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第08話

 クラーケン。

 それは、ファンタジー世界の海の魔物としてはオーソドックスな存在だ。

 巨大なイカの姿をした怪物で、人の胴体程の太さを持つ幾本もの触手を用いて船を襲い人を喰らう災厄。

 海というフィールドにおいて、出会うことがすなわち死を意味する最悪の存在だ。


 それはこの世界の人魚族においても同様であり、見たことは無かったけれど話としては聞いたことがあった。

 かつてこの魔物に集落を襲われた時には、あわや人魚族が絶滅し掛けたという絶望的な言い伝え。


 そう、言い伝えだ。

 内海には存在しない筈のこの魔物は、外海を縄張りとして人魚族の集落近くには訪れないとされていた。

 もちろん、絶対というわけではない。ないからこそ、かつてはそれが起こったのだ。

 しかし、それはあくまで言い伝えの話であって、数百年という歴史の中でたった一度起こったというだけの話、自分達の目の前で起こるようなことではないと高を括っていた。


 しかし今、そんな言い伝えの中にしか登場しない巨大な魔物の影が私達の前に姿を表していた。



 吸盤を幾つも付けた禍々しい幾本もの触手。

 その中央に待ち受ける鋭利な牙を持った口は、船であっても丸のみにしてしまえそうだ。

 巨大な丸い頭部は十人掛かりでも抱えられそうにない威容を示している。

 不気味な赤黒い色をした全身は──って、赤い?

 よく見たら触手も八本……タコじゃん。


「私の知っているクラーケンと違う」

『もう少し現実と真面目に向き合いなさい』

「何を訳の分からないことを言ってるんだ、フィリエス!?

 そんなことより、アイツをどうにかしないと集落が──ッ!」


 ごめん、ディラン。

 イカだと思ったらタコだったことに動揺して思わず口走ってしまった。


「で、でもどうしてあんな魔物がここに?

 クラーケンって外海にいるんじゃないの?」

「迷い込んで来たとかかな」


 焦っているせいか、珍しくセリーヌも普段の伸び伸びした口調が出ていない。

 そして、彼女の言う通り迷い込んできた可能性は十分にある。

 確かにクラーケンは外海の魔物だが、そもそも外海と内海の間には特に境界のようなものがあるわけではないのだ。

 入り込むことを防ぐものは存在しない。


「それで、どうするの?」

「どうすると言ったって……避難するにしても戦うにしても、まず集落に報せるしかないだろう!」

「それはそうだけど、あのスピードじゃ間に合わないよッ!」

『確かに、動きは緩慢ですがその実結構なスピードです』


 クラーケンはゆっくりと漂うように前進しているが、それはあくまでも相手を基準とした「進み方」の話。

 そんなゆったりとした動きでも、巨体であるために実際にはかなりのハイスピードとなっている。具体的には私達人魚族が本気で泳ぐのと同じくらいの速さだ。

 アルトの言う通り、ここから集落に報せに戻っても間に合うかどうかはかなり際どい。

 どんなに頑張ってもほぼ同時に着くのが精一杯だろう。戦うにしても逃げるにしても、それでは意味が無い。


「Qui praesidio──

 たゆたう水よ、鋼となりてその姿を永久に留めよ 【水鋼(アクアスティール)】」


 突然聞こえてきた詠唱にそちらを向くと、ディランが水鋼の鉾を手に携えて厳しい表情でクラーケンを睨んでいた。

 もしかして……。


「ディラン?」

「……俺がここでアイツを足止めする。

 三人はその間に集落に報せてくれ」

「そんな、一人じゃ無理だよ!」

「そうだよ〜」


 足止めをする間に集落に報せるというディランの案自体は決して間違ってはいない。

 問題は、足止めが可能かという点だ。


 クラーケンの武器は私達の数十倍はあろうかという巨体と八本もある巨大な触手。

 鉾一本で渡り合えるかと言われたら、百パーセント無理だ。

 触手一本切り落とすのがせいぜいだろう。

 加えて言えば、あの手の魔物は再生能力が高いものが多いため、切り落としても無駄な可能性が高い。


 ほんのわずかな足止めとも言えないような時間を稼ぐ代償にディランは死ぬ。

 それをこのまま見過ごせるかと言われたら……。


「Pulchra profunda maris──

 たゆたう水よ、鋼となりてその姿を永久に留めよ 【水鋼(アクアスティール)】」

「フィリエス!?」

『貴女は……』


 ディランに続いて【水鋼】の詠唱を行った私に、三人の視線が集中する。


「ディラン一人で足止めは無理。

 でも二人掛かりなら何とかなるかも知れない。

 私もここで足止めするから、セリーヌとアルトは集落に報せて」

「フィリエス、それは──ッ!」

「大丈夫、正面から戦ったりはしないから。

 ほら、あれを見て」

「え?」

『なるほど』


 私が指差した先にはクラーケン、そしてその前方を塞ぐようにそびえ立つ巨大な水鋼の壁が存在した。

 これが私が咄嗟に考えた足止めの作戦だ。


 仮にディランと二人掛かりで足止めをするとしても、鉾を持って特攻したところで大した差にはならない。

 せいぜい、切り落とせる触手が一本から二本に増えるくらいだ。それでは意味がない。


 しかし、イメージ次第でどんな形状にも出来るのが水鋼の利点。

 ああやってクラーケンの進行を妨害する障害物を作り出せば、相手に出来るのは迂回するか強引に壁を押しやって突き進むかの二択となる。

 どちらにしても、進行を遅らせることにはなる筈だ。


 私の狙いが伝わったのか、アルトとセリーヌは真剣な表情で私の方を向いて頷いた。


「分かったよ、僕とセリーヌで集落に報せてくる!

 でも、絶対に無茶しないでね、フィリエス!」

「気を付けてね〜」

「……俺もいるんだが」

「あ……も、もちろんディランもだよ!?」


 少々気が抜けるやり取りもあったが、アルトとセリーヌは二人が出せる最高のスピードで集落へと向かった。

 鉾を持ったディランが私の横に並び、眼下を進行するクラーケンを鋭い目で睨み付ける。


「さて、二人が集落に報せて長が対策を打ち出すまで、何とかコイツを足止めしないとな」

「出来れば、足止めだけじゃなくて集落から別の方向へ誘導したいかな」


 要するに、集落が襲われなければいいんだ。

 このまま真っ直ぐいくとクラーケンは集落に辿り着いてしまうけど、それはつまり方向を逸らすことが出来れば集落以外の方向に向かうということでもある。

 もちろん、その結果他の場所に被害が出てしまう恐れはあるが、そこまで考慮する余裕は私にはない。


「……なるほど、それが出来れば言うこと無しだな。

 挑発して狙いを逸らせることが出来ればいけるか?」

「うん。壁で進行方向を塞がれた上に別の方向に『獲物』がいたら、そっちに向かう筈だよ」

「分かった。それじゃあ、フィリエスはこのまま『壁』を頼む。

 アイツが迂回したら俺が軽く牽制を仕掛けてみる」

「あまり無理しないでね」

「分かってる!」


 方針を簡単に打ち合わせると、ディランは鉾を構えて吶喊の前姿勢を取った。

 視線の先ではクラーケンが私の作った壁に辿り着き、戸惑うように動きを止めている。

 身体ごとぶつかったり触手で触れたりしていたが、やがて壁を乗り越えるように進行方向を変えた。


「今だ!」


 触手でへばりつくようにしながら壁を乗り越えるクラーケンに対して、ディランが鉾を両手で掴んだまま飛び込んでゆく。

 目の前の壁に気を取られていたクラーケンは彼のその動きに反応出来ず、ディランの鉾はクラーケンの持つ触手の一本を切り裂いた。


「そら、こっちだ!」


 クラーケンの触手を切り裂いたディランは、即座に反転して明後日の方向へと逃げてゆく。

 もちろん、それは逃走のためというよりはクラーケンに後を追わせるためのものだ。

 このままクラーケンが彼を追い掛ければ、集落に辿り着くことは無くなる筈だ。

 結果的にセリーヌやアルトが集落に報せに泳いだことも無駄になってしまうかも知れないが、無事に済むならそちらの方がよいだろう。

 クラーケンが諦めずに着いてくるように追い付けそうで追い付けないギリギリのラインで追いかけっこをするのは神経を削る作業だが、やるしかない。

 ──そう思っていた私の目の前で、信じられないことが起こった。


「え?」

「は?」

『────ッ!』


 ディランの後を追い掛ける筈だと思っていたクラーケンは、なんと彼に目もくれずに元の方向へと向き直ったのだ。


 ありえない!

 知能があるのかも怪しいクラーケンが、目の前の獲物を無視して別の方向を目指すなんて。

 何かの間違い……そう思った私は意味の無くなった【水鋼】の壁を消し、再びクラーケンの目の前に構築する。

 クラーケンは再び発生した障害物に戸惑っていたが、やがてそれを迂回した。


「こ、今度こそ!」


 進行が止まったクラーケンに、再度ディランが牽制の一撃を放つ。

 そして、逃走して注意を引き付ける……って、また!?


 おかしい。

 クラーケンは明らかに元々目指していた方向、つまりは集落のある方向に進もうとしている。

 目の前に出来上がった壁や手近なところにいる獲物の存在を無視してまで。

 計算外だし、どう考えても異常な事態だ。


『やはり、これは……』


 そして、この調子では別の方向へと誘導するのは絶望的だ。


「どうするんだ、フィリエス」

「どうすると言われても……取り敢えず、当初の予定通り足止めするしかないよ」


 出来れば別の方向へと逸らしたかったけれど、仕方ない。

 私は諦めて、ディランと共にクラーケンの足止めに徹することにした。

フィリエスはクラーケン=イカが普通だと思ってますが、出典によってはタコの場合もあるのでこの世界のクラーケンは別におかしくはない真っ当なクラーケン君です。

あと、タコの丸い部分は頭ではなく腹。

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