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9 縁なき衆生は度し難し

隊正とフードの男はしばらくその場で睨み合っていた。先に動いたのは隊正だ。斧を振りかぶったままの体勢で一気に距離を詰める。対するフードの男は一歩も動かず待ち構え、振り下ろされた斧の柄を素手で掴んで止めた。隊正は動じず即座に蹴りを繰り出すが、男は斧を止めた反対側の手でそれを受け流す。その瞬間に隊正は斧を引っ張って取り戻し、再び斬りかかる。大ぶりで重たい武器であることを忘れそうなほど軽々と振りまわされる斧の速度は、片手武器と大差がなく思えるほどの俊敏さだが、二度目、三度目も一度目と同じく素手で止められた。


四度目、隊正は斧を振りかぶるが、そのままの体勢でぴたりと動きが止まった。攻め込もうとしたところで自ら止まったのではない。全身に込められた力は、斧を振るうときのままの筋肉の躍動を見せており、明らかに隊正は斧を振ろうとしているのだ。まるで見えない力で押さえつけられているかのような、不自然な急停止だ。なにが起きているのだろう――と当惑しそうになったところで、フードの男がその指先を隊正のほうに向けていることに気付いた。彼がなにかしているのだ。魔術だろうか。それとも彼自身の能力だろうか。


「ぐ、……クッ、ソ……があ!」


隊正は斧を投げ出して男に掴みかかる。その大柄な体躯からは想像もつかないほど素早い動きで攻め込んだ。しかし彼の拳も蹴りも、すべていなされ、躱され、流される。反対に、その合間をぬって突き出された男の拳を、隊正は避けきれず、流しきれない。隊正よりもフードの男のほうが速いのだ。


雅日の心に焦燥がよぎる。普段の隊正はもっと素早く、さらに力強いはずだ。彼の実力が並の戦士では太刀打ちできないほどの高水準で維持されていることは、これまで騎士団で彼の訓練や他の騎士たちとの手合わせを見てきて、雅日もよく知っている。その戦闘力は仁やリラからの評価も高く、あのフードの男に攻撃が当たらないのは、決して彼が弱いからではない。そして初手で打ち込まれた針のせいだけでもない。あの男が、隊正をしのぐほどの規格外な強さを持っているのだ。


しかし、フードの男の攻撃は隊正に当たりこそすれ、決定打にはなり得なかった。かすった程度ではもちろん、まともに入ったように見えた拳は素人目に見ても非常に重たい打撃であることがうかがえるが、並の人間相手ならいざ知らず、あふれる魔力によって常に強化状態にある隊正の意識を飛ばせるほどではないのだ。それでも攻撃を受けるたびに、隊正の体には確実にダメージが蓄積されていく。


腕を盾に男の蹴りを防いだ隊正の、その防御の合間をぬって拳がみぞおちに入る。隊正は短くうなって、わずかに動きが鈍った。その一瞬の隙に付け入るように、フードの男は再び隊正の頭部に向けて蹴りを繰り出した。


「隊正くん!」


雅日の悲鳴に反応したのか否か、隊正はすんでのところでその蹴りを受け止めた。足元がふらついている。最初に使われた薬がどういった効果を持つのかはわからないが、その影響が大きいのだろう。長期戦になれば不利なのはこちらだ。フードの男は隊正を見据えたまま声を張る。


「雪理、女を人質にとれ!」


その声を聞いてはっとする。フードの男の後方にいたはずの茶髪の青年の姿がない。そのことに気が付いた瞬間、背後から誰かに両肩を掴まれた。雅日が二人の戦いに見入っているうちに、青年が雅日の背後にまわっていたのだ。迂闊だった。あわてて振り払おうとすると、雅日を押さえつける力が強くなった。


「お姉さん、あなたを手荒に扱うつもりはありません。絶対に乱暴はしませんから、少しの間じっとしていてください」


「雪理ィーッ!!」


怒号。隊正がこちらに向かって叫ぶ。彼の背後でフードの男が動いた。


「ダメ、隊正くん!」


隊正は振り向きざまに拳を振るが、遅かった。男は隊正の拳を掴み止めて背中側に捻り上げると、素早く膝裏を蹴って彼の体勢を崩し、うつ伏せに組み伏せた。隊正は咆哮をあげながらもがいているが、男はびくともせず彼の背中に馬乗りになる。


「ガアアアッ!! 離せ! 離しやがれクソ野郎がッ!」


「おとなしくしろ。余計に苦しむことになるぞ」


「離せェェッ!!」


フードの男がローブの下から取り出したのは、なにかの液体が入った親指ほどの太さの筒だ。それはボールペンのような形をしており、男はその先端を隊正の首筋に乱暴に押し付けてボタンを押す。隊正がいくら暴れても、振りほどくことができない。筒の中の液体が減っていくのを見て、なにかの薬だと察した。あれはおそらく注射器だ。


「離せっつってんだろがァ!」


隊正が右腕の拘束を無理くり振り払った。隊正の手に弾かれた注射器が地面に投げ出されて砕け散る。中身は既に空だ。男はさっと立ち上がってうしろにさがり、隊正も体勢を立て直す。呼吸は荒く、よりいっそう足元がおぼつかず千鳥足になり、まっすぐ立つことすらできなくなっている。苦しそうだ。


「は――、ハァッ……ぐ、う」


「まだ動けるとは、もはや人間ではないな」


「う……る、せえ……」


「暴れれば暴れるほど毒がまわるぞ」


「殺す……殺す……ぶっ殺してやる……!」


「お前では無理だ。もう寝ていろ」


男が瞬きのうちに間合いを詰め、隊正の首筋に手刀を叩きこむ。隊正は一瞬だけ堪えたが、ほどなくして意識を手放し、地面に倒れ伏した。沈黙が流れる。隊正が負けた。目の前の光景に頭が真っ白になり、全身から力が抜けてよろめいたが、雅日を捕まえたままの青年の手が、皮肉にも雅日を支える形になった。


「運ぶぞ。雪理、その女もつれていけ」


「はい。……お姉さん、大丈夫ですか?」


「あ、あなたたちは……あなたたちは何者ですか? な、なぜ隊正くんを?」


フードの男が倒れた隊正の体の上をまたいで雅日と青年のほうに歩いてくる。雅日は警戒して身構えた。


「まさかなにも知らないのか? こいつの過去を」


「……過去?」


「この男は――」


「兄さん、うしろ!」


茶髪の青年があわてて声をあげる。フードの男が振り向いた、その頭のすれすれを力強い拳がかする。男のフードが外れた。暗い色の赤毛をうしろで結った、鋭い目つきの壮年の男だ。灰色の目が見開かれ、強い動揺をあらわにする。


「……バカな、なぜ動ける? 意識はないはずだ」


隊正が立っていた。食いしばった歯の隙間から、低いうなり声が響いてくる。様子が変だ。


「た、隊正くん……?」


「兄さん、まだ浅い・・んだ! もっと徹底的に!」


「――そうか、なるほど。このバケモノが」


空気がビリビリと震える。隊正が獣のような雄叫びをあげながら男めがけて飛び込んだ。直前までとはまるで違う、薬の影響をまったく受けていないような、普段の訓練で見せている本来の動きだ。いや、それ以上かもしれない。


そこから先の二人の動きは、とても雅日の目では追いきれないほど苛烈なものだった。理性を失った獣のごとき獰猛さでローブの男に襲いかかる隊正の動きは、防御という概念を忘れ去ったかのようにまっすぐで狂暴だ。迷わず攻撃にのみ全力を注ぐ隊正の動きを、ローブの男はいっそう真剣に見極めながら対応する。


お互いに攻め込みきれずに勝負は拮抗したが、それでも先に相手の動きに順応したのはローブの男だった。隊正の攻撃の合間のわずかな隙間に拳をねじ込む。隊正の拳が男の顔をかすり、男の拳が隊正のみぞおちに入る。それは今まででもっとも重い拳だったが、隊正は怯まず男を蹴り上げた。手で防ぐも勢いを殺しきれない。強烈な膝が腹部に叩き込まれ、男がうめく。とはいえこちらも動きが大きく鈍る様子はない。素早く身をかがめて足払いを仕掛け、隊正がよろめいた瞬間に顔を蹴りつけ、再びうつ伏せ向きに押し倒す。


隊正は起き上がろうとするが、男がそれを許さない。右手で隊正の髪をわし掴みにすると、そのまま彼の頭を地面に向かって何度も何度も打ち付けた。一回、二回、三回。手を緩める気配はない。四回、五回。血が石畳に塗りつけられていく。


「や――やめて! やめて! 死んじゃう!」


雅日が悲鳴を上げようと、男は手を止めない。六回、七回。居ても立ってもいられず駆け出した。雅日を捕らえていた青年は目の前で繰り広げられる凄惨な光景に気を取られていたらしく、今度は簡単にその手を振り切ることができた。


駆け寄ったところで、なにができるわけでもないことはわかっている。たとえこの男に立ち向かったところで、片手で軽くひねられておしまいだ。それでもこのまま黙って見ているわけにはいかないだろう。雅日は夢中で男に飛びついて、全体重をかけてその腕を引っ張った。とにかくやめさせなければ。このままでは隊正が殺されてしまう。まさかなんの力も持たない雅日が飛び出してくるとは思わなかったのか、男の驚愕が肌を通して伝わってくる。


「おとなしくしろ、死にたいのか!」


声を荒げた男が雅日を突き飛ばす。極度の緊張で身体が思うように動かず、足がもつれた雅日はそのまま勢いよく転倒した。それと同時に、男のこめかみに隊正の裏拳がまともに入った。男と雅日のうめき声が重なる。男は隊正の手の拘束を解いてしまったが、隊正が起き上がるよりも早く再び地面に彼の頭を二回叩きつけた。


「――おい、そのくらいにしておけ」


不意に、この場にいる誰のものでもない声が響いた。その瞬間、天使が通ったような沈黙が落ち、雅日は思わず路地を振り返る。


そこにいたのは軍服姿の青髪の男――スーリガだった。


「拘束するだけの手筈だろう、やりすぎだ。それ以上やれば死ぬぞ」


「殺す気でやらなければ止まらない男だ。口を挟むな」


「落ち着け、もう意識はない。取り押さえたなら予定通り、早急に退却しろ。人目につくとまずい」


「……雪理、その女はお前が処理しろ」


「わかってます」


「スーリガ様……?」


どういうことだ。なにが起きている。なぜここにスーリガがいるのだろうか。彼はこの二人と知り合いなのか? 話しぶりからして、彼はこの襲撃を知っていたのか? であれば、雅日たちにここへ来るように指示したセレイアも、最初からこうなることをわかっていたのだろうか。困惑するばかりの雅日を、スーリガの赤い目が見下ろした。


「悪く思うな。これも命令なんだ」


頭から血の気が引いていく。息ができない。緊張と恐怖が極限に達した雅日は不意に気が遠くなっていくのを感じ、抗う術もなく意識は闇に沈んでいった。



*



気が付いたとき、真っ先に目に飛び込んできたのは知らない天井だ。数秒そのままぼんやりとしていたが、すぐに路地での記憶を取り戻し、焦燥に背中を弾かれたように勢いよく起き上がった。そこは十二畳ほどある部屋で、雅日がいるのはその窓際にある白い簡素なベッドの上だ。すぐ傍の窓辺に花瓶が飾られている。起き上がった雅日の正面には、あの茶髪の青年が背を向けた状態で壁際のデスクに向かっていた。部屋の外に続いているであろう扉は彼の隣だ。雅日が起きたことに気付いて振り返った青年は白衣を着用しており、なにか書き物をしている最中だったのか手にペンを持っている。


「ああ、目が覚めましたか?」


「こ、ここ……私っ、あ、あなたは……」


ここはどこ? 私はどうしてここに? あなたは誰? 彼はどこ? どうなったの? あふれ出る疑問と胸に満ちる不安で言葉が詰まる。うまく話せない。青年はにこやかに雅日をなだめる。


「落ち着いて、ひとつずつにしましょう。僕は雪理せつりといいます。お姉さんのお名前を聞いてもいいですか?」


「し……東雲、雅日です。ここは……た、隊正くんは」


「ご心配なく、ちゃんと生きてますから。僕たちがあなたに危害を加えることはありません。順番に事情を話しますね、あなたは知っておくべきですから。まず僕と一緒にいた人は、僕の兄で――」


雪理が話し始めるが、それを遮るように扉の外から派手な物音がした。ガラス質のものが砕けるような高い音と、なにかが爆発したかのような大きな音だ。どかどかと荒々しい足音が雅日たちがいる部屋の前までやってきたかと思うと、次の瞬間に扉が吹き飛んだ。雪理は何事かと立ち上がるが、中に飛び込んできた大きな影はそんな彼に瞬時に詰め寄ると、その細い首を片手で掴んで壁に叩きつけながら持ち上げた。


「た、隊正くん!?」


飛び込んできたのは隊正だった。顔には包帯とガーゼが貼られており、雪理の身体を持ち上げたまま、殺気走った目で彼を睨みつけている。首を締めあげられた雪理は苦悶の表情を浮かべ、隊正の腕を掴んで足をじたばたさせてもがいているが、彼の力ではその拘束を振りほどけない。


「あッ……、ぐ、……っ」


「雪理、雪理、雪理ィィ!!」


「が、っ…………にぃ、さ……、たす……っ」


冷静ではない。怒りで完全に我を忘れている。雅日があっけにとられていると、もう一つ、険しい足音が追いついてきた。遅れてやってきたあのローブの男が隊正の頭を殴りつけ、続けざまに腹部を蹴りつける。隊正は雪理を離して床に放り出された。激しく咳き込む雪理の傍らでローブの男――今はもうローブは着けていない――は、肩で息をしながら隊正を睨みつける。額から出血しており、血は頬を伝って首元まで流れ、ワイシャツの襟にしみ込んでいる。前髪と服に付着していた陶器の破片がぱらぱらと落ちた。


「貴様ッ、雪理を殺す気か!」


「だったらなんだ! てめえもぶっ殺してやるッ!!」


「……とんだ単細胞だな、まるで獣だ。よほど死にたいと見える」


「なんだと? 上等だ、かかってきやがれ!」


「ゲホッ、ゴホッ……や、やめてよ、こんなところで! ここがどこだかわからないのかよ!」


雪理が半分つぶれた声で叫ぶ。隊正が再び彼に掴みかかろうとするので、雅日も思わず制止の声をあげた。


「た、隊正くん、待って!」


「姫様……姫様よお、怪我してんじゃねえか」


はっとして自分の身体を見た。膝と手のひらにできた擦り傷は、既に手当てが済んでいる。


「王様が言ってたぜ、姫様を傷つけたやつは死刑だ。……どっちだ! てめえか、それともてめえか!」


「こ、転んだだけよ、少し擦りむいただけだから! お願いだから落ち着いて!」


「そうだよ、まずは冷静になって話を……」


「うるせえ! てめえらと話すことなんざなにもねえんだよ、ふざけた真似しやがって!」


隊正が赤毛の男の胸ぐらをつかむ。同時に、男もまた隊正の胸ぐらを掴んだ。


「もっと痛い目をみないとわからないようだな、隊正」


「てめえだけは絶対に殺してやる、兵刀ひょうどう!」


「やめろって! 化身の家なんだぞ、落ち着いてよ兄さんたち・・!」


雪理が叫んだ言葉がひとつ引っかかった。


「……た、隊正くん、どういうこと? 隊正くん……」


雅日が問いかけても隊正は赤毛の男と睨み合ったままだ。このままでは再び先ほどのような死闘に発展してしまう。彼らの事情もわからないままだ。雪理の態度からして、雅日は彼らの個人的な喧嘩に巻き込まれているのだということだけは察しているが。


「隊正くん!」


ベッドを降りて隊正と赤毛の男の間に割って入ろうとする。隊正の腕をとって二人を引き離そうとするが、隊正が力を緩める気配はない。雅日を見てすらいない。腕力では絶対にかなわないとわかっている以上、無理に引きはがそうとするのは時間と体力の無駄だ。


路地でのことがあるため、雅日には今の激情に駆られた隊正よりも、この赤毛の男のほうが恐ろしくてならないのだが、思いきって男の手を掴んだ。今この瞬間は彼のほうが理性的で話が通じるであろうことと、雪理が言った、彼らが雅日に手荒なことをする気はないという言葉を信じてのことだ。赤毛の男はこちらを睨んだが、雅日の不安な表情に気付いたのか、素直に隊正から手を離す。そこにできた隙間に雅日は肩をねじ込んで、物理的に二人の間に割って入った。これで少なくとも隊正が今すぐ彼に手を出すことはできない。今の隊正は怒り狂っているが、それでも雅日の怪我に気付き、リラの言葉を思い出すくらいの冷静さは残っているのだ。説得の余地はある。


「どけよ姫様、怪我しても知らねえぞ」


「いいえ、どきません。怪我ならもうしてるのよ、あなたが知らないうちにね。それにあなたは私に手をあげたりしないもの」


「もし手をあげたら?」


「死刑なのでしょう? そうはならないにしても、団長さんと蘇芳くんに言いつけます。まずはこの手を離して」


雅日が強く言うと、ようやく隊正がこちらを見た。


「……怒ってんのか?」


「当たり前よ! 隊正くんは当事者だから状況を理解しているでしょうけど、私は路地でこの人たちが来たときから、ずっとなにがなんだかわからないままなのよ? どういうことなのか、ちゃんと説明して! でないと群青先生にも言いつけますからね!」


「げ」


ぎょっとしたように表情を歪める隊正の頬を両手で包んでこちらを向かせ、目を合わせる。顔中傷だらけで痣もできているが、大事には至らなかったようだ。本当によかった。


「……少しは落ち着いた?」


「……いや! こいつは俺が殺すぜ!」


「落ち着いたみたいね」


隊正の手に触れて赤毛の男の胸ぐらを掴んだままだった手をおろさせる。赤毛の男は襟元を正しながら、ふん、と鼻を鳴らした。高圧的な態度だが、まるで話が通じないわけでもなさそうだ。雪理が椅子を用意し、全員が腰を下ろす。隊正と彼らの間に雅日が座り、ようやくきちんと話ができる状態になった。雪理は何度か咳払いをしてから話を切り出した。喉の調子が悪そうだ。


「ええと……すみません、ありがとうございます東雲さん。僕ではこの二人を止められないので助かりました。もう一度自己紹介しますね。僕は雪理です。まだまだ未熟ですが、普段は地元のエレスビノで医者として働いています。こっちは僕の兄の……」


「兵刀だ。警備隊でエレスビノ部隊の隊長を務めている」


「……東雲雅日といいます。それでお二人と隊正くんのご関係は?」


「兄弟です。うちは姉を含めた六人兄弟で、兵刀は長男、隊正は次男。僕は五男で末っ子です。地元に残っているのは長男、三男、僕の三人で、隊正兄さんは今から十年ほど前に家を出て行きました。セレイアで傭兵をしていることは知っていましたが、四年ほど前から消息を絶っていたので、ずっと捜していたんですよ」


言いながら、雪理は兵刀の額の傷の手当てをする。おそらく隊正が寝かされた部屋にも花瓶があったのだろう。投げつけられたのか殴りつけられたのかはわからないが、隊正ならどちらでもやりそうだ。


「……隊正くん、騎士になったこと、ご家族には話していなかったの?」


「こいつらに言うわけねえだろ。居場所がバレたらこうなるってわかってたんだからな」


「東雲雅日、隊正が魔力不全を抱えていることは知っているか」


「あ……はい。お話はうかがっています。私は空者で、彼の魔力不全に対処するために魔術を学んでいます。とはいえ、つい最近になってからのことなので、肝心の魔術はまだ扱えないのですが」


「それでは根本的な解決にはならない」


「僕たちが隊正兄さんを探していた主な理由は……行方がわからなくて心配だったのはもちろんですが、兄さんにきちんと治療を受けてほしかったからでもあるんです。魔力不全はそれ自体が命にかかわるものではないとはいえ、薬を使っておくに越したことはありませんから」


「でも隊正くんは……」


「注射が怖いからと治療を拒み続けている」


「おい、怖いわけじゃねえって言ってんだろ」


「なら治療を受けろ」


「黙れ。俺に命令すんじゃねえよ」


一触即発の睨み合い。張り詰めた空気がその場を支配しようとするのを雅日が阻止する。


「お二人はどうやって隊正くんの居場所を?」


「それを説明するには、まず三番目の兄さんについて話すことになります」


青継(あおつぎ)の野郎が原因か。てめえら三人とも殺すからな」


「青継にも雪理にも殺す価値はないぞ。無駄なことだ」


隊正の発言も野蛮だが、兵刀の言い様もあまりにひどい。険悪で冷淡なやりとりに、雅日は少しむっとしたが、雪理は構わず話を進める。


「三男の青継兄さんはエレスビノで物作りをしていた父の工房を継いで、うーん……なに、と聞かれると困りますが職人です。昔から器用な人で、武器や防具をはじめ、家具やアクセサリーまで手広くあれこれ作っていて、青継兄さんの店ではなんでも手に入ると地元で評判なんですよ」


「その評判を聞いた万屋の店主が、業務委託の話を持ちかけにエレスビノに来た。ロラアン国にある万屋鈴蘭だ。モナルク騎士団にも出入りしているだろう」


「楼蘭様ですね」


「そうです。青継兄さんは楼蘭店主との世間話の中で、消息不明の傭兵の兄がいることを話したんですよ。もちろん、名前や見た目の特徴なんかも一緒に」


なんだか読めてきた気がする。


「それで楼蘭様は、モナルク騎士団に隊正くんがいることを……?」


「はい。お弟子さんから隊正兄さんが騎士団にいることを聞いたと言ってました」


「つまり隊正くんの居場所がわかった直接の原因は、楼蘭様と群青先生……?」


隊正をちらりと見る。具合の悪そうな顔だ。腹は立つものの、あの二人には実力でかなわないとわかっているのだろう。


「それから楼蘭店主を通してリラさんと連絡をとったんです。そうしたら、隊正兄さんをセレイアに行かせるから、あとは僕たちのほうで好きにするように言われて」


「今回のセレイア行きの本当の目的はそれで、私の旅行はカムフラージュだったと……」


「旅行自体は無関係の東雲さんを巻き込んでしまったお詫びの意味もあったと思いますよ。僕たちもまさかなにも知らされていないとは思っていなくて。無駄に怖がらせてしまって、本当にすみませんでした」


「それは……その。ところでスーリガ様は? なぜお二人とご一緒に?」


「協力してくれました。隊正兄さんは傭兵として名をあげていましたし、兵刀兄さんも警備隊では有名な人です。セレイアさんとスーリガさんもこの二人のことを知っていて……僕は詳しく知りませんが、リラさんを含めて三人それぞれに借りがあるとかなんとか。この屋敷はセレイア・キルギスの別宅です。国内にいくつかあるらしくて、そのうちのひとつを貸してもらってるんです。スーリガさんは裏でサポートしてくれました。東雲さんをここまで運んだのもスーリガさんですよ」


「と、扉……壊してしまいましたけど……」


「花瓶もだ。まったく、誰が弁償すると思っているんだ」


兵刀が愚痴っぽく吐き捨てた。隊正は悪びれる様子もなくふんぞり返っている。


「……あの注射と針は? 兵刀さんは毒とおっしゃっていましたが」


「針は麻酔薬です、兄さんが毒と呼んだのはこっちですね。大型のカルセットを昏倒させるほど強い薬で、人間に使えば毒にもなり得ますが量を誤らなければ危険はありません。本来は、群れをはぐれて人里におりてきてしまったカルセットを安全に無力化するために使われることが多いです。こうでもしないと兄さんは絶対に暴れるので……結局使っても大暴れでしたが」


血のつながった兄弟に魔獣扱いされる隊正の身の上を思うと少し気の毒だったが、同時に、先ほどの暴れようを思い返すと、多少は仕方がないかもしれないとも思えてしまう。雪理が自分の荷物の中から、兵刀が使ったものと同じ筒状の注射器を取り出した。


「この注射は魔力不全の薬です。医療知識がない一般の人が自宅で使えるように作られた注射器で、このボタンを押すと先端から針が出て薬が注射されます。身体のどこに使ってもいいですが、より魔力が集まっている部分に使ったほうが効果的ですね。……だからといって首にやるなんて」


「あの状況で場所なんか選んでいられるか」


言いながら雪理は注射器を雅日に差し出した。手に取って眺めてみる。群青の話では、魔力不全の安定剤は毎日投与する必要があるらしい。だが注射一本のために医療所に通い続けるというのは、毎日のこととなると現実的ではない。医者に頼らなくても自分でできるというのは便利だ。


「兄さん、ちゃんと薬を使ってくれよ。昔はちゃんと使ってたんだろ? 誰かに怪我をさせたり、戦いの最中に枯渇して死んでからじゃ遅いんだからさ」


「うるせえ! 俺はそんなもん――」


「薬に頼らなくても克服できると? あれから十年経ったが、お前はそれを克服できたのか?」


兵刀の指摘に隊正は言葉を詰まらせる。図星なのだ。


「一生つきまとう問題だと言ったはずだ。……覚えているはずがないか。人の話を聞くという簡単なことすらできないお前のような獣に、そこまでの知能を求めるほうがバカげていた。子どものころからなにも成長していないな」


隊正が立ち上がった。


「兵刀、てめえ……」


「青継の額には、お前がつけた傷が痕になって残っているんだぞ」


「だからなんだってんだよ」


「やめろやめろ。今は東雲さんへの説明が先。ほら兄さん、座って。兄さんも、怒る気持ちはわかるけどややこしくなるから個人的な意見は控えてください」


兵刀は腕を組んでそっぽを向いてしまう。雪理はため息をついて話を戻した。


「ものは相談なんですけど、東雲さん。薬を騎士団に送りますから、東雲さんが兄さんに薬を投与してみてくれませんか?」


「私がですか? 無理ですよ、群青先生でもあきらめたのに……」


「それは兄さんが毎回暴れるからでしょう。でも兄さんは東雲さんには手をあげられないみたいですから、適任だと思うんです」


「おい、勝手なこと言ってんじゃねえぞ雪理」


「こちらは十分に譲歩している。お前をエレスビノに無理矢理連れ帰って静養させてもいいのだぞ」


「隊正くんが安定剤を使った場合、どのくらいの効果が得られますか?」


「ずいぶんマシになると思いますよ。少なくとも、そこにあるものを何気なく手に取ったつもりが握りつぶしてしまった――というようなことは減るかと。治るわけじゃないので東雲さんのアシストは必要ですが、発作をある程度抑えられます」


「隊正の症状はかなりひどい。魔力のあふれ方も尋常でないが、枯渇すると最低でも三日はその状態が続く。騎士団の医者によると、最長で一週間魔力が枯れていたこともあったそうだな」


「薬を使えば魔力が枯渇しても一日か、長くても二日程度にまで改善されると思います。魔力不全の人の中でもよく効く部類です。もともとの症状が重い分、日常生活になんの支障もないほど――とまではいかないですが」


「隊正くんはどうして安定剤を使うのが嫌なの?」


「……ふん」


「怖いのだろう」


「ちげえっつってんだろ殺すぞ」


「否定するだけでなく納得させてみろ」


「てめえにゃ死んでも言わねえよ。くたばれクソ野郎」


隊正は兵刀に向かって中指を立てるが、兵刀は表情を変えない。物言いや態度は冷たく、聞き捨てならない発言もしばしばあるが、雪理とともに消息不明になった隊正を捜し続けた兵刀は、そして雪理も、隊正の身を案じているからこそ今回のような強行策を取ったのだろう。雅日も、魔力の枯渇で苦しむくらいなら薬を使ってほしいと思うが、隊正本人が嫌がっている以上は強制できない。


「どうですか? 東雲さん」


「私は……、……すみません。少し考えさせてください」


「なにを考えることがある」


「私は隊正くんのことをまだよくは知りません。隊正くんからしてもそれは同じこと。たしかに効果があるなら使うべきなのかもしれませんが、私が彼に安定剤を投与するという提案を承諾するかどうかは、私一人で決めていいことではありません。まだそれが許されるほどの信頼を築いてはいないからです」


「使うべきだとわかるなら使うだけだろう」


隊正という一個人についてもそうだが、魔力不全に対する理解がまだまだ浅い自覚が雅日にはある。この二人のほうが隊正の状態を理解していて、事態を深刻に捉えているのだろう。言いたいことは理解している。彼らは隊正が心配なのだ。だが彼らの意見の正当性を理解する反面、どうしても素直には頷けない自分がいるのも事実で、単なるエゴだと理解しながら、雅日にはその感情を無視することができなかった。


「実際に安定剤を使うのは隊正くんです。本人が納得しているならまだしも、これだけ嫌がっているのに無理強いはできません」


「隊正が治療を拒んだしわ寄せは、本人だけでなくお前にも来るのだぞ。いや、お前たち二人だけではない。こいつ一人のせいで組織全体の輪が乱れる。集団の輪を乱す存在など邪魔なだけだ。目障りでしかない」


「それは違います。隊正くんが騎士団にとって邪魔な存在なら、もうとうの昔に解雇されているはずでしょう。その体質のことで彼の身を案じることはあれども、リラ様はその程度のことで彼を目障りだなどとはお考えになりません。私たちの王はそういうお方です」


「己が主君が独裁者であることも疑わず妄信できるとは、見上げた忠誠心だな。奇特なことだ」


「……そのお言葉は主君への侮辱として受け取ってよろしいのでしょうか」


「くだらん、勝手にしろ。これだから信奉者は」


「兵刀、てめえそろそろ黙らねえと、その頭かち割るぞ」


兵刀と隊正が睨み合う。二人の間に殺伐とした沈黙が流れそうになったのを雪理が遮る。


「兄さん、やめて。……つまり雅日さんの方針としては、あくまでも兄さん自身の意思を尊重したいと?」


「はい。前向きに検討させていただきたいところですが、最終的なことは隊正くん自身の意見に沿って、二人で話し合って決めたいと思います。本人が納得できないのなら、安定剤は使いません。今この場で私が出せる結論はそれだけです。なにを言われても私の答えは変わりません。……隊正くん、それでいいかしら?」


雅日が確認を取ると、隊正は雅日を見たまま数秒黙ってなにかを考えていた。


「……、おう」


雪理は隊正と雅日に交互に視線を移すと、息をついて頷く。


「……そうですか、わかりました。とりあえず……使う使わないは置いといて、一応、今手元にある分の薬は渡しておきますね。急ぐ必要はありませんから、二人でじっくり話し合ってみて、具体的なことが決まったら連絡をください。……あ。そうでなくても、定期的に手紙かなにかで兄さんの様子を教えてくれると助かります。十年前に出て行ったきり一度も帰ってこないから、両親もすごく心配してるんですよ」


「わかりました。それでは、そういうことでお願いします」

次回は明日、十三時に投稿します。

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