5 身の内の財は朽ちず
「うん、いい感じだね。明日もあるし今日はこれくらいにしておこっか」
午後六時をすぎようとしたころに一日目の講義は終了となった。結局、今日一日かけて雅日が習得したのは、体内の魔力循環機能を目覚めさせることだけだ。雅日自身に自覚はなく、循環速度も琴琶が求めた水準には及ばないものの、機能自体は無事に起きてくれたらしい。
「ありがとうございました、明日もよろしくお願いします」
「もう魔力は十分に渡してある状態だから、私がいない間でも魔力操作の練習はいつでも始められるよ。まずは自分自身の体をめぐる魔力を自覚できるようになることから。宿に戻ったあとにでも試してみてね」
「は、はい」
「私はなんとなくでできちゃってたから、あんまり人に教えるのはうまくないんだけど。血が全身をくまなくめぐっているのと同じように、魔力も全身をめぐってるから……そうだね、まず自分の心臓の動きを意識すること。そしたら、その近くに似たような感覚がもうひとつあるから、それを探して。見つけたら、そのもうひとつのポンプの動きを意識するの。なにかが押し出されて体中をめぐってる感覚があって、それが魔力だよ。最初は集中しないと自覚できないだろうけど、繰り返すうちに意識しなくてもわかるようになってくるよ。いきなりそこまでできなくても大丈夫だから気楽にね」
「はい、やってみます」
「それじゃあ、また明日ね」
琴琶と來亜の二人と別れ、ギルドを出てレスペルにある宿に向かう。隊正はときどき居眠りしながらも雅日の隣で大きな進展もない授業を黙って眺めていた。いつ暇だと言って暴れだすか不安だったが、彼は終始おとなしく、騎士団に来てからのこの一週間の間、初日に見たとおりの血気盛んさと、静かにじっとしているほどの堪え性のない横暴さばかり目にしていたので、彼の態度は雅日にはなんとなく意外だった。
「ごめんなさい隊正くん、退屈だったでしょう? 明日からは無理に付き添わなくても、自由に出歩いてきてもらってかまいませんから……」
「俺の今回の仕事は姫様の護衛だろ。セガルもいんだからサボったら王様にチクられるぜ」
「でも……それじゃあ、せめて暇つぶしになるようなものを持って行きましょうか。なにか……本ならギルドの図書室で借りられると思いますけど……」
「なあよう姫様、俺が本なんか読むように見えるかあ?」
「見え……ええと。も、物語もそうですけど、図鑑とか、見てみると意外とおもしろかったりしますよ?」
「図鑑なんか見んのか?」
「はい、お嬢……前にお仕えしていた方も本がお好きでしたから。お花や動物以外でも、食べられる野草とか、毒のある植物とか、そういう図鑑を私もよく見ていました。そこで学んだことが活かされたためしはありませんけど、暇つぶしにはちょうどいいですよ」
「変な趣味だな!」
駅舎の待合室にセガルの姿を見つけ、そこで三人そろってから列車に乗る。セガルがロワリアに来た目的は、雅日の目的とはまた違うところにあるため、先に用事を済ませて宿に向かっているものと思っていたが、どうやら彼は雅日たちが来るのをここで待っていたらしい。
「セガルさん、静來ちゃんには会えましたか?」
「あ……い、いえ、今日はまだ」
「あら、お留守でしたか」
「いらっしゃるようではあったんですけど、今日はなんだかお忙しそうだったので。ギルド長いわく、風音さんはしばらく任務に出る予定がないらしいですから、あわてる必要もありませんし……」
「四軍の方と言っても、任務に出るだけがお仕事じゃありませんものね。明日はゆっくりお話できるといいですね」
「はい……せっかくここまで来たんですから……東雲さんはどうでした? 魔術の勉強のほうは」
「それが……なかなかむずかしいです。今のところは全然ダメで」
「最初はなんでもそうだと思いますよ。地道に続けていけば、少しずつでも身についてくるはずですから」
「そうですよね、がんばってみます」
宿に到着し、ほっとひと息つく。そのまま少しぼんやりとしてから目を閉じると、そっと両手を胸にあてた。たしかに動いているはずの心臓は、音も脈動も、安静にしている間はなかなか自覚できない。ぎゅっと手を胸に押し当てて、その手のひらに意識を集中する。すると手のひらのぬくもりがじんわりと胸にしみこんでいき、だんだんと身体の奥のほうから、かすかな鼓動が伝わってきた。
琴琶が言うには、能力者の肉体にはこの脈動の近くにもうひとつ、同じように脈打っているように感じられる機関が存在するらしい。とはいえ臓器として実在する物理的なものではなく、あくまで概念的なものだ。血液ではなく魔力を全身に巡らせるポンプ、能力者としての心臓。目に見えず形もない、実在しないが存在するそれを見つけなければ。
しかし、がんばるとは言ったものの、がんばったからといってすべてがうまくいくとは限らない。雅日はそれからしばらくじっと胸に手を当てて自分の中にある魔力の流れを捕まえようと目を閉じていたが、一向にそれらしい動きを感じ取ることができなかった。琴琶から魔力をもらったときの、体内を魔力がめぐるあの感覚を思い出しながら、神経を集中させても、わかってくるのは自分の心臓の音だけだ。
自分の体内だけに向けていた意識が、ノックの音でふと戻ってくる。少し遅れて返事を返してから扉を開けると、そこにいたのはセガルだった。
「東雲さん、夕飯はどうします? 隊正はまだあとでいいって言ってるんですけど、もしお腹がすいてたら、僕たちだけで先に済ませますか?」
「あ……そういえばまだでしたね。うーん、セガルさんのお腹のすき具合は?」
「僕はまあ、なんとなく小腹がすいてきたかなって程度ですね。今食べてもいいけど、まだあとでもいいって具合です。もうちょっとあとでにしましょうか」
「それじゃあ七時になったらご飯にしましょう」
「わかりました。……魔術の練習をしていたんですか?」
「ええ、魔力操作の……準備、にあたるのでしょうか。なかなか魔力が循環している感覚をつかみ取るのがむずかしくて……」
「最初の難関ですよね。僕も……今も別に魔力操作が特別うまいわけでもないんですけど、最初のうちは本当に苦労しました」
「騎士の養成所で魔力操作を教わるのですか?」
「いえ。こういう魔力に関する技術は、養成所で教わるのは知識や原理だけで、実践的な部分は自主的に鍛えて会得するんです。魔力操作ができなくても優秀な騎士はもちろんいますし、そもそも非能力者の騎士だっていますからね。できないよりはできるほうが圧倒的にいいですけど、必須条件じゃないです。たしか隊正はできなかったはずですよ、魔力不全のせいで制御が利かなくて。僕もちゃんとできるようになったのは騎士団に来てからで、養成所時代はからっきしでした」
「教わった知識をきちんとモノにできるかどうかは、その人次第ということですね。騎士団に来てから……ということは団長さんや蘇芳くんに教わったのですか?」
「あー……教わろうとはしたんですけど、団長は馬術や剣術はともかく、魔力操作とか身体の内側で扱う技術については、人に教えるのがちょっと苦手みたいで。感覚的なことですから。蘇芳さんは……まあ、その。結局、群青先生が教えてくれました。あの人教えるのうまいんですよ。できなくても根気強く待っててくれますし」
蘇芳の教え方について言葉を濁されたことも気になったが、それよりも、初日に医務室で見た二人の関係性からは、セガルに対して気長になにかを教示する群青の姿はあまり想像できない。
「魔力操作なんですけど、運動しながらやってみると成功しやすいと思いますよ。外でジョギングとかでもいいですし、室内なら筋トレとか、なにか重い物を持つとか。魔力循環や魔力生成っていうのは、普段はなだらかですけど、戦闘などの非常時に活発化するんです。心臓と同じですね。戦闘時の身体の状態を疑似的に再現することで、安静時よりも魔力の感覚が掴みやすくなる――らしいです」
「なるほど……」
「僕もそれを聞くまではじっと座って練習してたんですけど、そっちのやり方に変えてからは比較的すぐに覚えられたんですよ。先に運動時での魔力操作に慣れてきてから、安静時にもできるように移行していくんです。よかったら試してみてください」
「ありがとうございます、さっそく試してみますね」
「東雲さんならすぐできるようになりますよ。それじゃあ、時間になったらまた来ます」
「はい、わかりました。ではまたあとで」
*
「うんうん、うーっすらだけどわかった瞬間があった感じかな?」
「まだまだ、わかったような、やっぱりわからないような……というところですが」
「いきなりできる人のほうが珍しいから、あせらないようにね。全然平均的なレベルだから大丈夫だよ」
翌日、雅日は昨日と同じ応接室ではなく、三階にある琴琶の自室に通された。ギルド内部は大きな四角形になっており、琴琶の部屋は階段をあがってそのまま奥へ進んだ突き当たりの角にある。琴琶は雅日と隊正を部屋に招き入れると、壁沿いに置いてある本棚に向かった。彼女の背中に隠れてなにをしたのかは見えなかったが、彼女がこちらを振り返った背後で本棚は静かに動き、うしろに扉が現れた。隠し扉だ。
「うお! なんだそりゃ、隠れ家か?」
「私の研究所だよ。ギルドに最初に来たとき、ロアに頼んで部屋を用意してもらったんだ」
「個人的なお仕事の部屋ということですか」
「うん。結構こんな感じで専用の部屋を持ってる人はいるんだよ。アリアは二階に礼拝室があるし、技術者の柑奈と藍夏にも工房があるし、勇來の希望で四軍のためのトレーニングルームも増えたし」
「そ、そんなにいろんなお部屋が?」
「うん。このギルドはロワリアの国際会議場でもあるからね。国際会議場は国の化身が所有する特別な固有空間で、建物自体に化身の魔力が通ってるから、化身の意思で階数や部屋数を増やしたり減らしたり、ある程度は好きに改造できるの。この建物って近くで見ると灰色だけど、離れてみると青く見えるでしょ? 灰色は石材の色で、青はロアの魔力の性質が色として表れていて、建物全体に魔力が通ってるから距離や角度によって色の見え方が変わるってこと。これは化身なら誰でも持ってる力だから、リラの屋敷や騎士団本部も同じなんじゃないかな。前に行ったときはよく見てなかったから、たしかなことは言えないけど」
琴琶に続いて扉をくぐる。研究所内は物であふれていた。部屋の中央に大きな正方形のテーブルがあり、なにか術式のようなものを記した巻物や本が置きっぱなしだ。椅子が何脚か用意されてあるものの、その上にも本が積まれていて、本来の用途として仕えそうな椅子は二脚しかない。壁沿いに備え付けた棚には書物だけでなく、青や赤に光る謎の液体が入った瓶や、拳大以上の大きな鉱石のようなものがたくさん敷き詰められ、壁や天井にまで、魔法陣やなにかの文章が書き込まれた大きな紙が貼りつけられている。
「ちょっと散らかってるけど、適当に座って」
言いながら、琴琶は椅子に向かって手をかざし、すい、と指を動かした。すると椅子に積まれてあった本がひとりでに浮かび上がり、棚の空いているスペースに片付けられていく。同じ動作でもう一脚、席をあけようとするが、棚にはもう十分な置き場所がなく、椅子から浮かび上がった本たちはそのまま棚にぶつかってバタバタと床に落下し、その先に積まれてあった別の本の山が雪崩のように崩れ落ちた。
「あーあー。あ、いいよ放っておいて、呪われてる本がいくつかまざってるから、触ると危ないかも。あとで片付けとくよ」
反射的に掃除しようと手を伸ばした雅日に琴琶が言う。
「の、呪い?」
「持ち主以外は開けないとか、本に触れた人を攻撃する術式を組んでる魔術書のことだよ。さすがに触っただけで死んじゃうようなものは、そこにはないけどね」
「死っ……そ、そんな物騒なものがあるんですか?」
「ちゃんと別の場所に保管してるから安心して。魔術師ってプライド高い人が多いからね、自分の研究や工房を誰かに見られたりするのを極端に嫌う人が多いんだ。せっかくがんばって編み出した術式を盗まれることもあるから、自衛として持ち物や部屋自体に術をかけるのはよくあることなんだけど。私もこの部屋と、ここにある物全部に術をかけてるよ」
「よ、よくあることなんですね……でも、どうしてそんな危ないものが?」
「こういうのは大抵、持ち主が死んだあとに家族や子孫が扱いに困って、引き取ってくれる人か術を解除できる人を探すことになるの。この本をどうにかできる人を探してほしいとかって依頼が来たり、任務先でたまたま魔術書の処分に困ってる人に会ったりで、なんだかんだで私のところに集まってきちゃったんだよね」
「それじゃあ、本にかけられた呪いを解いてほしいと依頼されることも?」
「あるよ。一時期は任務に出るよりそういう依頼が立て込んで、任務に行けないこともあったくらい。今でもときどき来るかな。時間かかるし大変だから一度に何件もは来ないでほしいんだけどね。あ、ほしい魔術書があったら持って行っていいよ」
「え、いいんですか? 魔術書はどれも貴重なものなのでは……」
「よかったじゃねえか姫様。くれるってんだからもらえるだけもらっとけよ!」
「うん、気になるのがあったら好きなだけ持って行っていいよ。魔術書って処分に困るんだよね。こういう特殊な本はいろいろ面倒でさ」
「普通に捨ててしまうと問題になってしまうんですか?」
「別にそれでもいいんだけど、さっき言った防衛の術式以外にも、ほとんどの魔術書には簡単に焼かれたり破れたりしないように細工もしてあって。それに魔術書ってたまに勝手に動くんだよ」
「か、勝手に……?」
「愛着とか愛情、執念、怨念、なにかしら感情を込めて使い続けたものとか、昔からずっと長い間そこにあるものとか、モノには魂が宿るって言うでしょ? 魔術書ってそういうのが起きやすいんだよ。本自体に魔力が込められてるものが多いってのも理由のひとつだと思うけど。ゴミ捨て場に捨てられた魔術書が新しい持ち主を探して彷徨ったり、元の持ち主のところに戻ってきたりもするし。そうでなくてもトラブルのもとになりやすいから、手放すより適当に部屋の片隅に放置しておくほうが楽なんだよ」
そこで雅日は昨日礼から聞いた話を思い出した。
「あの、魔術書といえば、図書室に琴琶ちゃんが制作された魔術に関する本があると、支部長さんからお聞きしているのですが」
「ああ、あれね。あれはまだ基礎的なことしか書いてないけど、基本的な部分のおさらい用として目を通してもいいかも。予習用に持って行ってもいいよ。読みたい人はもう読んだだろうし」
琴琶はテーブルの上に広げてあった用紙をさっと丸めてまとめ、傍にあったビンや謎の鉱石類などをさっさと抱えて、部屋の奥の戸棚の上に積み上げると、その棚の引き出しの中から手のひらサイズの小箱を取り出して蓋を開ける。そのまま箱の中身を指先でなでると、その場で箱をひっくり返した。なにか紙片らしきものが十数枚、ばらばらと床に向かって舞い落ちていくが、それらは床につくより前に、今度は風もないのに宙に舞い上がる。
「なにか飲み物でも持ってくるから、ちょっと待ってて」
言いながら琴琶は研究室から出て行った。宙を舞う紙片は人のような鳥のような形をしており、ぱたぱたと周囲を飛びまわりながら、机の上に積まれた本や、先ほど崩れた本の山に群がっていき、一冊につき一枚の紙片が張り付いた。紙片はそのままそれぞれ本を持ち上げ、床の本はキレイに積みなおされ、机の本は部屋の隅に積み上げられ、テーブルの上から小箱以外の物が片付けられていく。仕事を終えた紙片は小箱の中に戻ろうとしているのか、テーブルの周囲に集まってくる。しかし、それらが元あった場所へ収まるより先に、横から白い毛並みの獣が勢いよく机に飛び乗ってそれを妨害した。
「きゃっ」
「お、なんだなんだ?」
ウサギのようでキツネのようにも見える。首元から胸元にかけて赤い石が埋め込まれており、獣は六対の赤い目を血走らせながら紙片に飛び掛かり、踏みつけ引き裂き、噛み千切り、あっという間にびりびりの紙くずに変えてしまう。
「あ! もー、來亜! それ龍華にもらったやつなのにー!」
琴琶が三人分のマグカップを乗せたトレイを手に戻ってくる。机の上にいた獣が動きを止めて琴琶のほうを見る。獣は瞬く間に巨大化しながら変形し、人間の形になっていく。現れたのは銀髪に赤い目の少年、來亜だった。むくれた顔でうつむく彼の口の端には、今しがた噛み千切った紙くずがついている。
「ら、來亜くん?」
「式霊でもダメなの? 譲ってもらった分しかないのに」
「式霊?」
「生き物の形に切り抜いた紙を使い魔として動かす術式だよ。与えられた指示に従うだけで意思はないし、使い魔って言っても疑似的なもので、これは本来の術式とは違って簡易的なものなんだけどね。お守りとして持ってると、いざというときに身代わりになってくれたりもするの。術式の組み方が私が使う魔術とは全然違うものだから、私じゃ作れないんだ。分野が違うっていうか」
來亜が机の上から降り、琴琶の隣にぴたりとくっついた。琴琶は來亜の頬に両手を添えると挟み込むようになでてから、口元についていた紙くずを指で取り除く。來亜は少しの間琴琶のうしろをうろうろしていたが、そのまま部屋の隅に寄ると床の上に積まれていた本の上に座った。しばらくそちらに気を取られていた雅日だったが、琴琶がテーブルに飲み物の入ったカップを置いた音で我に返る。
「來亜は私が他の使い魔や召喚獣を召喚すると、ああやって喧嘩しちゃうんだよね。今回は紙でできたものだから片付けも簡単だけど」
琴琶は床に向かって手のひらをかざす。すると、びりびりになってそこらじゅうに散らばっていた紙くずが浮かび上がり、小箱の中に戻っていった。
「他の使い魔と喧嘩を?」
「うん、だから私には來亜以外の召喚獣っていないの。多頭飼いのストレスだと思うんだけど、來亜が全部食べちゃうから」
「食べ……」
ぎょっとして思わず來亜のほうに目をやる。來亜は縦長の瞳孔を開いてじっとこちらを見ていた。その目には余計な詮索を拒む気迫が込められている。琴琶には自分だけがいればいい――雅日には彼がそう言っているようにすら思えたが、琴琶はとくになにも言及しない。気付いていないのか、あるいは気付いたうえで気に留めていないのか。
「それじゃあ始めようか。今日は術式の紡ぎ方について説明するね」
「あ……は、はい。それでは、よろしくおねがいします」
「術式を紡ぐっていうのは、んー……ちょっと待ってね」
琴琶は紙とペンを取り出すと、机の上でさらさらと魔法陣を描いた。正確無比な円形をはじめとした記号を掛け合わせ、魔術的な意味合いを持つ言語を迷いなく紡ぎ、十秒とかからずひとつの術式を描き上げる。想像していたものより簡素な模様で、まだこのくらいなら雅日でも描くことができそうだ。
「これは身体強化の術式のひとつで、一番簡単なものだよ。これを自分の頭の中で、自分の魔力を使って正確に描くの。あ、もちろんペンとか杖でどこかに描いてもいいよ。魔法陣以外にも詠唱とか別の発動方法はあるけど、私はこういう魔法陣で術式を覚えてるから、教えるのもこっちがメインになるかな。一応それ以外のやり方も紹介できそうなのはするつもりだから、自分に合ったのを探してみるのもいいと思う」
「これを頭の中で……」
「そう。練習してるうちは時間がかかってもいいけど、実際の戦闘ではコンマ一秒以内に、複数の術式を連続あるいは同時に発動することもあるよ」
「複数を連続……ど、同時に……」
「それをより早くおこなうために、魔力の循環速度を高める必要があるの。今の雅日さんの循環速度はだいたい平均くらいだから、昨日も言ったけどできるだけ速くまわせるようにがんばってね」
「はい、先は長そうですが……」
「魔法陣自体は実際に自分の手で描いて覚えちゃうのが早いかな。魔法陣は紙とかに描いても魔力を通さないと術は発動しないから、暴発の心配とかないから安心して。形とそれぞれの効果さえきっちり把握して覚えられれば瞬時に発動できるから、がんばってね。もちろん、お手本は描いて渡しておくから」
「……が、がんばります」
「それで、私が普段してる研究の中には、この魔法陣の簡略化っていうのもあってね。本来複雑な魔法陣を、自分の魔力の性質とか特性に合わせてよりわかりやすく簡潔なものに改造するの。雅日さんも、この先魔力操作を覚えて、魔術を行使できる段階になってきたら試してみるといいよ」
「なあよ、紙に描いたやつに魔力通せば魔術が使えるんなら、最初っから全部紙に描いて持ってりゃいいんじゃねえか?」
「うん。最初のうちはそれでもいいけど、紙に描いた術式は一度発動すると消えちゃうの。だから一枚の紙に描いた術式を何度も繰り返して使うことはできないんだよ。それに実際の戦闘では、いつどの術式がどれだけ必要になるかもわからないし、何枚も持ち歩くのはかさばるし準備にも時間がかかるから、長い目で見るとちゃんと覚えたほうが効率がいいの」
「ふーん、めんどくせえな。他になんか方法ねえのか?」
「紙じゃなくて術者に直接描いた場合は別だね、例外はあるけど。ものすごく複雑だったり、使用頻度が低いけど重要で高度な術式とかは、そうやっていつでも使えるようにしてる人も多いよ」
「術者に直接……というと?」
「そのまんまの意味。身体に直接描き込むの。描くっていうか、刻むっていうか。ほら、こういうのだよ」
琴琶はすっと立ち上がると自分のシャツをめくった。左の脇腹のあたり、生身の身体に大きな傷跡がくっきりと残っている。それはひとつの魔法陣の模様になっており、先ほど見た強化魔術の術式とは比べ物にならないほど複雑な模様をしている。雅日はようやく彼女の言葉の意味を理解した。刃物で直接肉体に刻み込むのだ。
「刻印術とか魔術刻印とかって呼ぶ場合が多いかな。魔術関係の話で刻印って言葉が出てきたら、これのことだと思って」
「そ、それは……ご自分で?」
「うん、鏡を見ながらね。腕や足だとやりやすいんだけど、複雑な魔法陣を描くには面積が狭すぎるから、ここになったの」
「そりゃなんの魔術だ?」
「内緒。奥の手の大技みたいなものかな。どうしても簡略化できない高度な魔術になってくると、さすがに発動にも時間がかかっちゃうから、こうやって刻印にするの。これは一度使ったら消えちゃうけど、もう少し下のレベルの魔術なら消えずに残って何度も使えるんだよ」
「ほー。じゃあ姫様もそういうふうにすりゃ、わざわざそんな変な模様覚えなくても簡単に魔術が使えるようになるっつうことか」
「そうだよ」
「えっ……」
さらりと言って雅日の腕を見る隊正に、なんの迷いもなく頷く琴琶。そこはかとない危機感にひやりとする雅日だったが、琴琶はすぐに言葉をつなぐ。
「ちなみに、そういうふうに普段から使うような魔術までぜーんぶ刻印にしてる人ってのもいて、そういう人たちは刻印術師って言うの。でもおすすめはしないかな。痛いものは痛いし、それに耐えてなお保存しておきたい術式でないと割に合わないじゃん。魔力譲渡も身体強化もそんなに難しい魔術じゃないんだし、練習さえすればすぐに覚えられるから、その程度の魔術に体を使うのはもったいないと思う。あとから本当に刻んでおきたい魔術が見つかったときに刻む場所がないと困るもんね。必要なときにだけ使うべきだよ」
「その刻印術師っつーのは魔術師とは違うもんなのか?」
「魔術師の一種と言っていいけど、一緒にしないほうが無難かな。正直、魔術界隈では印象悪いんだよね。刻印術師を魔術師とは認めないって意見が多数派かな。簡単な術式でさえ覚える努力もせず、刻印に頼る怠け者ってイメージが強いから、刻印術師は魔術師から見下されてる。人それぞれ違ったやり方があるんだし、全否定するつもりはないけど、雅日さんが刻印術師になるって言ったら私は止めるよ」
「な、なりませんよ、怖いですし……。その肉体に刻む術式って、傷が癒えて消えてしまった場合は、また刻みなおすことになるんですか?」
「ううん。普通は傷跡になったとしても、そこまで深い傷じゃなければ時間とともに徐々に消えていくものだけど、一定以上の魔力を持つ生き物の場合は違ってね。たしかにただの傷跡は消える。でも、その傷跡に対して消えてほしくない、あるいは、これは消えないものだ――と思っていると、体内の魔力がその意思に反応して、傷跡がそのままの状態で保たれ続けるの」
「自分で意図してつけた傷は残すことができるのですね」
「うん。そうだなあ、たとえば郁の……あ、郁はわかる? 副支部長の、茶髪でシャツのポケットにペンを挿してる、ほっぺたに傷がある人なんだけど」
「あ、はい。隊正くんはまだですが、私は以前お会いしました」
「郁の傷はたしか今からだいたい十年前についたものらしいんだけど、傷自体はあんな傷跡になるほどの深い物じゃなかったそうなんだよね。それなのに十年経った今でもあれだけくっきり残ってるのは、本人の気持ちの問題なんだよ」
「気持ちの問題? 消えてほしくないと思っているわけでは……ないですよね?」
「うん。なんていうか……思い入れがあるって言うと変だね。怪我をした当時はさ、傷跡になるかもって話くらいは何度も出たと思うの。でも郁は自分にあの傷をつけた相手や、怪我を負わされたことも全部許して受け入れてて、傷跡が残ってもかまわないって思い続けてた。だからそのとおり残っちゃったんだよ」
「そんなことでも残ってしまうのですか?」
「あの傷をつけた本人が身近にいた誰かなら、その人が一番そのことを気にして、毎日顔を合わせるたびに気まずい思いをしてただろうからね。そういうのって態度見てたらわかるでしょ? だから余計に、自分は傷跡になったとしても気にしないのになって意識的に思い続けたんだよ。皮肉だよね。相手を許して気遣う気持ちが傷跡って形で表れて、余計に相手が気にすることになって。たぶん気にしてないのは郁だけで、相手は今でもすっごい気まずいんじゃないかな」
「琴琶ちゃんは、副支部長さんの傷をつけたのが誰なのかご存じなのですか?」
「ううん、知らないよ。郁はその話だけは聞いてもはぐらかすから。でも郁が信頼してて親しくしてる相手ってことはわかるかな。って言っても礼じゃないのはたしかだけど。まあ知る意味もなければ得もしないし、別に知りたいとも思わないから、とくに追究しないよ」
「んじゃあ、なんでそいつに傷が残った理由は知ってんだよ?」
「本人に聞いたんだよ。精神面が心配だったからね。そういうのって傷跡を気にしすぎるあまり消えなくなった場合とか、怪我をしたときのことがトラウマになってる場合のほうが多いから」
「トラウマ……」
「本人がそれを克服できるまでずっと残ってたり、治りが遅くなったりするの。まあ、もちろん普通に傷が深くて消えない場合も当然あるけどね。お兄さんの傷はそうなんじゃない?」
琴琶が隊正の顔を指さす。たしかに隊正の顔にも、頬から額にかけて斜めに大きな傷跡がある。傭兵時代に負った傷なのだろうか。深い傷だったから残っている可能性は十分にあるが、もしかすると普段の隊正からは想像できないだけで、なにかの因縁があって残ってしまっているのかもしれない。雅日の心配をよそに、隊正はふんぞり返って鼻を鳴らす。
「知らねえのか? 顔の傷は戦士の勲章だ。こりゃ向こう傷っつうんだよ」
「向こう傷?」
「背中の傷ってのは大抵の場合、逃げるときか油断したときに背後からやられたもんだろ。つまり臆病者や弱者の証だ。逆に身体の前側にある傷ってのは、逃げずに戦った証拠っつーことだ。傭兵やってると、その日初めて会った相手と組む機会も多いんだけどよ、顔や体に傷跡がひとつもねえやつよりも、あちこち傷だらけのやつのほうが信用できんだよ。それが向こう傷ならなおさらだ」
「じゃあ消えてほしくない傷なんだね。話がちょっと逸れちゃったけど、そういう感じで本来ならすぐに治って消えるはずの傷でも、本人の気持ちが原因で残ったり残せたりするの。だから身体に刻んだ術式が消えることはないから安心して。まあ、一度そうなるとあとから消えてほしいと思ってもなかなか消えてくれなくなるから、ある意味では厄介だけどね。着れる水着の幅が狭まっちゃう」
「私にも……いずれ刻んでおかなければならない術式が現れるでしょうか」
「どうかな。ただの器としてじゃなく魔術師として研鑽していくなら……私は既にそのつもりで教えてるけど。もしかしたらいつかは必要になるときがくるかも。あ、痛いのが怖かったら麻酔を使うのもひとつの手だよ。魔力の通りが悪くなるから私はやらないけど、痛みで手が震えて術式が歪んだり、耐えられずに挫折する人も少なくないから、そうなるくらいなら多少のデメリットがあっても麻酔を使うのは悪くない方法だと思う」
「それじゃあ琴琶ちゃんは……麻酔なしでその魔法陣を?」
「魔術師ってそういうものだよ」
言葉に詰まる。
絶大かつ明確な覚悟と、一歩間違えば狂気的ともとれる勤勉さと胆力。誰に言われるでもなく自らの意思でそれができる決断力。それらは彼女を天才魔術師と呼ばれるまでに至らせた、大きな要因のひとつと言えるだろう。雅日より十歳は年下の少女の口からさらりと出たその言葉が、ひどく重いものに感じられた。
「まあでも、雅日さんもこれをやる日がくるかどうかっていうのは、あくまで可能性の話。本当にどうしてもってとき以外は、こんなことやる必要ないから、私がこう言ったからって重く受け止めないでね。やらずに済むなら、それに越したことはないからね」
「は――はい」
「それじゃあ、今日は魔力操作の練習をしながら、術式についても少しずつ教えていくね」
次回は明日、十三時に投稿します。