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4 才ある者は目を閉じよ

「あなたにはがっかりです、セガルくん。日ごろから真摯に鍛錬に取り組んでいるあなたになら、リラ様の警護を任せられると期待していましたが、どうやら思いすごしだったようですね。リラ様にお怪我を負わせたばかりか、敵生体からの拉致および逃走を許すとは」


手が震える。どくどくと心臓がやかましく脈打ち、全身がじっとりと汗ばんで熱い。喉の奥がカラカラに渇いて息が詰まり、唾を飲み込むのでさえやっとだ。顔を上げられない。頭の上から降る声には、怒りと失望と嫌悪の感情しかないことをひしひしと感じる。浅葱蘇芳は、平素でこそひた隠しにしていたはずの他者への不信を、今は隠すことなくさらけだしており、それが有無を言わせない重圧としてセガルの身体に圧し掛かっていた。


「も――申し訳」


「謝罪は結構です。あなたをリラ様の警護にあてがったのは私の判断ミスでした。私はあなたの能力を正しく評価できていなかったようですね」


「蘇芳さん……!」


すがるように顔を上げると、恐ろしく冷たい目をした青年が立っていた。いつもの穏健さはどこへ行ったのか、セガルを見下ろす蘇芳の目から、一切の信用が失われていることが伝わってくる。背筋を冷たいものが這う。誰だろう、この男は。本当にこれがあの副団長なのだろうか。不意にそんな疑問が頭をよぎるほど、普段の彼とはかけ離れた空気だ。


「私には、あなたが騎士としてふさわしい働きを全うできているとは思えません」


早乙女邸が謎の異形の襲撃にあい、町全体が混乱に陥った事件から一夜明けた朝。医務室で目を覚ましたセガルを、仲間の騎士たちがわずかな同情をにじませながらも責めるだけ責めて、彼らがひととおりの批判を終えたころに現れたのが浅葱蘇芳だった。セガルはベッドの上から動くこともできずに蘇芳からの冷たい重圧に耐えていた。足元に自分の手当てを済ませた赤毛の大男――隊正がどっかりと座る。


「ガハハハッ! とうとうクビなんじゃねえか、こりゃあ。ま、しょうがねえわな、王様を守れなかったどころか怪我までさせて、挙句、町も王様も大変なことンなってる中、自分はグースカ寝てたんだもんなあ! よりにもよってそんな大失敗かましゃあ、返す言葉もねえってもんだ」


「そんな……も、もう一度、挽回のチャンスをください! 蘇芳さん、お願いします!」


「どうでしょう。そのような猶予を得るに値するほどの価値が、はたしてあなたにあるのでしょうか。ご自分の胸に聞いてたしかめてみてはいかがでしょう」


「ハハッ! 厳しいな、蘇芳!」


軽く笑い飛ばす隊正を無視して、セガルは必死に頭を下げた。


「お願いします! 必ず、リラ様の騎士の一人として恥じることのない成果を挙げて見せます! どうか、もう一度だけ!」


もう一度・・・・? ……セガルくん、今回のような最悪の事態に陥るのは、一度で結構なんですよ。いいえ、ただの一度でも起きてしまってはならないことでした」


「それは……」


返す言葉がない。蘇芳の言うとおりだ。セガルはなにも言えずに黙り込んでしまう。その沈黙をやぶったのは、医務室の入り口のあたりから聞こえた一人の少女の声だった。叱咤するような、憐れむような目で遠巻きにセガルを見守っている騎士たちの合間をぬって、声がこちらに近付いてくる。


「失礼します。すみません、ちょっと通してください。間失礼します。すみません、ちょっと……。……ねえ、ちょっと、邪魔なんですよ、どいてください!」


最初こそ柔らかだった声が途端に鋭くなり、強引に騎士たちを押しのけながら姿を現したのは、長い前髪で右目を覆い隠した、緑髪の少女だった。しっかりと覚えている。早乙女邸にいた少女だ。異形との戦いの最中、セガルは異形からの攻撃に弾き飛ばされた先で彼女にぶつかり、そのまま意識を失ってしまったのだ。


騎士たちの間を通り抜けてきた思わぬ闖入者に、蘇芳も思わずそちらを振り向いた。


「静來さん? どうして医務室に……あなたがたは、もうロワリアに帰国されるはずなのでは?」


「妙なことを聞きますね。当然、来るに決まっているじゃありませんか。リラと一緒に――ああ、念のため断っておきますが、この呼び方はリラ本人から許可を得たうえでのものですから、礼儀がどうとか言わないでくださいね。とにかく、昨日彼女と早乙女邸に来ていた騎士の人がまだここにいるんでしょう?」


思わずぎくりとして肩を竦めて小さくなるセガルを、静來が見た。


「扉が開けっ放しだったので、少しですが話は聞こえていました。状況からしてあなたですよね」


「は……はい」


「静來さん、すみませんが今は」


「私はこのあとすぐに帰国しますけど、あなたは別にいつでも彼と話せるじゃないですか、浅葱さん。……ああ、蘇芳さんって呼んだほうがいいですか? 私はあなたと話したくて来たわけじゃないんですよ。恩人にお礼が言いたくて来たんです」


「恩人?」


ベッドに腰かけていた隊正が、そのままセガルの足元に乗っかるように寝転びながら聞き返す。目の前のいかにも粗暴そうな大男にも静來は怖気ることなく涼しい顔で、ええ、と頷いた。


「この中であの場にいたのは私だけですから、蘇芳さんも、もちろんあなたも知らないことでしょうけど、彼は私たちを守ってくれていたんですよ。あのとき、あの場にはリラと私と、私の弟、そして知世と、他にも早乙女家の使用人が五人はいました。その中で戦えるのは彼を除けば私だけです。異形は気配を絶った状態で音もなく現れ、奇襲を仕掛けてきましたが、真っ先に襲撃に気付いたのは彼でした。そのあとも私は自分の身と、一番近くにいた使用人の一人を守るだけで精一杯でしたが、彼は私を含めた、その場にいる全員を守りながら戦っていました」


静來は誰が口を挟むことも許さない力強い語り口で続ける。


「彼がいたおかげで私も、私の弟も無傷で済みました。私たちがもしあそこで負傷していたら、あの異形を倒すことはできなかったし、弟も雅日さんを助けに行けなかったでしょう。そのあとで異形と直接戦った私と兄も、きっと無事では済まなかった。私は死んでいたかもしれませんね。昨日の事件を誰一人欠けることなく解決できたのは、彼の功績と言ってもいいくらいです。彼が守ってくれたおかげで、私たちは万全の状態を長く保ち、戦うことができたんですから」


「ふーん、王様は守れなかったくせにか?」


「ええ、なにか問題でもあるんですか? 化身よりも、あの場で優先すべきは間違いなく人間の命でした。彼の判断はなにも間違っていないし、彼は失敗なんてしていません。あの場にいた人間すべてを守るのは決して簡単なことではなかったでしょう。そもそも国の化身なんて滅多なことじゃ死なないし、不死身みたいなもんなんですから、非常時には化身の警護なんてあとまわしにするくらいがちょうどいいって、ロア・ヴェスヘリーはそう言っていましたよ」


「ま、そりゃあたしかに違いねえな! だってよ、蘇芳」


「静來さん、ロワリア様と我らの主君とでは事情が異なります。リラ様の御身をお守りすることは我々モナルク騎士団の名誉であり責務。たとえ数多の命を救ったとして、それと引き換えにリラ様にお怪我を負わせるようなことがあっては、それは騎士の誇りに反することであり、我らの矜持も保たれません」


「ロアもリラもセレイアもリーズもみんな同じですよ、なにが違うって言うんですか。だいたい、あの状況で一人で全部を守り切るなんてできっこないんですよ。あの場に戦えない者が何人いたと思ってるんですか? まさか全員がひとまとまりになってじっとしていたとでも? 知世は足がすくんで身動きが取れず、逆に使用人たちは気が動転してバラバラに逃げ惑っていました。それらすべてに気を配って守りながら、同じく民を守るために動こうとしている盲目の主人まで守って。あなたなら完璧にできたとでも言うんですか? それとも主君の身を守りさえすれば、善良な民衆が命を落としてもあなたの誇りは傷つかないのですか? あれはあの状況における最良の結果でした。誰も怪我をしなかったんですから」


「静來さん」


「あのとき、実際にその場にいて、状況をこの目で見て知っている私が言ってるんです、なにか文句でもありますか? 強い者が弱い者を守るのは当然のことでしょう。あのとき、もし知世があの異形に捕まっていれば、取り返しのつかないことになっていました。ラセット・リラは自分のするべきことをして、彼も自分のするべきことをした。その場にいた多くの弱き人々の命を救いました。それは名誉なことではないんですか? あなたたちの仕事は主君を守ることだけですか? この国に住む人々を守り、平和を守ること、それもあなたたちモナルク騎士団の大切な責務のひとつじゃないんですか?」


静來は蘇芳だけでなく、うしろで事の成り行きを見守っていた騎士たちのほうにも視線をやって訴える。


「それでも彼は失態をさらしたことになるんですか? 彼のしたことが間違っていると思う人がいるなら今すぐ前に出てきてください。彼のしたことはなにも間違っていない。彼がリラの無傷を優先していたら私は死んでいたし、あの事件はもっと複雑化していて解決が困難になっていました。そのほうがよかったですか? 誰が死んでもおかしくなかった状況で、誰も死なせずに守り切った彼を、あなたたちは糾弾するんですか?」


蘇芳は黙っている。静來は、ふ、と小さく笑ってからぺこりと頭をさげた。どこか挑発的な笑みに見えたのは、セガルの見間違いだろうか。


「すみません、つい熱くなっていろいろ言ってしまいました。騎士団の人事に部外者の私が口を挟む資格なんてないですし。ダメですね、感情的になっちゃ。私は誤解をときたかっただけなんです。もちろん、それくらいは理解してくれますよね?」


ああ、でも――静來は思いついたように続ける。


「もし彼が騎士団をクビになってしまったら、私がロアと礼に掛け合って、ギルドのほうに来てもらうのもいいかもしれませんね。恩人が困っているのを見過ごすことはできませんし。いろいろ知っていそうな彼がこちら側に来てくれれば、きっと役に立ってくれるでしょうし。私、自分で言うのもなんですけど、結構顔が利くほうなので、決して無理な話じゃないですよ。事情を話せば探偵だって私に味方してくれるでしょうから」


蘇芳の眉がぴくりと反応を示した。静來はそのわずかな表情の変化を見逃さず、愛想のいい笑顔を返す。


「それでは、帰り支度もありますし、私はそろそろ失礼します。どうもお騒がせしました。大事な話の途中に割り込んできてしまってすみません」


そこまで言うと、静來はセガルのほうを見て微笑んだ。蘇芳に向けていたものとは違う、穏やかで優しい、感謝のこもった笑みだ。


「弟を守ってくれて、ありがとうございました。私たちがこうして全員無事に帰ることができるのは、あなたのおかげです。騎士たるあなたと同じく戦場に挑む者として、私はあなたに敬意を表します」


そのままセガルに深く頭を下げると、静來は医務室を去っていった。蘇芳は大きなため息をつき、隊正は心底愉快そうな高笑いをあげる。


「ダッハッハ! ロワリアにゃずいぶん威勢のいい女がいんだな! あれでもっと歳くってりゃ俺好みだったんだが、惜しいな。あと十年もすりゃあ、今よりいっそういい女になるだろうぜ! で、痛いとこ突かれちまったが、どうすんだ、蘇芳!」


「……あんなふうに言われてしまっては、処罰を与えるわけにもいかなくなりますね。見ず知らずの騎士一人のためにここまでするとは……いえ、このくらいは容易いということでしょうか。賢い女性ひとです」


「おい、なんだこの騒ぎは」


静來と入れ違いに、席を外していた群青が医務室に戻ってくる。部屋に入るなり彼は鋭い声で一喝した。


「ここに来ていいのは怪我人と病人だけだ。手当ての必要がない者はさっさと出て行け。蘇芳、お前もだ。用もなく医務室に立ち入るな」


「すみません、セガルくんに用があったもので」


「セガルに用があったからなんだ? お前の事情なんかどうでもいい。いいか、ここは医務室だ。医務室では医者の言うことがすべてだ。オレは無傷で帰還したお前に用などない」


「ええ、すぐに出て行きます。……セガルくん、今回の件については静來さんに免じて不問としますが、次はありませんよ。その傷が癒えたら、今まで以上に鍛錬に励んでください」


「は――はい! ありがとうございます!」


「では失礼します。お邪魔しました」


「おい、なにを呆けている? お前たちもとっとと出て行かないか、仕事の邪魔だ。それとも今すぐ手当てが必要な身体になりたいか!」


群青が厳しく叱りつけると、集まっていた騎士たちはいそいそと医務室から逃げ出した。隊正は動くのが面倒だったのか、しばらくそのまま残っていたが、群青が注射器をちらつかせると目にも止まらぬ速さで姿を消した。


「……まったく、陛下が少し怪我をしたからなんだっていうんだ。打撲程度で騒ぐなよ、バカバカしい」


群青は騎士たちが出て行った扉に向かって愚痴っぽく吐き捨てる。自分だって楼蘭のことになれば些細なことでも大騒ぎするくせに――普段のセガルならばそう軽口を叩いて睨まれるところだが、堂々とした振る舞いで蘇芳を説き伏せる静來の姿が目に焼き付いて離れず、それ以外のことについてはなにも頭に入ってこなかった。



*



「私が雅日さんに教えていく内容は大きく分けて四段階。一つ目は魔術を使うために必要な魔力学の基礎知識だけど、既に個人で勉強してるならスキップするよ。もし話の中でわからないことがあったら遠慮なく言ってね。二つ目は、魔力の循環機能を起こすこと。三つ目、魔力操作を覚えて洗練させること。四つ目、魔術の術式を覚えること。この工程をひととおりクリアすれば、あとは定期的に訓練の成果を見るだけになるかな」


琴琶は指を一本ずつ立てて数えながら説明する。


「今日中にできるのはせいぜい二段階目までで、三四段階目は一朝一夕でどうにかなることじゃないから、一人前になるまでには数か月か年単位の時間がかかるつもりで挑んでね」


「やっぱり魔術を習得するというのは、むずかしいことなのですね」


「ゼロからってなると大変なのかも。ここに来るまでに魔力学の基礎は学んだって言ってたけど、能力系統の本質についてはわかった?」


「系統能力は、仲間同士での意思疎通のために分類されているだけで……魔力学上では、魔力を術式に変換する際に、体内と体外、どちらで術式を築くかによって分類されています。武装系や属性系能力は体外型、体脳系やエスパー系などは体内型で、魔術系はどちらでもある……と私が読んだ本にはありました」


「うん。一般系統能力の名前で覚えておいて不都合はないんだけど、一応、魔力学上での分類も知ってて損はないから。能力の効果っていうのは、その人に最初から与えられている、その人のための術式みたいなものでね。言ってみれば癖みたいなものなんだよ。座ってるとついつい足を組んじゃうとか、前髪をいじっちゃうとかそういうのと同じような感じ。魔術系の能力者にはそういう癖がないか、あっても自覚して変化を加えたりするのが得意な人が分類されるね。魔力量が多くて魔力操作に長けていて、体内の魔力の細やかな調整ができるから、簡単なものから複雑なものまで術式をつむいで、いろんな効果を発揮するの」


「なんでもできる……ということですか?」


「やり方次第ではね。でも、そこまでの域に達するには並の努力じゃ間に合わないよ。一生かけて勉強しても、二つ三つくらいしか魔術を扱えない人だっているからね」


「い、一生かけても……ですか?」


「魔力を自分の意思で自在に動かすっていうのが、まずそもそもむずかしいことなんだよ。魔術は繊細だから、緻密な操作が必要になってくるの。治癒魔術はとくにむずかしいね。それこそ一生かけても習得できない人だって多いほど。でも身体強化とかなら簡単なほうだから、まずそこから覚えていこうね」


「その、魔力譲渡の術式というのは、どれくらいむずかしいのでしょうか?」


「治癒よりはよっぽど簡単だけど、いきなりだとむずかしいかな。最初はやっぱり簡単なところから入ったほうがいいと思う。そうすぐに習得できるものなら三日も滞在したりしないでしょ? 本当ならもっと時間がほしいくらい。今回はとにかく基礎の部分をメインに術式の紡ぎ方までを教えて、次に会うときまでに自主練してもらうって感じになるかな」


「は、はい」


「まず、大事なのは自分の体内の魔力を自覚して、正確に操作できるようになること。そもそもこれができなきゃ始まらないからね」


「私、魔力は一切作れないのですが……」


「大丈夫、私の魔力をあげるから。手を出して。魔力が体内を循環する感覚を覚えて、渡した魔力を同じように体中にまわしてみて」


「まわす?」


琴琶が雅日の手を取って、軽く握った。瞬間、つないだ手のひらから身体の中になにか熱い感覚が押し寄せてくるのがわかった。その熱はものすごい速さで手から腕、肩を通り、全身をくまなくめぐっていく。一瞬で全身が熱くなり、みるみるうちに脈拍があがっていく。これが魔力。気を抜けば血管がはちきれて、身体が内側から破裂してしまいそうだ。


「この循環速度を覚えて」


これをですか――と言おうとした。しかし声が出ない。口を開けない。いや、口だけではなく指一本すら動かせない。全身が見えない力で圧迫されているかのような感覚だ。息が苦しい。意識を保つのがやっとだ。


琴琶が手を放すと、その感覚はすぐに失われた。熱のめぐりは止み、騒がしかった体内がしんと静まり返って凪いだような、完全な沈黙。全身を押さえつけていた息苦しい圧迫感も消えた。呼吸が乱れ、こめかみのあたりが激しく脈打ち、目の前がちかちかする。一筋の汗が額を伝った。今のが、能力者の体内で当たり前に起きていることなのだろうか。今の感覚が、能力者にとっての常識なのだろうか。


「魔力の循環速度は、もともと速い人も遅い人もいるけど、魔力操作ができる人ならその速度を操ることもできるの。今のは私の循環速度だよ。魔力がめぐる速度が速いって言うことは、術式の発動速度にも関わってくるから、すっごく大事。だからできるだけ速い速度でまわして、それを常に維持できるようになってね」


「い、いま、今のを、ですか」


「大丈夫、雅日さんの身体は魔力の循環活動自体を知らない状態だったから、最初は体がびっくりしちゃって苦しいかもしれないけど、循環機能自体はもともと備わっているから、それが起きてくれれば、あとはとくに意識しなくても勝手に魔力がめぐるようになるよ。そこから速度を速めていくのは魔力操作の範疇だから、それは練習が必要だけどね。一気にできるようになろうとしないで、ひとつずつでいいから」


「魔力を循環させるためには、どうすればいいのでしょうか」


魔力が体内をめぐる感覚がどういうものなのかはわかった。だが、それを自分自身の意思でおこなうには、雅日に備わっているという循環機能を起こすには、具体的にどうすればいいのかわからない。現に、琴琶が手を放した途端に、魔力は雅日の体内でぴたりと動きを止めてしまったのだ。それを今感じたように動かしてみようと思っても、魔力の流れる感覚は戻ってこない。


「循環機能は今のを繰り返すだけでも勝手に起きるよ。どれくらい時間がかかるかは個人差があるけど。魔力のめぐりを体感しているうちに自然と魔力操作を覚えることもあるから、それができれば一石二鳥かなあ。ま、狙ってできることじゃないし、循環機能が起きたら魔力操作についても教えていくね」


「今のを繰り返して……でも、それだと琴琶ちゃんが大変なんじゃ……」


「私はそんな簡単に魔力切れになったりしないし、このくらいはなんてことないよ。こう見えて天才だから。この三日で魔術師見習いくらいは名乗れるようにしてあげる」


天才――自らをそう称する彼女は、決して傲慢ではない。これは自惚れでもおどけているのでもなく、言い換えようのない事実なのだ。雅日はそう直感する。


「大変なのは雅日さんのほうだよ、ついてこられる? もし気持ち悪くなってきたりしたら言ってね。休憩にするから」


琴琶はそう言って笑いながら手を差し出す。息をのみ、覚悟を決めるように深呼吸すると、雅日はその手を握った。


「はい! よろしくおねがいします、師匠」


琴琶の指導は厳しかった。というのも、教え方そのものの話であって、指導の態度が厳しいという意味ではない。知識としての理解よりも感覚での理解を優先するため、雅日にとっての未知の情報や知識を、身体に直接叩きこんでくるのだ。魔術師――というより能力者にとっては、身体で覚えることも大切だが、知識を学んで根本から理解することも当然同じように大切で、騎士団でもギルドでも魔力学の習得が義務付けられているほどだ。


だが琴琶が今この場で優先するのは、知識を頭で理解することではない。そんなことは指導者がいなくても自分で書物を読むことで、いつでもいくらでも学べる。それだけなら琴琶がついている意味はない。琴琶が指導者として目の前にいる間にしか学べない特別な知識は、もっと実践的なこと。誰かに師事できるほどの魔術師がいない騎士団では学べない、本物の魔術師である琴琶に学ぶからこそ意義のある内容。要は経験だ。


魔力の循環を身体に覚え込ませること。それは空者ならではの基礎の基礎を固める行為。得手不得手があるかどうかは関係ない。そこを突破できなければ先へは進めないし、それができるようになるまで雅日はスタートラインにすら立っていないのだ。


魔力というものは、今までそれを持たなかった非能力者――空者にとっては、劇薬のようにも思える代物だった。雅日は循環機能の活性化のために琴琶から魔力を受け取り、魔力が全身を流れる感覚を理解し、実際に自分自身で魔力を循環させる感覚をつかまなければいけない。だが、その魔力が循環する感覚によって、雅日は幾度となく意識を飛ばしてしまうことになる。何十回と失神を繰り返すうち、呼吸と脈拍の乱れは激しくなり、吐き気やめまい、頭痛などの不調が無視できないほどになっていく。汗が止まらない。もしや身体が魔力を異物と判断しているのだろうか。こんなことで本当に雅日は魔術師になることができるのだろうか。


「雅日さん、ちょっと休憩しよう。さすがに三時間ぶっ続けはやりすぎ。体調も悪くなってきたでしょ?」


「さ、三時間? ……もう、そんなに?」


「うん。雅日さん、すごく集中して何度も挑戦し続けるから止めづらかったんだけど、これ以上は無茶! 私もずっと座りっぱなしで疲れてきちゃったし、おなかすいてきちゃった。ちょっと休んで、落ち着いたらお昼ご飯食べに行こう」


「はい……」


大きく息をつく。そして顔を上げたときにようやく気付いたが、隣で寝ていたはずの隊正がいつの間にか起きていた。あまりに静かだったので、てっきりまだ寝ているのだとばかり――頭の片隅でそう思いながら壁掛け時計を確認すると、たしかに琴琶の言うとおり、この部屋で訓練を始めてから約三時間が経過している。


なんだか不安になった。前に進めている気がしない。魔力の循環――それは魔術を学ぶ以前の、もっとも初歩的なことだ。これは学習に入る前の準備段階でしかない。ロワリアでの滞在期間はたったの三日だ。少ない時間の中、これから多くのことを学ばなければならないというのに、こんな最低限のことにすら手間取っていていいはずがない。


「コトハ。みやび、別する。いつもが違うでも変わる、れば試す。できる。た」


部屋の中をうろうろしていた來亜が言う。早乙女邸にいたときも、彼の話し方はどこかぎこちなかった。簡単なやり取りならばともかく、彼がなにかを自発的に伝えようとすると、途端に暗号のような言葉になるのだ。理由はおそらく彼の正体が人間ではないからだろう。言葉という文化になじみが薄いのだ。雅日は彼がなにを伝えたかったのか理解できなかったが、琴琶は違うらしい。


「たしかにそういう場合もあるけど、ここまで来て別のやり方に変えると余計に混乱しちゃうかもしれないから。雅日さんはこのまま進めていいよ」


「むう」


「あの……私、やっぱり才能ないのでしょうか……?」


雅日がおずおず尋ねると、琴琶は首を横に振った。


「最初に言ったように、魔術系以外の能力者が魔術を覚えるよりも空者のほうが魔術の習得には有利なんだよ。最初から別の能力がある状態からだと既に魔力の使い道と循環速度も固定化されてるから、そこを崩していくことから始めなきゃいけないんだけど、それがとにかく大変でね。でも空者はそうじゃない。空っぽでまっさらな状態から、ただ知らないことを新しく学んでいくだけだから、能力者よりよっぽど素直に教えたことを吸収できるんだよ」


「そうなんですか……?」


「循環機能を起こすのは時間さえかければ必ずできるよ。今まで一度も使わなかったせいで錆びついてるだけで、錆を落として研磨すれば問題なく動くの。むずかしいのは魔力操作だね。ここが最初の難所で……もしかすると最大の難関なのかも」


雅日が不安な心持でうつむくと、琴琶は手を振って軽く笑い飛ばした。


「魔術師に必要な才能っていうのはね、魔力をうまく扱う才能じゃなくて、努力する才能かな。もちろん、魔力をうまく扱える器用さとか、冷静さとか機転とか、魔術を理解する知能も大事だけど」


「知能……は、あとから磨くこともできるのでしょうか」


「ある程度はできると思う。私だって赤ん坊のころから賢かったのかって言われたら違うと思うし、まあ平均よりは賢かったかもしれないけど。要は成長でしょ? どこまで発達するかは生まれもった素質や環境も影響するだろうけど、その素質を正しく育てられるかどうかが一番大事だし。あーでも育ちすぎもそれはそれで問題なんだよね」


「問題? 賢くなるのは、よいことなのでは? 知能が発達しすぎる――ということがあるのですか?」


「たまーにね。天才って早死にするものなんだよ、歴史上でもいるでしょ? 稀代の天才って言われていた学者とか魔術師とか。調べてみたら、その最期って原因不明の突然死が一番多くて、並んで多いのが精神崩壊。急に錯乱状態になって行方不明になったり自殺したり、錯乱して飛び出した先で事故にあったりね。いきなり発狂したかと思ったらパタッと倒れて、確認したら死んでたとかも。どうあれ長生きしないんだよ」


「……不思議ですね。それじゃあ琴琶ちゃんも気を付けないと」


「うん。私は魔術以外の余計なことには頭使わないようにしてるけど、なにが原因なのかわからないのが怖いんだよね。探してみたら意外と出てくるんだよ、そういう話。暗殺の隠喩じゃないかって説もあるけど、私は違うと思う。だって師……」


琴琶はぴたりと動きを止めると、不自然に言葉を切った。


「一応言っておくと、私はそもそも魔術の研究が好きなの。ほとんどそれが趣味って言ってもいいくらい。たしかに生まれもった才能とかもあるけど、私は私の才能を、努力して正しく育てられたから天才なの。だから雅日さんも、途中で投げ出さずにがんばってみてほしいな。誰でも最初はうまくできなくて当然だし、努力が必ず報われるとは限らないけど、自分の努力が報われるかどうかなんて、やってみないことにはわからないでしょ? がんばり続ける限り成功の可能性は常にある。為せば成る、為さねば成らぬって言葉もあるし」


たしかにそのとおりだろう。実際にリラや蘇芳の彼女への評価も、彼女が自分自身に下した評価と同じものだった。若き天才魔術師、その評価に偽りはない。しかし、その裏では想像を絶する努力や苦悩を重ねてきたはずだ。天才だからと言って、生まれたときからなんでもできたわけではないのだ。


彼女は魔術を扱うための努力をするということに対して適正があったと。魔術の天才というのも、現在の琴琶の実力を正しく賞賛する言葉に違いはないが、彼女の言うとおり、それは努力の才能とも言えるのだ。知能だけが重要なのではない。魔術師になるため、腕を磨くための日々の努力、地道な積み重ねを苦に思うかどうか――問題はそこなのだろう。


「雅日さんが一日でも早く一人前の魔術師になれるように、私も努力するから、一緒にがんばろうね」


「……はい、師匠!」

次回は明日、十三時に投稿します。

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