始まりの言葉1
始まりの言葉1
汗だくで地面に倒れ込んだ猿顔の男と、たぬき顔の男は、馬に乗り何里もかけたせいもあってか、脚も腕も痺れて、感覚がなくなっていた。
いつも着用している甲冑がやけに重く感じ、中は汗でぐちゃぐちゃだ。
早く脱ぎたい。大仕事を終えた2人は、まるで兄弟のように、同じことを考えていた。
しかしまさか浅井が裏切るとは。男の1人は猿面である。その男が心中で囁いた。
彼を含め3万の軍勢の誰一人、想像しなかった事態が起こったことに、猿面の男は、まだ当惑していたのだ。
「まさか、浅井殿が裏切らぎるとは、思わなんだ」
と、もう1人の男、たぬき顔の男は、胸の中にためずに口にした。
猿面はため息混じりに頷く。
そこへ足音が近づいてきた。
「各々方のおかげで、お館様を含め、全軍がこの二条城へ帰還することができ申した。ささ、まずは喉を潤されよ」
そう言いながら青瓢箪のような顔の男は、2つの碗を、ようやく起き上がった2人に手渡した。中身は水だ。
何も言わず疲れきった2人は、水を一気に飲み干す。まるで乾いた大地に雨が染み込むように、吸い込まれていった。
猿面と狸顔はようやく生き返ったように立ち上がり、甲冑の重さを肩に背負うことができた。
「そなたたちは我らの命を恩人。金ヶ崎の戦での一番の功労者であろう」
そういうと青瓢箪のような顔をした男は、2人の肩に手を置く。
この3人こそが猿面木下藤吉郎、狸顔徳川家康、青瓢箪顔明智光秀である。戦国の世にあって、歴史という大きな流れの中で後世に名を遺す名武将の3人。この時は未だ歴史の大きな流れの中では、水面に落ちた枯れ葉に過ぎなかった。
3人が疲労した顔をしかし、一気に引き締める瞬間が訪れた。彼らの主が現れたのである。
織田三郎信長。
南蛮の甲冑を独自に改良したものを身体に身に着け、その虎の如き鋭い眼光で、城の廊下をズカズカと歩いてくると、疲弊した殿軍の兵士たちを一瞥した。
この時、殿を務めた木下藤吉郎、徳川家康の兵士たちは疲れ切って、二条城のいたるところで疲労困憊の身体を投げ出していた。
が、この魔王とも恐れられる織田信長の出現は、これほど疲弊した兵士たちの肉体ですらも、起立させるほどの威圧感、存在感を有しており、まるで仏が現れたかの如き兵士たちの様子である。
その虎の瞳が3人の男たちの上に降りる。もちろん、藤吉郎、家康、光秀の上にだ。
「猿、家康殿、よくぞやってくれた。俺は此度の戦の功労者はうぬ等と考えておる。褒美をつかわす。明日にでもとりにまいれ」
そういうと信長は不敵に笑った。
と思ったら今度は急に苦々しい顔をして、廊下にあぐらでどっかりと座り込んでしまった。
信長の心中には義理の弟のことがあった。何故裏切った。何を考えておるのだ。長政よ。そう心中で囁いた。
この時、織田家がどういった状況に置かれているかを説明すると、岐阜城に本拠地を移し、背後に徳川家康と同盟を結ぶことによって憂いを絶ち、天下統一への最初の一歩である京への上洛を目指した。
それに伴い放浪の身となっていた足利義昭を織田家でかくまった。足利義昭は当時、兄が暗殺されたことによって、室町幕府次の将軍ともくされる人物となっていたが、幕府の実験を握る三好家に命を狙われる危険性があったために、家臣たちにかくまわれていた。そして頼ったのが当時、勢いのあった織田信長だった。
これは信長にとっても好機となり、上洛の口実ができたのだ。
織田信長は将軍保護という名目を手に入れ、見事に上洛し、次に近江(現在の滋賀県)を手に入れるべく動き出した。この時、眼の上のたんこぶとなったのが越前の朝倉家である。
信長はまず朝倉家を討伐すべく、朝倉領地に近い浅井家に自らの妹、お市を浅井長政へと嫁がせ、道すがらの憂いをなくし、一気に朝倉家を討伐すべく、徳川家との連合軍3万で朝倉領へ攻め入った。
時に1570年、金ヶ崎城を陥落させた矢先、義理の弟たる浅井長政が挙兵したとの知らせを受けた信長は、当初、それを偽の情報だと最初に思い、相手にしなかった。ところが相次ぎ浅井家の挙兵の報が入るにつれて、信長はこれを確信的な事実であると思いなおし、撤退を開始した。
しかしこの時、すでに浅井、朝倉連合軍に挟み撃ちにされていた織田、徳川連合軍は、逃げることを第一に考える撤退戦をしなければならず、そこで殿が優秀な者でなければ、撤退できないと考えた信長は、木下藤吉郎に殿を言いつけたのである。
これに功績の好機と見た徳川家康が自ら殿に参加することを志願し、2人に任せ信長の本隊は急ぎ京へと逃げたのであった。
今、殿を務めた有能な2人は、最小限の犠牲で殿の役目を終え、二条城へ入城していた。
信長の苦々しい顔は次第に鬼のような形相へと変貌した。怒りがその身に次第にあふれ出てきたのである。
「何故じゃ。何故に長政は俺を裏切った。この信長を裏切ったのだ」
怒りが妖気のように漂う信長。こうなると誰も近づくことができない。下手に近づけは刃傷ざたになるからだ。
と、その時である。
「何者だ」
遠くの方で兵士たちが騒ぐ声が聞こえた。
織田家を支える3人、信長自身も顔を上げて何かが起こったことを悟った。
すると兵士が槍や刀を構えて警戒する中を、1つの影がまるで滑るかのようにぬるりと信長と3人の前に姿を現した。
南蛮のケープをまとい、フードをしているので顔は影で見えないが、口元だけが春先の日差しに照らされ、うっすらと見えている。
抜けるような白い肌に張り付いた唇はニッコリと微笑んでいた。
「控えよ、無礼者」
光秀が戦刀を抜き、腹から声を張り上げた。
矢先、城の床を蹴り上げ中空に舞い上がった信長は空中で太刀を抜くやいなや、白刃を一閃、曲者の脳天から地面に一直線に身体ごと振り落とした。
始まりの言葉2へ続く