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25 転身遠からず

「失礼いたします。礼様、玄関ロビーにお客様がお見えです」


無機質なノックのあと、司令室に現れたのはメイド服姿の修道女、聖導音アリアだ。アリアは扉の前で恭しくお辞儀をすると、淡々とした声でそう告げる。礼は彼女を見るとすべてを把握して頷いた。


「ああ、思ったより早いなあ。ありがとう、ここまで案内してあげてくれる?」


「かしこまりました」


もう一度深く頭を下げ、修道女は静かに司令室を去っていく。探偵はそれを横目に確認してから朱雀に問いかけた。


「浅葱蘇芳についてはどのような印象を抱いている?」


「蘇芳……さん……は、……えっと」


朱雀は口ごもる。おそらく彼は副団長に対して言葉にできるほどの印象を抱いてはいないのだ。自分を騎士団に連れてきたのはたしかに蘇芳だが、朱雀にとってはそれだけなのだろう。


「言葉にできなければそれでもいい。騎士団でお前の世話をしているのは、この群青二葉という者だけか?」


「いえ……雅日さん、と……あの、……あ、セガル、さん……が」


「あー、世話焼きそう」


「あと、団長がよく……馬術、と剣を……教えてくれます」


郁夜が席を立って部屋を出て行く。飲み物を用意しに行ったのだ。探偵の発言から来訪者は蘇芳だろうと予想する。最後に彼と直接会ったのは半年ほど前のことだったか――ロアは手紙を元どおりに折りたたんで封筒に戻しながら小さく息をついた。リラほどではないものの、彼のことはよく知っている。蘇芳が朱雀という存在にどれほど強いこだわりを持っているかはわからないが、現状に対する彼のあせり具合によっては、ロアは礼たちの前で少し嫌な大人になる必要があるかもしれない。


「平素より大変お世話になっております。ロワリア国の化身ロア・ヴェスヘリー様、ならびにギルド長様に、僭越ながらご挨拶申し上げます。私はリラ国正規近衛部隊モナルク騎士団副団長、浅葱蘇芳と申します」


扉の前でつらつらと口上を述べて深くお辞儀をするのは、ロアの予想したとおりの人物だった。浅葱蘇芳はゆっくりと頭を上げ、一見冷静そうな表情を保って礼を見ている。礼は数秒間その視線をまっすぐに受け止めていたが、すぐにいつものにこにことした笑みを浮かべた。


「俺がギルド長の來坂礼。郁……副支部長は今席を外してるけど、飲み物を淹れに行っただけだからすぐに戻ってくるよ。まあ入って入って」


「失礼いたします」


「一応こんなでも頭を任せられているから、ナメられないようにしてるだけだよ」


礼からの突然の牽制に、司令室に足を踏み入れた蘇芳の動きが一瞬だけ止まりかける。わずかな動揺の直後、蘇芳はにこりと微笑みを返した。ロアの推測でしかないが、初対面かつ年上の蘇芳相手に敬語を使わない礼の無作法さに心の中で不平を鳴らしたのだろう。蘇芳は優しい笑顔を浮かべながら息をするように人を欺ける油断ならない相手だが、礼も彼とはまた違った意味で油断ならない相手なのだ。蘇芳にとっては相性が悪い。


「そっちこそ、年下相手なんだから敬語じゃなくていいよ」


「いいえ、私にはとるべき体裁がありますので」


「もうちょっと力抜いた敬語ならどう? 騎士団にいるときみたいな。聞いてるこっちが苦しくなってくるからさ」


「わかりました、善処しましょう」


「あと俺のことは礼でいいよ。俺も蘇芳って呼ぶから」


含みのある笑顔を向け合う二人。礼はただ蘇芳がそうするから同じようにしているだけだ。蘇芳は初めて会ったときから既にこうだった。穏健なのは表面上だけで、笑顔の裏ではなにを考えているのやら。彼はリラ以外の他人には一切として気を許さない。


「まあ蘇芳、ここに座るといい」


ロアが席を譲ろうと腰を浮かせるが、蘇芳はすかさず手で制した。


「私はこのままで結構です。ロワリア様を立たせるわけには参りません」


「気にすることはないさ。モナルク騎士団とは違って、ここでは私と君たち人間の間に明確な上下関係は存在しないのだから」


「いいえ、あなた様は我々下々が敬意を払い尊ぶべきお方であらせられます。偉大なる国の化身様が、たかが人間のために席を譲るなど国家の沽券にかかわることであり、本来あってはならないことです」


「堅苦しさも相変わらずのようでなによりだ」


「お褒めの言葉として拝受いたします」


郁夜が戻ってくる。手に持ったお盆の上には、このギルドの日常の中ではなかなか見ない数のカップが乗っている。


「朱雀、なにがいいかわからなかったからオレンジジュース……おっと、もう着いてたか」


「お初にお目にかかります、副支部長様。リラ国正規近衛部隊モナルク騎士団、副団長の浅葱蘇芳です」


「ああ――副支部長の雷坂郁夜らいさかいくよだ。そうか、お前が噂の副団長……想像していたより若いな。てっきり、もう少し歳を食った見た目だと思っていた」


「老けて見られる郁とは正反対だな」


「喧嘩売ってるのか、礼」


老けて見られるという言い方は少々悪意があるが、郁夜が実年齢よりも平均して五歳ほど上に見られがちなのは事実だ。表情や言動が落ち着いているから大人びて見えるのだろう。彼が自分の年齢を申告すると、納得されることよりもおどろかれることのほうが圧倒的に多い。


軽口を叩きながらコーヒーを受け取った礼は、部屋の奥にある自分のデスクに移動する。空いた席を蘇芳にすすめるが蘇芳はそれを断り、代わりに郁夜に座るよう促した。


「コーヒーと紅茶、どっちが好みだ」


「いえ、せっかくですがご遠慮します。私は朱雀くんを迎えに来ただけですので」


名前を言われて朱雀は蘇芳を見上げる。郁夜は朱雀の隣に座り、彼の前にオレンジジュースの入ったグラスを差し出してから蘇芳に向き直った。


「迎えに来たと言うが、朱雀はしばらくギルドに滞在することになると思うぞ。急なことだから、詳しいことを決めるために一度騎士団に戻ることになるかもしれないが。こっちは既にそれを依頼として受理すると決定したところだ」


「わが騎士団内部の一方的な事情で、無関係な皆さまのお手を煩わせるなど言語道断です。そも、彼はこのギルドに籍を置くための条件を満たしていないのでは?」


「条件は満たしてるよー」


礼が遠くから返事を投げかける。


「だとしても、朱雀くんは既にわがモナルク騎士団の一員。であれば彼についての問題は、わが騎士団で解決すべき事柄です。依頼は取り消させていただきます」


「それは承諾しかねる」


一人悠々と紅茶を味わっていた探偵がようやく話に加わる。蘇芳は微笑みを崩さない。ある程度はなにを考えているか読めるが、逆に言えばある程度までしか読ませてくれないのが彼だ。おそらく機嫌はよくないだろう。


「理由をお聞きしても?」


「貴様が依頼人ではないからだ」


「私には騎士たちを統率し管理するための、副団長としての立場と権限があります。たとえ私が依頼人本人でなかったとしても、騎士団からの依頼ならば――」


「残念ながら、これは騎士団からの依頼ではない」


「……なにを」


「依頼内容をしたためた書面に押された判、そして封蝋の紋章――これは万屋鈴蘭のものだ。つまり、この依頼は騎士団からではなく、万屋鈴蘭からのものと言える。ならば貴様にそれを取り消す権利などないだろう」


「朱雀くんは騎士であって武者商人ではありません。朱雀くんの留学を騎士団外部の者が決定するということのほうが筋違いなのでは?」


「この者は朱雀の教育係を任された後見人なのだろう? 十分に筋が通っている。貴様は朱雀を騎士団に連れてきただけで、以降の世話は他の者たちに任せきりだそうではないか。朱雀をギルドに預けるという話も教育の一環としての意味を含んでいる。ならば貴様が口を挟む資格はあるまい」


「蘇芳は朱雀がギルドから帰ってこなくなるかもしれないのが心配なのか」


郁夜の問いに蘇芳は一瞬答えに詰まった。


「いいえ、内輪の事情を外に持ち出すべきではないと申しているのです」


「ギルドと騎士団の二重生活を続けた末に、騎士になるか、それともギルドに鞍替えするか……鈴蘭に下ることも考えられる。どこにも属さず一人で生きる道を選ぶやもしれん。だが、行きつく先がどこであろうと、それは朱雀の自由だ。朱雀のためを思えばこそ本人の望んだ道を歩ませるべきだということは貴様もわかっているだろう。朱雀は騎士団に入るとき、自ら望んで入ったのか? 貴様が勝手に連れ帰って、勝手に入団させただけだろう。ならば、いずれ騎士団から出て行く判断を下したとしても、それは朱雀の勝手だ。他人がとやかく言えたことか。朱雀は世界を知るべきだ」


「あ、あのさぁ、浅葱も探偵も譲る気がないんだったら、それこそ本人に決めさせたら?」


探偵のうしろから秋人が口を挟む。蘇芳は秋人を見てから朱雀のほうに視線を移す。


「朱雀くん、騎士団に帰りましょう。わざわざギルドに滞在せずとも、探偵さんと交流を続ける手段ならいくらでもありますよ」


「朱雀、今この瞬間は他の者の言葉に耳を貸すな。お前自身が今どう思っているのか、素直な気持ちを言ってみろ」


「あ……、う……」


朱雀は困ったようにも泣きそうにも見える顔で戸惑い、うつむいてしまう。やがて、彼は探偵をじっと見つめた。それが答えなのだろう。


「私は歓迎するよ。騎士団にいるのは大人ばかりだからね。朱雀はまだ子どもなんだし、大人だけでなく子ども同士での関係を築くという経験も必要だ。ここでしか学べないことはたくさんあるだろう。距離があるから頻繁に行き来するのは大変だろうし、やはりひと月ごとに行き来するか、一か月おきに半月ほどの滞在とするのが妥当なところかな」


「ロワリア様」


「わかっているだろうが、私はこちら側だぜ? 君には悪いけど、当然探偵の肩を持つとも」


「しかしそれでは……」


「……なあ、蘇芳。できればこんなことは言いたくなかったし、君は私にこういうことを言わせない子だと思っていたんだけれどね」


ロアはため息をついて、まっすぐに蘇芳の目を見据えた。


「君は私の決定を覆すつもりか?」


その言葉に蘇芳は押し黙る。国の化身と人間との関係は、リラと騎士団のように明確な上下意識や主従関係があるのが普通であり、ロアと礼たちのように上下も主従もなく、まるで友人や家族のような関係を築く化身は少数派もいいところだ。蘇芳たちは化身を明確に目上の存在と認識している。


本来、国がどのように発展して繁栄し、どこへ向かうのかは、そこに住まう民が決めることである。民草から王のような扱いを受けやすい存在である化身たちは、それゆえに強い権威を持ち、発言力と影響力がある。だからこそ、人間同士の議論や諍いがあったとしても、化身が直接会話に加わって意見を述べることは避けるべきだ。ときには多少の手助けや助言をおこなうこともあるが、化身が意見を出せばそれが結論となってしまい、人間同士の議論の機会を奪ってしまうことになる。


反対に、それを利用すれば権威を盾に自分の意見を押し通すこともできる。


ロアはそれが嫌で、礼たちとは対等な関係を築くことにしたのだ。権威を振りかざして物事を己の意のままに動かすというのは、とても気分のいいものではない。だが、ずるずると長引きそうな話をすっぱりと終わらせるには――とくに蘇芳が相手となると――これがもっとも効果的であることも、ロアは理解していた。国の化身が絶対的な権力者であることを理解し、人間が化身に逆らうことなどあってはならないと信じているのだ。


ロワリア国以外ではこれが当然の反応ではあるのだが、リラ国民は周辺諸国と比較しても愛国心の強い者が多い。その中でも蘇芳の忠義は折り紙付きだ。祖国の化身を崇め敬う彼のような者ほど、他国の化身に対しても敬意を忘れず、礼を欠くことのないよう努める。序列を重要視する性格に加えて「誰にでも礼儀正しい副団長の浅葱蘇芳」という仮面を外すことができない彼には、人間より上の立場である――と多くの者が思い込んでいる――国の化身の言葉に異を唱えられるはずがない。


「今回の件に関して、リラは私とギルドに判断を任せると言ったんだ。それは既に聞いているんじゃないのかい? 私はもう答えを出したよ。物分かりのいい君なら、これ以上の議論は必要ないとわかるだろう。そうだね?」


蘇芳がロアを見る。ロアが権威を振りかざすことをよしとしない化身であることを、これまでの幾度とない会合の中で彼は知っていた。なので、ロアがこういった形で話を終わらせようとすることが意外だったのだろう。冷静さを装う瞳の奥に、一瞬だけ忌々しいものを見るような敵意の色がよぎったが、彼はそれをごまかすようにさっと頭を下げた。


「身の程を弁えず出過ぎた真似をいたしました。申し訳ございません。どうか無礼をお許しください」


「かまわないさ、こちらこそ強引なやり方ですまないね。だけど考えてみてほしい。朱雀をギルドに預けることは、彼が騎士団がギルドを繋ぐパイプになるということでもある。既に雅日やセガルがここの子たちと仲よくしているようだけど、その役割を担う者が増えるというのは悪い話じゃないはずだ。違うかい?」


「おっしゃるとおりでございます」


「ギルドとしては、君たち騎士団とは友好的な関係を築いていきたいんだよ。これは朱雀のこととは関係なく、以前からリラと話していたことなんだけれどね。両組織間での交流は、ギルドの子たちにとっていい経験になるし、騎士団にとってもいい刺激になるはずだ。そのためのキッカケとしてはちょうどいいだろう。だからこそリラは私に最終判断を任せ、私は私で朱雀をギルドに受け入れたいと思ったんだよ。……とはいえ、リラの腹心である君がどうしても嫌だと言うのなら私も引き下がるが」


「とんでもないことでございます。わが主君たるリラ様、ならびにロワリア様のご判断に従う所存です」


「そうか、ありがとう。無理を言って悪いね。ギルドの子たちとは仲よくしてくれると助かるよ」


「かしこまりました。そのように努めます」


蘇芳はロアにもう一度頭を下げると、礼がいるデスクのほうへと歩み寄る。


「礼くん。今回の件について、リラ様には私からお伝えします。必要なものは既に荷物に詰めて持ってきているでしょうから、荷造りのための帰国は不要です。先ほどまでの話しぶりからして、滞在は本日付けでのことと捉えてよろしいですね?」


「うん、いいよ。部屋はすぐに用意できるし、ロアの話だと、ギルドうち騎士団そっちの設備は似てるところが多いらしいから、なじむまでに時間はかからないと思う」


ロアは朱雀が持ってきていたカバンに目を向ける。既に荷物はまとめていると言うが、数日分の着替えやその他生活に必要なものがすべて詰まっているとは到底思えない。もしそうだと言うのなら、彼は本当になにも持っていないに等しいということになる。


「二重生活のことがなくても、日用品は多少買い足したほうがいいね。歯ブラシやタオルなんかは備品として支給するからまだいいとして……荷物がそんなに小さいカバンひとつで済むなんて、着替えもろくに持っていないということだろう?」


「朱雀くんが持っている服といえば……制服とそのスペア一式と、寮の備え付けのガウン、それから出会った日に私が差し上げた服が一着ですね。ひどい格好でしたので、そのときに私の着替えを着せました」


秋人はソファの背もたれから肘を離して体を起こす。


「少なっ! 私服はお古が一着だけってこと? それに浅葱のってことは、サイズも合ってないだろ」


「そういうことになります。雅日さんにお願いして買い物に連れ出してもらうべきでした。ご覧のとおり自分ではなにも判断できないように育てられた子ですから、一人で買いに行くのは無理でしょうし」


「なんか気の毒になってきた……俺が選ぶの手伝うよ……」


「部屋もそうだが、まず馬小屋を用意しないとね。中庭を見てくるから、あとのことは君たちで決めてくれ」


ロアは席を立ち、ジオもそれを追うように司令室を出て行く。あとに残された六人の間に数秒の沈黙が流れた。探偵は優雅に紅茶を味わっており、朱雀は自分の前に置かれたグラスに視線を落としたまま固まっていて、郁夜は礼と蘇芳の様子をうかがっている。秋人が探偵の隣に座ると、寿がその膝に飛び移った。秋人を椅子代わりにもたれてくるのを腕で抱いたまま、蘇芳と礼を見る。


「浅葱、朱雀くんがこのままここに残るって決まったってことも、全部あとから報告するのでいいのか?」


「ああ、リラ様は俺を信頼してくださっているから、大抵のことは俺に判断が任されるんだよ」


ソファと奥のデスクとでは距離があるため会話がしづらい。秋人は寿を抱いたまま立ち上がってそちらに歩いて行く。


「へー。ああでも側近っていうか、専属の騎士なんだっけ。でも団長さんとかは? 他の騎士仲間とか、そっちは大丈夫?」


「仁団長も出発前に、ギルドでの判断は俺に任せるとおっしゃったから問題ないよ。それと、できれば俺のことは蘇芳って呼んでくれ。潜入中と騎士団とで名乗り分けているから」


「うーん、今さら呼び分けられるかなあ……努力はしてみるよ」


礼がデスクに頬杖をつく。


「なーんで秋人にはタメ語?」


「俺がギルドに来る前のことなんだけど、浅葱とは――あ、蘇芳とは前に会ったことがあって。それで前のリラでの任務で再会したんだよ。だからそのときの名残っていうか……そういえば、さっきまでは俺にも敬語だったよな?」


「ロワリア様がいらっしゃる前では仕方ないよ」


「リラさんの前ではそのままだったのに」


「それはリラ様が俺を信頼してくださっているのと同じように、俺もリラ様を信頼しているからだよ。秋人と前に会ったことがあることも、そのときにどう接していたのかも話していたから、あのときはむしろ君への態度を変えるほうが不自然だったんだ」


「ふーん?」


「今のところ、俺がこうやって話すのは相手が秋人のときだけだよ」


蘇芳はそう言いながら、秋人の腕の中から自分を見上げている寿に手を伸ばすが、その指が寿に触れる前に、寿が彼の手に噛みついた。一度だけでなく何度もがじがじと噛み続けるので、秋人はあわてて寿を蘇芳から遠ざける。


「わっ、こらこら! ……あ、よかった甘噛みだ……大丈夫か?」


噛まれたところを見るが出血もなく、赤く歯型がついただけだ。どうやらきちんと加減したらしい。


「昔から小さい子や動物からはあまり好かれなくて」


「俺だって、このもちもちほっぺにはなかなか触らせてもらえないよ」


秋人も探偵と出会ったばかりのころに寿に噛まれたことがあるのだが、危うく手のひらの肉をごっそり食いちぎられそうだったのを覚えている。肉が裂けて骨は砕け、傷口がズタズタだったせいもあってか、完治までにいつもより多くの時間がかかったのだ。そんな秋人が今こうして寿を抱えていられるのも、探偵が近くにいることで寿の精神状態が落ち着いているからに他ならない。


「あはは、噛み切られなくてよかったね。寿は探偵以外にはなかなか懐かないから」


礼は冗談のような調子で軽く言うが、それが冗談でもなんでもないことを蘇芳以外は知っている。


「それより、朱雀にギルドの中を案内してあげないとね」



*



「そう……朱雀くん、無事に探偵さんと会えたのね。よかった……」


「一か月ごとに半月、向こうに留学するってことになったらしいですよ。僕は団長から聞いたんですけど……ギルドから帰ってきたあとの蘇芳さん、めちゃくちゃ機嫌悪そうでした」


雅日とセガルがそう話しているのは、訓練場の休憩スペースでのこと。苦笑まじりに声をひそめるセガルはタオルで汗を拭くと、雅日が用意した差し入れのレモン水を飲んで息をついた。訓練で動きまわったあとなので顔が真っ赤だ。雪国セルーシャではないものの北国ロラアン出身の群青も色白で、朱雀はスーリガ出身だが青白くさえ見えるほどの肌を持っているというのに、セガルに並んで肌の白いあの二人は、いくら運動しても日に当たっても顔色が変わらない。もともと放熱が苦手な人種とはいえ、セルーシャ人かそうでないかでここまで差が出ることにはおどろきだ。


撫子はよくセガルを「リンゴちゃん」と呼んでいて、雅日も彼の赤くなった顔を見るとその表現が頭をよぎるのだが、本人が気にしているといけないので口に出したことはない。


「あのギルドの方をそこまで警戒する必要はないと思うけど……」


「まあ、蘇芳さんですからね。誰が相手だったとしてもまずは警戒ですよ。礼に対しては気を張るだけ損だと思いますが」


「支部長さんはなんでもお見通しだもの。もっと気を楽にしてお話しできるようになるといいわね」


「あの人には無理じゃないですか? 職業病……っていうか、癖みたいなものでしょうし」


「出会う人みんなを警戒するなんて、疲れないのかしら」


「それが当たり前になっているから、警戒するなって言うほうが無理なんですよね。言動の裏を読んだりとか、その人の真意を考えたり疑うことが自然になってて、そうじゃないとむしろ落ち着かないんですよ。蘇芳さんは並のセルーシャ人より警戒心強いです」


「セルーシャ国の方は警戒心が強いって噂は本当なのね。セガルくんにはあまりそういう印象はないけど……」


「そりゃあ、セルーシャで暮らしていたころの記憶なんてほとんど残ってませんから」


「そういえば、ここにはいろんな国籍の方がいるけど、セルーシャ人はセガルくんだけなのね」


「ですね、騎士団以外でもあまり見かけません。たしかギルドに一人いるらしいですけど」


「あのギルドにもいろいろな国籍の方がいるものね」


「ロワリア人以外のほうが多いらしいですし、たしかリラ出身の子もいるって聞きましたよ。騎士団はリラ人とウィラント人が大半ですから、なんというか……同じ組織に所属している仲間が、みんな出身がバラバラってどういう感覚なんですかね。自分だけみんなと違う、みたいな疎外感は少なそうですけど」


「セガルくんが入団してきたときは……やっぱり緊張した?」


「緊張というか……なにか言われるんじゃないかって身構えてた時期はありましたよ。騎士団初のセルーシャ人ってだけあってちょっと目立ちましたし。全体的になまっちろいし、かと思ったらちょっと動いただけで真っ赤になるし。それに僕は目がまだら模様で変な色ですから、それを気持ち悪いって思う人がいてもおかしくないです」


「そんなに変かしら……」


「よく見ないとわからないからいいんですけどね。それに疎外感といっても、すぐ気にならなくなりましたよ。ほとんど同時期に同じ北大陸出身の群青さんが来ましたし、少しあとには隊正が来たんで。僕よりあの二人のほうがよっぽどインパクトあって目立ちますから」


「エレスビノ人も今は隊正くんだけよね。過去に所属していた騎士の中には、何人かいらっしゃったみたいだけど」


「外国人の入団が認められるようになったのは大戦時代あたりからという話は聞いたことがあります。騎士団の歴史を考えると最近のことですけど、それでも二百年以上前の大昔ですからね。志願者はだいたい亡命者で、その中にセルーシャ人、ロワリア人、リレント人は一人もいなかったらしいです」


「統計では西大陸からやってきた人が多かったと聞いたことがあるわ」


「そりゃ逃げたくもなるでしょ。世の中、隊正みたいな戦闘狂ばっかりじゃないですから」


セガルは軽く笑ってから思い出したように雅日を見た。


「そういえば、隊正の魔力不全って今はどうなってるんですか? 薬を使うかどうか改めて検討しなおすって話、前になんとなく聞いた気がするんですけど」


「ああ……ええ。セレイアから帰って、すぐに話し合うつもりだったんだけど……すぐあとに隊正くんが倒れて、復帰してからはロワリアに行って、そこから帰ってきたら朱雀くんが――って、立て続けにいろいろなことがあったから、それで話を切り出すタイミングを見失っちゃったのよ。できれば、詳しいことは二人だけのときに話したいと思って……」


「雅日さんから話を振らないと、隊正からは絶対にその話はしませんよ。自分にとって都合の悪い話ですから」


「……そうよね。本当は、いろいろあったから――なんて言って、ただ逃げているだけなのかもしれないわ。いつも一緒にいるのだから、話をする時間なんていくらでもあったはずだもの」


「逃げているのは隊正のほうですよ」


「いいえ、そんなことないわ」


雅日がいつになく思い詰めたような表情をするので、対するセガルもだんだんと真剣な態度になっていく。


「どうしちゃったのかしらね、私……気まずい話でも、必要ならさほど迷わずに話せる性格だったはずなのに。最近どうしてか、それができなくなってしまったの。人と向き合うのが苦手になってしまったというか……」


「雅日さんはやるべきことをしっかりやっていると思いますけど。それに朱雀が最近うわの空だった理由を聞き出したのも、あいつが……探偵さん? に会いに行けたのだって、雅日さんが朱雀と向き合って話をしたからでしょう?」


「でもね、私あのとき本当はすごく怖かったのよ」


「……怖かった?」


「地下にいたころの出来事が原因だって聞いた途端、それ以上話を聞くのが怖くなったの。聞いちゃいけないことを聞こうとしている、自分が知るべきでないことを知ろうとしている――そんな予感がして、とても怖かった」


「朱雀の虐待絡みの話って可能性があったからですか? まあ僕が雅日さんの立場でも、まずい話かなって思ったでしょうけど……怖いっていうのは……?」


「どうしてそう思うのかは、自分でもわからないわ。でもすごく怖かった。もしその場にいたのが私と朱雀くんだけだったら、我慢できずにその場で話を切り上げていたかもしれない。朱雀くんから詳しい話を聞けたのは群青先生のおかげよ。私はただその場にいただけで、なにもしていないわ」


「……僕が代わりに隊正と話しましょうか?」


雅日を気遣っての提案だろう。だが雅日は静かにかぶりを振った。


「いいえ、これは私に与えられた役目だもの。ちゃんと話してみるわ。いつまでも逃げてばかりじゃいられないものね」


「……やっぱり、雅日さんはしっかりしてますよ。でもあんまり無理はしないでくださいね。隊正が相手ならまあ、どんな話をしたって大丈夫ですから。あいつもなんだかんだ、そう悪いやつじゃないんで」


「……ありがとう、セガルくん。人に話したからか、少しすっきりしたわ」


「お役に立てたならよかったです。……あ、そういえば雅日さんに手紙が届いてるみたいなんで、あとで事務室に行ってみてください」


「あら、そうなの? すぐ受け取りに行くわね。教えてくれてありがとう」

次回最終話です。明日、十三時に投稿します。

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