2 目に見えぬ綻びが玉に瑕
「先天性の、魔力不全……?」
聞き慣れない言葉に、雅日は群青の言葉をそのまま復唱した。隣で仁が補足する。
「体内での魔力生成が安定しない病気だ。隊正はあのとおり普段から怪力なんだが、それは素の筋力だけの問題じゃなく、過剰に作られて行き場のなくなった魔力が常に全身を強化しちまってるせいでな」
「あふれた魔力のせいで必要以上の力が出てしまっている状態なのですね」
「ああ。体の中に収めておける魔力の量と、実際に作られてる魔力の量とが合わずにあふれてるのを、なんとか帳尻を合わそうとして勝手に常時全身強化になっちまうんだ」
群青が頷き、続きを話す。
「かと思えば、急に魔力を生成できなくなる時期が不定期的にやってくる。魔力が枯渇して動けないだけならまだしも、何日も意識不明のままということもある。このように体内での魔力生成が安定せず氾濫と枯渇を繰り返す体質のことを魔力不全と呼び、この魔力不全のような、魔力に由来する慢性的な不調の総称を魔力障害という」
「な、なるほど……」
「それとどうでもいいが、これは病気ではなくただの体質だ。隊正に限って言えば、たしかに病と呼んでも差し障りのないほどの状態ではあるが……角が立つからあまりそう表現するべきではない」
「ああすまん、そうだったな。つい」
どうでもいいと前置きしたうえでの補足情報だが、非常に重要なことだろう。本当にどうでもいい情報ならば、わざわざ付け足したりしない。
「たとえば後天性魔力不全――あるいは急性魔力不全――といえば症状は一時的なもので、同じ魔力不全でも先天性のものとはまったく異なる。一般には魔力飢餓とも呼ばれていて、短時間で大量の魔力を消費することで発生する魔力不足や魔力切れの状態を指す。これの対処は簡単で、よく食ってよく寝ること。しかし先天性魔力不全はそういった一時的な飢餓状態とは違い、一生付きまとう問題だ。それそのものが原因で命を落とすことはないとされているが、時と場合によっては命とりになる。とくに戦場で急に魔力が枯渇してしまえば事だろう」
「その間に襲われてしまっては手も足も出ませんものね……魔力不全に有効なお薬などはないのですか?」
「あるにはある。近年になって魔力安定剤が開発されたが、一度投与すれば克服できるものではなく、毎日投与し続ける必要がある。それでも人によってはずいぶん改善されるようだが、隊正には……向いていない方法だ」
群青はため息をつく。どこか疲れたような、なにかにうんざりしているような、陰気な態度だ。
「そうなんですか……その安定剤の効きが悪いのですか?」
「単純に投与を拒んでいる。ただ、効果にかなりの個人差があるというのも事実だ。原因が魔力にあるからこそ、科学や医学で対抗するのは難しい。そういう問題もあって安定剤の普及はあまり進んでいない」
「なんにもしないよりは使ったほうがマシだが……一生使わなきゃならんことを考えると、ないほうがマシってなこともある。薬っつうのはなんであれ値段が張るもんだ」
仁の言うことにも一理ある。隊正が安定剤を使用したときにどれだけの効果が得られるのかは不明だが、費用対効果が割りに合わなければ使わずに耐えたほうがマシだろう。
「その、それで……具体的に、私はこれからなにをすればよいのでしょうか?」
「そうだな、まずは魔力学と魔術を学ぶことだ。ふむ。東雲雅日……どこかで聞いた覚えのある名だと思っていたが、以前から陛下が言っていた早乙女邸の空者か。なるほど」
「からもの?」
雅日がちらりと仁を見る。彼は目線の意味を察して説明した。
「魔力を保有するための機能は揃ってるが、自分で魔力を生成することができない非能力者のことだ」
「能力者の能力の発芽はだいたい三つのパターンに分けられる。生まれたときから魔力を保有していた先天性の能力者と、体が成長するにつれて徐々に力を整えていく者。そして後天的に覚醒する者だ」
群青は指を一本ずつ立てて見せながら続ける。
「だが、それらを区別することに大きな意味はない。生まれつき魔力を持っていて当たり前に能力を扱えようが、なにかの拍子に急に魔力の生成が始まって能力が覚醒しようが関係ない。そんな分類はどうでもいいんだ。結局のところ、それらは自らの体内で魔力を作り、循環させ、蓄えておくための機能を備えて生まれた者にしか起こりえない現象だからだ」
「つ……まり、なにかしらのキッカケがあって力が覚醒したとしても、それはその人に最初から能力者になるための素質があったからで、偶然でも奇跡でもなんでもないと? 遅いか速いか、力が目覚めるキッカケがあったか否か、ただそれだけの違いなのですね」
「そう、まず魔力ありき。光属性系という例外もあるが……それは今はいい。魔力を生み出し、それを管理するための機能がなければはじまらないのがオレたち能力者だ。そしてお前にもその可能性があった。お前は能力を得るための条件自体はそろっていたが、とうとう覚醒の機会を得られず、蓄えて循環させる機能は残れど魔力を自ら生成することなく、その力を失った」
「能力が覚醒するのは若いうちの……だいたい二十歳くらいまでなんだそうだ。その時期をすぎると能力の覚醒は見込めない。たしか後天的に覚醒した能力者の最高年齢は二十一歳だったか?」
「ああ。東雲、歳はいくつだ。二十五前後に見えるが」
「二十七です」
「隊正と同じか。どちらにせよ今さら能力を得るのは無理だな。能力を得るための素質を持ちながら覚醒が不発に終わった者――つまり今のお前のような状態の者のことを、魔力学上では空者と呼ぶ。陛下の話ではたしか……おい、腕を出せ」
「腕ですか?」
雅日が右手を差し出すと、群青は人差し指と中指の先を雅日の手首に当て、脈を測るようにして数秒目を閉じた。
「なるほど、いい器だ。陛下がお前に執着した理由のひとつはこれだな。空者なんかさして珍しくもないのになぜ、と疑問だったが……これだけ容量がデカいなら、覚醒していれば魔術系の能力者になっていただろう。あるいはもっと稀有な能力に恵まれていたかもしれない。魔力量だけなら蘇芳よりも……そうだな、カイルと同じくらい……いや、それ以上か。鈴蘭でもここまでの者はいない」
仁が顎の髭を手でさすりながら感嘆の声をもらす。
「ほう! そんなにすごいのか。こいつぁたまげたな」
「その可能性があった……というだけですよね?」
「ああ、なんとも惜しい。魔力さえあれば努力次第で相当の使い手になれていただろう」
群青は落胆するように言ったあと、ひと呼吸おいてから雅日を見た。
「あくまで疑似的に――だが、今からでもそうなれると言ったらどうだ?」
「え……? で、ですが、今さら能力を得るというのは現実的ではないのですよね?」
「だから疑似的なものだ。お前から失われたのは魔力を自力で生成する機能だけで、魔力をその身に蓄え、循環させるための機能は残っている。さっきも言ったように、お前は器だ」
「自分で魔力を作れないなら、蓄える力があっても意味がないのでは?」
「魔力譲渡という魔術を使えば、他人に自分の魔力を譲り渡したり、反対に相手から魔力を受け取ることができるようになる。本来は魔力を持つ者同士――つまり能力者同士でしか成立しない魔術だが、抜け道はある。魔力を蓄える機能がある空者なら、能力者でなくとも魔力を受け取ることができるだろう。これを習得すれば、予備電池として隊正の魔力不全に対応できるということだ。根本的な解決にはならないが今のままよりはよっぽどいい。しかし、それができる者は現状騎士団にはいない。唯一、お前だけがその可能性を秘めているんだ」
「そ、そんなことが本当に私にできるのでしょうか」
「当然、簡単ではない。相応の努力が必要だ。まず手始めに魔力学の勉強からだな。腕のいい魔術師なら陛下に心当たりがあるようだから、その者から魔術を教わるといい。魔術師から魔力を分けてもらい、それを元手に魔力譲渡を使って隊正の魔力を吸収し貯蓄すれば、対魔力不全用予備電池としての準備は完了だ」
「魔術師になる……それが私の最初のお仕事ということですね」
「魔力譲渡以外にも簡単な術ならすぐに覚えられるだろう。どうせ隊正はいつもバカみたいに魔力を垂れ流しているんだ。余剰分をそのつど補充し、常に一定以上の魔力を残しておかなければならないが、得た魔力の何割かは自分の好きに使うといい。何度も言うが、お前は魔力を自分で作れないものの、努力次第で疑似的な能力者になれる素質を持っている。それに自力で魔力を作れないということは、魔力生成のコストだのエネルギー消費だのも関係ないから、本来の能力者よりも気楽にやれるはずだ」
「たしかに魔力飢餓の頭痛やらを心配しなくてよくて、餓死のリスクについても考えなくていいのは理想的だな。魔力がなくなれば、ただ力が使えなくなるだけということか。それで、その魔術師の心当たりっつうのは? 群青、お前は知っているのか?」
「見たことがなければ会ったこともないしどうでもいいが、蘇芳と陛下がその者を天才だと称していたことは知っている。先日の事件でこのあたりに来ていた連中の仲間だとかなんとか」
「ああ、もしかしてギルドの方ですか? でしたら私はお屋敷で――」
「ぎ、ギルド!?」
今までベッドでじっと横になっているだけだったセガルがその言葉に反応する。ばっと勢いよく体を起こし、身を乗り出して口を挟んだ。
「それってあの、ロワリア国の、あのギルドですよね? 早乙女邸の事件の調査のために来ていた……」
「そ、そのギルドだと思われますが……?」
戸惑う雅日に、セガルは思い出したように頭を下げた。
「あ、申し遅れました。僕はセガルといいます。それで、あの……もしロワリアに行かれるなら、そのときは僕もご一緒させてもらえませんか?」
「え? え、ええ、リラ様のお許しをいただければ、ですが……」
「うるさいぞセガル。それだけ元気ならもう休む必要はないな? 動けるなら早く訓練に戻れ」
群青がキッと睨みつけると、セガルはびくりとして身を退き、先ほどまで赤かったその白い肌を今度は青く染めて、わたわたと装備をまとめ立ち上がった。
「は、はーい、先生……」
そのままそそくさと出口に向かい、立ち去る直前に雅日のほうを見る。
「それじゃあ、リラ様から許可をいただいた暁には、よろしくお願いします!」
「はい、わかりました」
ばたばたと走り去る音が遠のき、静かになった医務室の中。群青は小さくため息をつく。
「陛下がこの場でオレに求めた役割はこれでおしまいだろう。なにか質問はあるか? あるなら団長に聞くこと。そろそろ陛下と師範の商談も終わる頃合いだ。オレは師範のお見送りをしなければならない。それにセガルがこの時間帯に医務室に来たということは、隊正はまだ暴れ足りずに他の騎士をいたぶっているだろうから、ついでに手当ての準備もしておく必要がある」
彼の中では医療班としての仕事よりも師匠の見送りのほうが大事らしい。たしかにここに来る前、あの赤毛の騎士は他の騎士たちに手合わせを迫っていた。雅日はそう思い出してから腰を上げる。
「本日はお忙しいところ、お時間を割いていただきありがとうございました。これから騎士団の一員として精一杯務めさせていただきます。いたらない点も多々あるかと存じますが、ご指導のほどよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそよろしく。早乙女邸では優秀な女中だったと聞いている。ようやくまともな新人が来てくれたようで助かるよ」
「じゃあな、群青。師匠との貴重な時間を邪魔して悪かった」
「ああ――そうだ団長、出て行くついでにこれを持って行け。オレ宛てに届いた手紙の中に、また隊正宛てのものが混ざっていた。あとで届けるつもりだったがちょうどいい」
群青は思い出したように言い、デスクの引き出しから白い封筒を取り出すと仁に渡した。
「おっと、そいつは悪いな。まあ、普段からうちに届く手紙の大半はお前宛てのもんで、それも毎日何通も届くんだ。配達物の仕分けしてる事務の連中も油断しちまうよ。こればっかりは大目に見てくれ」
「わかっている。そこに文句はないさ」
「隊正には俺から渡しておく。たしかに受け取った。行こう、東雲」
「はい。それでは――あ、そうだ……い、いえ、すみません団長さんにお聞きします。それでは、失礼いたしました」
急いで医務室を出て扉を閉じ、ほっとひと息。別れ際にひとつ質問をしそうになった瞬間に睨まれてしまった。気難しいというよりは手厳しいというか。これまで雅日との会話のうちに他の面々に向けていたような辛辣さや刺々しさはなく、むしろ質問すればなにかと親切に教えてくれていたものの、おそらくそれはこちらが彼の言葉に素直に従っている間に限定されるのだろう。
医務室を離れ、仁のあとをついていく。
「この先に図書館がある。読書は好きか?」
「あ、はい。ちょうどそのことをお聞きしたかったんです」
「ああ、さっきのか。すまんな。群青はいいやつなんだが、いかんせん師匠贔屓というか。楼蘭殿が絡まなければ普段はもう少し穏やかだ。今日はちょっとタイミングが悪かったな。で、どうした?」
「図書館にはその、魔力学や魔術について学べる本はありますか?」
「魔力学の本ならあるぞ。基礎的な部分からある程度の段階の知識までは図書館にある本でまかなえる。もしすべて読み終えても学び足りなければ、さらに高度な学術書も取り寄せ可能だ。だが魔術書ってなると難しいかもな」
「難しい、のですか?」
「そもそも魔術っつうのは……俺はあんまり詳しくないんだが、人それぞれ使い方っつうか、こう、作法とかが違うんだそうだ。まあひと言に魔術系って言っても全部同じなわけじゃないからな。ナンチャラ術とかナントカ術とか、いろいろ種類もあるだろ。呪文を唱えると術が発動するとか、魔法陣を描いてとかな。それに、そもそも能力系統自体がただの目安にすぎないもんで、そんなはっきりと分類されるものじゃないし」
「そうなんですか? その、武装系……とか、魔術系とか、他にもたくさんあるのですよね?」
「世の中にはいろんな能力がある。系統能力ってのは、そういうのをなんとか分類してまとめたってだけのもんだ。これから一緒に戦う仲間に自分の能力を手短に説明するためにな。ちょっと珍しい能力だと、既にあるナントカ系のどれにも当てはまらないのもあるし、たとえば蘇芳は魔術系寄りの武装系なんだが、そんなふうにはっきりひとつの系統で言い表すには微妙なバランスの能力もある。ま、そのあたりは魔力学を学べば自然と理解できてくるだろう。どんなことも人それぞれ、十人十色の手法と技能がある。ってなると数学みたいに、これにはこの公式を使ってこう計算する、これが正解だ、つって手順や答えをはっきり定めるのも難しいってこった」
「それじゃあ、魔術の指南書のようなものはないのですね」
「少なくとも俺は見たことがないな。まあ騎士団にはないってだけで、魔術書自体は存在するんじゃないか? なにも世の中の魔術師全員が独学で魔術を身に着けたわけじゃないだろうからな。誰かに弟子入りしたり、自分から弟子を取るやつもいるはずだし、その指南の方法が口伝だけとは限らない。書物もあるだろうさ。学術書みたいに広く世間に出回っている魔術書はないが、その界隈でのみ知られる書物が一部で出回って……ってな具合に。なんにせよ貴重なもんだ。魔術師同士のコミュニティをうまいこと見つけられれば手に入る可能性はあるが」
「うーん……今のところは厳しそうですね。ギルドに向かう前に少しでも予習できればと思ったのですが」
「まあ、まずは基本的なことからコツコツとだな。あせらなくても、近いうちに本物の魔術師と会えるんだ。魔術のことはそこから学ぶといい。それにその魔術師の伝手で魔術書を拝む機会が得られるかもしれんだろう」
「そうですね……まずは魔力学を勉強することから、ですね。あの……できれば簡単なところから入りたいのですが」
「そうだな、基礎をわかりやすくまとめた本があるから、それから見てみるといい。……着いたぞ、ここだ」
「わ、広いですね」
広々とした空間にずらりと立ち並ぶ大量の本棚。窓際にカウンター席があり、その手前の空間にも長テーブルと椅子が整然と並べられている。日の光がたっぷりと差し込む大きな窓からは外の景色が一望できて、明るく開放的な印象だ。
「閉館は午後八時。本の貸し出しは入り口近くのカウンターに図書の貸し出し表があるから、そこに本のタイトルと自分の名前、借りた日付を書くだけだ。返却は一週間以内だが延長もできる。手続きも簡単だから、気楽にいろいろ借りるといい」
「はい、ありがとうございます」
「案内はここで最後だな。俺は訓練の様子を見に行くが、東雲はどうする? そのへんを適当に散策してもいいし、部屋に戻ってゆっくりするでも、ここで読書に耽るでも。今日のところは好きにしてていいぞ」
「では、さっそくこちらで魔力学の本を拝読させていただきます」
「真面目だな、隊正にも見習ってほしいもんだ。……そうだ、近いうちに医務室で身体検査を受けてくれ」
「検査、ですか?」
「ああ。他にも年に一度の健康診断もあるが、ひとまず今回は身体測定とか血液検査とか、視力検査とかそういう簡易的なもんだ。新人は入団した時期に関係なく必ず受ける決まりでな。そのうち医療班から連絡が来るはずだから、呼ばれたら忘れずに行ってくれ」
「わかりました」
「俺からはひとまずそんなとこだな。なにかあったら訓練場のほうに来るといい」
「はい、ありがとうございました」
仁の姿が見えなくなってから、雅日はくるりと図書館に向き直り、よしと気合を入れて足を踏み出した。民俗学、生物学、童話、物語小説。所狭しと棚を埋め尽くす英知の結晶。知識の宝庫。その一角には話に聞いていたとおり、魔力学の本も並んでいた。思っていたより数が多い。ひとつひとつを手に取ってみて、仁に教えてもらった本を探す。まずは基礎。簡単でわかりやすく、敷居の低いものから。幸い、雅日は十分に文字の読み書きができる。以前の屋敷でも、幼いころの知世に夜ごと本を読み聞かせていたものだ。読書は昔から好きで、勉強自体もさほど苦に思わない。知らないことを新たに学んでいくのは純粋に楽しいと思う。
魔力学の基礎について書かれた本を何冊か選び取り、席に着く。騎士たちは訓練中なので、今この図書館は雅日の貸し切り状態だ。しんと静まり返った部屋の中で、雅日は新たな知恵の扉をめくった。
人間が高い集中を保っていられるのは十五分程度。そして集中力の持続時間は九十分が限界だと聞いたことはあるが、雅日がはっと気付いて時計を見たとき、外は既に暗く、日はとっぷりと暮れていた。読書を開始したのは午後二時ごろのこと。現在時刻はもうじき午後八時を指そうとしていた。あと数分で閉館時間だ。あわてて立ち上がり、読み終えた本を元の棚に戻し、読みかけの本を借りて図書館を出る。
本部を出て寮に戻るには外にある渡り廊下を通るのだが、寮が近くなってくると急に照明がなくなり、あたりが暗くなった。昼間は気付かなかったが、このあたり一帯の照明が壊れているようだ。とはいえ向こうに見える建物の明かりを目指して歩けばいいだけなので、とくに困りはしない。しかしなぜこのあたりの通路にだけ明かりがないのか、理由は気になった。
建物からもれている光を頼りに歩いていると、近くの暗がりの中で人影が動いた。大柄な男性だ。仁だろうか――雅日がその姿に気付くと、向こうもまた雅日に気付き、こちらへ歩いてきた。夜の静謐の中に大雑把で荒っぽい足音が近付いてくる。同時にあのシルエットは仁のものではないと確信した。
「よう姫様! どこにいたんだよ!」
「た、隊正さん、こんばんは……」
現れた赤毛の騎士の、昼間と変わらぬ声量に思わずうろたえながらも応じる。
「だからさんじゃなくていいってよ!」
「えっと、じゃあ、隊正くん……どうかしましたか? 私はずっと図書館にいましたけれど……なにかご用が?」
「おう、捜した捜した! このへんうろうろしてりゃいるかと思ったけど全然いねえんだもんよ!」
「わっ、あ、あの……どうせならもっと明るいところで、静かに、もう少し静かに……す、座ってお話ししませんか? ね? そうしましょう!」
どこまでも響いていきそうなほど大きな声に、思わず雅日がそう切り出した。寮のほうなら食堂も休憩室もある。音を隔てるもののない野外で話していると、彼の大声に苦情が来そうで落ち着かない。
隊正の背中をそっと押して誘導する。隊正は目をぱちくりさせると、雅日の右手首をがしりと掴み、ぐいっとやや強引に背中から引きはがした。力が強い。いきなり馴れ馴れしすぎただろうか。心臓が縮む思いだ。
「あっ、ごめんなさい、つい……」
「っはー、なるほどねえ。こりゃ俺がちょっと力入れたら壊れるってのも納得だ。戦わない女ってのはみんなこうなのか? うちの騎士の女どもはゴリラばっかでこんな細っこくねえぞ」
「だ、誰かに聞かれたら大変なことになりますよ、その発言……」
雅日の手首を掴んだ隊正の手をちらりと見やる。雅日よりひとまわりもふたまわりも大きい。傷だらけで分厚く、ごつごつとした硬い手だ。手のひらや指には何度も豆ができて固まった痕が見られ、それは命のやりとりに快楽を見出す彼の狂人っぷりの現れでもあり、同時に彼自身の、強さを貪欲に求めるひたむきさと努力の証でもある。
隊正は雅日を掴んだまま、その華奢な手をまじまじと観察している。
「王様や団長たちが言ってたのもマジだな。こんなんじゃたしかに引っ張ったら手ぇすっぽ抜けるし、叩いたら折れるし肉ももげらァな」
「さすがにそこまで脆くはないですよ」
「だって、このまま俺が力入れたら、こんな腕簡単に折れるだろ?」
なんて恐ろしいことを言う人だ。
「そ、それは……そうかもしれませんけど……」
「でも俺は骨が折れる音って好きなんだよな」
隊正はけたけたと笑っている。不意に雅日の手首を握る彼の手の力が強まり、どきりとした。
「えっ……」
「聞いたことあるか? あの音。姫様は今までどっかの骨折ったことあるか? 誰かの骨の一本でも折ってみたらわかるぜ。あの音はよ、ちょっと気持ちいいんだよ。聞き心地? 耳心地? 小気味いいってのか? ハハハハッ! 思い出すだけで笑えてくるぜ」
「た、隊正くん?」
見上げるが、隊正の表情はよく見えない。ただ笑っていることだけが気配で感じ取れた。力が強い。手首がぎりぎりと締め付けられていく。
「姫様はなにが好きだ? 俺はとにかく俺よりも強いやつと戦いてえ。生ぬるい稽古なんかより本物の殺し合いのほうがいい」
「痛っ……」
次第に増していく圧迫感の中に軋むような痛みが走り、思わず声をもらす。すると、隊正はその瞬間に雅日を掴んでいた手をぱっと放した。思わず手を引っ込めて、身体の無事を確かめる。手首には握られていた跡がくっきり赤く残っているが、特別なんらかの損傷はない。隊正は雅日の手を放したそのままの姿勢で止まっている。
「悪い。別に力入れてねえけど、こんだけで痛ぇもんなのか? おい、俺はまだ折ってねえよな」
隊正はまた雅日の手を掴もうとして、しかしその手は触れる前に宙で止まり、今度は肩をがしりと掴んできたが、雅日がよろめいたのを見てまたすぐに離れた。触れたり離れたり、触れようとして触れなかったり、せわしなくわちゃわちゃとひとしきり動きまわったあと、隊正は癇癪を起したように声をあげる。
「ガアアーッ!! どこだったら触っていいんだよ! どこ触っても死にそうじゃねえか!!」
「な、なに、なに?」
「チッ! ったく、えーっと……あとはなんだあ?」
困惑している雅日をよそに、隊正は自分の左手に視線を落とした。暗い中で手のひらをじっと睨みつけ、じれったそうにうなっている。
「隊正くん? あの、どうしたんですか、さっきから……」
「ん」
雅日が改めて問いかけると、隊正は左手を雅日の目の前に突き出した。暗くてよく見えないが、彼の大きな手のひらに箇条書きでなにかがメモされている。公用言語ではなく、リラ式でもウィラント式でもない、ということまではわかった。西大陸のものだろうか。雅日の知らない言語だ。
「……それは?」
「王様が仲よくしろって言ってたろ。でも俺は今まで、女は騎士やら傭兵やらのゴリラみてえなのとしか喋ったことがねえから、姫様みてえなのとはなに話しゃいいか知らねえんだ。団長と蘇芳が怖がらせることはすんなって言うから、じゃあどうすりゃいいのか聞いたんだよ」
「そ、その姫様って呼び方、やめませんか? 恥ずかしいです」
「やめたら慎重に扱えって命令忘れちまうけどいいのか?」
「よくないです」
「そんで蘇芳が、仲よくなるにはまず互いのことを知るのがいいって言いだして。なんか知らねえが、相手の好きなことについて聞いて、その話をするのが一番いいらしい。ま、蘇芳が言うんだったらそうなんだろうって思ってよ」
「は、はあ」
「で、俺は話したから姫様の番だ。好きなもんはなんだ。食いもんでも場所でも遊びでも、なんでもいいぜ」
どうやら先ほどの不穏な発言は、単純に彼が雅日に自分の好きなものを教えてくれていただけらしい。てっきり手首を砕かれてそのまま殺されてしまうのかと思っていた。
「す、好きなもの……うーん、急に言われても……あ、食べ物だとクッキーが好きです。ジャムをつけていただくとおいしいの」
「クッキーにジャムつけんのか? 変な食い方するんだな」
「一般的な組み合わせだと思うけど……隊正くんは、甘いものは苦手?」
「考えたことねえな、俺はなんでも食うぜ。じゃあよう、嫌いなもんはなんだ」
「嫌い……えーっと……虫、でしょうか。クモやヘビは怖いし、そもそも虫全般が昔から苦手で。隊正くんは、なにか嫌いなものはありますか?」
「俺ぇ? 俺は……、……あー。注射だな」
「……注、射?」
「なに笑ってんだよ」
「い、いえ、ふふっ、ごめんなさい。ちょっと意外で……なんとなく親近感がわいたというか。たしかに注射は嫌よね、私も大嫌いです」
この屈強な戦士の口から突然注射が嫌いという言葉が出てくるとは。戦闘狂と呼んでしかるべき言動と倫理観、そしてこのたくましい大きな体格からは想像だにしなかった発言だが、彼も雅日と同じ普通の人間なのだと感じられて、少し安心した。
それだけではない。雅日と親睦を深めるために蘇芳からアドバイスを受けて、それを手のひらにメモまでして。先ほど会ったときの発言からしても、仁と蘇芳の二人と話してからずっと雅日を捜していたのだろう。しばらく捜して見当たらないなら、話をするのは明日にしてもよかったはず。おそらく今さっき教わったばかりのことを、早く実践してみたかったのだ。まるで大きな獣のような印象の男だが、意外とかわいらしい一面があったものだ。雅日はこの隊正という騎士のことを誤解していたのかもしれない。直前まで彼に対して抱いていた恐怖心や不安が、少しだけやわらいだような気がした。
「あ、ところで、どうしてこの通路には明かりがないのですか?」
「ああ、全部俺が壊したぜ」
気のせいだった。
次回は明日、十三時に投稿します。