第02話
人魚族とはその生活の大半を水中で暮らす種族だ。
一応肺呼吸も出来ないわけではないし、海上に顔を出すこともある。
しかし、それはあくまでもごくたまにであって、生活の九十九パーセント以上は海中にいるのだ。また、私みたいな子供のうちは基本的に海面近くまで行くことはない。
当然ながら、水中に棲む私達は泳ぐという動作を基本行動としている。
泳げない人魚族など一人もいないし、それは前世においてカナヅチだった私も例外ではない。
というか、今生の私は人魚族においても上位に来るぐらい泳ぎについては自信がある。
前世とは違うのだ、前世とは。
『フィリエス』
水中に暮らし泳ぐことに特化した私達人魚族は、その身体も泳ぐことに特化した作りになっている。
水の中でも息が出来るエラ呼吸。
深海の凄まじい水圧にも耐え得る強靭な肉体。
その中で莫大な推進力を生み出すことが可能な尾びれ。
そして、流線形でスマートなボディは水の抵抗を最小限に抑えることが出来る、まさに水中特化の肉体だ。
『フィリエス』
そう、人魚族にとって大きな胸部装甲なんてものはむしろ害悪。
そんなものがあったらまともに泳ぐことさえ出来ない。
流線形こそが至高なのだ。
だから……そう、だから……。
「だから人の頭にその重量感たっぷりの肉塊を乗っけるのをやめて、セリーヌ。
もぎ取りたくなるから」
「え〜? フィリエスはぎゅ〜ってされるの好きでしょう?」
うらやましくなんか、うらやましくなんかない!
あと、魅惑の膨らみで包み込むようにぎゅーっとされる幸福感だってちっとも好きじゃない。
『フィリエス、現実逃避は何も生みませんよ』
……ちょっとだけだし。
Ψ Ψ Ψ
「えへへ、おはよう。フィリエス」
「おはよう、セリーヌ。
でも、この姿勢だと顔が見えないんだけど」
『おはようございます』
頭の後ろから聞こえてくる朝の挨拶に、私は苦情混じりに答える。リーンも挨拶を交わしているが、彼女の言葉は相手には伝わっていない。
相変わらず私の頭の上にはたっぷりとした重量感のある肉塊が二つ載せられ、首へと回された二本の細い腕によってぎゅっと密着させられている。
このうらやましいことこの上ない魅惑のボディの持ち主は、三人いる私の幼馴染のうちの一人であるセリーヌだ。
ツインテール状のピンクの髪に蒼い瞳をした彼女は、おっとりとした少女だ。その容姿は綺麗というよりは可愛いという言葉が似合う。
年齢は私と同じ筈だが、私より身長は幾分か小柄で女の子らしく可愛らしい……にも関わらず、身体の極一部だけはたわわな凶器を持っている。
水色をした尾びれも心なしか肉感的で、顔に似合わぬ色香を感じさせた。
本人はほんわかした性格で周囲を和ませるのだが、何故か私に対してのみ発揮される抱き付き癖によって私のひそかなコンプレックスを刺激してくれる小悪魔だ。
『ひそかな?』
うるさいよ、リーン。
「よっ、と」
「やん!?」
私は後頭部に乗っけられた二つの膨らみを手で持ち上げるようにして隙間を作り、なんとか彼女の拘束から抜け出した。
「もー、折角ぎゅっとしてあげたのに」
「貝殻の縁が当たって痛いのよ」
まぁ、それは嘘だけど。
本当は、あのままあの至福の感触に溺れてしまうと色々と拙いような気がしたためだ。
「これが邪魔なら外そうか〜?」
「……ダメよ、はしたない真似はやめなさい。
男の子に見られたらどうするの?」
「むぅ〜、別にいいのに」
『フィリエス。
貴女、今、少しだけ迷いませんでしたか?』
心外な、私には同性愛の趣味は無い。
確かに彼女の魅惑のふくらみには心惹かれるものがあることは否めないが、折角貝殻のブラジャー──略して貝ブラ──を普及させたというのに、露出への逆戻りを許すつもりはない。
そう、何を隠そう私や彼女が身に付けているこの貝ブラ、実は私が考案して広めたものだったりする。
ならばそれまではどうだったのかというと、一言で言えばトップレスである。
幼女も少女もアダルティな大人の女性も、ことごとく隠す物なくその身を曝け出していたのだ。
人魚族の者達はそれを当然と思っており恥じらったりすることはなかったのだが、前世の記憶がある私としては羞恥拷問だった。
もちろん、私自身も裸を見せるのは恥ずかしいし、他の女の人が開けっぴろげなのも落ち着かない。
そのため、何とかして身体を隠す方法を編み出して普及させようと奔走した。
しかし、そこでぶつかったのが今私達のいるこの場所という制約。すなわち深海だ。
人魚族の主要な棲家であるこの場所は、衣服を作るという行為に対してとんでもなく高いハードルを課してくれた。
何しろ布すらないのだ、こんな環境で服など作れる筈もない。
どうしたものかと迷う私の視界に偶々引っ掛かったのが、一匹の貝だった。
それを見た瞬間、ピンと来た。
前世では空想の中にしか存在しなかった人魚族だが、その彼女らのビジュアルはどうだったか。
少なくとも、トップレスではなかった。それは間違いない。
いや、数ある創作物の中にはそういうものもあったかも知れないが、大半は違った筈。
ならば、どうやって彼女達はその魅惑のふくらみを覆い隠していたか……そう、貝殻である。
閃いた私は、早速ちょうどよい大きさと形をした二枚貝を探した。
そして、余計な身を取って口の中に放り込むと、その平べった……じゃなかった、程良いふくらみの貝殻を自らの胸へとあてがう。
二枚の貝殻はまるでブラジャーのように私の胸を覆い隠した。
よし、いい感じだ。
と思った次の瞬間、剥がれ落ちた。
まぁ、考えてみれば当然の話だ。何の仕掛けもなしに固定できるわけがない。
しかしそうなると、何らかの方法で固定しなければならないわけだ。
魔法で固定することも出来なくは無いけれど、それを常に維持するのは労力が掛かる。
何処かに紐かなにかあれば……と思って見回す私の視界には、何処までも広がる深海の風景。
紐? そんなものあるわけない。
せめて糸でもあれば編んで紐にすることも出来るのに、と悩んでいた私は水に漂う自らの金色の長い髪に目を留めた。
その瞬間、これだとばかりに二度目の閃きが走る。
私は髪の毛を何本か引き抜いて紐を作り、端っこに穴を開けた貝殻にそれを通した。
こうして、様々な困難を乗り越えることでようやく貝ブラは完成したのだ。
幸いと言うべきか、最初は奇異の視線で見ていた女性陣も次第に私の真似をして貝ブラを身に付けるようになった。人魚族はトップレスから解放されたのだ。
そうして一度隠すことを覚えてそれが当然になると、やがて異性に裸を見せることに対する羞恥も芽生え始めた。
もっとも、先程のセリーヌのようにまだまだその抵抗が薄い者もいるようだが。
中には肌を隠すためだけではなくお洒落として自分以外の髪で編んだ紐を使うこともあり、親しい者達の間で髪の毛を交換し合うなんて事象も生じた。
人魚族の髪の色は中々に個性豊かなため、他の人と交換し合えば色々な色が楽しめるのだ。
実際、私が身に付けているものはセリーヌの髪を貰って編んだものだし、彼女が身に付けているのは私のものだったりする。
彼女に強請られて交換したのだ。
なお、先程トップレス云々言っていたが、下半身は何も身に付けていないことに触れてはいけない。
それは今もだし。
流石に魚の尾びれは晒していても特に羞恥心は感じない。
「そう言えば、セリーヌ。
ディラン達は? まだ来てないの?」
「とっくに来てるよ〜?
フィリエスがなかなか来ないから、それまで軽く泳いでくるって行っちゃった」
「あ、そうなんだ」
セリーヌに残り二人の幼馴染の居所を聞くが、どうやら私が来るのが遅れたせいで時間潰しに出掛けてしまったらしい。
どうも、間が悪いタイミングで訪れてしまったようだ。
『いえ、戻ってきたみたいですよ』
「え? あ……」
リーンの言葉に周囲を見回すと、そこには二人の人魚族の姿があった。