8 虎穴に入れば鬼出づる
スーリガの案内で辿りついた先にあったのは両開きの扉に閉ざされた部屋だった。彼は扉を数回ノックすると、中からの返事を待つことなく扉を開ける。返事を待たないどころか、もはやノックしながら扉を開けたようにすら見えた。
「セレイア、入るぞ」
「入りながら言うんじゃねえよ」
「どうせお前は返事をしない。リラの使いが来た」
「手紙ぐらいそのへんのやつに預けりゃよかっただろ」
「国家同士の文書のやりとりだ。いい加減には扱えまい」
部屋の奥のデスクで書類の山に向かい合っていたのは白髪の男だった。右頬に十字型の刺青があるワイシャツ姿の男は、鋭く吊り上がった黒い目をこちらに向けると、手元の書類に視線を戻し、手早くなにかを書き込んで万年筆を置き、大きなハンコをドスンと書類に押し付けてから、改めて雅日たちを見た。
「で。なんだって?」
「あ――こ、こちらをお届けに」
リラから預かった封筒を手に、雅日が一歩前に出る。セレイアは立ち上がった。十字架のピアスが彼の動きに合わせて揺れる。背は高いが腰まわりが細く、しかし決して貧弱な体つきではない。襟もとにはネクタイの代わりに十字架のチョーカーがあり、それだけ宗教的な装飾を身に着けているにもかかわらず、彼自身に信仰心や神聖さは微塵も感じられない。
「やっぱ何回見ても十字架の似合わねえやつだなあ」
隊正が言う。雅日はあわてて彼の服の裾を引っ張り、無礼な発言を慎むように催促するが効果はない。セレイアは不機嫌というよりは疲れたように頭を掻いた。
「長柄の猛犬か。しばらく見ねえから死んだのかと思ったら、騎士団にいたとはな。……俺だって好きで着けてるわけじゃねーよ。象徴として着けてるだけだ」
ため息をつきながら雅日の手から封筒を受け取るが、セレイアはしばらくなにをするでもなく雅日の前に留まった。雅日が目だけで彼をちらりと見上げると、鋭い目がこちらをじっと見ていた。息が詰まる。目を反らせない。
「ふーん。お前がリラのお気に入りか……たしかにあいつが好みそうな女だ」
セレイアは硬直している雅日の顎に手を添えて顔を上げさせた。身動きが取れない。まるで金縛りにあったかのように、指一本として動かない。
その瞬間、雅日の左側から伸びてきた太い腕が雅日の肩を抱き、身体がうしろに引っ張られる。同時に、右側から伸びたもう一本の腕がセレイアの胸もとを軽く突き飛ばした。見上げると真後ろに隊正がいて雅日を胸に引き寄せていた。
「おい、こいつはうちの王様の女だ。触んじゃねえよ」
「ふん、相ッ変わらず躾のなってねえ犬だな」
懐から出したナイフで手紙の封を切って中身を取り出し、ざっと目を通すと、セレイアはまたため息をついた。デスクに手紙を投げるように置いてスーリガを睨む。
「なーにが国家同士の文書のやりとりだよ。ったく、あいつ……また自分の女のために俺様を利用しやがったのか」
「なんだ、もてあそばれたのか」
「そういうこった、地図持ってこいスーリガ」
「そこにあるだろ。利用されたことに怒りながら俺を利用しようとするな」
「ケッ、……おい女」
「えっ、は、はい」
「これ持ってろ」
セレイアが雅日に持たせたのはこの周辺の地図だ。あちこちになにかの印や書き込みがされているが公用言語ではなく、雅日にはなにが書かれてあるのかわからない。セレイアはデスクのほうに戻って引き出しから赤色のペンを持ち出すと、雅日が持つ地図に印をつけて文字を書き足した。
「何日滞在する?」
「に、二泊三日の予定です」
「そうか。おい、今いる屋敷はこれだ。パイプオルガンならここ、今日の演奏は夕方の五時からだ。ステンドグラスならここ、昼時は人が少ねえ。もう少し北に行けば美術館もあるが明日は休館日だから行くなら今日か明後日だ。讃美歌ならここが一番だが、昨日ここの通りで爆破事件が起きたから、こっちに迂回する必要がある。ここの大通りはよく暴動が起きて、三日に一回は火炎瓶が飛び交う場所だから立ち入るな。こっちの商業地帯は旅行者向けを謳ってるがぼったくりとスリが多い。いい店がそろってるのはこのあたりだ。ここはよく傭兵連中が入り浸ってる。このあたりは宗教戦争がよく起きる。こっちは最近行方不明者が増えてる。とくにこの通りは観光客がよく消える」
ここは安全、ここは危険、ここは入れない、ここは――と、次々に赤い印が増えていく。地図の半分が赤色で染まったころに、ようやくセレイアはペンを離した。
「ま、ざっくりこんなもんか。あー、あと最終日の帰る前に必ずここを通れ。いいか、ここだ。忘れんなよ。危ない目にあいたくねえなら赤く塗った部分には入るな。いくら護衛がいるっつっても、わざわざ通るような場所じゃねえ」
「あ、あの……これはいったい?」
「あ? 観光に来たんだろ、リラの手紙にゃそう書いてる。俺様直々に観光旅行をアシストするなんざ、普通の人間なら一生に一度すら経験できねえようなことだ。感謝しろよ」
「リラ様のお手紙に……? わ、私の観光のお手伝いをしていただけるように書かれていたのですか?」
「いい性格してやがる、不敬にもほどがあるぜ。別にリラのことは嫌いじゃねえが、向こうに楼蘭の弟子さえいなけりゃ殴りに行ってるところだ。この天下のセレイア様相手によくやるよ。その地図は持ってけ」
「……これはお仕事に使われていたものなのでは?」
「もう使わねえ。俺はもうちょっと派手な女のほうが好みだが、それはそれとして美人に優しくしといて損はねえからな」
「えっ」
「セクハラだな、殴っていいぞ」
スーリガが横から言う。
「よっしゃわかった!」
「こらこらこら!」
隊正は意気揚々と前に身を乗り出すが、彼とセレイアの間には雅日がいる。咄嗟にその大柄な体躯を押し返した。当然ながら雅日では力が足りない。セレイアはとくに意に介さずデスクのほうへ戻った。見ての通り、仕事が山積みなのだろう。
「いくつかある借りをひとつ返しただけだ。わかったらもう行け」
「あ――はい、ありがとうございました、失礼いたします。……ほら、隊正くん」
追い払うようにしっしと手を振るセレイアに、あわてて頭をさげ、短く挨拶を述べて踵を返す。なおもセレイアにかかっていこうとする隊正をなだめ、どうにか引っ張りながら執務室を出た。
スーリガは正門まで雅日たちを見送ってくれるようだ。今日が初対面ではあるが、彼のことは知っている。スーリガといえば東大陸の西部に位置する国家であり、かつてはダウナ国の領地であったが、炎神の名を冠する地の化身として顕現した彼が契約者として選ばれたことをキッカケに民草から独立を望む声があがり、ダウナ国の化身との円満な話し合いの末、ひとつの国家として成り上がった歴史を持つ国だ。国の化身としても守護神の現身としてもやや特殊な存在である。
そこに加え、過去にセレイア・キルギスとの戦いで敗れて領土と自由を奪われた――というのが歴史学から得られる情報なのだが、二人の関係には歴史から想像していたような険悪さなどはないように思える。むしろ同僚としての対等な関係を築いているようにさえ見えた。
「気になることでも?」
スーリガが目だけで雅日を見た。知的好奇心と非礼を諫める理性との間で葛藤しているうちに、彼に対してじろじろと不躾な目線を送っていたことを自覚した雅日は、はっとして頭を下げるが、スーリガはそれを手で制した。
「あ、あの……無礼を承知でお聞きいたしますが」
「かまわない。なんだ」
「スーリガ様とセレイア様は、その……私ども下々の者が伝え聞かされていたより、よほど友好的なご関係であるようにお見受けしました」
「あんなやつと仲よくなったつもりはないぞ。俺はあいつが嫌いだ」
「スーリガ国はセレイア国の……配下にある国として、一般に知られていますが、一方で領地が返還される日も近いとも噂されています。それは事実なのでしょうか? スーリガ様はどのようにお考えですか?」
「あいつと俺の従属関係は、今となっては形だけのものだ。そもそも、あいつが俺をここに連れてきたのはダウナへの嫌がらせが目的だったからな。属国になったと言っても本国の民草にはほとんど影響はなかったし、大戦時代が終わった今、あいつが俺をここに縛り付けておく理由はない。いつでも返す気はあるだろう。今の俺は行動に制限を課されておらず、監視もない。それどころかあいつは国家機密にあたる情報まで俺に共有して仕事を任せている。今の俺はセレイアの補佐として働くためにここにいるだけで、事実上、セレイア国の支配からは解放されていると言っていい」
「じゃあなんで白黒はっきりさせずに、まだここに残ってんだ? 国に帰らせろって言やぁ、いつでも帰れるんじゃねえのか?」
「国土返還を経て国に帰ったところで、うちは国土がそれほど広くはないから、ダウナや他の化身たちほど忙しくもない。仕事は嫌いじゃない。セレイアから受けている仕事がなくなれば、一気に暇な時間が増える。それから、これがもっとも重要なのだが、ここであいつの動きを見張っているほうがなにかと安心だ。あいつは多忙だから、仕事を手伝ってやれば相応の報酬も出るし、俺にとってもそんなに悪い話じゃない」
「金払いがいいってことか。そりゃ大事だな」
「それも理由のひとつなのは否定しないが、やはり一番の理由は監視だ。放っておけばなにをしでかすかわからないからな。先ほどはずいぶん親切にしていたが、あれであの男が実は優しいなどと勘違いしないように。あいつが変な気を起こさないよう、せめて俺一人くらいは、いつでもあいつを背後から刺せる位置に立っているべきなんだ」
「では、もしセレイア様がスーリガ国の解放を正式に宣言なさった際は……」
「出稼ぎを名目にここに残るつもりだ。ダウナと本国の同胞たちには悪いが、泰平の世を守るには必要なことだからな。俺がここを離れない理由については、セレイアもここで働く他の兵士たちも全員理解している」
「セレイアがなんかしたら裏切る気満々だって知りながら、お前を野放しにしてるっつーことは、兵士たちはそれでもいいからお前にいてほしがってて、セレイア自身も……自分を見張ってくれるやつがほしいってことか?」
「いや、あいつは単に自分の仕事を手伝える人手を逃がしたくないだけだ。俺もあいつが余計なことをしないうちは、あいつの不利益になることをするつもりはない。あいつが俺を信用するなら、俺はそれに応える。命令にも従う」
「セレイアがなんかしたらすぐ裏切るのにか?」
「この先、もしもセレイアと俺が対立することがあったとして、それは決して、俺があいつを裏切ったからではない。あいつが民草を裏切ったから、俺が制裁を下すというだけだ。兵士たちはお前の言うとおり、セレイアが暴れないよう、万が一暴れてもすぐに止められるよう、俺に残ってほしいんだろう。今の世の中、もう誰も戦なんて望まない。大戦時代の終幕から二百年余り、この平和が大きく乱されることがあるとすれば、十中八九セレイアが原因だろうからな。人間ではあいつを止められない」
「これが本当の神頼みっつーことか」
「おもしろいことを言う」
そうは言うが彼はにこりともしない。
「奇妙な関係だな、おめーら」
「ああいう危険人物の隣には、俺のような者が必要だろう。世のため人のため、必要な犠牲だ」
「そうでもしないと戦争を引き起こしてしまうようなお方なのですか?」
「さあな」
「つってもお前、昔あいつに負けたからここにいんだろ?」
「だからといって今でも同じ結果になるとは限らない。もし仮にまた俺が負けるのだとしても、無傷では勝たせない。今とあのときとでは状況がまるで違う。あいつが失うものは多いだろうな」
「セレイアがどっかと戦争を起こすかどうかは、お前がそのときあいつを止められるかどうかにかかってるってことか」
「少なくともあいつがリラ国に手を出すことはないから安心しろ。あそこは今この瞬間、南大陸でもっとも戦から遠い安全な国だ」
「チッ。んだよ、つまんねえな」
「こら!」
「あのころと違って、今は化身同士の相互理解も進んでいる。昔より国家同士の親睦が深まり、交流も盛んとなっている以上、大戦時代のような戦乱が訪れることはないだろう。俺が保証する」
「つーかよ、守護神のウツシミ? って国の化身に負ける程度のもんなのか? 神様って言うくらいならもっとめちゃくちゃ強ぇのかと思ったぜ」
「国家が戦争で人間を手にかけないのと同じように、俺たちは守護神の権能を戦争に持ち込んではならないという暗黙の了解の中で戦っていた。守護神の現身としての参戦ではなく、一個人あるいは一国としての参戦であるべきという共通認識があり、それはたとえ現身同士で戦うことになった場合でも同じだ。だからこそ、ときには負けることもあった」
「今は違うのかよ?」
「大戦時代が終わってからは現身同士でも交流が増え、定期的に会議を開き、有事の際の対応の仕方、力の使い方についても審議が重ねられてきた。その結果、現身たちは再びこの世に大規模な戦乱がもたらされることのないよう、必要な場合は神の権能をもってしてでも火種を取り除くべしと結論を出している。戦いを終わらせ世を平和に導くためならば、存分に神の力を振るっていいということだ」
「んじゃあ今のお前が本気出しゃ、セレイアを殺せんのか?」
「……さあな」
そこまで話したところで正門の前に到着する。兵士たちが敬礼する横で、雅日と隊正はスーリガに向き直った。
「本日はお忙しいところをお時間いただき、ありがとうございました。お見送りまでしていただいて」
「俺もこれから出かけるところだから、そのついでだ。気にするな。リラによろしく」
そう言い終えたところでスーリガがなにかに気付き、懐から無線機を取り出した。雅日たちに背中を向けて通信に出る。
「断る、自分でなんとかしろ。俺はジオと飯に行く」
スーリガは通信相手の言葉をひと言も聞かずにそれだけ伝え、一方的に無線機を切った。そのまま雅日たちに短く挨拶してからどこかへ歩いて行ってしまった。
セレイアから譲り受けた地図を頼りに町を歩くと、出発前に仁や蘇芳から聞いていたほどの危険な目にあうこともなく目的地へ辿りつくことができた。このあたり一帯にある有名な観光地にはすべて印をつけてくれていて、一緒に書き込まれた文字はセレイア式のため雅日には読めないが、隊正が読んでくれたので困ることはなかった。雑誌の特集などでしか見たことのなかった数々の名所に直接足を運び、この目で見てその場の空気を肌で感じる。かねてより憧れていた場所に今自分が実際に立っている。いつかは訪れたいと願っていた期間が長かっただけに、その感動もひとしおだ。
二泊三日のセレイア旅行。その初日は休む間もなくあちこちに行ったり来たりし、楽しい時間はおどろくほど速くすぎていった。ただ、護衛という役目があるとはいえ、またしても雅日の都合で隊正を連れまわしてしまっているのが少々申し訳ない。滞在する宿に着いたときに雅日がそう言うと、隊正は気にしなくていいと言った。せめて雅日の趣味ばかりを優先しすぎないよう努めることにし、彼も一緒に楽しめそうな場所を選びながら二日目の予定を立て、その甲斐あってかその日の隊正は昨日より関心を持ってついてきてくれた。
雅日の観光はおおよそ平和だったが、それは犯罪大国とまで揶揄されるセレイア国の治安が噂ほど悪くはなかったから――というわけでは、決してない。実際、雅日は街で頻繁に見知らぬ男たちに声をかけられては、ナイフを向けられて金品を強請られたり、酒をすすめられ体を触られそうになったり、なにかの粉末が入った袋を土産にと言って渡されそうにもなった。歩いていたら突然腕を掴まれて狭い路地に引きずり込まれそうにもなった。なにが起きても隊正が即座に対応してくれたため、かすり傷ひとつ負わずに済んでいるが、彼の隣にいても会話をせずに三歩離れて歩くだけで女の一人歩きと誤解されるのか、たちまち悪意を隠し持った者たちが寄ってくる。そのことに気付いてから、常に会話を続けて護衛の存在をアピールしながら歩くか、彼にぴったりくっついて歩くようになってからは何事もなく平和そのものだった。
ただ、直接的な被害がなくとも、街のどこか遠くのほうからガラスの割れるような音や、なにかが破裂したような音や、誰かの悲鳴や怒号が響いてくることも珍しくなかった。雅日はセレイア・キルギスが持つこの街の知識と、隊正が隣にいることで得られる絶大な防犯効果のおかげで、気楽で安全な旅ができているのだ。
あっという間にやってきた最終日、三日目の午前。昨日のうちに巡りきれなかった場所に行きつくし、小休止のため立ち寄ったカフェにて、雅日は満足した心持ちでコーヒーを飲んでいた。
「リラ様はどうして私にこんなによくしてくださるのかしら」
「そりゃあ、そんだけ王様が姫様を気に入ってるからだろ」
「それはとても光栄なことだけど……そもそも私のどこがリラ様のお気に召したのかがわからないのよ。魔力を貯め込める容量が多いとは言われているけれど、それだけでこんなによくしてくださるというのは優遇しすぎだわ。空者ってとくに珍しいわけではないのでしょう?」
「まあ珍しいってほどじゃねえな。でもそれを言うんなら、なんで王様が俺をスカウトしたのかもさっぱりわかんねえぜ。腕っぷしの強い騎士がほしけりゃ、訓練を強化するか入団試験をもっと厳しくすりゃいい。新しいのがほしかったんだとしても、わざわざ俺みてえなゴロツキを選ぶ理由はねえだろ?」
「うーん……リラ様にはリラ様なりのお考えがあるのでしょうけれど……」
「逆になにも考えてねえのかもよ。ほしいと思ったから手に入れたってだけの可能性だって全然ある。俺らの王様はかなり強欲だからな。ま、なんの欲もねえ主よかよっぽどマシだけどよ」
「隊正くんは……」
騎士として働くことをどう思っているのか、と聞こうとした。
「なんだ?」
「あ、いえ……」
「なんだよ、言いかけたなら言えよ」
「……勧誘された当時、本当は騎士団に来たくなかったのよね? 手合わせをして自分に勝ったら従うって条件を出して……強い相手と戦いたいはずのあなたが、わざと自分より弱い相手を選ぼうとしたくらいだもの」
「まあそうだな。もう四年ほどになるが、そんだけ経ってもやっぱ俺みてえなのが騎士なんざ違和感しかねえ」
「今は……どう思っているのか、聞いてもいいのかしら?」
おそるおそる尋ねると、隊正は少し考え込んだ。
「そうだな、思ってたよりは悪くねえ。傭兵なんか結局、金さえ出しゃいくらでも言うこと聞くんだよ。俺だってそうだ。王様の金払いがいいうちはあそこにいてやってもいい」
「そう……」
雅日がコーヒーを飲み終えたのを確認して、隊正は立ち上がる。
「うし、ぼちぼち帰り始めるとすっか」
「そうね。それじゃあ最後の場所に行きましょう」
「へいへい」
リラ国に帰る前に必ず行くようにとセレイアから念を押された場所を目指す。なにかその日のうちにしか見られないものでもあるのだろうか。示された場所は建物などではなく、ただの街路のようだ。具体的にここと記された場所はなく、その周辺一帯をくるりとペンで囲ってあるだけなので、厳密にどこに行けばいいのかはわからないが、実際に行ってみればわかるだろう。
手元の地図を見る。丸で囲んで印をつけた範囲にはもう足を踏み入れているはずだが、そこはただのひと気のない路地裏の狭い通路だ。これまで歩いてきた賑やかな街路とは違い、静かで薄暗い。周囲の建物は無人の廃墟ばかりだ。今まで地図に案内されてきた場所とは明らかに様子が違う。なんだか不安になる。
「私、もしかしたら道を間違えたのかも。地図は読めるつもりだったのだけれど……」
「見してみろ」
隊正がうしろから身をかがめて雅日が持つ地図を覗く。
「間違ってはねえよ、このあたりのはずだぜ」
「うーん……こんなところになにがあるのかしら。暗いし、ちょっと怖いけど、もう少し進んでみましょうか」
「おう。わざわざ行けって言うからには、なんかしら理由があんだろ。ま、なんかあっても俺が」
隊正が不意に言葉を止め、背後に向かって腕を振った。当然そこには誰もいないため、拳は空を切る。
「隊正くん?」
隊正の目線がすっと足元に落ちるので、雅日も自然とその先を目で追った。彼の太ももにほんの小さな丸いなにかがついている。隊正はすぐにそれを抜き取った。針だ。まち針のような形の細長い針だった。
「針……?」
「なんだこりゃ。おい姫様、俺から離れ――」
一歩雅日のほうへ踏み出した彼の膝が、かくんと曲がった。斧の柄で地面を突いて身体を支えた隊正は、動揺したように目を見開いて二秒、そのまま動きを止める。じわじわと彼の額に汗が浮かぶ。そのままぐっと力を込めて踏ん張るように立ち、険しい表情のまま背筋を伸ばして周囲を見まわした。様子が変だ。
「た、隊正くん、どうしたの?」
「姫様、かがめ。……誰だ! どこにいやがる、隠れてねえで出てこい!」
静かな路地に彼の怒号が響きわたる。その残響が消えいらぬうちに、隊正は素早くうしろを振り返ると、斧を縦に構えた。その瞬間、風を切るような音と同時に、彼の胸元を狙った蹴りが、前面に構えた長柄に叩きこまれた。誰かいる。
背後からの奇襲に、隊正は襲撃者の蹴りを押し返すと一歩さがって長柄戦斧を横なぎに振った。しかし、ここは狭い。長物を扱うには不利だ。斧の刃先がすぐそばの街頭の柱に当たり、隊正ははっとして雅日に言う。
「おい、奥に走れ! 広い場所がある!」
「え、ええ!」
突然のことに混乱して身動きが取れずにいた雅日だが、彼の声に気を取り直して、言われたとおりに駆け出した。隊正の言葉は正しかった。そこより進んだ先には少しだけ通路の幅が太くなっている場所があり、おそらく普段は素行不良の者たちのたまり場になっているのだろう。不揃いな石畳の地面に空き缶やたばこの吸い殻が落ちている。そこまで辿りつくと、隊正は改めて斧を構えなおした。
「いきなり襲ってくるたぁいい度胸だ、姿を見せろ! 俺はここだぜ!」
吼える隊正。今しがた抜けてきた通路から二人分の足音が近付いてくる。姿を現したのはローブを身に着けた二人の男だった。そのうちの一人は雅日たちの前に現れると同時にフードを外す。赤みのある茶髪に青い目をした若い男だ。年齢は二十歳前後といったところだろう。もう一人はフードを目深にかぶったままで顔が見えないが、隊正よりやや細身なものの十分に体格がいいのがわかる。今襲ってきたのはこちらだろう。
隊正は茶髪の男の顔を見るや、険しい顔をよりいっそう険しく歪めて睨みつけ、激しい憤りを隠しきれずに低い声でうなった。雅日は隊正のうしろに隠れ、不安を紛らわせるように彼の背中にそっと触れる。
「てめえ、雪理か……」
「久しぶりの再会だっていうのに、なんでそう怖い顔をするんだよ」
雪理と呼ばれた茶髪の青年は笑っているが、その奥にはかすかな緊張がにじんでいる。
「なんのつもりだ? てめえが今さら俺になんの用がある」
「わかってるくせに」
「た、隊正くん……この人たちを知っているの?」
雅日が小声で聞く。隊正は二人から決して目をそらさないまま答えた。
「……知り合いだ、昔のな」
「知り合いなんてものでは済まされないぞ。切っても切れない縁だ、逃げ切れると思うな」
黙っていたフードの男が言う。静かだが重く鋭い声。その威圧感に思わず身震いをした。隊正は憎らしげに二人を睨んだまま斧を向ける。
「その声……、チッ。てめえらとはもう終わった仲だ。失せろ。殺すぞ」
「できるのか? お前ごときに。俺はお前がまだ生きていたことにすらおどろいているぞ。とっくの昔にどこぞで野垂れ死んだものと思っていたが、しぶといやつだ」
「……なんだと?」
フードの男が一歩前に出る。隊正も同じく前に出た。反対に茶髪の男はうしろに下がり、フードの男に声をかける。
「兄さん、僕の薬は効いていないのかもしれません、気を付けて。足跡が途絶えてから数年が経っています。今の実力も、なにをするかもわかりません」
「すべて計画通りだ。薬は確実に効いている。あとは時間の問題でしかない。余計な忠告をする暇があるなら、自らの役割を果たせ」
「姫様、さがってろ。巻き込まれねえようにな」
不安と緊張の中、雅日は隊正の背中から離れて数歩うしろにさがった。薬――とあの青年は言った。さきほど隊正の足に刺さったあの針のことだろう。なんの薬なのかはわからないが、その効果が隊正に現れていると思うのは、あのフードの男だけではなかった。近くでよく見るとわかる。隊正の手足は震えが止まらず、目線も泳いでいる。気を抜けば倒れそうなところを、根気と激情だけで立っているようなものだ。
「た、隊正くん……」
雅日の身体が震えているのは、純粋な緊張と恐怖からだ。震えと不安をこらえ、隊正の背中から手を離してあとずさった。雅日はまだ魔術を扱うことができない。琴琶ほどの使い手にはなれなくとも、ある程度自由に魔術を使える状態であったなら加勢できただろう。そうできたならどんなによかったか。だが現実は違う。せめて邪魔にならないようにうしろから見守っていることしかできない無力な自分が、なんとも歯がゆくてならず、雅日は口惜しさのあまり拳を固く握りしめた。
次回は明日、十三時に投稿します。




