平成最後の桜をきみと
今年も桜が咲いた。
平成最後の桜。
だけど桜はそんなことなど関係なく、ただ咲くために咲いている。
僕はそんな桜が好きだ。
毎年、世間がどう変わろうと、それこそ時代が平成から令和に変わろうと、変わらずに美しい姿を見せてくれる。
「令和、か」
来月には変わってしまう元号を口にしてみて、やはりまだ言い慣れない自分がおかしい。
「平成も終わりか」
しみじみ、というより、どこか胸に切ないものを感じながら、僕は桜並木の下を歩いていた。
* * * * *
平成元年生まれの僕は、新世代の子供として期待されつつも、周囲の期待するほどの子供にはならなかった。
思えば、昭和の最後を迎えたあとの平成の始めというめでたいのかめでたくないのかよくわからない時期に生まれたわけだけれど、やたら上の人からは平成生まれ平成生まれと言われて育った気がする。
平成元年。ベルリンの壁が崩壊し、消費税がスタートした年。
僕は岐阜のとある町に生まれた。父親の地元が岐阜で、愛知に住んでいた母親が岐阜に嫁いで、その二人の長男として生まれたのが僕だ。
決して裕福とは言えない家庭だったが、まあ平凡で平和な家庭だったと言えばそうだったと思う。
平成七年。阪神淡路大震災という大きな災害が日本を襲った年。僕は地元の小学校に入学した。僕は直接の被害に逢ったわけではないが、テレビで連日のように被災地の報道を目にしていたことを思い出す。子供ながらに悲しいことが日本に起こったのだと、僕もいろんな思いを抱いていた。
そんな年にあったもう一つの大きな出来事といえば、ふみが生まれたことだ。ふみは母親の父親、つまり僕のおじいちゃんの子供で、なんということか、僕にとっての叔母にあたるという、生まれた瞬間からわけのわからない存在だった。
おじいちゃんは破天荒だけど魅力的な人で、十五歳も歳の離れたお嫁さんをもらったというのも納得できる人物である。おばあちゃんは二十歳のときにおじいちゃんと結婚した。つまりおじいちゃんは三十五歳のときに二十歳のおばあちゃんと結婚したという、犯罪レベルな年の差での結婚だったわけだ。そしてすぐにおばあちゃんは僕の母を生むことになる。
それから二十年後、僕の母親も僕の父と若くして結婚し、すぐに僕を生んだ。
それからおばあちゃんがふみを生んだのが、四十四歳の時。おじいちゃんの年齢は実に五十九歳という還暦間近のことである。
そんなわけで、僕は七つも年下の叔母を持つというある意味イリュージョン。理解不能な状況に立たされることになった。平凡な家庭で育ったと思っていたが、ある意味では僕は破天荒な家庭に育ったのかもしれない。
それはともかく、自称平凡な家庭で育った平凡な僕は、周囲のスポーツ万能な人気者や頭脳明晰な同級生の間に紛れて、打たれる程の出る杭にもならず、ひいきされたり大きな期待を背負うようなこともなく、特別な存在とはほど遠い、至極平々凡々な普通の人間として成長した。
まあ、そんな平凡な日々を送る僕とは関係なく、世間は動いていた。携帯電話が爆発的に普及していったり、世紀末の大予言だのミレニアムだのと騒いでいたかと思うと、アメリカで大きなテロ事件が起きて、世間は話題を次から次に変えていた。それはもうめまぐるしく。
そんな僕が始めてきみと会ったのは、平成十七年。愛知県で万博が行われた年。義務教育を終えてほんの少し大人へと近づいたと勘違いしていた、良く言えばピュアな、冷静に考えれば自意識過剰な高校一年のときのことだった。
入学当初、特に部活に入っていなかった僕は、さっさと自分の城に戻るべく、帰宅の途につこうとしていた。しかし昇降口を出た直後に、忘れ物をしていたことに気付いて急いで教室に戻った。
授業が終わった放課後、生徒たちは部活動や帰宅と、おのおの散らばっていき、賑やかだった教室は閑散として並んでいた。安穏とした静けさのなか、なにげなくそんな教室に目をやりながら、僕は自分の教室へと向かって廊下を歩いていた。そんな僕の目に、ふいに飛び込んできたのが、きみだった。
僕のクラスの隣の教室。
ほんの少し開いた窓から、一人外を眺めていた。
長い髪を耳にかけて、気怠そうに頬杖をついていたきみは、次の瞬間、僕に予想もしなかった感情を与えた。
――歌声。
綺麗な、という陳腐な形容詞しか浮かばない僕に嫌気が差すが、とにかくきみの綺麗な歌声を耳にした瞬間、僕は電撃に打たれたかのような衝撃を受けた。
偶然だったのだと思う。
あとから聞いた話だが、きみはそのとき、友達の用事が終わるのを待つために教室に一人残っていて、そのとき無意識に好きな歌手の歌を口ずさんだということだったね。
僕がその日、たまたま教室に忘れ物を取りに戻らなければ、きみのその歌声を聴くこともなかっただろうし、そもそもきみの友達に用事がなければきみはその日、放課後教室に残ってはいなかっただろう。
その瞬間は、間違いなく僕にとって奇跡の瞬間だった。
きみを見つけたという奇跡の。
初恋、という恐ろしくも自分とは縁遠いと思っていたものが、突然自分にも訪れたわけだが、やはり恋愛というやっかいな熱病は、平々凡々の極みである僕には手に負えない代物だった。
直接話す?
無理無理。隣のクラスの名前も知らない男子である僕がきみになんの話をすればいい?
ラブレター?
はさすがにねえな。とはいえ、メアドなんて口も聞いたことのない男子に教えてくれるわけもないし。
とりあえず、彼女の情報をそれとなしに隣のクラスのやつから仕入れることにしよう。
そんな感じで、僕はきみとの距離を近づけようと努力をすることにしたんだった。
* * * * *
僕は頭上を見上げ、満開の桜に目を細めながら過去の思い出に浸っていた。どうしてだか、桜を見ると懐かしい思いが沸き起こってくる。桜の儚い美しさが、そんな郷愁に心を誘うのだろうか。
美しい時代の名残を僕にもたらそうとするのだろうか。
* * * * *
隣のクラスにそんな男子がいるとは露とも知らないきみは、無邪気な笑顔を振りまきながら学校生活を送っていた。
彼女の名前は中島いのり。家庭科部に所属している。あの日はたまたま部活動のない日だったようで、放課後教室に残っていたらしい。
家は市内のようで、自転車通学をしていた。
なにか彼女と接点を持てることがあるとしたら、自転車通学者であるということくらいだろうか。自分も自転車通学であることから、登下校のときに自転車置き場とかですれ違うことができるかもしれない。
僕はさっそく思い立った次の日から、自転車置き場で彼女が現れるのを待つことにした。
自転車置き場の周囲には、新緑に色づいた桜の木が生え、さわさわとせせらぎのような葉擦れの音を奏でていた。他にも隣の体育館からはバスケ部の部員たちがキュッキュとバスケットシューズで床を蹴る音や、ボールをドリブルする音。少し向こうからは吹奏楽部の練習する音が聞こえてきていた。
忙しくも充実した時を過ごす彼らからは離れた場所に立つ僕は、どこか違う世界の住人のようにも思え、少なからず寂しい気持ちを抱えながらも、この場所にきみがやってくるであろう場面を想像して緊張に胸を高鳴らせていた。
ひと言だけでも。
会ってどうするのか、という基本的なことも決めずにこんなふうに彼女を待っている自分が我ながら馬鹿だとそのときになって気付いたが、今さら立ち去る踏ん切りもつかず、時間だけが過ぎていった。
まずは名前だけでも覚えてもらえたら。
そんなふうに胸に言い聞かせて自分の自転車のハンドルを握ったまま立ち尽くしていると、ふいにさまざまな音に紛れて、聞き覚えのあるメロディが僕の耳に飛び込んできた。
はっとして振り向くと、そこにはやはりきみがいて、あの日歌っていた歌を、今度は鼻歌で歌っていたのだった。
ふと僕が見ていることに気付いたきみは、少し照れくさそうにして、鼻歌をやめてしまった。そして、無言のまま、自分の自転車のほうへと向かい、さっさとそこから立ち去ろうと自転車のスタンドを上げた。
「あ、あの……っ」
急いで去ろうとするきみの後ろ姿に向けて、僕は思いきって声をかけた。
遠くのほうで、どこかの部活のかけ声が聞こえていた。
* * * * *
ひとつの時代が終わりを迎えようとしている。
それは、なにか切ないような、寂しいような、なんとも言えない気持ちを起こさせる。
そんな僕の耳に聞き覚えのある通知音が響いた。僕はジーンズのポケットからスマホを取り出し、画面を開いてみる。
平成二十年のiphone発売をきっかけに普及したこのスマートフォンも、今では誰もが普通に手にする時代になった。SNSもあまり熱心ではないものの、一応僕も少しはやっていたりする。
便利だけど、めんどくさいと思うこともしばしば。
けれどこうして誰かと繋がれるというのは、やはり素敵なことだと思うわけで。
僕はLINEのメッセージに返信すると、少しだけ足取りを速めて桜並木の続く道を進んだ。
* * * * *
平成二十三年。この年は日本にとって、忘れようにも忘れられない、とても辛い年となった。
平成二十三年三月十一日。
東日本を中心に発生した大きな地震は、各地で甚大な被害をもたらし、多くの悲しみや嘆き、絶望を人々にあたえていった。
そのころ僕の住んでいた愛知県でも揺れは感じていた。
けれども、その後次々に入ってくるテレビの報道を見て、自分の体験した地震がただの地震ではなかったことを知った。多くの信じられない映像を目にして、僕は胸が潰れそうな気持ちを抱いたのだった。
地震。
津波。
福島第一原発のメルトダウン。
日本が終わった。
冗談ではなくそう思った。
愛知県にあるとある自動車メーカーの営業の職に就いていた僕だったが、連日の報道を見て、こんなふうに仕事なんかしている場合ではないのではないかと無性に焦燥感を抱いていた。
なにかを。
なにかをしなければ。
ただの平凡な一人の人間に、なにかができるなんて思うのもおこがましいのかもしれない。けれど、なにもせずにはいられなかった。
そこで、僕は週末を利用して被災地にボランティアに行くようになった。
そして現地で目の当たりにした被災地の現実に、僕はまた酷く打ちのめされることになったのだった。
* * * * *
平成三十年。平成最後の年。この年は記録的猛暑に襲われるとともに、各地で豪雨被害も多くあり、大変な年だった。
けれど、と僕は思う。
日本人は強い。
どんな被害に襲われようと、悲しみが人々を苦しめようと、それでもこうして立ち直るのだ。
この桜の木のように。
寒い冬の時代を乗り越えて、また美しく花開く。
「おーい。こっちこっち」
道の先で、きみが手を振っていた。
明るく微笑みを浮かべるきみ。
きっとこれこそが奇跡だ。
こうして、平成最後の桜をきみと花見ができるということが。
平成という時代を共に生きた、戦友でもあるきみとともに。
「いや、きみたちと、か」
ふとひとりごちて、僕は最愛のきみのいる桜の下へと近づいていった。
きっと令和の時代は、僕らにとってさらに賑やかに忙しく過ぎていくに違いない。
まだ見ぬ令和生まれのきみに振り回されながら。
愛しき平成に、感謝と祈りを込めて。
――そして、新しき令和にたくさんの歓迎を。
〈終わり〉
平成最後の記念に書いた作品です。