14 枯れる泉、呼び水はなく
雅日と群青がリラ国に帰り着いたとき、騎士団の内部が騒がしいような気がしたのは、決して気のせいなどではなかった。寮に戻ろうとする雅日に真っ先に声をかけたのは撫子とセガルだ。
「雅日! よかった、帰ってきた」
「雅日さん! 群青さん!」
寮の二階の窓から身を乗り出すようにしてこちらを見下ろし、二人は同時に叫ぶ。
「隊正が倒れた!」
隊正は彼の部屋のベッドの上に寝かされていた。顔色が悪い。血の気こそ失せてはいないが、いつもより少し青白く見える。詳しく聞いたところによると、昼食を摂るために食堂へ向かう道中で突然倒れたらしい。魔力不全が原因の魔力の枯渇が起きたのだ。はじめはひどくうなされて苦しんでいたが、一時間もすると完全に意識を失って沈黙したそうだ。体内の魔力は底をついており、魔力の生成が再開されるまで目覚めることはない。
閉じられたまぶたは一切開く気配がなく、手に触れると、普段の彼からは想像もできないほど冷えていた。いつも見ていた隊正の様子からのあまりの変わりように、目を離せば気付かないうちに死んでしまう気がしてしまい、ベッドに横たわりぴくりとも動かない彼を見たとき、本当に生きているのか疑ったほどだ。何度も顔の前に手をかざしては呼吸をしているか確認した。隊正が動かない。目覚めない。ただそれだけで底知れない不安感があふれてならない。
「東雲、今日のところは部屋に戻れ。安定剤は枯渇期に使ってもほとんど意味がないし、お前はまだ魔力譲渡の術を扱えないんだろう。今できることはなにもない」
「それはそうですが……」
「冷静になれ、わかっていたはずだろう。魔力不全とはこういうものだ。オレたち医療班が交代で様子を見ているから心配いらない。隊正が目を覚ましたらすぐに知らせるから、今日はもう休みなさい。また明日様子を見に来るといい」
「……はい、わかりました」
休めと言われたものの、部屋に戻っても隊正のことが心配で疲労も眠気も吹き飛んでしまい、眠れそうになかった。眠れないのなら魔術の練習でもしていようかと思ったが、当然このような精神状態で集中などできるわけがなく、まったく身が入らない。
そのうち撫子が部屋にやって来て、雅日が少しでも落ち着けるようにと話相手になってくれた。そのまま彼女と一緒に眠ることになったが、どうしても不安で気があせってしまい、案の定まったく寝付けない。結局、撫子がずっと隣で話をしてくれていたおかげで、ようやくわずかに気が安らいだような心地がして、少しだけ眠ることができた。
それから毎日、時間を見つけては隊正の様子を見に通った。傍にいたところで雅日にはなにもできないとわかっているが、死んでしまったように眠り続ける隊正の姿が頭から離れず、彼がきちんと生きていることを確認していないと不安で仕方がなかったのだ。
隊正の意識が戻ったのは、彼が昏睡状態に陥ってから四日後の夕方のことだ。群青から言づてを頼まれたという仁が知らせに来てくれてそのことを知り、すぐに彼の部屋に向かった。だが目を覚ましてすぐは魔力不足のせいで意識も朦朧としており身動きが取れず、話すことすらできない状態で、隊正はただ苦しそうにうめきながら、何度も血を吐いては咳き込んでいた。
能力者は魔力を使い切ると意識を保てなくなるが、魔力を使い切ったときよりも、その一歩手前の状態や回復しかけの状態がもっとも苦しいのだと撫子が言っていた。魔力不足に陥ると、身体はありとあらゆる強烈な不調に襲われる。頭痛、めまい、吐き気、寒気や手足の震えなどは序の口で、鼻や口、目、耳など、どこかしらから血を流す場合も珍しくない。魔力が十分に回復すれば次第に収まっていくが、それまではただ待つしかないのだ。
目が覚めたのは体内で魔力の生成が再開された証拠で、すぐにいつもの氾濫状態に戻るので心配いらないと説明を受けたが、今も隊正が血を吐きながら苦しんでいるのかと思うと、やはりまだ安心して眠ることなどできそうもなかった。時間をかけてようやっと寝付き、もう何度目かの気の休まらない短い睡眠のあと、雅日を起こしたのは目覚まし時計のアラームでも、カーテンの隙間から差し込む朝日の光でもなかった。
部屋の扉を誰かが殴りつけるような音が連続して響き、その荒々しい物音におどろいた雅日が飛び起きるのと、不穏な音とともに部屋の扉が開くのはほとんど同時のことだった。寝る前に鍵はきちんとかけたはず――そんなことを考えるより先に、部屋の出入り口をふさぐ大きな人影に目線が吸い込まれる。
「おいッ姫様! 起きたぞ!」
朝の静寂を引き裂く大きな声。拍子抜けするほど平常どおりの隊正がそこにいた。あっけにとられてなにも言えずにいる雅日の隣で、撫子がむくりと起き上がってあくびをしながら隊正のほうを見る。
「……隊正のお給料から天引きね。修理費」
「なんで撫子がいんだ?」
「お泊まり。着替えるから出てって」
「ゴリラの裸見たってなんとも思わねえよバーカ!」
「私じゃない。雅日が着替えるの。じゃあ雅日、またあとで」
「あ……う、うん。ありがとう撫子。一緒にいてくれて……」
「気にしないで。私のほうがお姉さんだから。もっと頼ってもいい」
撫子は得意げに微笑んでから隊正の背中を押す。
「ほら、隊正。外で待って」
「命令すんじゃねえ!」
「自分で出てく? 群青くんを呼ぶ?」
「ケッ、医者がなんだってんだ」
ぼやきながらも隊正は撫子とともに部屋を出て行く。寝間着のままだが、彼女の部屋は隣なのでそのままの格好で外をうろうろする事態にはならない。雅日はいつもより素早く身支度を整えて部屋の外に出た。扉本体は無事なのでひとまず開閉はできるが、ドアノブと鍵が壊れているので戸締りはできない。仁かリラに伝えておけばすぐに修理してくれると思うが、いくら騎士団内部とはいえ扉が使い物にならないと不安な気持ちになる。隊正が雅日の部屋の扉を壊したのは、これで四回目だ。
「隊正くん、魔力はもう大丈夫なの?」
「おう! 身体が軽いぜ!」
「何日もずっと寝たきりだったから、全身が固まってるんじゃ……」
「起きてすぐはな! でもババアに腕のとこゴチャゴチャされてからはなんともねえぜ!」
ババア、というのはおそらくフミのことだろう。この騎士団で彼がそう呼ぶのは相手がフミのときだけだからだ。
「魔法医術かしら……フミ先生はなにかおっしゃってた?」
「別になんにも? 飯食って身体動かしてこいって言われたぐらいだな」
「そう。一応、医務室に行ってみるわ。先に食堂に行っててちょうだい」
「おう」
隊正と別れて医務室へ行くと、フミではなく群青がいた。ちょうど水を飲んでいた群青は、空になったグラスを置くと、その隣にあったピルケースをデスクの引き出しに仕舞ってから、ようやく雅日のほうを見る。
「来たか」
「群青先生、どこかお体の具合が?」
雅日が尋ねると、群青は静かにため息をつきながら卓上カレンダーを手に取り、赤いペンで今日の日付の上に斜線を引いた。
「カイルのところで呪術系の魔力について少し話しただろう。覚えているか?」
「はい、魔力そのものに呪いがかかっていて、能力を使用することに代償が……まさか」
「呪術系の能力および魔力とは一般的に、先天性のものを指している言葉だ。魔力を使用した際の跳ね返りというのも、多少めまいや頭痛がする程度で、そのほとんどが大したものではない。もちろん、強力な能力であるほど大きな代償を支払うことになるがな。一方、ごくまれにだが、本来は呪術系の能力者ではなかった者でも、なんらかの理由で魔力の質が呪術系のものに変化してしまうことがあり、これは魔力汚染と呼ばれる魔力障害のひとつで、魔力不全とは違って後天的な障害だ」
「……群青先生も魔力障害を?」
「汚染された魔力による能力者への影響は、能力の内容や魔力の優劣、強弱に関わらず、強力な呪術を使ったときと同じかそれ以上の代償を要求され続けることになる。それでも生きている以上は魔力の消費を避けられないし、とくにオレは普段から治癒関連の魔術も扱っている。その程度の消費量であれば汚染された魔力による呪いの症状を薬で抑えられるが、能力を使えばその均衡が崩れてしまう」
「だから楼蘭様は、群青先生が能力を使用することを禁じているのですね」
「そうだ。隊正も能力を使わないだろう? それも似たような理由だ。あいつは自分の魔力を制御できないからな。そんな状態で能力を使えば魔力が暴走してしまう。オレや隊正に限らず、魔力障害者の多くは能力を使うことができない」
「お体は大丈夫なのですか?」
「薬は毎日欠かさず飲んでいるし、いつもの薬では抑えられなくなったとき専用の強めの薬も持たされている。この薬は汚染自体を抑えるものじゃなく、汚染によって現れる心身への負担を軽減するものだ。つまり服薬していても汚染は進んでいくから、月に一度は教会に通って浄化を受けている」
彼が十字架のペンダントを着けていることにも関係しているのだろうか。
「とはいえ並の聖職者では汚染された魔力を浄化しきれない。年に一度は師範のご友人である神父様からの浄化を受ける必要がある。師範からいただいた指輪に祝福を付与した、高位の聖職者だ。……とまあ、そのように師範があれこれ手をまわしてくださっているおかげで、症状は生活にさほど影響が出ない範囲にとどまっている。俺が魔力汚染を抱えていることは陛下と団長も承知の上だ」
「高位の聖職者……そのお方が浄化をおこなっても、汚染は消えないのですか?」
「神父様の浄化は完璧だ。その時点で体内に満ちている呪いはすっきり消え去る。だが汚染源を絶つことまではできない。根本的な部分がダメになっているのだから、時間が経てばまた元どおりだ。だがこれがあるのとないのとでは雲泥の差だぞ。師範と神父様がいらっしゃらなかったらオレはとっくの昔に死んでいた」
「……魔力不全は一生つきまとうものだとお聞きしましたが、魔力汚染は……治せる、のですか?」
「可能か不可能かで言えば、治すことは可能のはずだ。変化してしまった魔力の質を元に戻せばいい。だが希望を持つべきではない。魔力の質が変わるなんてことは、一生をかけてもそうそう起きない現象だ。理論上は可能でも確率を考えれば、あきらめたほうが賢明と言える」
「そう簡単に治せるなら、もうとっくに治ってますものね。……あの、これは私が聞いてしまってよいお話だったのでしょうか」
「オレがなぜお前にこんなことを話したと思う?」
「ええと」
「この先なにがあってもオレの魔力には触るなということだ。もしそれで魔力汚染がお前に伝染しても、オレは責任を取れないからな」
「う、うつるものなんですか?」
「前例はないが、それは伝染しないという証明にはなり得ない。オレの話はこのくらいでいいだろう。隊正のことについて聞きに来たんじゃないのか?」
「あ――はい。隊正くんとは先ほどお会いしました。すっかり元気になったようでしたが、食事や運動などで、なにか気を付けておくことはありますか?」
「寝たきりで固まった身体がまだほぐれきっていない状況だが、おフミが魔力の流れをいじって全身の運動機能を補強したから、日常生活に支障はないだろう。とはいえ、しばらくはうまく体が動かないはずだ。既に魔力が氾濫を起こしているから本人に自覚はないだろうが、確実に筋力も落ちている。すぐに元どおりになるから心配はいらないが、無理はさせないように」
「はい」
「直前まで魔力が枯渇していたところに急激に魔力が満ちたせいで、しばらくは気分が高揚して普段以上に暴れたがるはずだ。肉体の回復が追いついていない状態で必要以上に動きまわれば事故につながる危険性があるから、……ああ、ちょうどいい。言ったところでどうせあいつはじっとしていないし、一緒に走ってみたらどうだ? 体力を向上させて護身を覚える予定だったろう。お前に合わせれば過度な運動にはならないし、勝手に一人でどこかに走って行くこともない」
「そうします。食事に制限はありますか?」
「いや、ない。あいつは身体がどんな状態になっても消化機能だけは弱らないし、毒素の分解率も異常に高くて、まあ要するにとにかく腹が強い。三年ほど前の野営訓練の際に騎士たちが集団食中毒を起こしたことがあるが、倒れた騎士たちと同じものを倍以上食っておきながら、あいつだけ健康そのものだったくらいだ」
「そ、そんなことが……あ! そういえば隊正くん、毒キノコを食べたときも平然としていました。やっぱり多すぎる魔力が原因なのでしょうか?」
「そういう場合もあるが、あれはただの体質だ。食事に関しては本人の好きにさせていい」
「わかりました」
群青の言ったとおり、復帰初日の隊正はいつも以上に体力が有り余っており、いつもより輪をかけて獰猛だった。少し目を離しただけですぐにどこかへ走って行ったりと落ち着きがない。雅日の部屋の扉同様、手に取った物や足をぶつけた物など、触れた物の大半を破損させた。蘇芳から聞いたところによると、就任初日に雅日が気になった、本部と寮をつなぐ渡り廊下の壊れた照明も、枯渇から回復した直後の隊正が壊したものらしい。照明が破壊されるたびに蘇芳が新しい照明を設置していたのだが、壊されては直してを繰り返すうちに蘇芳が折れ、照明を取りつけないことにしたそうだ。
今回は意図的になにかを破壊してまわるようなことはしていないが、少しの間でもじっとしていられないようで、とにかく落ち着きがない。トレーニングに付き合ってほしいという雅日の申し出にも二つ返事で了承し、この日から体力トレーニングは雅日の日課となっていくのだった。
隊正が騎士団で暴れまわることよりも雅日が心配していたのは、予定していた二回目の魔術講義についてだ。予定通りに隊正をつれて行ってよいものか、それとも今回は大事を取って隊正をリラに残すべきだろうか。
考えあぐねて蘇芳に相談してみると、彼はすんなりと頷いた。
「大丈夫だと思いますよ。医療班からもこれといった報告はあがっていませんし、隊正くんは雅日さんの言うことには素直に従っていますが、私や他の騎士たちには反抗的で、指図なんてしたら襲いかかられますから」
「それは私だからではなく、主命であるからでしょう」
「どうあれ、現状で隊正くんを一番制御できるのが雅日さんであることに変わりはありません。仁さんやリラ様はまだしも、私や撫子さんの言うことにはまず反発することから入るくらいですからね」
「それは……ともかく、大丈夫そうならよかったです。……あ、セガルくんの同行に関しての許可は下りていますか?」
「はい、確認していますよ。ギルドと騎士団との間に友好と信頼を築くため――と聞いています。……もっとも、それだけが動機ではないように思えますが」
他人事だというのに、なぜか雅日がぎくりとしてしまう。セガルがギルドに同行したいという本当の理由が、彼が静來に気があるためだということは薄々察していた。なので蘇芳に話した理由がただの建前ということも話を聞いていてすぐにわかった――のだが、まさか蘇芳にまで見抜かれているとは。
「あ……はは……それは、ど、どうなんでしょうね? セガルくんはその……生真面目な子ですから、早乙女邸での一件でギルドの方々に恩を感じているのは事実でしょうし……」
思わぬ指摘に動揺し、ついぎこちなく振る舞ってしまう雅日だったが、蘇芳は数秒じっと雅日を見たあと、小さく息をつく。
「……まあいいでしょう。ロワリア国とリラ国はかねてより友好的な関係を維持し続けており、歴史上でも両国が敵対関係にあったことは一度もありません。ですが、それは化身同士および国際的な面での話であって、両国の人間同士という意味での交流はほとんどありませんでした。あのギルドと友好関係を築いておくことは、決して損にはならないはず。本来であれば騎士団の代表である仁さんや、私や撫子さんが担うべき役割ですが」
「そ――そうね。でもギルド長の來坂さんは気さくで、人情を重んじられる方のように思います。最初からビジネスとしての損得を求めて近付くのは得策ではありません。それにセガルくんは來坂さんたちとも年齢が近いですし、団長、副団長などの肩書きもありませんから、その分気楽に話せるという心理は確実にあると思いますよ」
「ええ、私と違ってセガルくんは打算的ではありません。あちらのギルドの方々にはそういった計算は抜きにしたほうがよさそうですし、この件に関しては彼に任せてみましょう。なにか菓子折りでも持たせておきます。……雅日さん」
「はい」
「ロワリア国での空き時間の過ごし方についての報告義務はありませんし、これからも、そのような細かいことにまで言及するつもりもありませんが……名目上でも、ギルドとの友好関係を築くためにと言うのであれば、私事だけでなくそちらの役割も忘れないように――セガルくんにはそうお伝えください」
「は……はい」
やはり見抜かれている。雅日が後ろめたさに顔を引きつらせていると、蘇芳は安心させるかのようににこりと微笑みを向けた。
「私は少しの間騎士団を留守にします。仁さんや撫子さんがいますからなにも心配することはありませんが、私がいない間、隊正くんや他の騎士たちのことをくれぐれもお願いしますね」
「出張ですか?」
「はい。スーリガとフェルノヴァの国境付近で起きたという事件を調べに。早乙女家で起きた事件とも類似性のある事件と思われます」
「では、また身許を隠して潜入を?」
「そうですね、今回は警備隊員に扮することになります。詳しくはお教えできませんが……極秘のルートで警備隊の制服や偽の身分証も用意してあるので」
「さ、さすが、徹底しているのね」
「幻滅しましたか?」
「いえ……幻滅というより、すごいわ。私は嘘も隠し事も下手だから、絶対に真似できないもの」
「やましい部分を少しつつかれただけで緊張が顔に出てしまっていますからね。それに仕草からもあせっているのが丸わかりです。顔が強張るとそれだけで嘘とわかってしまいますから、せめて……そうですね、写真を撮るときみたいに微笑みながら会話に応じるといいですよ」
「うーん、問い詰められても自然に笑えるものかしら……」
「それと、嘘をつくときは本当のことも混ぜながら話したほうがいいです。本当のことを言わなかっただけで嘘はついていない、というラインを狙って返せば、嘘をついたという罪悪感が薄れますから」
「それじゃあ、隠し事があるときは?」
「私の場合は、会話の流れでそこから相手の意識を逸らすか、あえて自分から踏み込んでみることもありますね。たとえば誤って花瓶を割ってしまったときに、自分から花瓶が割れていたことを報告するとか。花瓶が割れていることにまだ誰も気付いていないなら、誰かが気付くまで黙っておいて、花瓶が割れた時間をうやむやにしたほうが犯人の特定がむずかしくなります。大半の人は、犯人が自分からそんなことを言うとは思わないでしょう? そのうえで『割れた花瓶を見つけたとき、たしか窓が開いていた』とでも言っておけば、風で倒れた花瓶が棚から落ちて割れたと誘導できます」
「な、なるほど……そこで誰かが割ったと言って犯人さがしをしようとするのは、踏み込みすぎになる……のですか?」
「ええ。それは必死すぎて言い出したその人が一番怪しいです。まだ事故の可能性もあるのに、最初から誰かがやったのだと決めつけるのは不自然でしょう」
「むずかしいのね……やっぱり私には無理だわ。そこまでして隠したいこともないし……」
「まあ、花瓶を割った程度なら素直に謝ればそれで済みますからね。ですが、今の例のように悪事を隠すのではなく、たとえば言いにくいことや言いたくないこと、自分の口からは話せないようなことを、はっきりそうと伝えず隠しとおしたい場合にも有効ですよ。……ああ、ほら、たとえば友達や家族にサプライズパーティーやプレゼントを用意していて、本人にはそれを隠さないといけないとか」
「あ、たしかに。そういうときは絶対にうまく隠さないといけないわね」
「嘘も隠し事も、そうとだけ聞くとうしろめたいことのように感じてしまいますが、なにも悪いことばかりではありません。誰かを守るための嘘や、幸福のための隠し事、というものもありますから、覚えておいて損はないと思いますよ」
「なら蘇芳くんがあちこちに潜入するための嘘や隠し事は、大義のための嘘かしら」
「そういうことになります。今回は短期間の潜入で、不測の事態に陥って長引かない限りは三日程度で戻れる予定です。雅日さんと私のどちらが早く帰ってくるか、というくらいでしょうね」
「本当にどこへでも行くのね」
「調べる必要があると判断した際にはどこへでも。リラ様のご判断次第です」
「それじゃあ秋人くんとも以前どこかで?」
「秋人……が、なにか言っていましたか?」
「いいえ、そういうわけじゃないの。ただ、お屋敷で何度か二人で一緒にいるところを見かけて、ときどき、前にも会ったことがあるような口ぶりで話していたから。出会ったばかりにしては仲がよさそうにしていたし、お知り合いだったのかと思って」
「……そうでしたか。ええ。以前に少し。個人的な付き合いはなかったのですが、彼はなにもしていなくても目立つ人でしたから、なんとなく記憶に残っていて。屋敷で会ってすぐに気付きました。彼が私を覚えているとは思っていませんでしたが、向こうから声をかけてくださったので」
「あまり……うれしくなかったみたいね」
「そうですね、おどろきのほうが大きかったです。それに、お互いに探られたくない腹がある者同士でしたから。早乙女邸で再会したときに一緒にいたのも情報を得るために近付いただけです。彼の友人になるには、私は疑い深すぎるでしょう」
「そうかしら……案外バランスがいいかもしれませんよ」
「だといいのですが」
*
「あ、来た来た! 雅日さーん!」
「琴琶ちゃん、お久しぶりです」
ロワリアに到着し、ギルドの正門をくぐってすぐ、中庭にいた琴琶が雅日に気付いて手を振りながら駆け寄った。白いマフラーに見えたのは小さな獣の姿の來亜で、琴琶の肩の上で寝ていた彼は一度顔を上げるが、すぐに興味なさげに体勢を戻す。琴琶は雅日のすぐ前で立ち止まると、雅日の頭から足元までを視線でなぞってうなずいた。
「うん、予想してたより順調そう。いい感じだね。魔術は試した?」
「はい、教えていただいた強化魔術を。まだまだ不安定ですが、ひとまず発動するところまでは」
「じゃあ今回は他の簡単な魔術をいくつかと……譲渡の術式も教えておいてよさそうかな。強化より少し複雑だけど、まだそこまで難しい魔術じゃないから、今までどおり練習すればすぐに使えるようになると思う」
「よろしくお願いします。講義の前に、來坂さんにご挨拶を……」
「あ、ギルド長のところには僕が代表して行っておきますよ。雅日さんはどうぞ、魔術の勉強に集中してください」
「いいの? セガルくん」
「はい。むしろ今回はそれが僕の仕事ですから……」
「そ、そうね……それじゃあお願いします」
セガルが早足で正面玄関のほうへ去っていく。それを少し見送ってから琴琶に向き直ると、彼女の視線は雅日のうしろにいる隊正に注がれていた。雅日が声をかけるより先に琴琶が一歩前に出て、隊正の右手首と左肩、左ひざを指先でさっとなでるようにして触れた。
「お? なんだガキ!」
「隊正くん、魔力が枯渇したんだね」
「琴琶ちゃん、そんなことまでわかるんですか?」
「うん、魔力の流れが前とは違うから。枯渇から復帰した直後って、体内に急に魔力があふれたせいで魔力がほつれちゃうことがあるの」
「魔力がほつれ? ――てしまうと、どのような問題があるのでしょうか」
「要は体内の魔力濃度にムラが出来て、循環が不安定になるんだよ。魔力がダマになっちゃってる感じ? 別に放っておいても時間が経てば解消されていくんだけど、それまでは力のコントロールがうまくいかなくなったりするから、隊正くんの場合は生活に支障が出ちゃうかも。普通に触っただけなのに物が壊れちゃったりとかして」
壊れた自室の扉の無惨な姿が頭をよぎる。
「あ……あれってその、琴琶ちゃんの言うところの、魔力のほつれが原因だったんですか?」
「普段の怪力はただの過剰強化だけど、枯渇が治った直後にやけに力加減が利かない場合は、ほとんどはそれが原因だよ。回復から三日くらいは魔力がほつれやすいから、備品の修理費が気になるならその都度解消したほうがいいかも。体調自体に影響はないし、そういう意味では放っておいていいんだけどね」
「私でも治せるようになりますか?」
「できるよ、練習次第だけど。なにを覚えるにも魔力操作が第一だから、がんばってね。もっと精度が上がって、そろそろいいかな? って思ったら、順番にもっといろんなことを教えるから」
「わかりました。ではそのときが来たら、よろしくお願いします」
「うん。それじゃあ改めて、今回の講義だね。今日は私以外の魔術師にも会ってもらおうと思ってたの」
「ギルドには琴琶ちゃん以外にも魔術師の方がいらっしゃるんですか?」
「一応ね。魔術みたいな術を使う奇術師もいるけど……それは参考にならないからいいや。こっちだよ、ついてきて」
次回は明日、十三時に投稿します。




