第05話
「今日はこんなところだな」
「そうだね」
「お疲れ様〜」
『お疲れ様でした』
締めの一戦を終え、口々に労い合う。
既に時刻は夕暮れ時となっており、後は解散して家に帰るだけだった。
とその時、私はディランの胸の辺りから流れる一筋の血に気付く。模擬戦は寸止めにするのがルールだが、武器を振り回している以上は全く無傷というわけにはいかない。
「あれ? ディラン、傷が付いているよ」
「うん? ああ、本当だ。
さっきの模擬戦で付いたみたいだな。
まぁ、これくらいだったら放っておいても平気だろう」
「ダメだって、きちんと治さないと」
そう言いながら、私は彼の胸の辺りに手を伸ばす。
「お、おい?」
「動かないで」
そっとディランの胸の辺りに触れると、私の右手から光が放たれて彼の負っていた傷が治ってゆく。
私が今使用したのは水の下位魔法の中、【水の治癒】だ。
下位魔法に属するため直接触れなければ効果がないし、単体用の魔法で複数の対象には使えない。
彼自身もこの魔法は使えるけれど、ここは私がやるべきだろう。
いや、だってさっきの模擬戦で付いた傷だったら、つまりその時対戦していた私が寸止めをミスしたせいってことだし責任持って治療する必要がある。
元々小さな傷だったため、下位魔法でもあっと言う間に傷は無くなった。
「よし、これで大丈夫」
「あ、ああ。ありがとう」
「……? どうしたの? 顔が赤いけど」
「な、なんでもない!」
? 変なディラン。
顔を赤くして目を逸らす彼の様子に首を傾げるが、ディランは何故かますます慌て出してしまった。
「む〜」
「フィリエス……」
『無自覚だから性質が悪いですね』
唸るような声がしたのでそちらを向くと、セリーヌが膨れっ面で唸っていた。
その隣ではアルトが切なげな上目遣いで私を見詰めている。
深窓の令嬢のような儚げな様相に思わずギュッと抱き締めたくなってしまったが、以前それをやって何故か三人から猛抗議を受けたので自重せざるを得ない。
よく分からないやり取りをしていた私達だが、ディランがようやく正気に戻ったことでそれは終息した。
「さて、そろそろ解散するか」
「うん、お疲れ様〜」
「また明日だね」
みんなが口々に別れの挨拶を交わしている中、私は別のことを申し出た。
実のところ、これはしばしばあることだ。
「私は少し残ってくから、先帰ってて」
「またか?
何やってるか知らないが、あまり遅くなる前に帰るんだぞ」
「うん」
帰ってゆくみんなを手を振って見送った後、私は今日一日を過ごした訓練場所を振り返った。
これからすることは人に見られるわけにはいかないため、周囲に誰もいないことを念入りに確認してから私は用事を済ませる。
Ψ Ψ Ψ
人魚族にとって水属性の下位魔法は生まれ付き使えるもので、中位魔法は物心が付けば覚えられるものだ。
とはいえ、誰もが覚えられるのは中位魔法の中でも下のものだけであり、中や上のものは使える人と使えない人に分かれる。
では、下位魔法と中位魔法は何処が境界となるのだろうか。
その答えは、「先払い」か「後払い」かの違いである。
下位魔法は身体から魔力を放出して、それを受け取った精霊に様々な現象を起こしてもらうものだ。
そのため、原則的に自らの身体から離れた位置に効果を発動させることは出来ないし、周囲にいる精霊しか動かすことが出来ない。
それに対して、中位魔法は後払い。事前に引き起こしたい現象を詠唱という形で精霊に伝え、その対価として魔力を支払う。
中位魔法は離れた位置にも効果を及ぼすことが出来るし、ご褒美が後に待っている分だけ精霊のモチベーションも高くなる。
下位魔法よりも効果が高い理由の一つはそれだ。
付け加えるなら、瞬時に放出出来る魔力量に左右される下位魔法よりも、後から支払えばよい中位魔法の方が対価となる魔力も上増し出来るということもある。現金払いとローン払いの差のようなものだと思えばよいかも知れない。
精霊に引き起こしたい事象を伝えるのは下位魔法も中位魔法も変わらないが、中位魔法の方がより明示的に意思を伝える必要があり、そのための詠唱だ。
魔法の詠唱は三つの部分に分かれており、それぞれ宣言部、祈祷部、発動部と呼ばれている。
例えば私が【水鋼】の詠唱をするなら、
「Pulchra profunda maris──
たゆたう水よ、鋼となりてその姿を永久に留めよ 【水鋼】」
となる。
最初の「Pulchra profunda maris──」が宣言部であり、精霊に対して魔法の行使をしようとしていることを宣言するものだ。
どの魔法でも共通の文言であり、その台詞は人に依存するため個人個人で異なる。「Pulchra profunda maris──」は私が詠唱する場合のものであり、私以外の人が魔法を使う時はまた別の宣言部を用いるのだ。
次の「たゆたう水よ、鋼となりてその姿を永久に留めよ」が祈祷部であり、魔法の種類を定めるものだ。
魔法の種類を決定付けるものであることから言うまでもなく魔法それぞれによって異なるため、新しい魔法を覚えようと思ったらまずはこれを覚える必要がある。
祈祷部は脈々と受け継がれる中で定まったものということで、誰が唱える場合も一緒だ。
最後の「【水鋼】」が発動部。祈祷部によって特定した魔法を実際に発動させるための合図だ。この部分も祈祷部と同様に誰が使うとしても共通の文言となる。
ちなみに、宣言部を間違えると精霊に見向きされないために魔法は発動しない。
もしも祈祷部を間違えたとしたら、別の魔法が発動してしまったり何も起こらなかったりする。
それに対して宣言部を間違えると、祈祷部によって定められた魔法と異なることに精霊が混乱するのか爆発するので絶対に間違えてはいけない。
これが私達が中位魔法を行使する時に唱えなければならない詠唱だ。
とはいえ、私達が当たり前のように無詠唱で使っていた下位魔法にも詠唱は存在する。
ただ、中位魔法を使える程に精霊との意思の疎通が出来るなら、下位魔法は詠唱なしでも行使が可能なのだ。とはいえ、それはあくまで同属性ならの話であって、別の属性の魔法を使う場合は詠唱が必要になる。
まとめると、水の精霊人である私達人魚族は水の下位魔法であれば無詠唱で使えるし、中位魔法は詠唱しないと使えない。
──普通なら。
「………………」
誰も居なくなった訓練場所で、私は無言のまま右手を前に翳す。
次の瞬間、水が凝縮して三叉の鉾の形を為し、私の掌に収まった。
今日だけでも何度も使用した【水鋼】の魔法だ。
【水鋼】は下の方とはいえれっきとした中位魔法であり、人魚族と言えども無詠唱では使えない魔法である。
それを今、私は無詠唱で行使した。これは、人魚族の常識ではあり得ないことだ。
もし仮にこのことが他の人達にバレたらどんな事態に発展するか想像も付かないため、両親にもセリーヌ達にも教えていない。
知っているのは私自身とリーンだけだ。
一応、私にこんなことが出来る原因もある程度は分かっている。
他の人には見えない精霊の姿が私には見えるという事実、それは私が他の人魚族よりも一際精霊達との結び付きが強いということを意味していた。
それこそ、水の精霊と強い関連がある人魚族ですら必要な詠唱を行うことなしに中位魔法を行使出来てしまうくらいに。
あるいは、それ以上の領域にすら手を伸ばせてしまえるくらいに。
「やっぱりこんなの、誰にも知られるわけにはいかないよね」
『フィリエス……』
何処か気遣わしげなリーンの声を聞きながら、私は無詠唱での中位魔法を続けざまに放つ。
みんなとの訓練を終えてもこの場所に残っていたのは、人知れず無詠唱での中位魔法の訓練を行うためだった。
使うことを前提とした訓練は秘密にしなければならないという事情とは矛盾する行為だったかも知れないが、私は心の何処かでこの訓練を必要なことだと捉えていた。
それは、自らに訪れる未来を直感的に悟ったためなのか、自分自身でも分からない。
ただ一つだけ言えることは、ほとんど聞こえないくらいの小さな声で彼女が呟いた言葉がそれを暗示していたということだ。
『ごめんなさい、フィリエス』