死に怯え死に逝く?
人間は常に仲間や社会の中で生きてきた。すると、必然的に周りの行動や意見で物事を判断する事が増えてくる。
その判断は大多数が正しいものであり、非常に効率の良いものだ。
しかし、ときに間違った物を誰かが支持すると全体が巻き込まれて一気に壊れてしまうこともある。
この破壊は周りの変化を当然に思い込んでしまっているため、気づくことは難しい。
また、世界のルールを個人の思考で否定しようとしても、普通の人は元より決まっている誰が決めたのかも知らない物を突きつけ意見を除外しようとする。
これらは全て自らの意向で決めているのでは無く、世間で言う常識によって判断しようとするデタラメなものだ。
例えば、この世間の常識を『死』についてのものに置き換えると大きな矛盾の様な違和感が生じる。
そもそも、色々な研究や発展を遂げて沢山の問題を乗り越えてきた人間は、生きているものが必ずしも通る道、一番重要に考えなければならない『死』とゆう壁をなり越えられずに呑気に生きてきた。
人間は絶対に分かることとして『死』とは悪であり、全てが無になる、遠ざけなければいけないものとゆう認識を持っているだろう。
だから当然、殺人や自殺は悪とゆう理由で否定されている。が、全く『死』の定義が成されていない。
他人を『死』に導く行為は世間では極めて悪徳なこととされているが常日頃から小さなものの命を奪っている人間なのだからそれは程度の問題ではないだろうか?
人間は生きる為だと言って他の動物の肉を食べる。それの代償が食事前後のたった数秒の合掌だけだ。
食べられた側からしてみれば命を奪った相手が馬鹿にしているも同然の行動をしているのを感謝と受け取れと言われているのであり、それを人間は当然のことにしてしまっている。
このようなことがあり、人間は結局、他人の命などどうでもよく、自分が生きることが当然で、自分が食べているなら食べられることも覚悟するなどまっぴら無く生きている。
もはや、自分が生きることにすら価値を感じなくなった者は自殺という行動を起こすことがある。
自殺をする際自分を後押しするのは現実逃避などでは無く、『死』への高揚感である。
この世界が駄目なら次の場所で、そこで駄目なら次の場所へ……と無限の可能性に惹かれるのである。
それは、誰も正しいとは言えないが、誤りだとも言えない。結果、人は迷い決断をする前に自分の思わぬ結末へと至ってしまうのである。