもせずに化学準備室の戸を開けると、都筑が眉間に皺を寄せた。
「なんだよ、倉木」
しかし更に顔を歪めたのは倉木の方である。
「何だよって……つか、何この部屋」
準備室は、さながら竜巻の後のようだった。
書棚が薙倒され、資料や本が床に散乱している。
都筑は、さも鬱陶しそうに倉木を一瞥すると腕を組み、そっぽを向いた。
「煩いな。模様替え中だよ」
「模様替えねえ」
倉木は苦笑した。とても模様替え中の様相とは思えない。
「で?」
「は?」
「は?じゃなくて。何か用?」
都筑は、早く出て行けといわんばかりに倉木の前に仁王立ちになり、用件を促した。
そんな都筑に、倉木は目を瞬かせている。
都筑に不当な扱いをされるのには慣れているが、呼びつけておいて何か用かとは。
「何かって……。呼んだっしょ?」
「呼ばないよ。大体なんで俺がオマエなんか呼ぶん……」
言いかけて、都筑は倉木をまじまじと見た。不安が過ぎる。
倉木も同様に奥歯に物が挟まったかのような、不快な表情を浮かべた。
何かがおかしい。
「おい、鈴音は」
「し……資料室」
「何処の」
「え、第二……だけど」
「このバカッ!」
怒号とともに、倉木の頭に都筑の拳骨が落ちた。
関節が白くなるほど、拳を握り締めている。
倉木はズキズキする頭を抱えると、都筑を睨んだ。
「いってぇな!なんだよ!」
「あそこの管理者は藤堂なんだよ!」
そう言い捨てると、都筑は白衣を翻し、準備室を飛び出していく。
倉木も慌てて都筑の背中を追った。
「ヒー!桜井ぃぃぃ!!」
「俺に鈴音を頂戴?」
藤堂は、鈴音の顔に掛かる髪を梳くと、頬に唇を寄せた。
途端にぴくりと頬の筋肉が緊張させ、鈴音が顔を背ける。
「ダメ」
「ダメ?」
「イヤ……」
「イヤならどうして抵抗しないんだよ」
「ちが……」
「出来ない?身体、言う事利かなくなっちゃった?」
鈴音は力なく喘ぐだけだ。
その苦しげに呼吸を繰り返す唇に、上下する胸に、藤堂は鼓動が早まるのを感じた。
「鈴音、マジで可愛い」
額に、頬にキスを落とすと、藤堂は鈴音を見詰め、ブラウスのボタンに手を伸ばした。
「ねえ、鈴音。貰うよ?」
その時だった。
「誰がやるかーッ!!」
叫び声とともに、資料室の戸がドカンとぶち抜かれた。
埃を巻き上げ、大きな音を立て倒れこんでくるドアの向こうに、ブリケンシュトックの足を上げた都筑の姿。
「桜井!」
戸が完全に床に倒れると、それをバキバキと踏みつけ、倉木が飛び込んで来た。
そして、呆然としている藤堂から鈴音をもぎ取る。
それを確認すると、都筑は2人を自分の背に匿い、ゆっくりと立ち上がった藤堂の前に立ち塞がった。
「鈴音に近づくなって言ったろ」
「アンタも忘れっぽいんだな、都筑。約束出来ないって言っただろ」
それを聞いた倉木が、都筑の後ろで、ポンと掌を拳で打った。
「あ。なるほど。そう言えば約束してないよな、俺も。何ガマンしてんだろ」
「テメーがいつガマンしてんだよ」
「それもそうだ」
都筑に睨まれ、倉木は肩を竦めた。
よくよく考えてみれば、返り討ちにあってるだけだ。
藤堂は長い溜息をつくと、都筑を睨んだ。
「鈴音がどっちを選ぶかはっきりさせましょうか、都筑先生」
「何どさくさに紛れて呼び捨てにしてるんですか、藤堂先生」
「つか、なんで俺は含まれてないんでしょうか、先生方」
「ガキは引っ込んでろ!」
教師2人が同時に怒鳴る。
倉木もも負けじと怒鳴り返した。
「オヤジが盛ってんじゃねえ!」
しかし、モノラルがステレオに敵うはずも無く、倉木は、年長者2人の威圧的な視線にたじたじとなった。
「あ、桜井」
都筑と藤堂の勢いに飲まれ、支えていた腕の力が緩んだ途端、鈴音がへなへなと床に座り込んだ。
「大丈夫か?桜井?」
「腰が立たないんだよ。そうだよな?鈴音」
座り込んでいる鈴音と、その傍で跪く倉木を見下ろし、藤堂は言った。
その顔には、勝ち誇ったような笑みすら浮かんでいる。
「こんな風になった位で──」
都筑が再び口を開いた。
拳を握り締め、射抜くような視線を藤堂に向けている。
「この程度で、鈴音がアンタを受け入れたと思ってるのか。そんなの、ある程度女を知ってりゃどうでも出来ることだろ。本当に好きなら──」
言いながら、都筑ははっとした。
目の前の、この冷淡な男は──愛し方を知らないのだ。
鈴音に恋をしているのは間違いないだろう。
全てを手に入れたいと思っているに違いない。
だが、心を手に入れる方法が分らず、腐心しているのだ。
「随分と御自分の技術に自身がおありのようで。都筑先生?」
「そう言う事言ってるんじゃない」
「じゃあ、どうだって言いたいわけ」
藤堂は見るからにイライラしている。
都筑はそんな藤堂の肩を掴むと、押しやった。
「どけ」
そして、座り込んだ鈴音の前に跪く。
「鈴音?」
都筑が呼ぶと、鈴音は顔を上げた。大きな目は潤み、今にも泣き出しそうだ。
そんな鈴音の頬をそっと撫でると、都筑は鈴音の身体を引き寄せた。
「ゴメンな」
言って、きょとんとしている鈴音の顎に手を掛けると、倉木、藤堂の眼前で唇を重ねた。
資料室内が水を打ったように静まり返る中、ささやかな衣擦れの音と、鈴音のくもぐった声だけが響いた。
「あんた、一体何を──」
言いかけて、藤堂は言葉を失った。
自分の腕の中では、ただ泣きながら力を失った鈴音が今、おずおずと都筑の首に手を回している。
鈴音自身が都筑を求めたのだ。
明らかに自分の時とは違う鈴音の反応に、藤堂は愕然とした。
「は……っ……あ」
都筑の唇が離れると、鈴音はぐったりと都筑の胸に身体を預けた。
だがその手はしっかりと都筑の背中に回され、白衣を握り締めている。
都筑は鈴音を抱き、何度か髪を梳くと、藤堂に背を向けたまま言った。
「自分を押し付けるだけじゃ、ダメなんだよ」
藤堂は何も言わなかった。
勿論、反論してきたところで、都筑は耳を傾ける気もなかった。
「兎に角。この勝負、俺の勝ち。わかったら出てけ」
「だって。残念だったね。藤堂先生」
そう言って藤堂の肩をポンと叩く倉木を都筑はじろりと睨んだ。
「オマエもだ、倉木」
「ちぇっ。わーったよ」
「こら」
2人が資料室を出て行くと、都筑はきゅっと鈴音の鼻を摘んだ。
「隙だらけだって言ったばっかりだろ」
「うん……。ゴメンなさい」
しゅんとなる鈴音を、都筑は横目で軽く睨む。
そして、きゅうに目をパチパチさせると、両方の拳を顎の下に当て、ぶりっ子ポーズをした。
「鈴音、実はちょっと流されそうだったの!」
そう言うと、すっと素に戻り、疑わしげに鈴音を覗き込む。
「……とか言わないだろうね」
「そんなんじゃないもん」
鈴音はぷっと頬を膨らませ、抗議の視線を向けてくる。
内心それに安心しつつ、都筑は真面目な顔で「あのね」と話し始めた。
「鈴音は確かに優しい。そこは俺が凄く好きなとこでもある。けど──」
都筑はそこで一旦言葉を切った。
授業中でも、最も重要なポイントの前には必ずこうやって言葉を区切る。
忘れるなよ?ここからが重要だぞ。と言う、都筑の合図だ。
ここでもこの合図は鈴音に届いたようだ。
鈴音はじっと都筑の目を見ている。
それを確認すると、都筑は改めて口を開いた。
「けど、恋愛で情けなんかかけるなよ?その方がよっぽど残酷なんだから。いいね?」
「あ……」
鈴音の中で、あの日の藤堂の言葉が思い起こされた。
──中途半端な期待を持たせるよりいいんじゃないの?
「どうした?」
突然都筑から身体を離すと、鈴音は居住まいを正した。
正座し、その上で手を握り締めている。
「私、藤堂先生に謝らなくちゃ」
「なんで」
「うん……ちょっと。でも、絶対なの」
授業以外のシチュエーションで、再び藤堂の前に鈴音を立たせる事に都筑は躊躇した。だが、鈴音の真剣な表情に、それは適わないと悟ったようだ。
鈴音なりに、自分の信念に基づき、藤堂に対して何かしら認めるべきものを見付けたのだろう。
都筑は短く溜息をつくと、鈴音の鼻の頭をちょんと突付いた。
「わかったよ。でも条件付きだぞ?」
「で?」
翌日、都筑に化学準備室へ呼び出された倉木は不機嫌だった。
頭をガリガリと掻き、深々と溜息をつく。
「俺は桜井と一緒に校庭のど真ん中に立てばいい訳ね」
倉木の顔には、大きく「不本意」と書かれている。
その目の前で、都筑は満足気に頷いた。
「鈴音がどうしても藤堂と話したいって言うからさあ」
「それはいいよ。でも──」
倉木は片眉をぴくぴくと震わせると、バン!と都筑の机を叩いた。
「それとコレと何の関係があんだよ!」
しんと静まり返った準備室に、窓から爽やかな風が吹き込んだ。
それに煽られ、可憐なレースに縁取られた黒いスカートがひらりと舞う。
倉木は、またしてもメイド服を着せられていた。
背中の真ん中で閉まりきらないファスナーが、哀れみと笑いを同時に誘う。
「似合うなあ」
「悪目立ちすんだろが!」
凶悪で醜悪なメイドは、そう言うと都筑に食って掛かった。
「そうじゃなきゃ困る」
都筑はさらりと交わすと、真面目な顔で倉木を見た。
「考えてみろ、流石に校庭の真ん中で、メイド服着たヤローが立ってたら人目を引くだろ」
「当たり前だ」
「ソコがポイント」
そう言うと、都筑はにっこりと笑った。
「大勢が観てる前なら、いくら藤堂でも鈴音に手は出せないだろ」
「……」
「と言う訳で。お願い、倉木クン」
言いながら胸の前で手を組むと、都筑は上目で倉木を見詰め、パチパチと目を瞬かせた。
しかし、当然ながらそんなものが倉木に通用するはずも無い。
倉木は舌を突き出すと、「うえっ」と吐きそうな顔をして突き放した。
「自分でやれよ」
すると、都筑はフッとニヒルに笑い肩を竦めた。
「俺にはイメージってものがあるんだよ」
「なーにがイメージだ。淫乱教師」
倉木は腕を組むと背中を向けた。
鈴音の為なら何でもするが、この格好に意味が見出せない。
ぶつぶつと「エロ教師」「鬼畜」「オヤジ」と口の中で毒づく倉木の背後から、都筑の「あれぇ?」と間延びした声が響いた。
「ひょっとして、忘れちゃったの?倉木くん」
「あ?忘れ……って、なにが……」
「だからあ」
にっこり笑う都筑の顔が、一瞬の内に般若と化した。
そして──
「ご主人様だっつってんだろ」
そう言うが早いか、振り返った倉木の頭上に、またしてもブリケンシュトックの足が振り落とされた。
その後。
委員会を終えた鈴音は、隣を歩く倉木を見上げると、制服のシャツを引いた。
「あのね。えっと、ちゃんとした返事って、私、してなかったよね」
それがどう言う事なのか、倉木はピンときた。
鈴音は、キッパリと断りの返事をしようとしているのだ。
「あの──」
「や。ムダだから」
そう言って鈴音の言葉を遮ると、倉木は苦笑した。
「俺、往生際悪いし」
「同じく」
「げっ。藤堂……あだっ!」
背後からヌッと現れた藤堂は、ごちんと倉木の頭に拳骨を落とした。
「藤堂センセイだろ。同じ穴のムジナだと思って、礼儀を欠くなよな」
そう言うとにやりと笑ってみせる。
最近、藤堂は少し変った。
何も丸くなったわけではない。しかし、その表情に多少の優しさを垣間見る事が出来るようになった。
こうして鈴音を見詰める目も、以前のような悲壮なものではなく、包むような優しさを備えたものに変っている。
藤堂は長身を屈めて鈴音を覗き込むと、真っ直ぐにその目を見詰め、口を開いた。
「俺もね、物凄く往生際悪いんだよ、鈴音。何やら中途半端な期待を持たせないよう、気を使ってくれたようだが」
藤堂は鈴音の額を「残念でした」と突付くと背を反らせ、この世の王様と言わんばかりの大きな態度でまくし立てた。
「他に好きな男がいる位どうだって言うんだ。そんなもの、クソ食らえだよ。結果なんて、いくらでも変えられる。俺は、その為の手段は選ばないんだ。だから──」
そこまで言うと、藤堂は呆然としている鈴音の耳に唇を寄せ、そっと囁いた。
「覚悟、するんだな」
── THE END. ──