覚悟できない貴方なんて貴方じゃない
ーークリオッド
暗闇の中で……長い、長い夢を見ているようで、でも、もう何も辺りには何もない気がした。無くしてしまった。消えてしまった。失せてしまった。
ーー目を覚ましなさい
僅かな「希望」が、自分を受け入れてくれた。そして、その代わりの「愛」が僕に手を差し伸べてくれた。二人の恩人の記憶が脳裏を掻く。
一人が何もかもを打ち砕く絶望を、もう一人が慈愛に満ちた怒りを。
ーー貴方の力が必要なの
その狂気にクリオッドは受け入れる他無かったので、何も疑う事は無かった。彼女を恩人だと思うことも、愛することも何もかも……。
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優多達はあの日の翌日、彼の捜索のため森に時間を費やしていた。
捜索の結果はというとすぐに見つけることが出来た。まあ、なぎ倒された大樹を辿って来たのだから見つけられて当たり前なのだろう。彼はすぐに館へ運ばれて治療を施された。
「何故、敵を保護するんですか?」
「日本人なのに心外だね、優多は」
そんな優多の問いにやれやれと反応を見せる無限は、彼の寝台に腰掛けて言った。
「何故、ここを狙って来たのか……優多は解るかい?」
彼を見ながらそう言う無限の瞳には何処か悲しそうで、その面持ちに見惚れていたため一拍反応が遅れた。
無限は、その顔のまま彼の頭を撫でて、寂しそうに微笑んでから、何処か見えない物を見ながら
「クリオッド・アデラ……。そうかい……。やっぱり、そうだったのかいーーあ、ごめんね優多」
「……?」
「……この子も若い。流れをね、見てたんだ。この子がどうやって育って来たのか、『史の流』を」
「でも、いくら酷い過去を背負ったとしても、人を傷付けることは決して許されることではないかと」
寂しそうに笑って「そうだね、でもーー」と何時もの調子に戻る。
「彼に聞かなければ解らないことなんて山ほどある。流を操るのは簡単だ。故に、扱いを誤れば容易く殺してしまう。赤ちゃんなんかそうでしょ?優多の能力もそうだね。簡単に壊せる。僕の能力は万能に見えても万能じゃないんだ」
付け加えて「まだ、拷問するほど罪はないしね」と言って、その部屋を去った。
なるほど、彼をそのまま見殺しにしなかったのは理解できたが何処か危ない気がして中々に緊張する。また、何かしら起きる気がしてならない……。
しかし、このまままた、暴れだしたらどうしようかと優多は心配になる。雪華達を傷つけたのは、許せないし臨時的に戦闘する事ができるかも不安だ。痛いのは嫌だし出来ればというか、絶対に怪我はしたくない。しかし、どうしようか……。
まあ、予め戦闘に入った時用に役立つ資料を無限に貰ったから、これでも読んでるか。
「……分厚過ぎない?」
そう優多が手を伸ばしたのは2、3冊積み重なった分厚い資料であった、広辞苑よりも分厚く大きい。軽く無限からは種族の説明と異形の対処がこの分厚い資料にあると聞いている。
先ずは気になるところから読んでみようか……うわ目次だけでこのページ数とは凄まじい……。
予想を遥かに超えてきた。そう言えば、別館に掃除に行った時もこんな感じの本が並んでいたし、多分これ以上に大きいサイズの本もあった記憶がある。どれだけ歴史があるのかは考えるだけでも、目が回りそうになるが、遥かに長い年月を掛けて貯蔵されてきたのだと思うともう一度足を運びたくなる。
香花館の主な仕事は、多世界の記録だと無限から聞いた。ある時は測量を、ある時は戸籍を、多世界中のあらゆる情報を管理する施設の一つだと言う。だからこの資料の量も納得できる。
しかし、それを無限が一人でこなしてたと言うのは驚きだ。その仕事を今度は自分がやらなければならないと知った時は、驚愕して夜も寝られなかった。だが、まあ、家に居たころよりも頼りにされ、必要としてくれている気がして嬉しいのに対して何処か複雑な心情であった。
ーーふと、母の顔が浮かんだ。優しい母の顔だ。
何処か心のどこかの引き出しがそれ事空っぽに抜けているような気がして、妙な気分になりながらも、その要因は多分自分の存在が消えたからだろうと自分自身に理解させた。そうでもしないと、何かに押し潰されたり、追われたりしそうで、底知れない恐怖を一瞬にして感じ取った優多は、それから暫くは故郷の事を忘れていようとおもったのであったーー
それから何時間か過ぎて、部屋に訪れて来たのはステレットだった。
「大丈夫ですか……?」
「ええ、今はもう眠っていますよ。ステレットさんこそ大丈夫ですか?」
「いえ、なんともないのならまだいいのですが……でしたら雪華さんの体調はどうでしたか?」
「はい、雪華なら大事には至らなかったので。今は彼女も寝ていますよ」
「そうでしたか……」
よかった。と、胸を撫でおろして俯く優多。
あの戦闘で一番被害を受けた彼女の様態が取り敢えず、安定していることを知って優多は見えない力が抜けたのか少々尿意を感じ、席を一旦彼女に託そうかとも思ったのだが、ふと彼女の右手に視線が行く。
「……っ、どうしたんですか?その右手」
咄嗟にそれを後ろに隠そうとする彼女の反応に少し不安になる優多であったが、依然と落ち着いた態度でステレットに問う。すると、おどおどと強張った口調で彼女は話し始めた……。
「お、お皿を割ってしまったときに……っひゃ」
「これは……?」
明らかにそれは、欠けた皿で切ったような可愛らしい類の傷ではなかった。まるでそれは十字に抉られ痣となったかのような痛々しいもので、優多は言葉を失った。きょどうが挙動がおかしく、つい隠そうとしていた右手を強引に引いてしまったが、まさかこんなものだとは思ってもみなかった。
焦りや驚愕に彼女の顔と交互に何度も見直す。
なんで……なんでだ?そんな未だに理解できずにいる優多は、過去を振り返る。だけれどもまったくもって理解できないのだ。何故なら、
初めて会った時にこんな傷など無かったのだからーー
傷など無かった。何なのだ?この違和感は……。
優多は、彼女の抉り傷に戸惑うばかりだった。だって、初めて会った時は確かにそんな傷がなかったのだ。見るからに痛々しいそれを優多は、震える両手でその右手に触れる。
「優多様……」
「これは……」
「優多様……一つ。これを口外しないよう、お願いいたします」
触れた彼女の手が、今度は自分の両手を包んで、彼女は困惑に顔の色を染める優多に必死で懇願する。
お願いします……お願いしますと、どうしてそこまでと、優多は彼女の一変した姿に戸惑うだけであった。だから優多は、「解りました」と、口にしてその手を握りなおす……。
彼の……クリオッドの仕業の可能性もあり得るが、やはりこれを口外するような、無限に伝えられるようなような勇気は無かった。それに、多分こちらから告げなくとも彼ぐらいなら、把握しているだろう。彼女の右手に何があったのかは、聞かないでおこう。
「ステレットさん」
「は、はい。何でしょうか?」
優多は、クリオッドの綺麗に整った横顔を横目にステレットに疑問を投げかける。
「怖く……は、無いんですか?」
「怖く、ですか……」
彼の方をジッと見つめてからステレットは口を開く。
「正直、もう怖くはありませんよ。今はもう寝ていますし。きっと、話し合えばきっと分かり合えます。だから……もう怖くはありません!」
「……」
何と返せばいいのか分からなかった。
彼が目覚めて何をするのかは想像できない。ただ、決して結果が良い方向に転ぶ確率は極僅かであろう。記憶を失ってくれれば好都合だが、多分そういう訳にもいかないだろう。
だからだろうなと優多は、彼女の考え方に寂しさしか感じなかった。具体的に何故そう感じたのかは言えない。だが、しみじみと感じてしまうのだ。彼女が今度被害を被ってしまったら、今度こそ大事に至ってしまったら……。
そう考えるだけで、未だクリオッドへは複雑な感情を抱いたままであったーー
「すいません、少し席を外します」
「了解いたしました」
不安を抱きつつも尿意に身を走らせて、部屋を出た。
激しい轟音が廊下を走ったのは、トイレから出てすぐのことであったーー
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激しい轟音に廊下が、それまでの音を拒絶する程に共鳴する。柱や壁、床が割れる中一瞬で理解した。
あの野郎、やりやがったのかと。この状況で、疑う先などに迷うことなんてあるはずがなかった。故に、一瞬にして彼の顔が、クリオッドの暴れる姿が脳裏に浮かんだ。
焦りと不安と怒りが、一つの恐怖として押し寄せる。その衝動にすぐに優多は廊下を抉った……。
倒れる柱や壁、横を通ると割れて降りかかるタイルやガラス。真上に降ってきて串刺しになりかけるのを滑りこんで避ける。
地を抉って低い跳躍、それでも部屋まではまだ遠い。急げ、その一心に優多は地を駆けるーー
「スッーー!!」
案の定、そのボロボロに破壊尽くされた客室の光景に優多は言葉を失った。言葉に形容し難い恐怖に優多は無意識に怯んだのだった……なぜなのかと、優多は問う。しかし、答えは至って簡単だ、本能的に負けを認めたということなのだから。
その光景を見ただけで自分よりも強いのを、本能的に理解した。だから身の安全の為に身を引こうとしただけの事。
そのことを、優多は遅れてやっと理解したのだった。生まれて初めて見る惨状に口が震えるのを実感する、これがどうにもならない時に直面した弱者の心情なのかということも遅れてやっと理解した。
客室に案内しなかった方が良かったじゃねえか……。高そうなソファもベッドももうボロボロに壊れちゃってるしよお……。
そして、優多は肝心な存在にやっと意識が向いた。
そのもう一つの光景を見たまま、感じたままで表せばそれは、もう血と、血と、血であった。全身を血で染め上げ、服は大部分が引き裂かれ血が濃く煮えて、顔の方に視線を移せば口腔は血で真っ赤に染まり、瞳は閉ざされーーその瞬間、その刹那、身の毛が逆立った衝動に優多は、僅か20畳もある間合いを一瞬にして詰め寄った。
ーー何を……しているんですか……。
それは、計り知れない怒りと勢いに任せた、心臓一直の右ストレートだった。
直後、我に返ったのは、我が放ったストレートに驚いたのでも、彼の心臓を打ち抜いたのでもなくーー拳が受け止められていたからで……。
「……冗談を」
「嘘じゃあーー」
拳が不穏に軋む刹那……不意に体が引き込まれる感覚に、ガクンと視線がクリオッドから自分の腹に移るが、まったくもってその光景に理解が追い付かなかった。
ーー痛みが先端から染み渡る
腹に何かが刺さっていた。それは、扇情的に何かが掻き立てられる色と独特の香りを放っていた。
ーー奥から肉と肉が接がれる痛みと、内臓の感じることのない叫びが、痛みと気色悪さになって染み渡る。激痛以上のものになって
なんだこれ、なんなのだこれは……。何がどうなっているのか、未だに理解が追いつかない優多であったがしかし、この感覚は、この感覚だけはやけに鮮明であり、酷くも鮮明であったーー
『ーー』
ふと、残響の中で目に入ったのはソファの残骸にもたれかかる、ステレットの姿であった。
そうか……あの時と同じだ。
それは、ステレットの右手の傷を見た時と奇しくも同じ感情を抱いていた。そこで初めて優多は、その時含め心のそこで何を嘆いているのかを知った。
ーーやがて、発狂寸前にまで痛みが染み渡るが、同時に熱が腹を中心に激痛として走り渡る。現実逃避もここまでのようだった。
「アアアアッ!腹がッ……アグッ……ガグ…………アアアアアア!」
直前に悟ったそれは、理解することへの拒絶であった。
嗚呼、そうだったのかと理解する。ステレットのあの傷を理解したくなんてなかった……。だって、見えない恐怖が押し寄せてくるようで、拒まなければきっと……きっと……。
いたって、それは今と同質なものだった。痛みを自覚したからそれに気付けた、何を感じて何を思っていたか。麻痺していたそれが今、はっきりと痛みとして改めて自覚する。
「……何で笑っているのかは分からないが、治癒をしたって無意味だ。相手の能力を忘れたか?」
「……ち……がい…………ます、よ」
そして、もう一つのそれが、脳裏を走馬灯のように駆け抜ける感覚に優多は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていたが、それは、勝利への確信でもなければ、一つの恐怖でもなかったーー
『嗚呼』
そのことに次いで自覚したときには、嘆くほかなかった。耐え難い恥のような怒りのような哀のような……そんな己を苦しめるだけの過ちの感情が渦巻いて、それは発狂が喉元に留まるような不快感。もどかしさが怒りを通り越して、言い表せない未知の感情に身を預けてしまいたい、そんな不快感。
ーー嗚呼
ーーいつまで経っても
ーー自分は
ーー誤ってばかりじゃないか
幻想の白い光の中で、彼女の姿が目に入った。血だらけになった彼女の姿を……。自分がもっと、こんな優柔不断でなければ、何かが変わったのではないのだろうかと自分に問う。
それは過去の自分に、どうにもならない問いをぶつけるだけの意味のない繰り返しで悪足掻き以外の何物でも無かった。
なんだよ……結局。
結局何も変わってないじゃないかーー
ようやく自分が何を思っていたのかが解った。
能力を持った、あの時から何かが変わると思っていた。冷たい父がもしかしたら認めてくれるかもしれないと思った。家族でいられると思った。強くなれると思った。誰よりも優しくなれると思った。どんな時でも誰かを救えるような人間になれるかと思った。もっと。もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと……。
『母と一緒にいられると思った』
でも自分が馬鹿だった。
能力を持った?父が認めてくれた?何もかも表面的でしかないじゃないか。家族にも、心を許してくれた友達にも存在を消されて、誰の記憶にも残らない存在になってしまった。初めて目にした悍ましい異形を易々と殺していく無限の姿に、最初は恐ろしく思っていたのに試しに一度戦ったらどうだろうか。一度恐れたそれを少なからず求めている。欲している自分が居た。
まるでそれは獣のようで……しかし、それを獣と言うのにも、最も似合うものがあって……。
それが、『化物』であった。
どれだけ皮肉的なのだろうか。
力も、思考も全て『化物』と形容せざるを得ないと、優多にはそうとしか考えられなかった。
あの時浴びた、化物を見るかのような視線。
一度恐れた、拒否したそれが今では受け入れてしまっている。
それに気付いたとき、どれだけ恐怖したことか。だが、一緒に背負ってくれる人が居てくれた。人を救うこともできるこの力を蔑ろにしない。そう決めたのにも関わらず。彼女を救ううことが出来なかった。
「なにも……なにも変わってないじゃないですか」
「……なにをーー!?」
不敵な笑みを浮かべて優多は、腹を貫いたその腕に指を突き刺す。クリオッドは何故刺されたのかが理解出来なかった……。何故見えなかったのか?それは実に簡単なことで……。
優多の左手の五指が更に食い込むのに、クリオッドはそれまで表情が一気に崩れ落ちる。あまりのスピードに、あまりの握力に更に顔色を悪くする。
「なにも……なにもなにもなにもなにもなにも…………」
「は、放せ!……今度はなにーーを?」
腕に喰いついて離れない左手とは違い、優多は右拳をゆっくりと引く。
食い込んだ五指を振りほどこうと腕に力を入れるーーが腕から離れないどころか、どれだけ力を入れるようともその腕は動かずクリオッドはーー恐れた
『何もーー出来なかった』
「ーー」
瞬間。クリオッドの顔面めがけて拳が弾かれたーー半分部屋が吹き飛ぶ程の威力で。
轟音が共鳴し、その部屋だった空間は庭と廊下が一直線に繋がって、一段上の階までの吹き抜けが完成した。当然、クリオッドよりも遥かに部屋として壊滅的な被害を与えてしまった……。
「……どこに、行ったの……でしょうか」
破壊しつくされたその空間。幸いにも、ステレットには被害が回ってはおらず彼女を見るなり、一目散に駆けよろうとしたその瞬間ーー
『ここだよ』
ーー耳元へ囁かれるその『驚愕』に優多は咄嗟に振り返った。
「……御冗談を」
『ほんとさ』
優多の視界に入ったのは、身体中に黒い痣が浮かび上がったーー想像だにしなかったクリオッドの変わり果てた姿であった……。
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咄嗟に来る首への衝撃。
それが痛みに変わる暇などあるはずもなく、次に来る衝撃と重なり合う……。腹の穴は完全に塞がったにも関わらず、未だ「痛みの幻覚」として腸に耐え難い熱が迸る。それは、付き抜かれたことなど一度もなかった故の感覚であった。それはある種の感覚の暴走、精神的な痛感の余剰……。
そして、風穴ほどではないが皮を裂く痛みが腸の残痛よりも勝る。
それは要は何もかもが規格であった……。
見えない攻撃。交わしきれない攻撃。残像でしかない手足ーー
いくらかわそうと、身を捻って。刀で反撃を試みても、そこには誰もいないのだ……。後ろに、斜めに……真上にーー
「!!」
『華能「リバース=ガウト」』
その詠唱、否、技の名を口にした瞬間優多にはそれを、クリオッドが自分の文字通り目と鼻の先の至近距離で放った行動に理解することが出来なかった。
ーー鮮血が目の前に広がった
何故ならば、彼は、クリオッドは自分の目を一文字に裂いたからでーー
「ーー!?」
直後、理解のできない痛みが顔面に走るのに、優多は激しく声に動揺を表すことは無かった。しかし、痛覚はしっかりと働く……。その感覚に優多は数秒間だけ思考に穴が空いたが、咄嗟の思考が緩むことなど無く、その状況を一瞬にして理解することができた。
そうであった。完全にクリオッドの能力を忘れていた。
修復しつつある目それが治ってないまま、優多は溶解した瞳を見開いた。蕩けた視界の中で、たった一人。目の前に拳を構えている彼の姿を捉えることができた……。
ドロドロだ。身体の輪郭を捉えるのもその瞳では精一杯であったが、それでも十分な程。
完全に戻るまで約5秒。まるで、寒天を優しく突いたかのように艶めきながら元の状態に戻るのとほぼ同じくしてその詠唱を、謂わば能力を捻って放つ一種の技の名をーー
ーーそうだな、じゃあここは彼に倣って名前を付けようか……。
『重力……重増』
ーー次の瞬間、優多の目と鼻の先で宙に浮いたクリオッドが、床へ落下した。滞空、ふわりと舞い上がっていた彼の身体は、ほぼ彼が殴り掛かろうとしたその姿勢のまま、殴り掛かろうとしたその瞬間の出来事であった。
空間の歪み……。空間のズレ生じよって摩擦が生じ、練る様な不協和音がその一点に鳴り響く。
クリオッド。彼という対象のみにしか感じないし、発生しない優多の能力……。『重力を操る能力』よって、力はその一点だけにしか作用しないーー
「重力を操る能力……。この部屋の破壊は僕の所為ーーですが、貴方はステレットさんを傷つけました。この世界にどんな法が備わっているのかは解りませんが、僕の大事な人を傷つけたんです……」
「グッ……アガッ、この……この、野郎…………」
「貴方を捌く権利は僕にもあるはずですーー」
足元で過度な重力によって潰されていくクリオッドを、優多はただ見ているだけだった。このまま、このまま潰れてしまえばーー時期に命は潰える。
しかし、それでも生かしとかなければいけない。でも……。
優多は、躊躇した。
彼をどうするべきなのか……。無論、意識を飛ばす他ない。でも……。
優多の脳裏に、一つの不安が迸る。それは、どうしたら意識が飛ぶのかというものであった。彼をそのままにして、彼女を蘇生しに行くのもいいが、反撃されるのが目に見える。さて、どうしたらいいのだろうかーー
「優多ー!なんだこれ!なにが起こってるんだ!って、ステレット!どうしたのこの傷……」
そんな中、一人の少女と青年が部屋へ駆け込んで来た。一人は物凄く焦った素振りのボーイッシュメイド、もう一人はこの状況に全く動じていないどころか、表情が変わる気配は無く優多の方へ歩む未だまともに話したことの無かったカイトであった。
「ねえ!優多聞いてるの!?何で、ステレットがーー」
「お前は、騒いでないで早く治癒魔法で治療をしろ、間に合わなくなる」
「え、ちょっちょっと待って……」
不安と焦りに、カイトへ縋るボーイッシュであったが、これ以上嘆くのも無駄だと感じたのか、治療のための術式魔法を唱え始めた。その光景にポカーンと呆気にとられる優多と、睨み付けるクリオッド。
カイトは彼らを見て一言
「悪いな、応援が遅くなった。まさか無限の拘束が解けるなんて思ってもなかった。まあ、今考えればあいつがやりそうなことだったけど……」
いいや、何でもないと言ってから、カイトは掌を広げると、深い靄のようなものを出す、すると直ぐにそれは形を形成し、長い槍と鍵を下げた鉄の輪を生み出した。
「魔族というか、まあ悪魔のホンモノの魔術、黒魔術を使うから離れておいた方が良い。そこにいたら巻き込まれる」
「え!?あ、はい」
そう言われて、優多は咄嗟に後ろへ跳ねる。カイトはそれを確認すると、槍を後ろへ携え、似たり寄ったりの鍵の一つを、クリオッドの額に向ける。
「これは、あいつみたいなレプリカとは違う。本物の束縛する魔法、お前の意識を一旦幽閉するようなもんだ、これは忠告だ。これを言うのと言わないのとじゃ全く違うからな……」
瞬間、クリオッドの額に鍵穴を模した文様が浮かび上がり、カイトが鍵を捻った瞬間、額の文様が複雑に動き出した……。それを受けた当の本人は顔が青ざめて力が抜けていた。それを証拠に、今まで踏ん張って重力に逆らっていたが手が滑って、重力によって、床に全身が張り付けられる……。
「ああ……あああ、ああ…………優多ーー」
名を叫んだその瞬間、カイトが何かを口ずさむ。その瞬間、亜空から鎖の様なものが張られて、一直線にクリオッドの四肢へ突き刺さる……。何を言ったが解らなかったが、彼が酷く冷静であるからか、少々怖気を感じた。
そして、クリオッドへ釘を刺す。それは、冷徹にただ、残酷だろうと何ともなしに運命を告げるように無慈悲なものでーー
「もう半分術式を組んだ……お前が何しようとその心臓はーー俺が握っている」
「あう……」
次の瞬間、巨大な魔法円が彼を囲う、その光景を直視した彼は、とうとう絶望で頭を垂らす。そこから表情は見えなかったが、涙が滴り落ちているのが見て取れた。
詠唱が唱えられ。最後その狭間だったーー彼と……目が合った。
ーーその狭間、彼は、絶叫する。
『絶対、お前を許さねえ』
彼は、光に包まれ、気を失った。
カイトの言う悪魔の使うホンモノの魔術というものの威力は知らないが、呆気なく散った彼の姿は、とても儚く、とても優しかったーー
「さて、これでもう勝手に暴れることはない。そっちはどうだ?傷の手当は……」
「今ちょうど終わったところ」
ボーイッシュは、疲労に声を染めステレットの横で脱力している……。そんな疲労を隠す余裕など無いらしく、立つ気力すらないように見て取れた。彼女から視線を移すと、その光景に驚きを隠せずにはいられなかった……。
彼女の胸が呼吸に呼応している姿が、瀕死の状態よりも遥かに回復していたということに……。
「……よかった」
「……」
「良かった……ありーー」
「あと、もう少しで本当に死ぬところだった」
奇跡を目の当たりにして、傍らで脱力する彼女に感謝を告げようとしたその瞬間。彼女がその言葉を遮った……。
その声色は、何時もの彼女からは想像できないほどの豹変ぶりで……。それは、冷たく疲労に染まった重苦しい、言葉運びであった。
「え、ちょっーー」
「いくらあいつとの戦いに気を取られていたからって、あと、もう少しで死ぬところだったの!」
「!!」
悲痛に、憎しみに、差に、妬みに、嫉みにーーその顔に染まった彼女は優多を威圧する……。
そうではないか、なに数日顔を合わせてただ一緒に働いていただけで、全てを許していただなんて勘違いしていたのだ自分は。
優多は、戸惑いに、威圧に、罪悪感に、限りない掘り返しの自己嫌悪に、嫌うかこに過去に、どう対応していいのか分からなかった。何をするべきなのか、なんて言ってあげるべきなのか。彼女の言ってることに反論していいかさえもわからずにいた。わかりたくなかった。故に、このままこの空白の立場にいたいと言う余りにもふざけた、甘い考えが脳裏に巡っていた。
だから、黙った。聞き入った。受け入れようとしたーー全て、全て自分が悪いのだと。
「出血はもう致死量を超えていた、骨だってもう動けないほどにボロボロに崩壊してた……。なのに……」
「……」
「なのにどうしてあんたは助けてくれなかったの?ねえ、なんでそんな力持ってて……
助けられたはずじゃないの?」
言葉という、剣があるものならきっと僕は彼女に……いまだ、名前の教えてくれない、「ステレットの親友」に、傷を負うことを許し、滅多刺しにされ何度も何度も繰り返し切り付けられているのだろう。実際その方が楽な気がした。ふざけた考えだった。自分に都合が悪いから死んでもいいと言ってるのと同じではないか……。
憎しみを帯びた表情は一層強くなって、彼女は吐く。
「皮一枚で……いや、それ以上に深刻な状態だったの!」
「……ん」
気が立って、彼女は胸倉を両手で鷲掴み引き込む。
「……私は、治癒魔法に向いていない……。この中でも得意な奴はステレットなんだよ。だから本来なら30分くらいは満足に動けない……。でもね、今なら動けるんだよ……」
「……」
「何か言ってよ」
「…………ごめん、なさい」
その一言に、彼女は呆気に取られた。何を言われたのかが一瞬、理解できなかったのだ。それから、ゆっくりとじわじわと侵食するかのようにその言葉が何なのかを理解した途端に、小さな苛立ちから静かな怒りへと変わるのを拍子に表情が一変しーー力が加わる。
「ーーなんで謝るの……なんで助けなかったの?そんな力があるんだから助けられたはずって聞いてんの!」
「すい……ません」
「違う……なんでーー」
「すいません。ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめーー」
『違う!なんで認めちゃうの!なんで、なんで大切なものを第一に守ろうとしなかったの?』
「ーーえ」
途端、その言葉に優多は頭の中が真っ白になる。
ヒステリックになりかけていた怒声が止んで辺りは恐ろしい程に静寂を帯びた、その破壊され尽くした部屋に、優多は怒りに涙を流す彼女と二人きりなったかのような、妙な錯覚に腰に力が入らずに居た。
「優多にとって、ステレットはただ人じゃないでしょ……。文字の読み書きを教わって、一緒に掃除して……。つい昨日だってステレットを助けたじゃん……。それなのに……それなのになんで」
「ーー」
「……馬鹿みたい」
力が入らずそのまま立つこともできずにいる優多を彼女は嫌悪の表情で突き放した途端、ステレットを抱き上げるとその部屋から歩き去った……。
そんな光景を見ても尚、優多はいまだ信じられない何かを見ているかのような感情に戸惑うばかりで、彼女がこの部屋を去っていく光景を目の当たりにしながらも優多は声さえ出ずにいる。そんな中必死になって叫ぼうとしている自分がいた。
今、行ってしまえば、何故かまた同じことを繰り返してしまうような気がした。今やらなきゃいけない。そんな根拠のない不穏が繰り返し心の中で叫んで止まない……。
必死に…必死に、視界から消え去っていこうとする冷徹の彼女の存在に叫び声を上げようとしている自分が、否心の内で叫んでいるだけの自分が居た。
「……不穏だ。優多立てるか?早く二人を追うーー」
「ーーえ……?」
そしてーー数分遅れた思考が蘇ったのは廊下を共鳴する、一人の絶叫だった。




