失われた老後
失われた老後
「老後…か…」
木枯らしが吹くことなくいきなりやってきた寒波の中、曇天の空を見上げてため息と共に呟く。
その手に握られた缶ゴーヒーと背中と腹辺りに貼り付けられた使い捨てカイロのあたる部分にだけに感覚が生きていた。
酒井が呟いた何気ない一言に横に座る男が反応する。
「老後?そんな言葉俺達のひいじいさんの時代よりももっと前にとっくに無くなってたろ?俺達には相応の老いはあっても老後なんてないんだよ」
そう捲くし立てる半沢の言葉は乾いた空気に響くことなく凍りついた。
20世紀後半には合計特殊出生率は2.0を切っていたが何ら有効な手立てが取られることなく21世紀を迎え更に時は無為に過ぎ今に至っている。
それに伴い当然生産人口も減少し続けた。
もとより総人口が減ってきているのだからたまらない。
一次二次産業を担う人員不足は輸入と外国人労働者の受け入れと大規模農業化に伴う機械化である一定程度は補完できた。そして生産業の無人化は企業が生き残る為に必須となった。サービス業はオートメーション化が進んだが医療福祉分野での人材不足はなお深刻な状況にある。
人口の激減は日本の企業から定年退職という概念を奪っていった。
そして人材不足とオートメーション化に対応出来なかった企業の倒産が相次いだがその結果企業買収が進み生き残った企業体の多角化が進んだ。
結果的にそれは雇用した人員を能力や年齢に応じて様々な部署で動けなくなるまで働かせることが出来る状況を創り出したのである。
「まぁ認知症も予防薬が出来てさ、経度認知症の段階から服薬すれば症状が発症しなくなって来てるし、脳血管性の認知症も脳血管性の疾病自体が劇的に減ったからそうはいなくなってるってしそう言った意味ではいい世の中になったさ」
手にした缶コーヒーを口にしながら半沢が言う。
「自動運転も確立して事故も減ったし電車やバスは無人走行でバスに至っては自宅まで迎えに来てくれるしな。大昔のタクシーみたいなもんだよな」
半沢の言葉にまんざら悪いことばかりではないなと思いながらも白いため息を今度は視覚的に確認する。
「俺達が働き続けなきゃ社会が回っていかないんだからさ、しょうがないだろ。そう言えばおまえハルカのこと覚えてる? あいつ保母だったろ? 今も現役で保母やってんだぜ。この間偶然会ってさあいつなんて言ってたと思う?」
半沢がもったいをつかせて俺の方を見る。
ハルカが何を言ったのか逡巡する俺に痺れを切らした半沢が話を続ける。
「ハルカが学校卒業して始めに受け持った子供のひ孫を保育所で世話してるんだとよ! 信じられるか? ひ孫だぞ!」
さも得意げに捲くし立てる半沢の息もまた白かった。
「でもさ昔は良かったなんて言う奴が時々いるけど俺はそうは思わない。ハルカ昔とちっとも…ってそれは言いすぎだけど相変わらず綺麗だったぜ。おまえだって俺だって昔の年寄りとは比較にならないほど若々しいと思うしな」
そう言って俺の肩をポンと叩く半沢は確かに若々しくとうに80を越えているにもかかわらず50にも40にも見えた。
「それに働いていれば誰かが異常に気がついてくれる…佐藤のやつ最近遅刻したり作業工程間違ったりしてたろ? 周りに様子がおかしいって言われてあいつすぐに病院行って検査したんだと。そしたら脳梗塞起こしかけてたことがわかってすぐに治療して今はまた元気に働いてるよ」
進歩した医療が健康寿命を伸ばしそしてまた働くのか…。
「それにさ、子供の数も段々増えて来てるってよ…」
俺の陰鬱な表情を読み取ってか気遣う様に半沢が言う。
「まぁ2世紀近く前の10分の1の総人口からじゃいくら子供が増えたってそうすぐには元には戻らないだろうけどな…。少なくとも日本民族の消滅は避けられそうじゃないかってこの間ニュースで言ってたぜ」
政府が打ち出し推進して来た移民政策も功を奏さず減る一方であった総人口がここに来て回復の兆しを見せて来ている。
高齢者の老後は失われたがそれと引き換えに日本民族は息を吹き返し始めていた。
21世紀初頭から比較しておよそ10分の1になった日本の総人口は東京近郊に一極化すると平行して各地に農業、水産、生産業の一大拠点を確立した。
高速無人化した公共交通がその拠点まで労働者を迅速に運ぶ。
高効率化した産業と発達した医療は高齢者にして労働する事を可能としていた。
いわゆる生産人口の定義は14歳から死ぬまで…となっていた。