11 寒月、夜空に悠然と
「東雲、急だが明日カイルのところに行く。一緒に来るなら朝六時に寮の前に集合だ。時間厳守、遅れたら来ないものとして出発する。日帰りだ。動きやすい服装で来ること」
夕食のために食堂を訪れたところ、ちょうど食事を終えて出て行くところだったらしい群青と出くわした。彼は手短に必要事項のみを告げると、雅日の返事も聞かずに去っていく。一緒にいた隊正はそのうしろ姿を睨みつけてから雅日を見た。
「なんの話だ?」
「ほら、名簿に載っているのに、一度もお会いしていない騎士の方がいるってお話、したことがあるでしょう? 群青先生はその方の居場所をご存知で、次に会いに行くときにご一緒させていただくことになったのよ」
この話は昨日のうちに伝えてあったのだが、食事中のことだったので聞き流してしまっていたのだろう。
「ふーん」
「昨日の朝にお話ししたばかりで、まさかこんなにすぐに決まるとは思っていなかったわ。隊正くん、明日はいつもより少しだけ早起きになりそうだけど……」
「明日か……、俺はパスだ」
「えっ、あら……そう? それじゃあ隊正くんはお留守番ね。また一週間後にロワリアへ行く予定になっているけど、そっちにはついてきてくれる?」
「おう、いいぜ」
「よかった。セガルくんもまた一緒に来られるといいけど……」
「一緒に来んのは勝手だがよお。セガルのやつ、あの嬢ちゃんが威勢のいい女だったのは認めるが、六個下なんかガキだってのに、どこがいいんだ?」
「好みなんて人それぞれよ」
翌朝、雅日が事前に伝えられていた時間の十分前に集合場所へ向かったのは、群青ならば約束の時間よりも早く来て待機しているだろうと見越してのことだった。仕事上での付き合いでしかなく、まだまだともにすごした時間は短いが、彼はおそらくそういう性格だろうと推測する。
雅日が寮の前に出てきたとき、既に群青はそこにいた。普段は医務室で会うことがほとんどなので、群青とともに外出するという状況は非常に新鮮だった。彼のうしろの背景が白い壁でないことに、思わず違和感を覚えてしまうほど。長い銀髪は降り注ぐ朝日を白く照り返し、もとより端正な顔立ちをしている彼がいつもに増して輝いて見える。いつもと変わらない和装束姿だが、今日は帯に刀を差している。医務室の壁に掛けてあった、あの刀だろうか。
「群青先生、おはようございます」
「ああ。来たか」
「はい。あの、隊正くんは――」
「いないということは来ないんだろう、どうでもいい。行くぞ」
「は、はい」
ウィラントから転移装置を使って東大陸のダウナ国へ。そこから列車に乗って北東へ進む。二人が乗り込んだのは席がそれぞれ個室になっている車両で、特別混雑しておらず空き室は多かったが、群青は個室を避けて、さっさと別の車両に移動しボックス席を選んだ。そして窓際に座った雅日の斜め前に腰を下ろすと小さく息をつく。
彼はいつも女性とかかわる際は常に一定の距離をおき、必要以上に近付かないことを徹底している。役割の関係上、雅日と二人で作業をする機会も多いが、医務室には彼以外にも医療班の者がいるため、二人きりになることはめったにない。医務室に医療班の者がいるのは当然のことだが、それ以外でも彼が自発的に女性と二人きりになる時間や状況を作らないようにしていることには、騎士団で働くうちに気付いた。これは周囲の女性たちを気遣っている――のではなく、ただ彼自身が異性間での無用な面倒事を避けたいだけだろう。
雅日がそのことに気付いたのは、早乙女邸にいた十数年のうちの一時期、彼と同じように異性と二人きりになる状況を避けていた経験があるからだ。事情は各々違えど、妙な邪推をされたくない気持ちはよくわかる。雅日が魔力を診てほしいと頼んだときも、一応引き受けてはくれたが嫌そうだった。最近では他の部下たちに魔法医術の練習と言って代わりに測らせることもある。雅日は自分の魔力の状態さえわかればそれでいいので、とくに文句はない。
「群青先生、カイルさんはどちらにお住まいなのですか?」
「今はフェイム国だ。とある村の近くに住んでいる」
フェイム国は東大陸の北東に位置する国だ。ダウナ国と隣接している国であることと、有名な観光地をいくつか知っているだけで、具体的にどういったところなのかはわからない。当然のこと、雅日にはなじみのない国だ。
「フェイムといえば……たしか大昔に、ドラゴンが棲みついていたという伝承のある国ですよね」
「そうだな。真偽はともかく、フェイムといえばドラゴン――ということで有名なのはたしかだ。治安はセレイアほど悪くはないが、リラほど平和でもない。都市部は栄えていて人も多くにぎわっているものの、それ以外は閑散としていて、地域ごとに発展や活気にムラがある。カイルが住んでいるのはここよりもう少し北にある村のはずれだ」
「村の中……ではなく、はずれに?」
「永住する気はないようだからな、いつかは去る。深入りすると離れがたくなるから、あまり村の者と親しくなりすぎないように距離を置いているんだ。村は山のふもと近くにある。カイルは山の中にも寝泊りできる小屋を建てていて、その近くで鍛錬や狩りをしている」
「では、普段は猟師を?」
「いや。狩りは単純な治安維持のためで、基本的には付近の町村から魔獣退治などの依頼を受けているようだ。あいつは師範とも顔見知りでな。必要な素材の採取や、行商や納品のために荷車を出す際、用心棒として雇われることも多い。とくにオレが行けない場合や、人手が必要なときにはよくカイルが呼ばれている。鈴蘭の武者商人ではないがな」
「武者商人?」
雅日が復唱すると、群青は頷きを返した。
「そうだ。鈴蘭では、ただ商売ができるだけではいけない。商人としての腕を磨くだけでなく、武術を修めることを義務付けられていて、商人でありながら武人でもある彼らのことを武者商人と呼ぶ」
「群青先生は今でも鈴蘭でのお仕事をしていらっしゃるのですよね?」
「最初に会ったときにも言ったが、もとよりオレは鈴蘭の者だ。商人より武人としてあることに重点を置いて鍛えてきたから、そういう意味ではオレも武者商人とは呼べないのかもしれないが。騎士団にはあくまで一時的に雇われているだけ。与えられた責務はもちろん果たすが、本職である鈴蘭の仕事もできる限りこなす。最初からそういう契約だ。もしそのふたつを天秤にかけられればオレは迷わず鈴蘭を――というより、師範を選ぶ。騎士団のことはどうでもいい」
「鈴蘭のお仕事と騎士団のお仕事を同時に? お忙しいのでは……?」
「そのくらいでないとダメなんだよ、オレは。なにもすることがない暇な時間は苦痛だ。……ともかく、そんな調子なので騎士たちからは煙たがられているし、とくに蘇芳からはかなり嫌われている。そのときが来れば騎士団を裏切るとわかっているのだから当然だが」
「そ、そうでしょうか? 蘇芳くんは群青先生を高く評価しているようでしたよ」
「実力に対する評価と、その個人を信頼できるかどうかは別の問題だろう。評価はしても信頼はしない――そこに矛盾はない。そもそも蘇芳は陛下以外の誰のことも信じていないから、信頼がないのはオレに限った話ではないが」
「蘇芳くんが?」
「ああ。蘇芳は日ごろから常に、今隣にいる仲間が裏切った場合のことを考えながら生きているようなやつだ。諜報員として各地に潜入し、自分を偽って幾度となく他人を騙し欺き利用してきた、その弊害だろうな。一種の強迫観念のようなものだ。人を疑わずにいられない性分で、陛下以外の誰のことも信じることができなくなっている。普段はそれを微塵も感じさせないほど人当たりがいいのが、あいつの恐ろしいところだ」
「そ、それは……大丈夫なのですか? その……精神的な面は」
「今のところ、病名がつくほどの精神異常は見られない。これで陛下のことすら疑いはじめたら治療するべきだが、オレにはどうにもできない。専門外だ。なに、そう重く捉える必要はない。人間不信のやつくらい世の中いくらでもいる。珍しいことじゃない。お前は今、ただ想像とのギャップに戸惑っているだけだ」
今、雅日は蘇芳に関する、聞いてはならない話を聞いてしまっているのではないだろうか。セガルが詳細をにごした浅葱蘇芳の恐ろしい部分というのは、きっとこのことだ。これはきっと雅日が知る必要のない情報だ。もしあのとき一緒にいたのがセガルではなく、他の騎士たちに同じ質問をしていたとしても、誰も雅日にこんな話は明かさなかっただろう。部外者であるという自己評価のもとに騎士団に所属する群青だからこそ口にできた話だ。
「群青先生は、なぜそのお話を私に?」
「この程度は騎士団で働いていれば、いずれなにかの拍子に知ることになる。なぜなら蘇芳本人はそういった自分の素顔を隠すどころか、気に留めてもいないからな。お前がまだその側面を見たことがないというだけだ。この先、あいつとの付き合いが長くなって親睦が深まってきたと思ったころに知るよりは、早いうちに知っておいたほうがいいだろう。私は信じていたのに――などと勝手な失望をしないためにも」
なんとも言葉を返せなかった。これ以上は踏み込んではならない領域だ。いや、既に雅日はその一端を知ってしまった。うつむく雅日を見て、群青は小さく息をつく。
「そう気にするな。これはただオレが蘇芳にものすごく嫌われているというだけの話だからな。いや、あいつだけではなく他の騎士からもだが」
「す、蘇芳くんはともかく、他の騎士のみなさん――セガルくんたちも、群青先生のことを非常に尊敬していらっしゃいますよ。群青先生が騎士団に来てくれてよかったと言っていました」
恐ろしい人だということも口癖のように言っているが。群青は鼻で笑う。
「隊正とオレのやりとりを見ているから本当のことを言えないだけだ。滅多なことを言ってオレの耳に届いたらどうなるか心配なんだろう。医療班と料理人には逆らわないのが賢明だ」
たしかセガルの話では、隊正は毎年の健康診断や予防接種の際に注射を嫌がって大暴れするらしい。場合によっては怪我の治療を拒むこともなくはないとも。群青はいつも、隊正が暴れようとしたタイミングで、顎か首のうしろ、あるいはみぞおち――いずれかの急所に一撃を叩き込んで隊正を気絶させ、その間に処置を終わらせるのだとか。騎士たちの誰もが今の医療班には逆らえないという話も納得だ。
「あの……隊正くんのことなのですが。以前、セレイアで兵刀さんと隊正くんが戦った際に、隊正くんは意識を失った状態で動いていて……」
「ああ、気にするな。隊正にはよくあることだ」
「よくあるんですか!?」
「より深く、徹底的に意識を沈めなければ、浅いとあいつは起き上がる。全身に満ちる有り余った魔力が身体を動かし、中途半端に残った意識に従って暴れまわるんだ。普段のあいつは魔力不全によって魔力が暴走しかかったギリギリの状態ですごしているが、意識が飛んで理性が失せたことによって均衡が崩れる。このときのあいつは完全な暴走状態だと思っていい。敵味方の区別がついているかどうかも怪しい。もしあいつがまたそうなったら、そのときは決して近付かないこと。たとえ能力者であっても、あいつの攻撃をまともにくらってしまえば危ない。お前は確実に死ぬ」
話を聞きながら当時のことを思い返す。隊正の頭を地面に叩きつける兵刀を止めようとしたときだ。兵刀が雅日を突き飛ばしたと同時に、隊正が兵刀を殴りつけたのを覚えている。もしあのとき、兵刀が雅日を突き飛ばさなければ、隊正の拳は雅日に当たっていただろう。兵刀がああも過激な手段で隊正の意識を沈めようとしたのはおそらく、そうでもしなければ自分だけでなく、雪理と雅日の身にも危険が及ぶと判断したからだ。あせっていたのだろう。頭を殴られた彼は大丈夫だったのだろうか。
「だから隊正が注射や治療を拒んで暴れたときは、一撃で、正確に、確実に落とす必要がある。コツがあるんだ。だが医療班の中にそれができる者はいない。見込みのありそうな者を鍛えてはいるんだが、これがなかなかうまくいかん。まあ医者志望の者に武術を教え込むほうがどうかしているが」
「医者でありながら武術を……というのは、群青先生もそうだったのでは?」
「オレは逆だ。幼少のころより師範から武術を教わり、自分で傷の手当てをしていた延長として必要な知識と技術を修めただけのこと。鈴蘭にいたころも他人の傷の手当てはしていたが、医者と呼ばれるようになったのは騎士団に来てからだ。この肩書きにはいまだに違和感がある」
隊正と同じことを言っている。
「楼蘭様は道場の運営をなさっているのですか?」
「いいや。師範はご自分の実力を世間にはひた隠しにしておいでだ。鈴蘭に道場自体はあるが、師範が師範代として弟子を募るようなことはない。オレと師範の師弟関係はそういった類のものではなく、非常に個人的なものだ。師範が一個人としてオレを弟子に取り、育て上げただけのこと」
「実力を隠して……ということは、ロラアン国の軍事力に関する歴史書の情報には誤りがある、ということでしょうか」
「能ある鷹は爪を隠すという言葉があるだろう。鈴蘭では常識中の常識だが、師範はあえてご自分を非力に見せておられる。今は両腕とも義手だが、あれが片腕だったころは義手すらつけず、隻腕のままで暮らしていたそうだ。自分は戦えない、脅威にはなり得ない存在であることをアピールするためにな」
「それではかえって他の国から目をつけられるのでは?」
「鈴蘭は大戦時代より以前から周辺諸国に武器や防具をはじめとした、あらゆる品々を用いて商売をしてきた。もともと友好関係にあった国や、化身が温厚で、かつ軍事力のある国を中心に水面下で取引を持ち掛け、歴史書にも残っているとおりの取引で同盟を結び――」
群青はわずかに口角を上げて不敵な笑みを浮かべる。
「そのうちに大戦時代の幕があけ、裏でそういった取引がおこなわれていると表沙汰になったころには、既にロラアン国に攻め込める国などいないに等しかった。手を出せば、どうなるか。だからこそロラアン国は大戦時代であっても戦渦にほとんど巻き込まれることなく商売を続けられたのだ。本当に手を出したのはリーズベルグくらいのものだな、愚かなことだ」
かつての祖国の名にどきりとする。
「ロラアン国がリラ国に納品する物資を乗せた貿易船が、リーズ・ベルグ率いる海賊軍からの奇襲を受けた――というお話ですよね。たしか楼蘭様の腕は、その際に……」
「ああ。ロラアン国の貿易船は大型のものとはいえ一隻だけで、鈴蘭の武者商人といえども化身と戦える者はおらず、師範は片腕だ。対する海賊軍は完全装備の軍船が五隻。歴史書にはなんて書いてあった?」
「ええと……リーズ・ベルグは武器の納品を遅らせることが目的で、楼蘭様の腕を斬り落とすと、目的を果たしたとして撤退した――と。たしかそう学びました」
「なぜそんな中途半端な結果になったのだろうと疑問には思わなかったか?」
「それは、はい。リーズ・ベルグの戦に関する逸話には……リラ様の目のことといい、冷徹で残虐なものが多いです。納品を遅らせるどころか、船ごと沈めて納品自体を不可能にするくらいのことをしてもおかしくなかったのでは?」
「そうだな。師範の腕を斬ったくらいで目的を果たしたとするのは、あまりに滑稽だ」
「実際は違うのですね」
「師範の腕が斬られたのは、おそらく意図的にそうしたことだ。リーズ・ベルグは自分が優位に立ったと思うとすぐに油断する癖がある。そのあとの陛下との戦いでもそうだっただろう。両目をつぶして油断したせいで、二度と戦えなくなった」
「わざと……腕を切断させたということですか?」
「師範がリーズ・ベルグごときを相手に後れを取ったというほうがおかしいんだ。策があるなら腕一本くらいは差し出すとも。なんせあの人は昔から……ああ、いや、それはいい。……腕を斬り落とされた師範が応急処置を受ける間、自分に立ち向かってくる者がいないことを知ると、リーズ・ベルグは船に積んであるリラ国宛ての物資を確認しに船内に入った。他の乗組員たちは恐怖で動けないか、師範の手当てに必死でやつを止める余裕などない。もっとも、それは師範が事前に定めておいた取り決めに従ったにすぎないが」
「取り決め?」
「襲撃者が国の化身であったとき――リーズ・ベルグが相手である場合はとくに、乗組員は絶対に抵抗しないこと。国同士の戦争時において、ほとんどの化身は積極的に人間を手にかけることはないが、リーズ・ベルグはその限りでないからだ。少しでも歯向かえばたちまち皆殺しにあう。国境をまたいで行商に出た際などの注意事項というか……詳しくは企業秘密だが、他にもいろいろな決まりがある」
「そ、それで楼蘭様はどうなさったのですか? 義手はないのですよね?」
「師範には腕の有無などあまり関係ない。本当に警戒すべきは武器を持った手ではなく、あの不可思議な靴を履いた脚部であるからだ。剣技より足技のほうがよっぽど強い。師範はリーズ・ベルグが船の中を物色する間に、やつとともに甲板に乗り込んできていた海賊を全員片付けて、海賊軍の船を一隻残してすべて沈めた。騒ぎに気付いたリーズ・ベルグが戻ってきたころには、残り一隻も水夫以外の乗組員が無力化されたあとだ。そこから再び一騎打ちになったものの、リーズ・ベルグは窮地に立たされた」
「大怪我をした状態で、足技だけで抑え込んだのですか?」
「そういうことだ。師範はそのとき、今ここで撤退を選ぶならば、此度の襲撃はなにかの間違いであったと水に流してやる――そう説得したらしい。そのころには同盟国からの援軍も到着していた。さしもの虐殺王リーズ・ベルグもこれには撤退せざるを得なかった」
「船を四隻沈めたというのは、いったいどうやって……」
「オレもそこが一番気になっている。鈴蘭には、当時そこで働いていた従者たちが残した手記が何冊か残っていて、そこにはあの戦いの真相が記されている。鈴蘭でそれを知らない者はいない。しかし従者たちの手記にはいずれも、師範はリーズ・ベルグがいない隙に単身で敵の船に飛び移り、なにやら大暴れしていたということしか書かれていなかった」
「楼蘭様が単独で乗り込まれたのなら、具体的にそこでなにをなさったのかを知るのはご本人のみですからね……」
「師範はその襲撃の意味が、リラ国との海上戦への布石だと気付いておいでだった。なのでそのままリラ国へ直行するおつもりだったが、まわりの者がそれを許さなかった。腕の出血がひどく、手当てのためには一度本国へ戻る必要があったからな。その結果、リラ国への装備の納品に遅延が生じ、すべてがやつの思い通りとまではいかなかったものの、妨害の成果は十分に得られただろう」
そんな険悪かつ凄惨な戦いが、ラセット・リラの失明および、その後の爆竹と毒キノコとナメクジの事件につながっているというのか。
「師範は海賊船内での戦いの詳細も含め、その襲撃に関する事実を隠蔽しておられる。なので世間的にはロラアン国はリーズベルグ国に敗北したことになっているが、化身たちの中にもこの一件の真相を知るものはもちろんいる。だからこそ誰もロラアン国を襲えない。ロラアン国が軍事力の乏しい商人と職人の国として有名なわりに、どこからも支配を受けていないのはそういうことだ。あの暴虐の化身、セレイア・キルギスでさえ師範には手を出さない」
「手を出せば、その同盟国が楼蘭様を守るために出撃する――というのもありますが、なにより楼蘭様そのものがとてつもない脅威であるということですね」
「恐ろしいか?」
「いえ……そこまでお考えになられたうえで、ああいった振る舞いをなさっているのであれば、とても……聡明で豪胆な立ち回りかと。従者の方々を守るためとはいえ、ご自分の腕を差し出すだなんて、生半可な覚悟ではできないことです。それに国の化身とはいえお一人で、それも生身の、さらには腕を失った状態で軍船を沈めるだなんて、想像もつきません」
「ああ、そうだろう。オレの師範はすごいんだ」
よほど師である楼蘭を慕っているのだろう。群青は今までに見たことのないほど柔らかい表情で、穏やかに微笑んだ。その笑みに、なんとなく楼蘭の顔が重なって見える。
「とはいえ、あまり言いふらすことではないからな。他言無用で頼む。……どうした?」
「あ、いえ。ふと思っただけなのですが……群青先生は、楼蘭様とよく似ていらっしゃるなあ、と」
「オレと師範が?」
「笑ったときのお顔がとくに」
群青はしばらくきょとんとしていたが、やがて肩の力をゆるめて小さく笑った。
「……そうか」
それきり彼は黙り込んでしまったが、どことなくうれしそうに見えたのは、雅日の見間違いだろうか。
*
木造建築の背の低い家屋と、広い畑ばかりで視界が埋まる。村は人口が少ないだけで十分にぎやかだ。さびれた印象はなく、和やかな印象だった。そんな村から少し離れたところにある一軒の平屋の前で群青が立ち止まる。入り口の引き戸を叩くが、中から返事はない。
「カイル」
呼びかけながらもう一度戸を叩く。やはり返事はない。群青は取っ手に手をかけて引き戸を開いた。とくに施錠はされていないらしい。不用心だ。群青はつかつかと中に入っていき、雅日は入り口の前で取り残された。外からそっと覗き込んでみるが、人がいるようには見えない。
「……留守か」
「カイルさんは群青先生が訪ねてくることをご存知でないのですか?」
「手紙は届いているはずだ」
「ではたまたまお出かけになっているだけかもしれませんね」
群青がカイルの家から出てきたところで、村がある方向から声が聞こえた。
「おーい、あんた、そこでなにしてるんだ? ……ああ! 先生! ご無沙汰しております」
声のしたほうを見ると、鋤を担いだ年配の男がこちらに手を振っていた。群青はそちらに向き直って一礼する。
「翁、腰はずいぶんよくなられたようですね」
「ええ、ええ、おかげさまで! 先生にいただいた薬がよく効いて、このとおりですよ。どうもありがとうございました。……ところでそちらのお嬢さんは? 以前おっしゃっていた奥さんですか?」
「まさか、妻はもっと小柄です。彼女はただの後輩ですよ」
「へえ! 別嬪さんだねえ、カイルの恋人かい?」
「あ、違います」
「彼女は騎士団の新人で、カイルに挨拶がしたいと言うからついでに連れてきました」
「あれま、そうでしたか。カイルなら山にいると思いますよ。数日前からこもり気味で、一応ちらちら戻っては来ているみたいですが……」
「そうですか、では行ってみます。翁、また不調を感じたらロラアン国にある万屋鈴蘭という店を頼るとよろしい。私が勤めている店で、以前に調合してお渡しした薬と同じ効果のものがあります。本店のほうが品ぞろえはいいですが、ダウナやフェイムにも支店があります。カイルに言えばつないでもらえるでしょう。では失礼」
群青は一礼し、さっさと歩いて行ってしまう。雅日も男に頭を下げると、小走りでそのうしろを追いかけた。
「山に入る可能性については伝えていなかったな」
「動きやすい服装でとおっしゃっていましたから、森や山などを通るのかもしれないとは考えていましたよ」
「そうか。ああ、それから……さっきの老人には気を付けるように。気さくで世話好きな好々爺だが、早々に切り上げないと長話になる。もし話をする機会があっても、結婚願望がないなら未婚であることは伏せろ。見合い話を持ち掛けられて面倒なことになるからな」
「それを知っているということは……」
群青はうんざりしたようにため息をついた。
「カイルに会いに行くたびに未婚の娘を紹介され、付近の村の娘の写真を持ってこられては、いかにできた娘かを熱弁され……毎回どうでもいいときっぱり断っているのだが」
「ああ……」
先ほどの老人からしてみると、相当な腕前の武人でありながら医者でもあり、冷静沈着で品行方正な色男が目の前にいるのだ。それが未婚であるなら放っておけないと思う気持ちは理解できないでもないのだが、本人が望んでいないのであればただのお節介でしかない。雅日も似たような経験があるのでよくわかる。あれは一度の紹介を躱すだけでもどっと疲れるのだ。
「では先ほどの、奥さんがいらっしゃるというお話は……」
「嘘ではないが、誰かに話すつもりはなかった。いらない世話だと伝えるにはそうするしかなくてな。そういう話はカイルにしてやればいいものを……」
群青は眉間にしわを寄せながら口元に手を当ててぶつぶつ言っている。彼の左手の薬指に指輪があることに、今になって気付いた。薄水色の石があしらわれた細身の指輪だ。医療班として働いているため普段は着けていないが、出かけるときは着けるようにしているのだろうか。見合い話が舞い込んで来るのを防ぐ意味もあるだろう。
「とにかくカイルを探すぞ。こっちだ」
「はい」
引き続き群青について歩いて行く。山道はそれほど険しくないものの、人が頻繁に立ち入っている様子はない。カルセットが出るという話なので、群青から離れすぎないようについていかなければ。そうわかってはいるものの、不慣れな山道を歩く雅日の足は遅い。反対に群青は慣れた足取りで平地を行くかのように進んで行く。たびたび立ち止まっては雅日が追いつくのを待ってくれるが、またすぐに距離がひらく。走らないと追いつけないほどだ。
「ぐ、群青先生はっ、山道に慣れて……いらっしゃる、のですね?」
十五分も歩いたころにはすっかり息があがってしまった雅日だったが、群青は息ひとつ乱さず涼しい顔だ。山に入ってどれくらいの距離を歩いたのだろうか。早乙女邸にいたころ、雅日は他の使用人たちの中でも体力のあるほうだった。琴琶に弟子入りしてからは魔術の練習の前に運動もしている。それでもやはり幼いころから鍛錬を積んできた武人と並ぶと、比べることもおこがましいほど貧弱なのだ。
「幼少期から、修行は主に山の中でおこなっていたからな。狩りのために山や森に入ることも日常的だった」
「な、るほど、それで……」
「……少し休憩にするか」
「は、はい、すみません……」
「気にするな、お前のためだけに言ってるのではない。座って息を整えなさい」
言いながら群青はすぐ近くの切り株を指さした。その言葉に甘えて、雅日はそこに腰かける。群青は座らず、周囲を警戒しているのか定期的にあたりを見まわしながら、ときどき屈んで足元の植物を観察していた。彼が触れる植物に、ただの雑草や野花はひとつもない。
「薬草ですか」
「……わかるのか?」
「わかるというほどでは……本に載っているような代表的なものを少しだけ」
「そういえば、お前には図鑑を読む趣味があると隊正が言っていたな。毒キノコに詳しいとか」
「そちらは印象的だったものをいくつか覚えているだけで、どちらかと言うとお花とか……薬草や食べられる野草について調べるほうが好きです。あ……と言っても本で見るばかりで、実際にそれらを扱えるわけではありませんが」
「医務室に薬草や毒草に関する本があるから目を通すといい。騎士団で日ごろから使われている薬のほとんどが掲載されている。効能と写真、どこに生えているかはもちろん、適切な保管方法や簡単な調合法も載っているから、薬学に面白みを感じているなら読んでおいて損はない」
「……薬草の管理も手伝わせようとしていませんか?」
雅日の指摘に群青は無言を返す。
「キカシクダケはどこにでも生えるから困ったものだな。騎士団の敷地内にあったものは既に駆除されたから、もうあそこで隊正が拾い食いをする心配はないだろう」
「それはよかったですが……話を逸らしましたね?」
「ああ、逸らした。ところで話は変わるが、お前はもっと体力をつけたほうがいい。寝る前に筋トレをしろ。魔力操作のための準備運動をしていると言っていたが、もう少し本格的に体を動かしなさい。以前の仕事はそれなりに体力勝負だっただろうから、非能力者の一般成人女性にしては体力も筋力もあるほうだとは思うが、騎士団に来て全体的な運動量が減った今、なにもしなければ鈍るばかりだ。ジョギングでも始めるといい。守られているにしても、ある程度は動ける体でなくては」
「う、申し訳ございません……いつも守られてばかりで……」
「謝るな。魔術師が戦場に立つとき、ほとんどの場合は後方支援が主な役割となる。後方に立つ者は魔術や狙撃、手当てなどの技術をもって前方に立つ者を守り、前方に立つ者は戦士としての力量をもって後方に立つ者を守る。隊正をはじめとした騎士たちと、いずれ魔術師となるお前は、お互いに守り守られる関係だ。今のお前はまだ実戦に出られるだけの力を持たないのだから、守られるだけになるのは当然だろう。お前が誰かを守ることになるのは、まだもう少し先のこと。いつか必ずそのときは来る。今、お前のことを守ってくれる騎士に対して恩を感じているのであれば、そのときになってから返していけばいい」
「お互いに守り合う関係……」
「武器を取って戦うことだけが、誰かを守るということじゃない。後方で支援をおこなう者、最前線で敵と戦う者。両方を経験した上で言わせてもらうと、これらはどちらも重要で欠けてはならない。大きな戦いや強大な相手との戦いなどではとくに、援護できる者がいるのといないのとでは天と地ほどの差が出てくる」
「……ありがとうございます。なんとなくですが、少し気持ちが楽になったような気がします。ただ、あの……」
言うべきか否かという葛藤に、雅日は言葉を詰まらせる。群青は雅日の迷いを感じ取ったのか、急かさずじっと続きを待った。騎士団にやってきてから、まだ一か月ほどしか経っていないが、モナルク騎士団における群青二葉という人物がどういう存在なのかは理解できてきたつもりだ。
教え導く人。
雅日が彼を先生と呼ぶのは、彼が医者であるからという、ただそれだけの理由ではない。そこにあるのは純然たる敬意だ。彼は大抵のことをどうでもいいと切り捨てるきらいがあるが、こちらが打ち明けたことにはまっすぐに向き合ってくれる。薄情ではない。他人に対して一定以上の関心を抱かないからこその不思議な信頼感があるのだ。どんなに言いにくいことでも、隊正や撫子にすら言えないことでも、群青にならなんでも相談できるような気がしてくる。眼前の暗闇を照らしてくれる、まるで月のような人だ。
「……それとは別に、護身術を教わることは可能でしょうか? 当初はとにかく魔力譲渡の魔術を使えるようになればいいと思っていましたが……それだけではいけないと感じました。魔術を扱えるようになったとしても、もし一人でいるときや魔力が切れてしまったときに危険な目にあえば、私はなにもできません。魔術で隊正くんやみなさんを援護することも大切ですが、最低限自分の身を守る手段を知っておきたくて」
「なんでもできるに越したことはない。気が済むまで試してみろ。護身術くらいなら撫子が教えられるだろう。あとは弓をやってみるといい。敵との距離が近い武器はそれだけ死のリスクも高まる。お前は基本的に隊正と行動しているからな、隊正がいる間は誰もお前に近付けないから護身術を覚えても使う機会が少ないだろうが、弓なら隊正が一緒にいる間でも使える。オレも暇なときは見てやろう。口頭で直すべき箇所を伝えることしかできないが」
「はい、やってみます。この歳になってからはじめるには、少し遅すぎるかもしれませんが……」
「なにかをはじめるのに遅すぎるということはない。やってみようと思ったときこそが絶好のタイミングであり、そこに年齢なんてものは関係ない。当たり前のことを言うが、残りの人生の中で今この瞬間の自分が一番若いんだ。むしろ今はじめなくてどうする。なにかに挑戦すること、新しいことを学ぶということに資格なんてものも存在しない。大事なのはお前自身がどうしたいのか、その心の声に耳を傾けることだ。知識を得ること、技術を得ることに遠慮などはいらない。努力次第で手に入るものにはどこまでも貪欲になれ。やってみてもダメだったら、そのときはそのときだ。あの騎士団にそんなどうでもいいことで文句を言うやつはいないし、仮になにか言われたらオレの名前を出すといい。そうすれば全員黙る」
「頼もしいです」
次々と新たな課題が増えていく。魔術に体力向上、護身術、弓術。本当にそれらすべてをこなせるようになれるかはわからない。雅日は騎士でもなければ戦士でもない。ただ隊正の魔力不全への対応策として用意されただけの予備の充電器だ。戦うために騎士団に入ったわけではない雅日が戦えないことに、文句を言う者などいないだろう。群青は雅日の向上心を尊重してくれているが、撫子やセガルがこの話を聞けば、そこまでする必要はないと雅日をたしなめるかもしれない。
だが騎士団ですごしていると、自分はこれほどまでになにもできない人間だったのかと痛感せずにはいられない。誰かに守られてばかりの自分が嫌だというよりは、魔術も武術もなにも知らない、自分自身の無知を自覚しておきながら行動を起こさずにいることに耐えられないのだ。
充電器と、あとはせいぜい雑用係としての役割しか求められていないであろうことを自覚している雅日が、戦う術を学びたいと口に出すには勇気が必要だった。そういう契約ではないからだ。
だからこそ、最初の相談相手に選んだ群青が雅日の意見を肯定してくれたという事実が、ただ純粋にありがたかった。
次回は明日、十三時に投稿します。




