鬼になる
「自衛さ。俺はあいつに会ってから、そんなふうに仕事をするようになった。自分を守るためなんだ」
先輩はそう言って小さく笑った。それが何時のことだったかは僕はもう覚えていない。入社して一年立たないくらいの、なんてことのない普通の飲み会の帰り道かなにかだったと思う。その時は僕と先輩は業務上の接点は無く、ただ同じ部署にいてたまに話しをするくらいの間柄だった。
雑談なんて普段は聞いて次の日には忘れるくらいの記憶力の僕だが、その時の話はなぜだかよく覚えていた。
「前の工場でいたとき、俺は工務部で計装設備を担当していた。あるときのことだった、第二製造課の副課長が俺のところに怒鳴り込んできたんだ。訊くと俺の仕事に不備があって、頼んだものと違うものがきたということだった。そんなはずはないと俺は言ったんだ。だって第二製造課から送られてきた仕様書をチームで確認して、上司の確認もしたからだ。実際、俺の仕事に間違いがあったわけではなく、クレームをつけてきたあいつ自身の記入間違いだった」
「それは……災難でしたね」僕はその時は工務部の仕事の内容を殆ど知らなかったからそう曖昧に相槌を打つことしかできなかった。
「災難だけじゃなかった。あいつは認めなかったんだ。お前の確認不足だって、全部お前の責任だって、さ。何言っても、言い訳だって一蹴されて無駄だった。社会に出ても言葉の通じないやつはいるんだって、その時初めて知った」
「……」
「それ以来、あいつは事あるごとに俺に突っかかってきた。殴られることは流石になかったけど、肩を強く押されて罵声を浴びせられたこともあった。以来、今に至るまで俺は自分の仕事に文句をつけられないように努力してきたし、無用な責任は負わないようにしてきた」
「責任……」
「自衛さ。俺はあいつに会ってから、そんなふうに仕事をするようになった。自分を守るためなんだ」
僕はその話を聞いて鬼を思い浮かべた。人間の中に紛れて、人を喰う鬼だ。鬼は襲う人間の心を考えない、人間と心を通わせない。爬虫類に似た鬼の目には一切の感情が感じられず、純然たる脅威のイメージが瞳の端を掠めた。鬼の口は大きく裂けていて、間からは常に呪詛が流れ出している。僕の思い浮かべた鬼は常に誰かを攻撃せずにはいられない存在だった。そんな鬼に喰われないためには、鬼が自分の領域に入り込めないように心のドアを閉めるかドア自体を小さくするしかないだろう。或いはもしかしたら、鬼を退治するなんて言う選択肢もあるのかもしれないが、普通の人間にそれは難しい。
先輩は小さなドアを選んだ、誰に対しても。鬼の付け入る隙を無くすために。
「それはお前の責任だろッ! お前がきちんとしていればもっと事前に分かっていたことだろうがッ!」
そして、先輩もまた、鬼になった。共同で進めているプロジェクトの小さな遅れが原因だった。僕と同僚に向けてただただ怒鳴りつける先輩の姿は、昔先輩から聞いた【あいつ】と呼ばれていた副課長のイメージに重なった。鬼に喰われないように自分を守っていた人間が鬼になった。自分が喰われないようにするために他人を喰うようになったかのようだった。
僕は、鬼は人間の心に宿るのだ、と思った。鬼は人間を傷つけ、傷ついた人間はまたいつか別の鬼を心に宿す。鬼を恐れる心が新たな鬼を宿すのだ。対面した爬虫類を思わせる鬼の瞳、或いはそれを僕らが覗き込んだとしたら、見えるのは別の鬼の姿なのかもしれない。
「鬼は死なないんだよ」
白昼夢の中で先輩の顔をした鬼が笑った。