NPO法人(最終話)
何やってるんだ。
遅いんだよ。
また、主任の怒鳴り声が聞こえてくる。
今日のターゲットはお弁当当番の坂井さんだ。
私と同時期にバイト入社した彼女だったが、最近は特に顔色も悪く、回りからも心配されているのに、主任ときたらそんなの関係ないって感じだ。
もう、泣き声で「はい」とだけ答えるので精一杯の坂井さん。
その様子を見ているだけで幸子の胸は締め付けられた/。
「坂井さん、一生懸命頑張っているのに。信じられない言葉掛けだわ。」
幸子は思わず声に出しそうだった。
だが、誰一人として、彼女をかばう人間がいないのも事実だ。
皆、昨今のコロナ禍で心身ともに疲弊していた。
もしかたら、主任もそうなのかもしれないが、この人は上に立つべき人格ではないと、あらためて幸子は思った。
帰り際に彼女に会った幸子は大変だったわね。
大丈夫と話しかけたが、信じられない言葉が返ってきた。
「貴方の作る材料が、遅いから私が主任に言われたのよ。
勘違いしないで。」
冷たい目で言い返された。
ショックだった。
気が付くと、自然に足が「暖暖」に向かっていた。
以前お邪魔した時間より今日は少し遅かった。
が、やはり中では沢山の主婦らしき人達が忙しそうにしていた。
スーパーとは活気が違う。
幸子は思った。
ここのお手伝いをしてみたいと。
思い切って、暖簾をくぐり、中に入ると相川道子が話しかけてきた。
「やっぱり、来たんだ。嬉しいわ。これから、第三公園にお弁当持っていくの。
あそこに沢山のホームレスがいるの知ってるでしょ。配るのよ、そこで。」
正直幸子は驚いた。
第三公園はホームレスの方たちが集まるので有名だった。
幸子は、まどかにも近づいてはいけないと度々注意していたくらいだった。
そんなお世辞にも治安が良いとは言えない場所にお弁当配布するなんて、信じられないと。
「ごめんなさい。食事作らなくっちゃいけないから。」
「そうよね。こっちこそごめんね。もう、6時過ぎだもんね。わたしったら、もう、ドジね。」
「いいえ、私こそ、お忙しい中また、お邪魔してしまって。」
幸子は、相川道子の優しさにこみ上げる思いを拭う事が出来なかった。
「ね、本当に何か困っていない。なんでも話聞くわよ。ここでは皆平等なの。
困っているときはお互い様ってね。」
「代表、お弁当持っていきましょ。」
仲間が道子を促した。
「すいません。明日、時間を作って来ます。」
幸子の口が勝手に話していた。
若干、罪の意識にさいなまれた。
だが、もう限界を迎えていた幸子の意識が。
バイト退職願、電話で十分だと思った。
体調不良を伝えただけで、ことのほか、簡単に受領された。
いささか、聖に申し訳ないと感じていた幸子だったが、もともと、退職は聖も望んでいた。
「家庭を顧みない主婦なんて堕落の一歩を踏んでいるんだ。」
おかしな言い訳が幸子の脳裏をかすめ、若干無理があった。
社会の歯車になる事の重要性を彼女は知らなかったのだ。
相川道子との出会いは良い方向に彼女を進ませなかった。
結果論だが、事実は変えられない。
道子との約束通りに、翌日の4時過ぎには幸子の姿は「暖暖」にあった。
その様子は自然体で、慣れた仕事に向かっている職員の様だった。
本来の姿を取り戻したと勘違いしていたのだ。
時として、人生には落とし穴がぽっかりと空いている。
その隙間を埋めようともがいている事を認めようとはせずに、いや、見えていなかったのかもしれない。
せっせとお弁当作りに没頭していると、やはり、承認欲求が満たされてきた。
だか、当時の幸子は全く気が付いていなかった。
「代表、卵焼き出来ました。」
バイト時と大違い、自分でも驚く程、大きな声でハッキリと言っていた。
次々とお弁当が出来上がっていく。
気分がいい。
他のボランティアの主婦達に混じって自分の居場所が出来た気分になった。
「やっぱ、貴方お料理の才能があるわね。」
道子が言った。
嬉しかった。
「じゃ、第三に持っていくわよ。」
道子の声で総勢6人がいっせいに動いた。
それぞれが役割を果たすが為に必死だった。
専用のカートにお弁当を運ぶ係。
先だって、簡易テントを貼りに行っている係もいた。
なんて要領のよい人達なんだ。
幸子は感動した。
公園に到着すると、沢山の老若男女問わず列をなして待っていた。
杖をついてやっと歩いてきたであろうお年より。
子供連れの母親達。
中には、赤ん坊を背負ってきている方もおられた。
「今日はお天気だったからここで配るけど、天気が悪かったら、近くの公民館借りているのよ。」
そっと、道子が教えてくれた。
現代を生き抜くには、幸子はあまりにも優しすぎた。
結果、社会との大きなズレが生じている事を彼女は知る由も無かった。
無知でもあったのだ。
周囲の人間も優しさにあふれていた。
時として、幸子の優しさは人々の癒しにもなっていた。
が、同時に世の中とのボタンの掛け違えに気づけなかった。
それは、悲劇が起こるには十分な要因だった。
〚暖暖」に居場所を見つけた幸子の毎日は充実していた。
元来、家庭的だった幸子にとってお弁当作りと家事をこなすくらいたやすかった。
そんなある日、幸子は「井岡」と名乗る男性に出会った。
彼は年若く、とてもホームレス生活をしているようには見えなかった。
幸子の年齢は43歳、井岡も同じくらいの年齢に見えた。
「暖暖」の皆は決して人の噂話をしない。
それは絶妙に浸透していた。
決して、無視をしているのでは無い。
代表の道子を含めて皆声かけがうまい。
「どうした。元気だった。食べているの。何か困ったことない。」等々、あくまでも、個人の領域に踏み込まない程度に話しかける。
そんな彼女らが珍しく「井岡」について話していたのが幸子の耳に聞こえてきた。
「珍しいわね。井岡さんが来るなんて?小林のおいちゃんが亡くなってから姿見せなかったもんね。」
「そうよね、彼の事を知っているのは小林のおいちゃんだけだもんね。」
「噂によると、彼、孤児院で育ったんでしょ?真実を知っているのはおいちゃんだけっだたもんね。」
「小林のおいちゃんも糖尿病で亡くなるなんて、皮肉よね。」
幸子はなぜか井岡が気になり始めていた。
「ごめん、ごめん、渡辺さん知らないよね。小林のおいちゃんの話。ここらのホームレスを束ねていた方なんだよ。井岡さんもその一人でおいちゃんがここに連れて来たんだよ。」
知らなかった。
孤児院で育った人がいるなんて。
幸子にとっては別世界の話だった。
幸子の周りは両親や義父や義母まで彼女には優しかった。
それと同時に井岡に対する気持ちが複雑になってきた。
どう接したら良いのか分からずにいたのだ。
「あんな、冷たい瞳の人に出会ったことないわ。」
幸子は心の中で思ったが決して口には出さなかった。
暫くすると、幸子は井岡の事などすっかり忘れていた。
ある、雨の日、いつも通りお弁当を公園近くの公民館で配っていた。
その日は幸子が配る当番だった。
井岡も列に並んでいた。
はじめて彼にお弁当を渡した。
手が…。震えた…。
自分でもどうしようもない感情が起こるのを止められずにいた。
冷たい瞳の奥が知りたい。
熱い感情が血が体中を巡った。
幸子は思わずめまいがし、倒れそうになったが必死にこらえた。
その日から、毎日「井岡」はお弁当をもらいに来た。
会うたびに胸が苦しくなって行く。
動悸が止まらない。
こんな感情を聖にも持った事がなかった。
やがて、彼女は井岡に会うのが辛くなっていき、「暖暖」を休む様になっていった。
もう限界だった。
気が付けば、いつも井岡の事を考えていた。
代表の道子に言って暫く休みをもらった。
娘の大学受験にかこつけて。
やがて、幸子は自分自身を取り戻し元気になっていった。
たまに、井岡の事を思い出したが、忙しくしていると忘れてしまう様になっていった。
幸子は主婦業に専念した。
もっとも、一人娘のまどかの受験が控えていたし、コロナで減っていた聖の仕事も収束と共に元に戻りつつ、忙しくなってきていた。
だが、幸子の人生の歯車は既に狂っていた。
あの日、彼女があの場所に行かなかったら…。
幸子はいつもは自宅近くの商店街で買い物を済ませていた。
バイトで辞めたスーパーは駅近くだったので、自然と商店街以外には外出しなくなった。
コロナ禍で遠出が出来なくなったのも原因だった。
が、感染者数が減ってきていた。
幸子の足は何とはなしに駅に向かっていた。
久しぶりのお出かけだったが気持ちはいまいちだった。
やはりコロナ禍での遠出に多少の罪悪感を抱かずにはいられなかったのだ。
行かなければ良かったのだ。
その気持ちに従えば良かった。
駅に向かう途中、交差点の向かい側に「井岡」の姿があったのだ。
驚いた。
信号機が赤から青に変わった。
幸子は動くことが出来ずに、周りにいた人々とぶつかった。
隣りを通り過ぎようとした井岡の手が自然と、あまりにも自然と彼女の手を握っていた。
つかんだその手を離さずに…。
幸子は抗う事が出来なかった。
その後、二人姿は駅近く安普請のホテルのベッドの中だった。
彼女は初めて井岡の声を聞いた。
気が付くと彼は過去を語り始めていた。
生まれてまもなく彼は孤児院の前に捨てられていた。
まるで、ごみのように。
だから自分の名前を知らない。
「井岡」は孤児院の園長の苗字だったのだ。
園長は彼を養子として育てた。
戸籍にも養子として記載してある。
そして本当の家族のように育ててくれた。
自分は運が良いと彼は語ったが、当たり前のように、幸子の周りでそのような育てられ方をした人を知らない。
正直ショックだった。
運が良いと言った彼の言葉が信じられなかった。
と同時に自分でも信じられないくらい井岡に対し熱い感情が湧きおこってくるのを止められなかった。
「この人が愛しくてしょうがない。」
彼女は思っていた。
「また、会える。」
「いいのかい。君には家族がいるんだろ?。」
「うん、旦那と娘がいるの。娘は今年大学受験なの。私が言うのもおかしいけど、出来が良くって、看護師になるのが夢なの。」
「すごいな…。君の優しい遺伝子を引き継いでいるんだ。ご家族に申し訳ない。」
「ううん、私が貴方を誘ってんだから…。貴方は何にも悪くない。」
完全に幸子は勘違いしていたのだ。
この人は私がいなくっちゃいけないと。
思い込んでいた。
その行為が何人もの大切な人々を傷つけるか全く考えも及ばずに。
あまりにも幼稚な考えに自己満足していただけだ。
それからはもう手が付けられなくなっていた。
何をしていても井岡の事が頭から離れない。
次に会うのは来週の月曜日だ。
月曜日は旦那の聖はいつも残業で遅かったし、まどかは塾だ。
心の赴くまま井岡に会える。
そんなある日、井岡があの安普請のホテルのベットの上で突然「何処か行きたいところある。」聞いてきた。
「ううん、ここかな。」
甘えた声で答えた。
それはいつも井岡と愛し合っている、ベットの上に貼ってあるカレンダーを指していた。
カレンダーに写っている写真は遠く日本海に沈む夕日が写っていた。
翌週の月曜日、幸子と井岡の姿は駅にあった。
駅を降りるとすぐに海があった。
幸子と井岡は駅のキオスクでお弁当とお茶を買った。
キオスクのおばちゃんには彼らは中年の夫婦に映ったのに違いない。
二人は海岸でそろってお弁当を食べた。
「暖暖のお弁当の方が絶対美味しい。」
彼女は言った。
井岡は黙々とお弁当をほおばっていた。
が、涙があふれていた。
彼はこの世に居場所を失くしていた。
彼女は彼の気持ちを知っていて利用していただけかも…。
彼女はこの世の中で自分は重要な人間なんだ。
思いたかった。
波は静かにうねっていた。
季節は秋から冬に近づいていた。
人もまばらな海岸で静かに井岡の手は幸子の手を握っていた。
言葉も無く静かに海に入っていった。
翌朝、二人の姿を発見したのは通学途中の女子高生達だった。
驚いた彼女らは警察に連絡した。
海岸にたどり着いたときはだいたい岩等にぶつかっているため傷ついているはずなのに、二人の姿はことのほかキレイだった。
しっかりとつないだ手は決して離せない様に思えた。
完