その目に映るのは
ーーそれまでの日常とその瞬間の境界を踏み躙るには、その轟音は似合い過ぎていた。
どっと湧き立つ他のメイドたちの阿鼻叫喚の中心に私はただ、崩壊し行くその光景を目の当たりにしていたーー
歩いているその手前に偶然にも目の当たりにした一コマの光景を啞然と見ているだけで、何かを思う暇もなく、次にきたのは衝撃であった……。
※※※※※
クリオッドの捜査から、帰還した直後の事。
雪華はすぐにランドリーとして大量の洗濯を任されたので、館から少し離れた川の畔で、大きなバスケットを抱え、その中に入っている洗い物全てその川に放り込んで、また、取りに戻る。川に放流した洗濯物は設置された水車小屋に自動で回収されるので、ほっといても何ら心配はない。しかも、この川の水質のおかげで洗剤は必要ない、勝手に流れるだけで汚れが取れる。
毎日、下着やタオルなど山のできる洗い物には、これが一番、洗濯機で回すよりも効率が良いし、コストパフォーマンスも抑えられる。
まあ、流れる自分の下着を見るのは少し恥ずかしいが、まあ何時もの光景なので慣れてしまった。
「さて」
流れゆく、白いタオルの群れを見送りながら、大きなバスケットを片腕に抱いて、背を伸ばし。白い息を吐きながら、木の元に腰を下ろす。
今日の仕事がひと段落ついて雪華自身のびのびしていた。暖かい日差しに身を委ねてしまいそうになるのを我慢しながら、腕を休ませる事にした。
ここから館までそう遠くもないし、水車小屋までなんて小さく目の前に可愛くポツンと建っている
川を横断するように横長に架けられた木造水車。複雑に織りなす細い木々のからくりを理解しようなんて思えないが、それにしても複雑に組まれ、若干年季を感じさせるその上に、こちらは継ぎ接ぎの別の意味で年季を感じさせる構造の建物がある。
横長水車の上を通れるように、屋根付きで橋替わりの通路が通っているのだ。
そこで、その複雑なからくりが作動して洗濯物が取り込まれるらしい。因みに脱水も自動である。
しかし、これを作った奴が本当に凄い。
門番でありながら、鍵番やら細かい修復やら庭師やらを兼任する何でも屋であるカイトだが、まさかこんなのも作っていたなんて、彼に関しては謎が深まるばかりで、元々が謎なのだから益々、不思議な存在であった。
ふと、風が吹けば緑葉が降る。
そんなふわりと最後の生を堪能しているかのような、若い葉が一枚。雪華の右手に舞い降りる。そっと……。そうでなければ凍らしてしまう。
今は、そんな気分だからーー
「こんなところにいたんですね」
「……え?」
まさか彼と出会うなんて思ってもみなかったので、頬に熱を感じるまで少しの間、私の中は虚無の色に染まって
「なんで、貴方がここに?」
頬を染めながら、背に向かって言葉を送る。
「話し相手が欲しくてですね」
「噓つき」
「本当ですよ」
優多ーー彼を見ると今でも、奇妙な、その出会った時の記憶から、今までの感情まで手に取るよう新鮮に蘇る。
「慣れましたか」
「そりゃあ、こんなに話してるんですから慣れますよ」
「そうでしたね。……まあ、僕個人としては、雪華さん達以外の方達からも気軽に接してほしいんですけどね」
少しばかり残念そうな顔をして優多は言っているが、本人が言うのか……。
乾いた笑いを心の中で笑う。それは呆れたのか、はたまたおかしく思ったのかは分からないが、敬語で話そうとすることも考えようとはせず。
「仕方ないよ。皆自我を持っているんだから……。いくら主の精神分離体とはいえ、彼とはあくまでも別人格だから……。主のような図太い神経は兼ね備えていないよ」
「あ」なんて話し終わってから少し、頬を赤く染める。
どうしようか、普段の言葉使いで話してしまった……。慣れているからか、仕方ないかもしれないけれど、やはりどことなく恥ずかしくて、更に彼から視線を遠ざけようとその熱い顔を隠すようにして俯く。
「そうでしたか」
「……はい」
「別に、変に遠慮しなくていいんですよ?さっきみたーー」
「こっち見ないで!」
優多がこちらに顔を向けよう
ーーその瞬間、雪華の頬の熱は爆発的に膨らみ、視界に彼の顔がーー写る直前に鉄拳が飛ぶ。
いくら強い力を持とうが、不意を疲れた鳩尾への攻撃は、息すらできないのほどの苦痛だ。見ての通り、目の前には声に出せない程の痛みに悶絶する優多の姿がいた。
彼には、心底申し訳なく思ってはいるけれど、やはりこればかりは、こんなだらしない顔した下心丸出しな顔なんて彼に見られたくない……。
やり過ぎたかもしれない、そんな風な気持ちに、熱くなった頬の熱すらもとっくに忘れて、只今悶絶する彼にどうするべきか蒼褪めてオロオロと不安な態度を露にしていた。
どうするべきか……。加減の操作を誤った自分。というかそもそも、鳩尾に鉄拳なんか叩き込んだ自分を恨む。自分自身を責めながら、せめてもの罪滅ぼしにと、膝まづいて彼に声をかけるが未だ悶絶中。苦しんでいるのだから揺すってはいけない気がするし。
どうするべきなのか……。答えが見つからず。
「本当にごめんなさい」
「いえいえ、元はと言うと僕が悪いんですから、雪華さんが誤ることなんてないですよ」
「で、でも」
と、言いかけたその途端に、優多は苦笑いを浮かべて
「大丈夫ですよ。そんなに謝らないでください」
なんて、微笑みかける。
本当に彼は聖人なのではないだろうか?そう思わせるほどに、優多の態度には善悪などなく、正真正銘の本心でーー
「どうせならいつも通りの雪華さんが僕はみたいです」
なんて言ってくる。
そんなこと言われたら、普通になんていられるわけがない……。まったく、本当に恥ずかしいことを言ってくる……なのにまったく普通でいる、そんな態度されると逆にこちらが恥ずかしい。さては、毎回誰か他の人と会うたびこんな事を言っているのではないのだろうか?
なんて場違いな事を想像している自分に「いい加減にしろ」と恥ずかしささえ覚える。
しかし、心のどこかで彼の言葉を、反芻していてーー
『どうせならいつも通りの雪華さんが僕はみたいです』
その言葉に、現こそ朧げと化して、幻との区別がつかないほど薄くなっているのを自我に留めておく余裕すら保てず。
ただ、ポーッと立ち止まるだけで。
第一声、なんて声をかけるべきなのか、まともに考えられるわけもなく途切れ途切れに、その今じゃ考えるには使えない脳ミソで考える。
「……えと」
「どうしました?」
この熱はなんだろうか?それに、まるで反対なこの緊張も心臓のバクバクもない奇妙にも妙に落ち着いた感覚。安心と称するにも、何処か違う気がして安堵と称するのもまた違う気がするこの感覚をなんと言うべきなのだろうか?
それは何処かふわふわとした暖かさを感じるものだった。
たったそれだけ、ふわふわとした暖かさだけ。それ以外は何も要らない。正にその通りでーー
「えと……その、アリガトゴザマス……」
安心でも安堵でもないもう一つの『暖かいもの』を胸に抱きながらーー
「あ、照れてまーー危ない!?」
「照れてなんか無い!絶対照れてなんか無い!有り得ない!」
「じゃあなんで、また的確にミゾ狙ってくるんですか!」
「知らない!とにかく、また悶絶でもして!」
「酷くないですか!?」
なんて控えめな言い合いと、露骨なツンデレによる攻と、天然野郎の防が数分に渡って繰り広げられたーー
「っていうか全然痛くなかったでしょ!?」
「痛かったですよ!」
「じゃあなんでそうやって肉ごと引っ付いた氷離せているの!」
「あれは貴方の不意の所為ですよ!」
なんて、雪華は思い切り能力を使って、優多はあくまでも防御に走るだけなので、決着は早かったーー
「落ち着きましたか?」
「なんで、やり返さないのよ……」
「そういう人間なんですよ。僕は」
「そう……貴方はそういう人間でしたね」
呆れた。そういう顔で……しかし、ホッとしたかのような安堵の表情もあるようで。
腰を下ろし、へたり込んでいた雪華は、手を差し伸べる優多の手を恥ずかしそうに、これは情けなく思ったからの事と必死で自分に言い聞かせながら、彼の差し伸べた手を握る。
冷気の絶えない雪女の私には、ほのかに暖かかった。それは心内か。それとも触感なのか、判断が出来なかった。だって私の冷たい手をここまでしっかりと握ってくれる人なんてそうはいないのだから……。
本当は冷たいと思っているのだろうか?
ふと、そんな感情さえ芽生え、彼を見るが、やはり解らない。彼は変わらず……。勿論その笑みを向けているわけではないのだが、変わらず、ただその手を握ってくれてーー
立ち上がって、雪華は少し強引に手を引きはがし物憂げな表情と言うべき複雑な感情を織り交ぜた様な声色で。
「手……。大丈夫ですか?」
「全然」
「そうですか」
やはり、何処か突っかかった雪華は、どうしても態度に出てしまって。今なお、白いエプロンを更に皺を寄せていた。
しかし彼はまた、あの時のように笑ってーー
「大丈夫ですよ。ほら」
「ーー!?」
そう言って、手首を思い切り掴んでふわりと自然に微笑む優多に、雪華は、混乱でボットと熱くなる。けれどもーー
「大丈夫ですよ。大丈夫。それが貴方なんですから」
その言葉に、雪華はどうにかなりそうだった。
男の人にここまで、優しくされるのは慣れていない。
ただ心の底からーー
「どうしたんですか?」
爽やかにも程がある。
解っているのだろうか?多分、解っているのだろう。でも、解ってい無いのかもしれない。そのくらいに今の優多は苦味一つない様で……。
でも、癖は強い。例えるならそんな味。
悪いのか良いのか、どちらにも向かないため息をついてから彼女は歩き出した。流した洗濯物を取りに行くため。
ずっとこの瞬間が続いたら良かったんのにーー
※※※※※
それまでの日常を壊すくらいには、それはまるで十分だった。
人と人の群れに、流れに乗って雪華もそこへ行く。正に阿鼻叫喚の代名詞であった。
遠くからでも見てわかる。他のメイドたちが散る姿。幸いまだ息はある。しかし、早急に手当をしなければならないのが安易に見て取れる。
ガラス越しの背景に映るのは、何十人と壁や窓枠を破って外へ放り投げられる凄まじい光景。
近づいてきた証拠に、何人も壁が命綱として血を流している……。
「非道な……」
「あらそう?」
その光景に、雪華は悲痛な顔で吐き捨てた。
心に残ったのは一体何だったのだろうかーー
その問いに、まるで答えるかのように暗闇から、異様な空気と共に、うるさく足音が迫ってくる。
まるで、噓のように静まり返った一帯に、その彼女の存在は場違いにも程があって。
「貴方なら相手になりそう」
艶めかしい潤った表情でそう言う。
はだけた着物を身に纏い、淫らに肩を出す姿とその表情を併せればまるで痴女そのもの。まるで、遊女。
「吐き気がする」
「あらそう、酷いわね」
「私が嫌いなものの一つはお前みたいな痴女だ」
冷気が吐き出る。
嗚呼、この感覚は久しぶりだ。機嫌が悪い、そう自覚したところで何も起こらない。そうーー何も起こらない。
その瞬間であるーー
雪華の身体の至るところから白い煙が、否冷気が噴き出した……。ゆらりと、まるで重みを授かったかのように、身体の揺れに応じて幻想的な弧を描く冷気。それを、彼女は己の手のひらでいとも簡単に操るその仕草は、まさに雪女。
ーーその冷気を全身に巻き上げた途端、地面に叩き付け
彼女を点にして波紋のように広がっていく冷気。
怒りを露にしたその瞬間。
辺りは一変したーー
『我は雪女の妖。お前らのような紛いモノの力ではなく。純粋なる、血統を受け継ぎし力』
雪女。それは、妖の一種。
元来妖とは、人々の想像が具現化したもの、或いは人々がしてきた悪行に恨みを持ち実体化したもの。その中で、雪女というのは両者における立場の妖。
冷気を発する身体を持ち、一息吹けば人を一瞬のうちに凍死させることができる程の、謂わば純粋なる冷気を操る力をもつ種族なのだ。
何かしらの縁で、能力を突発的に得る人間種と違い、その力を扱うのに関しては彼女のような妖が圧倒的に秀でているというわけでーー
だから、彼女にとって冷気を操ると言うのは全く苦にならないーー
『マイナス300度』
「……」
『普通では有り得ないだろう温度。だが、我にとって、冷気を操るのに限界は無い』
空気が冷える。一瞬にして。
『雪女の妖の力。本気をなめるんじゃない』
そう口にした途端、雪華の容姿が急変するーー髪は透き通るほどに白く輝き。先ほどよりも倍以上に身体から冷気が溢れでている。
それもそのはず、妖が。妖怪が本来普通の人間のような身体を持つなど、普通では有り得ないのだ、だから彼女の姿はこれこそ真の姿。
本気を出した謂わば『 覚 醒 状 態 』なのだ……。
その美しい銀髪が冷気によってなびく。
部屋の温度マイナス300度に達したのは一瞬の出来事であった。常人にとって、冷たさを感じる暇さえなく、身を動かすだけでも激痛が走る。
対して、雪女の種はこれこそが普通なのだ。適温。戦闘において全てが丁度いい。
空気の乾きも、感覚も、理性よりも先に本能が理解するーー即ちもう準備万端なのだ。
『久しいな』
この感覚。最高に昂る……。
今まで、封じ込めていた分あって、少々暴走気味だがそれでもちょうどいいくらいだ。
少しばかり募る違和感をほぐし終えると、彼女を睨むーー感情さえ消し飛んだ雪女の素顔『冷酷なる微笑』で。
『『『 凍れーー 』』』
深淵に静まるが如く。闇さえ届かないような暗黒の如く冷ややかな純粋なる空間。
冷たい。何よりも冷ややかな、静まり返った鏡明する空間。
敵の目には何が写ったのかは雪華には分からない。ただ、その瞬間の光景に、圧倒されただろうーー顔は嘘をつかない。
ーー一瞬にして、コンマ1秒も経過もなく不規則な氷が空間に根を這った……。
空間が歪む。その拍子に空間に連帯して不協和音が鳴り響く。
不穏な、不審な、不快な……。
全ての負の懸念の感情は、否応なくそれが代わってくれたにも関わらずまだ、拭い切れないーー
さて、この感情は両者どちらのものなのか、誰にも分からないだろう。
這った根。
それは、言うまでもなく氷。
冷たく硬く透き通った、普通の氷。
不規則に、横から上から下から左右から斜めから……四方八方どこからでも、突発的にこちらに向かって刺してきたそんな氷。
驚異的なのは、そんな即死級トラップをいとも簡単に、一瞬にしてこんなものを作り出せる雪華の妖としての本領的な強さであった。
ーーその一瞬
避けた敵に一秒とて雪華は隙を与えない。
次の瞬間……床が一直線上に突き破るようにして何かが飛び出る。それは、ちらりと見えた敵である彼女の表情からも読み取れるように、意外な事実で、それは全て、氷であった。
呆気ない。
雪華は、ため息にそれを乗せて、変わらず白く染まった冷気を吐く。実際、誰もがそう思うであろう有様だ。
しかし、こんなのに他のメイドがあんなにも歯が立たない訳ではない。なんだ?何かがおかしい。
その通り、何かがおかしいのだ。
瀕死状態でいるのをいまコールドスリープ状態にさせてなんとか耐えてもらっている彼女たちだが、このくらいの敵なら、全くもって歯が立たない訳じゃない、というか簡単に勝てる相手だ。
コンマ2、3秒。
その瞬間という時空の境界に立つような感覚で、雪華は不審に胸騒ぎが絶えなかった。
ーー何かがおかしい
時の流れが元に戻る感覚。
それと同時に、この、彼女と対峙した大広間から砂煙と冷気が混じった粉塵が舞う。
何処か、何かが嚙み合う気がした。
異様なほどのこの緊張感。それに、粉塵に消えた敵。
この感覚ーー「フラグ!」
ハッと、我に振り返った途端、すぐさま凄まじい嫌悪感……。いや、殺気の類の悍ましさに鬼気迫る表情で、床に必死の思いで力強く踏み込む。するとそこからバリバリと氷が荒波のように押し寄せ、その大理石の床に分厚く、岩のようなゴツゴツとした氷が敷かれる。
仰々しく波打つその氷装は、まるで、嵐で怒り狂う鬼気とした海の表情で。
シンと静まり返る、自分のための空間に押し殺されて、今度は自分の方だった。いや、さっきも自分だったのかもしれない。
深淵に響く、負の懸念の思い全てを背負ったその不協和音が何時しか自分のものになっている気がしてーー
残念ね。氷は私の得意分野なのよ。
その言葉が聞こえたのは上でも左右でもない。後ろからでーー
『ーー』
反射的に突起の氷を彼女に差し向けたが、上に跳躍し逃れるがーー逃がさない。
華日の逃げた先にも氷の矢を放つ。しかし、まるで知っていたかのように、華麗に余裕の表情とそのしなやかな身体捌きでその攻撃を躱す。
「まあ、性格っていう意味なんだけどね」
『……』
「貴方……結構強いかも……」
『……まだ、純粋なる力を愚弄するか』
「だって、事実だもん」
その挑発に、雪華の瞳は獣の如く、鋭くなる。しかしーー
「イッ!」
彼女の頬は切れ、血が流れ出る。
『これでもまだ、弱いとでも?』
「さあ……。ただ、やっぱり私より弱そうーー」
その彼女の発した言葉とともに送られた、いかにも馬鹿にしたかのような笑いが合図かの如くーーぶつかり合う。
雪華はその冷気で剣を作り、華日に振るう。だがしかし、彼女はただ余裕な表情で立っているだけ。
未だ、この拭いきれない不穏を見ないふりして、雪華はゆらゆらと立ち上がる冷気を身に纏い氷を操る。部屋の温度はマイナス300度。まだまだこの温度が下がらず、この今ある人格にブレが生じていないのは、ピンピンしている証拠。即ち、まだまだ力は出し切ってないということ。
しかしーー
何度、この剣を振りかざしたとしても、彼女にこの氷の刃がかする気配もない
不安が広がって蝕む
それは、蒼い葉を食いむしる幼虫であるーー
地を割る衝動に、私は駆られて絶対零度の空間の中芽吹く。
ガツンと地を削り、奇想天外な動きで相手に攻め入る。
割れる地。生える地。それ全て、自身の築いた零度の地。
避けられ、割られ、確実に消耗する体力を身に感じる中で、冷徹な鼓動だけが淡々と刻まれるだけの脳内で、思った事と言えば。それは、何もするな……。
そういう、今からでも、今尚動き続けている闘志を絶やしてはいけないということでーー
ーー止まれば潰えてしまう。なればこれをなんと言おうか。
止まれば凍えてしまう何もかも、なればそれはもう『凍死』かーー
『なら良いだろう、存分に抗いさえてもらおうか』
麗城寺雪華は、笑った。
冷徹な瞳の雪女は笑った。
彼女にとってそれは、抗い続けることが唯一の耐え凌ぐ方であったから。だから、これは言ってしまえば己との戦いであるのだ。
負けてしまえば自分に負けたということになる。即ち自身の能力に、この純粋なる一族の血に泥を混ぜたということになるのだ。
自分自身の能力に潰される。皮肉がいいスパイスになる。
そうだ、この冷気を自在に操る能力。それに潰されるのだ。
なら、『凍死』とでもいうべきだろうか。
誰がそこまで、上手いことを謂えと吐いた。皮肉が効く。
ならいいだろうーー
『ーー本気の力はまだまだこれ以上だ』
「あらあら、自棄になっちゃだめよ」
しかしーー「止まる」
マイナス7000度の世界。それは、何もかもを凌駕する新世界であった。
空間は凍結。即ち、空間における物質が瞬時に固まったことで、実質氷漬けにされたのだーー彼女自身は。
『固有結界』
妖術と一族の力の融合。それが、今起きているこの現象
『能術「幻額ノ自覚」』
流石に、こんな超低温を放てば、そこらで倒れているメイドの子達は即死するし、それ以上に危害が及ぶ。だからこの固有結界。
妖術における、一種の術式結界。妖に流れる魔力とはまた違った一つの力。それを妖力と言い、それを用いたのが、この妖術。
私らのような種族は魔力に向いていないのだ。
『お前は、動けない、人という容をしている限り絶対に。罪を背負え』
絶対にだーー絶対に動けない。
あのマイナス300度の中でも動けていたのは、規格外過ぎた。まあ、それらを見る限り彼女は超人なのだろうけど……。
だがしかし、今度はマイナス7000度。
いくら超人であれ、結界内の空気は個体の如く凍っているのだ。空気中の物質のあらゆる動きを封じ、例え、そこに液体が無かったとしても、空間における物質においては見えるか見えないかの違いなのだ。
見えなくとも、空気中には何百何千という物質が飛び交っている。それを一瞬のうちに凝結・凝固……。
当然いきなり飛び交う物質と物質を強制的に止めるのだ。
一つの力は小さくても、その小さな力が何百何千と集まれば摩擦やら抵抗など、それら全ての反発する力が生まれる。
それを、固有の対象に跳ね返すための
『固有結界』
四方八方から跳ね返り伝う膨大な反発力。
当然、凍った空間は、まるで氷の中に漬けられた如く、動けない。
中がくすんで、よく見えないが。
しかしーー
「!?」
なんだ?何が起こった?
突如として響く、異質な音。それは、何か薄い氷が割れる。否、氷が張っていくかの如く音でーー
馬鹿な!?
中はマイナス7000度だぞ?
規格外すぎる!
一体全体何が起きているのだ!身体の筋肉や内臓、血液全て、凝固凝結しているはずなのだ。
『何故、何故動いてられる!』
「さあ、何故でしょう」
艶めかしい声が結界内に響いて、次の瞬間ーー氷の如く四散する。
「あら不思議、結界を割ってみても外はかわらないのね」
『たわけ、雪女ということを忘れたか』
「そうだったわね。物凄く寒かったわよ、まあ、そこまで深刻じゃないけどね」
『……有り得ない』
「あら、そうしたら貴方の力も元も子もなくなっちゃうわね皮肉ね」
『嗚呼、皮肉だな』
今まで生きてきて一度も自分が最強なんて思ったこともなかったが。まあ、成程、上には上がいるって感じか。ならば仕方ない。
ーー力づくで這い上がるのみ
駆ける。
それは、妖という基準で氷の床は砕け数メートル程しかない敵との距離をあっという間に詰めーー有り余る冷気を駆使する。
結界を張り直し、二人だけの空間が出来上がる。
またしてもその結界は固有結界。しかし学ばないような愚者ではない。
とっておきの妖技。これならどうだッーー
『四面楚歌』
ダイヤ状に張られた結界。
その面々にいくつもの波紋が波打つその瞬間ーー無数の鋭利な氷が、華日めがけて放たれる。
たちまち、彼女が浮いていたその一部分は1秒を経過したときには、氷の破片で埋め尽くされていた。だが、しかし。雪華はそれを確認する暇もなくーー
『ーーッ!!』
「あら残念」
後ろへ回り込んでいた敵の容めがけて、途端に生み出した氷刀で切り裂く、しかし何の手ごたえも感じない。
しかし止まるわけにはいかないーーッ!
再び、思い切り結界内を蹴るーー直後、目の前に何かがあった、否それは現れた。
「ばあ!」
「なーーッ!」
ーー行動を読んでいる!?
咄嗟に逆向きの方へ跳ね返アガッ
「あらら、まさか私の影に惑わされるなんて」
何が起きた?
それは、言われなくても、自覚しようとしなくても、本能で分かっていた。内蔵が、お腹が、腸が子宮がーーさせるものかッ!
咄嗟に貫かれた腹の、地獄のような裂け抉れ破れる激痛を耐え凌ぐには気力だけ……。
このままだと抉られる。そう心底恐怖で震え上がった時にはもう、痛みを伴う覚悟なんて選択肢すら雪華にはなくて、あるのは今以上の激痛を味わう未来だけだった。
どちらにしても、どちらの行動を取るか取らないかにしても痛みを感じるのは変わらない。
倫理的に咄嗟に思い付いたのがそれだというわけではない。
ただ、本能で。恐怖心からきた咄嗟の思考を整理してみるという結果出たものだった……。
ーーその瞬間雪華は地を抉る
同時に腹部の地獄の如く痛みが更に波打った。
やばい。これは……意識が飛びそうーー真っ白になりかけた視界にぼやけて映る何か、最初何かと疑問に思ったが、成程迎えに来たのかと悟った。
もう、抗うような気力も、生に固執する精神力さえも擦り減ってなくなってしまったのが目に見えて分かった。
ぼやけてはいるが、物凄い出血だ。もう普通の感覚さえ麻痺して残るのは痛覚だけ。
もう……もうだめなのかもしれない。
ものを放り投げたかのように、彼女が跳躍した途端の有様は酷いものだった。
痛みに抗いきれず、残った精神でさえも己を保つことさえできずただ、摩耗していくだけ。それを証拠に張っていたダイヤ型の結界も崩れ落ち、ついには彼女が宙を舞っている最中。完全に消えて失くなってしまった……。
それは、まるで硬くて脆い。まるで、人間のようなもので、無論彼女は人の容を取った妖怪だ。
しかし、それはまるで人形のようで、その地への落ちて崩れる様はまるで、生物の息すら感じさせないものだった。
その一通りをみて、華日自身は何を思ったのかは分からないが。ただ、殺そうと思った。とどめを刺そうと一歩一歩、なんの気なしに彼女へと近づいた。
ーーしかし、何故だろうか。
みるみる内に、あの近づく度にこみあげていた嬉しさが、今ではそれと伴って二乗に三乗にと恐怖が比例して増していくのが、彼女の身に起きた異変であった。
何か大事なものがあったような気がする。
第一あの足は誰のものなのだ……。だめだ、記憶力すらも摩耗していっている。
何か諦めかけていた雪華の身に起きた異変、それは無自覚に蘇った生への固執、その片鱗だったーー
未だはっきりしないが、さっきまでよりも視力は回復している。しかしながらそんな目も、傍から見れば、変わらない死んだ目同然なのかもしれない……。
これはーーなんだ?
見えたのは、赤いーー血?
血って何だっけ?
何かが覚醒する、それは今まで一時的に隔離された何かが目を覚ますような感覚で。
足音が止まる、動いていた何かも止まるーー何か?
今まで、どこか望んでいたそれは何かしらの動きを取っているーー多分どこかで彼女を……。
いや、私は彼女を知っているーー
『ーー』
その場に響くその音は、氷を扱う妖にも美しさを扱う超人にも一体全体、何の音なのか。それ以前に何が起きたのかは、正直予想外だった。
一方は、自分が死の覚悟を負うこと、もう一方は、死から蘇ることーー
ーー私は知っていた。
彼女という、館に侵入し仲間達を蹴散らした凶悪な存在をーー
「!?」
「痛い!」
華日がその拳を振り下ろすその瞬間、間一髪で氷壁を張り、何とか間一髪で防げた。姿は見えなかったが、大分手応えはあったから、多分吹き飛ばしたのだろう。
損傷部位を氷で応急処置を施し、何とか立ち上がる……。
だがしかし、今はもうまともに力は使えないことは分かっていた。
今の状態を維持するのに妖力も魔力も気力も何もかもボロボロに崩れている。治療を急がないと後遺症が残る……。
今までのような姿ではなくなっているのが何よりの証拠であった。
ボロボロの血に染まるメイド服で、雪華は最低限の行動を取ろうと心に決めた。
背中合わせにしていた氷壁を蹴ったーーその時だった
「なっ!?」
突如として行く手を阻むそれは、仲間達だった。
もとは、主の精神分離身体……。だけども彼女達は大傷を負っていたはず!なれば、もう結論は早い!
「外道があ!これがお前の能力か!」
彼女達は操られている!
どんなからくりなのかは分からないが、とにかく、安静にしてなきゃいけないのにこれじゃあ手遅れになる。それに一人一人ちゃんとした人間なのだ!直接手を出せるわけがない。
「あらあら……」
後方十数メートル。
苦笑交じりにゆらゆらと、状態を起こす。やはり、吹き飛んでいた。しかし、様子がおかしい。さっきまでとは格段に違う異様な雰囲気すら感じさせるーーやば……え?
恐ろしさに、身が硬直する。
今……。今来られたらーーそう言った不安な感情に雪華は染まった。だから、逃げようとしたのだけど……。
「や、やめて!みんな目を覚まして!きゃあ!放して!いやあ!」
操られたメイド達の群れに飛び込んだ。
何とかなる……。その判断がまずかった。手足を掴まれ、口を塞がれ、完全に身動きが取れなくなった。
そして残ったのは、聞き覚えのある足音と比例して増していく絶望に似た恐怖でーー
遂に、足音が鳴り止む。
雪華の反応はと、わざわざ確認するかのように塞がれた口が開かれると、さてどうなのかと言われれば、当然口と息が震えその顔は不安以上の不安に染め上げられたいた。
そんな彼女の顔をゆっくりと感情のうす暗い瞳で、なめまわす彼女の姿は、それまでの印象とは全く異なるもので、雪華はただ、何をされるのか分からないでいる恐怖に怯えるしかなくてーー
「綺麗な顔ね……。私のものにしたいくらい」
その声の主の指が顔の輪部を伝い、首を伝い、鎖骨を伝い、胸を伝いーー
「でも残念」
そう言い残して腹部に衝撃が伝わる。
二度目の腹部への攻撃は、今度こそ絶対的な何かがあり、氷はおろか冷気さえもその手から出すことさえ敵わなかったーー
『ーー』
直後、耳に響いたのは『 』という雑音だった。




