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0 その後、双眸は蕾を見据える

雅日みやび、答えは決まったかな?」


座り心地だけでも上質な素材が使われていることがわかる、やわらかいソファに腰かけて、決心のつかないまま遠慮がちに正面を向く。その懊悩をいかに目で訴えかけても、彼女には見えていないというのに。


東雲雅日しののめみやびは決断を迫られていた。


「リラ様、私は……リーズベルグ人です」


リラ国の化身、ラセット・リラは盲目だが、今の雅日の感情を読み取るためには、目が見えなくともその不安と緊張に震える声を聞くだけで十分に事足りる。


「生まれと育ちはウィラントですが、両親は移民で、純血のリーズベルグ人です」


リラ国とリーズベルグ国の関係は、犬猿の仲などという生易しいものではない。世界中のあちこちで戦争が勃発していたといわれる大戦時代がその幕を閉じてから早二百年。大戦時代より以前から幾度となく衝突を繰り返してきた両国の敵対関係は、現在では冷戦という名の休戦状態に落ち着いている。これは和平でも、なんらかの形で清算を済ませたわけでもない。今現在は戦いが起きていないというだけだ。終戦から現在にわたって続いているこの平和は、なにがキッカケで崩れ去るかも知れない、蜘蛛の糸でつながれたものでしかない。それほどまでに、リラ国とリーズベルグ国は壊滅的なまでの不仲だ。彼女の前でリーズベルグという名を口にすることすら、身も竦むほど恐ろしく、これ以上ない不敬なのである。


ラセット・リラが盲目たる理由。それは雅日の祖国、その化身たるリーズ・ベルグとの戦いの中で、彼から受けた残虐な仕打ちによるものに他ならないからだ。


雅日の告白に、リラは落ち着き払った様子で首を振った。


「君は祖国の過去の所業に負い目を感じているんだな。だが雅日、私の目をつぶしたのは君じゃないだろう。私が嫌悪するのはリーズ・ベルグという名の一個人であり、かの島国の民に対しては悪い印象を持ち合わせていない。無論、それはわが民草にしても同じことだ。リーズベルグ人である君が私に仕えることに、後ろ指をさす者など誰もいないさ」


「ですが……」


雅日はつい先日まで、早乙女岳さおとめがくという人形師の男の屋敷に勤める使用人だった。


雅日の父は昔から体が弱く病気がちな人だ。そんな父がある日、重い病に倒れた。すぐにでも手術を受ける必要があったが、その医療費は一家の貯金と母の稼ぎだけでは到底まかないきれない額だった。当時十三歳だった雅日は自分も仕事をしてお金を稼ごうと決心し、母の反対を押し切って求職していたのだが、十八歳が成年であるウィラントでそれは困難なことだった。


そんなときに出会ったのが早乙女岳だ。ある日、たまたまウィラントを訪れた岳が、町にある店という店に片っ端から雇ってくれと頼み込んでまわる雅日の姿を見かけ、不思議に思って声をかけてくれたのだ。なぜ君はそんなに必死になって仕事を探しているのかと。幼い雅日が涙ながらに事情を話すと、岳は深く同情し、ならばうちに来なさいと言ってくれた。岳が父の医療費を肩代わりし、雅日はその借金を返すために彼の屋敷で働くことになった。主に彼の一人娘である知世の世話を任せられ、以来、十年以上にわたって乙女家に仕えてきたのだ。借金は数年で完済できたが、その後も雅日は屋敷に残った。早乙女家に尽くし仕え続けることが恩返しになればと思ったからだ。


しかしそんな岳と知世は、とある事件を引き起こしたことが原因で、現在は警備隊にその身柄を拘束されている。早乙女家に雇われていた使用人たちは職を失い、ある者は家業を手伝うために帰郷し、ある者は新たな暮らしのためにリラ国を去り、大多数は急な失業と主人の罪と転落に動じながらも、なんだかんだとすぐに次への一歩を踏み出しているようだった。


岳のもとに残ったのは二人。彼が幼いころからずっと傍仕えを続けてきた老年の執事と、同じく早乙女家との付き合いが長い庭師の老人だ。それ以外の使用人たちは雅日も含めて全員、岳の身柄が拘束されるより前に一斉に解雇された。これは岳本人たっての要望であり、この国を守る警備隊と騎士団の温情による措置だった。


数か月前からこの国に暗い影を落としていた目潰し殺人犯。岳の娘である早乙女知世こそが、その影の正体であった。愛娘が人を殺めてしまったとを知った岳は、その遺体を隠して事件を隠蔽することで娘をかばった。だがほどなくして真相は暴かれ、罪は明るみとなる。岳は言った。罪を犯せば罰を受けるのは当然であり、それを受け入れる覚悟も今や整った。しかし、せめて世間には、その事件が知世の手によるものではなく、岳一人がおこなったものとして公表してほしい。殺したのは岳で、知世はそれを見てしまったがために、命令されて望まぬ隠蔽に手を貸すことになってしまったのだと。事件を起こしたとき、知世は悪魔に取り憑かれていた。今回の事件は決して彼女が本心から望んでおこなったのではない。ただ無垢な少女が悪魔にそそのかされただけなのだ――と。


そして、こうも言った。逮捕よりも先に使用人たちに暇を出させてほしい。犯罪者の屋敷に勤めていたことが世間に知られてしまえば、罪なき従者たちまでもが好奇と批判の目にさらされる可能性がある。本人たちがなにをしたわけでもなくとも、自分たちのせいで彼らの今後の人生に影響を及ぼしてしまうかもしれない。それはあってはならないことだ。あくまで以前に仕えていた主人が捕まったという構図であれば、些細な差ではあっても状況が少しはましになるはず。どうか、民衆からの嫌悪と非難の声を浴びるのは、この早乙女岳ただ一人に留めさせてはもらえないか――。


あの日、雅日が屋敷に戻ると、そこへやってきた警備隊員の前で岳が涙ながらに懇願していた。あの厳格ながらも穏やかで慎ましい主人が、気高く利発で身綺麗な紳士が、実の娘だけでなく、ただの従者でしかなかった雅日たちのために、床に頭をつけて愁訴の声をあげていた。胸が痛かった。


雅日はある晩に父娘の罪の一部始終を目撃してしまった。知世の秘密を知ってしまった。そして、そのことを悟られては無事では済まされないだろうと二人を恐れるばかりで、いつしか忘れてしまっていたのだ。早乙女岳がどういう人物なのかを。なぜ自分が、警備隊や騎士団に匿名での通報をおこなうのではなく、わざわざ偽の脅迫状を使ってまで、彼らに自首を迫ったのか。その本当の理由を。


二人を恐れていたのなら、わが身がかわいいだけだったなら、朝を待つことなくすぐさま騎士団に駆け込んで、ありのままを告白すればそれで事件は解決したのだ。だが雅日はそうしなかった。道を誤った主人たちを正したかった。そこにどのような苦悩があろうとも最後には必ず自らの意思で正しい道を選ぶ、善良なる正しき人であってほしかったのだ。雅日の父が生きているのは岳のおかげだ。父の命の恩人である岳が、このまま悪の道の底にまで落ちていこうとしていることが我慢ならなかった。雅日のおこないは、岳と知世に対する雅日なりの忠義の現れだった。


あの嵐のような一夜が明け、岳は脅迫状の存在を警備隊には伏せたらしいことを人づてに聞いた。どういった経緯でかはともかく、彼はあの脅迫状に秘められた真の目的と、差出人の正体を知ったのだ。雅日は脅迫の罪で己も裁かれることを覚悟し、そうなることを望んでいたが、岳がそれを拒んだ。雅日は自ら名乗り出ようと思った。事件のことで殺害予告をおこない、主人を脅迫したと。その脅迫状の現物は岳が隠し持っているのだと。しかし事情を知る他の者に、それが岳なりの雅日への感謝のしるしなのだと諭され、結局雅日にはなにもできなかった。


職を失った雅日は事件のあと、この行き場のない罪悪感と喪失感を消化できずに二日間を無駄にすごした。このままぼんやりしていてはいけないと気を取り直し、胸にくすぶる暗い感情を払拭する意味も兼ねて、リラ国を出てよい仕事がないか探してみようと思った。両親のいるウィラントに帰るのでも、まったく知らない土地に行くのもいいだろう。新たな仕事を探す前に旅行でもして気分転換をしようと思った。今までは知世のもとを留守にするのが心配でできなかったのだ。雅日の周囲では最近だけでいろいろなことが起きた。しばらく心を休める時間がほしい。


せっかくの機会だ、行ってみたい場所はたくさんある。セレイア国の教会にあるという美麗なステンドグラスを見てみたい。荘厳なオルガンの音色を聞いてみたい。水の都という呼び名で知られるセリナ国の、その清涼で美しい町並みを見てみたい。北大陸のロラアン国と中央大陸のリチャン国には、それぞれ有名な温泉街があるらしいので、そこでゆったりと羽を伸ばすのもいい。東大陸にあるフェイムという国には、かつてドラゴンが住んでいたと語り継がれている山があるそうだ。ダウナ国には大昔に湖に沈んだ古代遺跡があり、話によれば水底の遺跡までダイビングもできるのだとか。


まずはなにも考えずに気ままにすごそう。ここしばらくの騒動で疲弊した心身を癒して、落ち着いてから仕事を探そう。あわてる必要はない。きっとなんとかなる――そう自分を励ましながら新たな生活のために進み出そうとしていたところを、このラセット・リラに引き止められた。リラ直属の近衛部隊である騎士団の使いがやってきて、騎士団の本部へ招かれ、案内されるがまま応接室に通された雅日は、リラの口から信じられない言葉を耳にした。


いわく、モナルク騎士団で働く気はないか――と。


「厨房の料理長は転職先の見つからない使用人たちを集めて、ウィラントでレストランを開業する予定だと聞いたよ。君はそちらに行くつもりだったのかな?」


「いいえ。お屋敷にはリラ国の方だけでなく、セルーシャやセレイア、レスペルなどのあらゆる国籍の方がいらっしゃいました。レストランを開くというお話はお聞きしていましたし、声をかけてもいただきましたが……お店の開業に携わるほどんとの方が、リラ人とロラアン人の方々でしたから……」


「なるほど。過去の戦争で私は両目を、ロラアンの化身は片腕をリーズ・ベルグに奪われている。君自身に罪はなくとも、歴史に負い目を感じている君には居づらいわけだ」


「みなさん愛国心がお強くいらっしゃいますから。もし私の血筋を知られてしまったらと思うと……これまで築いてきた関係に、亀裂が入ってしまうのではないかと心配で」


弱気になっている雅日の不安を聞いたリラはバツが悪そうに息をつくと、それをごまかすように前髪を掻き上げた。そして間を稼ぐように、どこか困ったような声で、うん、とうなる。


「あのな……たしかに私はあの男が嫌いだよ。ただ、それはあいつの性格、というか存在が……この上なく不愉快なだけであって、別にこの目のことをそこまで恨んでいるわけじゃないし、目のことが原因であいつを嫌いなわけでもない。もう二度とあの胡散臭い顔を見なくていいという意味では、むしろこれはこれでよかったんじゃないかとさえ思う」


ああ、せいせいするよ――リラは頷きながら鼻で笑った。


「そもそもあの海上戦での負傷の度合いはお互い様だった。歴史を学んでいるなら、その戦いの結末も知っているはずだ。なんとなく私が一方的に負けたかのように言われがちだけどね、戦いは痛み分けに終わったんだ。これで私の完敗だったなら多少は根に持っていたかもしれないが。……私たちはそういうものなんだよ。我々は国家であると同時に一個人でもある。国の化身がしたことに、民草が振り回される必要なんてどこにもない」


「リラ様……」


「――うむ、リラ殿の言うとおり」


突然背後から割り込んだ知らない男の声に、雅日はおどろいて振り向いた。


「そも、リーズベルグと戦った国家は、あの小僧から受けた仕打ちにばかり注目されているが、やつに腕を斬り落とされたロラアンも、両目を切り刻まれたリラも、それらの話には続きがあるのだ、娘よ」


長い暗色の髪をうしろで結んで編み笠をかぶった男が、ソファの真後ろに立って雅日を見下ろしていた。まるでトウシューズのような、つま先立ちを余儀なくされる異様な形の靴を履いており、そのため体格自体はやや小柄だが背丈はうんと高く見える。雅日はおどろきのあまり声も出せず、ただ口を開けたまま目を瞬かせた。扉の音はしなかった。足音も聞こえなかった。声をかけられるまで一切の気配がなかった。その三白眼と視線がかち合うと、男は色白の顔をこちらに向けてにこりと笑んだ。


「ロラアンは先の大戦時代、他国に武器を売り渡す代わりに、有事の際に武力的な援助を受けるという条件であらゆる国々と取引し同盟を結んだ。もとより軍事力に乏しかった上、既に隻腕であったため他国と争うことに消極的だったのだ。ある日、リラの騎士団に納品する装備を乗せた貿易船がリーズ率いる海賊軍の襲撃を受け、そこでロラアンの化身は残るもう片方の腕をも失った。その襲撃が原因で装備の納品に遅延が生じ、のちの戦いでリラ殿がリーズに後れを取る要因のひとつとなってしまった。だが、リラ殿の目をつぶしたリーズは、己が圧倒的優位に立ったと思い油断しておった。あの小僧はリラ殿の胆力を侮っていたのだ。リラ殿は目が見えぬままリーズの胸をひと突きし、あやつの肺と心臓を深く傷つけた。戦いは相打ちに終わり、両国ともに撤退を余儀なくされ、そのときのリーズの傷はリラ殿の目と同様、今も呪いのようにあの小僧の身を蝕んでおる。顔の傷とは違って胸の傷は表に出ないので取り沙汰されていないだけだ。ゆえにこそ再戦が叶わなず、形だけの冷戦状態が続いておるのだ」


「ああ。相手より優位に立つとすぐに油断するのは、あの男の悪い癖だ。その戦い以降、あいつが積極的に戦いに出ることはなくなり、ぱったりおとなしくなったよ。私が、二度と激しい戦闘などできない身体にしてやったからな」


「うむ。……もう一方の、腕を失ったロラアンのその後は南大陸こちらではあまり知られておらぬようだな? リーズ・ベルグという男は戦場で敵として相対した場合と、日常で単なる隣人として出会った場合とでは嘘のように人が変わる。ロラアンの化身は後日、護衛の従者二名を連れてリーズ・ベルグの屋敷を訪ねた。リーズがロラアンの船を襲ったのはリラへの武器の輸送を妨害するためであり、ロラアン国自体に敵意があるわけではないと知っていたため、危険は伴わないという確信があったのだ。ロラアンの化身はそこでなにをしたと思う?」


「え、えっと、奇襲……でしょうか」


「否……いや、うむ、ある意味そのとおりか。リラ殿との戦いで肺と心臓を傷め、療養のため安静にして眠っていたリーズの屋敷に忍び込み、寝室に大量の爆竹を投げ込んだのだ」


「えっ」


「そしてその詫びに栄養のあるものを振る舞うと言って、毒キノコの入ったスープを食わせた。毒と言ってもいわゆるワライ茸。食ってもしばらく笑いが止まらなくなるだけだが……量を誤れば健康体であっても窒息死しかねない代物だ。扱う側に知識があれば問題ないが」


「は、肺と心臓を負傷している人に……?」


「ついでに着替えを手伝うと言って靴下の中に生きたナメクジを仕込んで渡した。反応からして、おそらくこれがもっとも堪えたであろうな」


「ひ……」


思わず想像してしまい、背中がぞわぞわして全身に鳥肌が立つ。雅日は思わず身震いした。


「ひとたび狼煙が上がれば、何人なんびとたりとも無事には済まされぬが戦というもの。皆が皆、その身に大きな不安を残して余生を暮らしておるのだ。リラは窮地から一矢報いて勝負を永遠の相打ちに持ち込んだ。ロラアンもそれなりに憂さを晴らしたので、どちらもリーズ・ベルグを恨んではおらん。本国ではこの後日談までが一般教養として民草に浸透しているため、愛国心の強いロラアン国民であってもリーズベルグをそこまで嫌ってはいない。むしろ笑い話のうちだ。安心召されよ」


男の話を聞いていたリラが心底愉快そうに笑った。


「ははは! ナメクジとは。ワライ茸までは知っていたが、そんなに愉快なことまでしていたのか。あの男の青ざめた顔が目に浮かぶようだよ、ぜひ見てみたかった。結局あれにはそういうのが一番効くんだよな。また灸をすえてやる機会があったときは、ぜひあいつのシャツの背中に生きたセミでも入れてやってくれ」


「ふふ、覚えておこう」


「あ、あの……ところで、あなたは……?」


男は頭にかぶった編み笠を外しながらこちらを見る。リラが紹介した。


「今まさに話題にあがったロラアン国の化身だ。もっとも、ずいぶん前に化身としての名を捨てて、以降は一介の商人として生きているようだが」


「然り。それがしはロラアン国にて店舗を構える万屋『鈴蘭』が店主、現在の名を楼蘭ろうらんと申す。此度はリラ殿の必需品に関する商談に参った――のだが、こちらはこちらで、また別の商談の最中かな?」


「彼女を騎士団で雇いたいという話さ」


「なるほど。手強い相手との取引ならば助力でも、と思いもしたが、人を口説き落とすことにかけては貴公のほうが一枚も二枚も上手うわてだ。時間になっても貴公が現れないのでこちらから探しに来たところ、わが郷里の名が聞こえたために、無作法にもつい無断で入ってきてしまったが……」


「おや、もうそんな時間だったのか。すまないな、予定を勘違いしていたようだ」


「なあに、構わんよ。生きていれば物忘れや覚え違いをすることくらい、いくらでもあるだろう。では某は今一度去るとしようか、邪魔をした」


「頃合いを見て迎えに行くから、もうしばらく待っていてくれ。二葉ふたばならさっき教会から帰ってきて、今はいつもどおり医務室にいるはずだよ」


おう、あわてずともよい。急ぐ理由も予定もないのだから、のんびり待たせてもらうとしよう」


楼蘭が応接間を去り、数秒の沈黙ののちにリラは話を戻した。


「……君は今後のことについて、なにかやりたい仕事や目標が決まっているのかな? 私も無理強いするつもりはないんだ」


「あ……いいえ、とくに明確な考えというものは、まだ……」


「それはよかった。なにも決まっていないのなら、ぜひうちに来てほしい」


「光栄の限りでございます。ですが……私には旦那様を脅迫した罪があります。殺害予告が本意ではなかったとはいえ、脅迫状を出したことは事実。旦那様のご厚意で公にはなっておりませんが、騎士団の中にはご存知の方もいらっしゃいます。私のような者を快く受け入れてくださるとは、とても……」


「それのなにが問題だと言うんだ? あれは君なりの忠義だろう。私は感動したよ。岳も君に感謝している。君が罪の意識を感じる必要などどこにもない。私は君の味方だ」


「……なぜリラ様は、私にこのようなお話を?」


「そう重く捉える必要はないさ。騎士団が声をかけているのは君だけではないからね。先の展望が見えない者たちのうち、厨房から二人と清掃から三人に声をかけている。返事はまだ聞いていないけれど、前向きに検討してくれるようだ。だが私の本命はあくまで君だよ、雅日」


「……私が、ですか?」


「私はね、ずっと君にこうして声をかけたいと思っていたんだ。岳の屋敷で初めて君と話したときから。君はすばらしい子だ。人柄も、能力も、内に秘めた素質も。でも横から引き抜くのは岳に悪いと思って、今までは遠慮していたんだよ。そんな君が屋敷を出ると聞き、この国を出ることすら視野に入れていると知った。当然、私はあらゆる手を講じて君を引き止め、手に入れたいと願うとも。君が気にしている問題なんて些細なことだ。私がいる限り、誰にも文句は言わせない」


リラが雅日の手をとった。閉じられていたまぶたが開き、ガラス細工の双眸が、まっすぐに雅日を見つめる。ただそこにある義眼がこちらを向いているだけ。真にリラの視覚が雅日を捉えているわけではないとわかってはいるが、この国で最もたっとき存在である、あのラセット・リラが、今目の前で雅日の手を握り、雅日だけを見つめていると思うと、なんだか不意にどきりとした。彼女の右手が雅日の頬に伸び、そのか細くも硬い指先が、緊張に赤らんだ輪郭をつう、となでる。


「雅日、君がほしい。私のものになってくれ」


迷っていた。今までずっと従者として生きてきたのだから、これから先も同じように誰かに仕える従者として生きていくことに抵抗はない。新たな主人に忠義を誓うことを、かつての主人への不忠とは言うまい。新たな仕事を探していたところに仕事のほうからやってきてくれたのだから、これはまたとない僥倖だ。それも国の化身に仕えるなどという名誉は、普通に生きているだけで容易に得られるものではない。敬愛するリラ国の化身の従者として働けるならば、この国で暮らすにおいてこれ以上の幸福はないだろう。


ただ、同時に不安もあった。果たして自分に務まるのだろうか。ラセット・リラの下で働く名誉を賜るだけの価値が、本当に自分にあるのだろうか。雅日は所詮、ただの平民でしかない。平民は平民らしく、身の丈に合った仕事を探して、どこか静かなところでひっそり慎ましく暮らすべきなのではなかろうか。きっと雅日は騎士団にふさわしくない。


だと言うのに。


「……はい」


そう言って頷いたのはなぜだろうか。不安はある。迷いもある。だが断れない。断りたくないと強く思った。彼女に仕えられるならば本望だと、抗いがたいほどに心が惹かれた。彼女がこの国の王だからではない。彼女の命令に力があるからではない。ただ、リラのひと言ひと言に、雅日の感情は揺さぶられた。受け入れようか、辞退しようか。そんな不安定な位置に立って迷っていたからこそ、揺らいで、そのまま落ちてしまった。雅日の答えを聞くと、リラは心底満足そうに微笑んだ。


「……ところで、私は騎士団でなにをすればよろしいのでしょうか」


「おっと、すまない。私としたことが、君を引き止めるのに必死でちゃんと話していなかったね。なにも難しいことはないよ。騎士たちは毎日鍛錬に励んでいるのだが、そのサポートをしてほしいんだ。記録をつける手伝いだったり……それ以外にも細々した雑務を手伝ってもらうだろう。それからもうひとつ――これが一番大事なことなんだが、君に面倒を見てほしい騎士がいる」


「面倒を見る?」


「と言っても身の回りの世話をするという意味じゃない。ちょっと複雑な事情のある子で……ああ、もちろんきちんと説明する。ただ、説明するにもされるにも、専門的な知識が必要になってくるんだ。医療班に私よりも深く状況を把握している医師がいるから、事情は彼から聞いたほうがいいだろう。簡潔に言うと、その子を傍で見ていてやれる人が必要なんだ。それには君が適任でね」


「どこかお体の具合がよろしくないのですか?」


「そんなところだ。とはいえ人間同士、関係を築くにしても相性がある。別に四六時中行動をともにしろとまで言うつもりはないから、もし苦手な相手だと感じたら無理に一緒にいる必要はないよ。定期的に様子を見て、状態に異常があるようなら相応の対処してくれればそれでいい。仲よくなって一緒に行動していてくれるなら、それが一番だけれどね」


「ではこの騎士団での私のお仕事は、その騎士の方の健康状態の確認と、訓練のデータ記録などのマネジメント、その他の雑務などのお手伝い……ということでよろしいでしょうか」


「ああ。それ以外の空いた時間は好きにしてくれてかまわない。騎士団には図書館や簡単なリラクゼーション施設があって、ボードゲームやビリヤードなどの娯楽設備もあるから、暇なときは好きに使ってくれ。図書館に仕入れてほしい本があれば申請するといい。寮は男性寮と女性寮に分かれていて……と言っても建物は同じだが。口で説明するより、実際に案内したほうが早いな」


リラに連れられて部屋を出ると、扉の両脇で待機していた騎士が二人、リラに向かって敬礼する。騎士団長の銀堂仁ぎんどうじんと、リラの腹心であり副団長の浅葱蘇芳あさぎすおうだ。仁の姿は雅日も何度か街中で見かけたことがある。モナルク騎士団の者たちは蘇芳以外の全員が黒い甲冑を身に着けているが、仁は他の騎士たちより大柄で、上官の証としてマントを着けていることもあってよく目立つのだ。


今は二人とも甲冑姿ではなく制服姿のため素顔もそのままさらしており、雅日は初めて仁の素顔をまともに見た。白髪の混ざったオールバックの髪に、ダンディな口髭がよく似合う。仁は廊下の奥をちらりと見やってから、髪をがしがし掻いてため息をついた。蘇芳はその様子に苦笑するが、彼も彼で困った顔をしている。


「……まったく、楼蘭殿には困ったものだ。俺たち二人で見張りをしていたのに、いつの間にか中に入っていて、素知らぬ顔で出てくるんだからな。気配がないどころの話じゃない……確実に真横を通ったはずなのにまるで気付かなかったぞ。まったくどうなってるんだ」


「はい、ああもたやすく侵入されてしまっては、我々も立つ瀬がありませんね。武術の達人ともなると、目の前にいる相手の盲点をかいくぐることまでできるようになるのでしょうか……」


「今回ばかりはクレームを入れておこう」


二人の愚痴を聞いたリラはなぜか愉快そうだ。


「はは。これは比喩だが、楼蘭はときどき透明になるからな。私も彼の音が聞こえなくて、知らないうちに隣に立たれておどろくことがある。目が見えていたころにも同じことが何度もあった。蘇芳の言うとおり、相手の視界の隙をかいくぐれるのだろう。今日も声をかけられるまで気付かなかったよ。今も昔も、彼だけは本当に敵にまわしたくないな」


「とんでもない御仁だ」


「さて……仁、蘇芳。彼女はこのたび、新たにわが騎士団に加わることとなった東雲雅日だ。蘇芳は岳の屋敷で面識があるが、仁はたしか初対面だったな」


二人が同時に雅日を見たので、あわてて頭を下げた。


「ご紹介にあずかりました、東雲雅日と申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」


「騎士団長の銀堂仁だ。早乙女邸の付近や街中で何度か姿を見かけることはあったが、こうして話すのは初めてだな。よろしく頼む」


「ようこそ、モナルク騎士団へ。私の自己紹介は……今さら必要ありませんね。歓迎します、雅日さん」


「浅葱く――あ、いえ、すみません。蘇芳さん、とお呼びするべきでしょうか」


「騎士団内では蘇芳、それ以外では浅葱と呼び分けてください。私個人への接し方はこれまでどおりでかまいませんよ。今や我々は同じ主君に仕える者同士ですから、そうかしこまる必要はありません」


「わかりました」


「雅日、あとで団長補佐の者を紹介するよ。女性部隊の隊長で歳も近いから、同性同士仲よくなれるだろう。では二人とも、さっそくだが雅日に騎士団の内部を案内してやってくれ」


「御意」

次回は明日、十三時に投稿します。

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