第07話
「う」
「う?」
『フィリエス?』
私の口から漏れた呟きに、アルトが不思議そうな視線を向けてくる。他の二人も同様だ。
しかし今の私はそんな彼らの様子に構う余裕はなく、目の前の光景に対する胸の想いを叫びたい気分だった。
「うみだーーーーー!」
『きゃあ!?』
「うお!?」
「フィ、フィリエス?」
「ど、どうしたの〜?」
目の前に広がるのは果てなく広がる蒼い海と空、そして燦々と輝く太陽に白い雲。
こんな素晴らしい光景を前にしたら、私みたいに叫ぶのは当然だろう。否、叫ばない筈がない。
「海って……それはまぁ確かに海だが、別にいつも見てるだろう?」
「そうだけど、それとこれとは話が別」
分かってないよ、ディラン。
確かに深海に棲む私達は毎日嫌という程海を見ているけど、深海と海上では全然違うのだ。
「ええと、そういうものなの?」
「そう、やっぱり海上の光景の方が海って感じがする」
そうだよ、アルト。
この身体の内から湧き上がってくるような解放感は、やっぱり海上でないと味わえないからね。
「あれ〜? でも、フィリエスも実際に海上に来たのは初めてだよね〜?
どうして『やっぱり』なの〜?」
「あ”……それは、その……」
そんな感じにテンションが上がっていた私は、セリーヌに鋭いツッコミを入れられて言葉に詰まってしまった。
『フィリエス。
浮かれるのは分かりますが、もう少し言動に気を配った方がよいと思いますよ』
はい、反省します。
私も今更ながらに叫んだことが恥ずかしくなってきたし。
Ψ Ψ Ψ
そんなこんなで、私達四人は今見回りで海上へとやってきていた。
先日、お父さんから言われた話を訓練の時にみんなに話したところ、満場一致で参加することに決まったためだ。
日課である魔法の訓練も本日は短めにして切り上げ、残りの時間を見回りに当てる形とした。
ちなみに通常の見回りは二人一組で行うそうだが、今回はお試しということで四人のまま行動している。
お試しなら少なくとも一人くらいは大人が同行した方がよいと思わなくもないのだが、私達の実力が大きく評価されたのか他に同行者はいなかった。
ちょっと海上の光景にテンションが上がって叫んでしまって、みんなから変な人を見る目で見られたが、問題は無い筈だ。そういうことにしておきたい。
ディランの言う通り海なんて見慣れているが、ハッキリ言って深海の光景は私が前世で持っていた海のイメージとは異なるのだ。
もちろん頭ではあれも海の一面だと理解しているのだが、やはり前世でも見覚えのある海上の光景こそが海って感じがする。
いや、流石にいきなり叫んだのはやり過ぎだったと思うけれど。
「ふむ、海上には特に怪しいものはないみたいだな」
「見た感じ、空の方も何もいないね。
いや、よく見たら何か小さいのが飛んでるみたいだ」
「大きな魔力も感じないし普通の動物だと思うよ、アルト」
「動物って飛べるの〜?」
「そう言うのもいるって聞いたよ。
確か『鳥』って言うんだって」
「普通の動物なら放っておいてもいいな」
『ですね』
海面に上半身だけ突き出してぷかぷか浮かびながら、私達は周囲を注意深く見回す。
今の私達は肺の中の水も全て吐き出して呼吸をしている。
交わす会話も【水の伝言】ではなく、声を出して行っていた。
生まれて初めて、前世を含めてもかなり久し振りの経験だが、文字通り呼吸するように当たり前に行うことが出来た。
私だけでなくセリーヌ達も特に戸惑うことなく行っているため、これが当然のようだ。
風はあまりなく、海面は比較的穏やかだ。
遮る物のない海上はかなり遠くまで見通すことが出来るが、特に何かが浮かんでいる様子はない。
同時に空にも目を遣るが、そちらも同様に済みきった青空が広がる中、何羽かの鳥が飛んでいるだけだった。
「ここは陸地からも大分離れている筈だからね。
流石に徒人族の船もこんなところまでは滅多に来ないらしいよ」
「油断大敵だよ〜、アルト」
「わ、分かってるよ。セリーヌ。
折角の『見回り』なんだから気を抜いたりしないって」
海上で見張るべき怪しい何かと言えば、主に二つのものが挙げられる。
それは徒人族の船と空を飛ぶ魔物達だ。
水棲の魔物については大抵の場合海上よりも海中で活動するものが多いため、それは海上ではなく海中での『見回り』の対象となる。
私達も、こうして海上を一通り確認した後は海中の持ち場を巡ってから集落に帰る予定だ。
アルトが口に出した徒人族とは、陸地に住む種族の中で最も数の多い種族であり、精霊の加護を持たない者達を言う。つまり、精霊人ではない。
二本の腕に二本の脚、短い耳をしており翼も持たない。身長は比較的高い方だと聞いている。
私が前世で知る「人間」のイメージに最も近いのが、この徒人族だろう。
彼らは精霊の加護を持たないために魔法はあまり得意ではない代わりに、道具を作って戦うことに長けていると大人達から聞いた。
戦いのため以外にも様々な物を作ったり、物語や音楽を生み出したりと、生産的なことや文化的なことにおいては右に出る者はいない種族だ。
自らの活動のために他の種族の棲息場所に侵略したりもするため敵対的な関係となっている種族も多い徒人族だが、深海に棲む人魚族とはそもそもあまり深い関係を持つ機会がないため、友好的とも敵対的とも言い難い中立の間柄だ。
まぁ、普通の人間にはエラ呼吸は出来ないだろうから、来たくても来れない。
一応、徒人族でも魔法を駆使すれば深海まで来られないこともない筈だが、わざわざそんなことをする変わり者はまずいないだろう。
多くの徒人族は水上や海中では活動出来ないが、代わりに船を作って海に繰り出して漁をしたりする。
とはいえ、それもあくまで陸地から程近い水域までの話であり、私達人魚族の生息域にまで近付くことはまずない。
基本的に陸地から離れれば離れるほど強力な魔物が棲んでいるため、それも当然だろう。私達人魚族にとってはこの辺りの魔物は丁度よい餌だが、船を壊されたら一巻の終わりの彼らにとっては危険な海域だ。
もっとも、それは徒人族に限った話ではなく他の精霊人にとっても同じことだが。
彼らの棲む陸地は「大陸」と呼ばれ、五角形の一角が削れたような形をしているらしい。大陸中央には平野が広がっており、そこが徒人族の主な生息地域だと聞いたことがあった。他にも森林地帯や高山などもあり、そこには他の精霊人達が棲んでいる。
ちなみに、五角形の削れている部分が海になっており、そこが人魚族の棲家……つまり、今私達がいる所となる。
もちろん、海という意味では大陸の周囲は全て海なのだが、私達が棲む「内海」と五角形の外側に当たる「外海」は全くの別世界と言われている。
私を含めてほとんどの人魚族はそこに行ったことはないため噂程度だが、外海は内海と比べて桁違いに強い魔物がうじゃうじゃいるらしく、とても棲める場所ではないらしい。
内海と外海の間には境界になるようなものも特段ないということなので、間違えて足を踏み入れないように気を付けよう。
あ、私達に足とかなかった。
尾びれを踏み入れないように気を付けよう。
「さ、海上についてはこれくらいでいいだろう。
そろそろ下に戻るか?」
「そうだね、ディラン」
「さんせ〜」
「うん、私も異存はないよ」
『そうですね。もう十分でしょう』
そろそろ帰ろうというディランの言葉に、私も同意する。
こうして初めての海上の『見回り』は何事も無く無事に終わりを告げようとしていた。
何とも呆気ないようにも思えるが、元々『見回り』は念のために行っていることであり、異常がないことを確認して終わるのは普通のことだ。
「………………」
「どうしたの、フィリエス」
「ううん、なんでもないよ」
随分と久し振りに見る空に感傷的な視線を向けていた私は、不思議そうな顔をしているアルトになんでもないと答えると、海水を肺の中まで取り込んで太陽と空気に別れを告げて水中へと潜った。
そう、異常がないことを確認するだけの筈だったのだ。
この後も、海中を適当に周回しながら適当な魔物がいたら狩って夕飯にする。それだけの筈だった。
海上の見回りが呆気なく終わって油断していた部分が無かったと言えば、それは嘘になる。
しかし、それが見回りの既定路線だったのだから罰を受けなければならない程のことではない、と思う。
結果として、私達はそのまますんなりと集落に帰ることは出来なかった。
それは海中の見回りをする中で見付けてしまったからだ、私達の集落に向かって進む巨大な影を。
数多の触手を持つ異形の災厄が、私達人魚族へと襲い掛かろうとしていた。