「よろしく」と「お願いします」
ーー間一髪セーフだった……
カイトの大きく開かれた手は、無限の顔の前で止まっている。
「本気なわけないだろ、冗談だ。恩人を戦うとき以外は殺さない」
「……よ、よかった」
「だが……」
安堵のため息をつく無限にカイトは、怖い表情に戻って
「ちゃんと、彼には説明しろ。仕事よりも優先するものがあるだろ?」
「そ、そうだねごめんごめん」
と、そう軽く謝って、無限は執務室を走って出る。
一人取り残され、執務室の消失感を感じながらさっきまで無限が座っていた机の後ろにある、大きな窓の縁に座って、風で膨らむレースカーテンを手で押さえながらふと、深呼吸をする。
ゆっくりと、深く息を吸って吐く。
自分は、吸ったあとゆっくりと吐く。そのとき、吐く息に混ざって緊張感や苛立ち、怒りや寂しさ、悲しみや哀れみが全て消えて無くなってしまうような錯覚を味わう。
実際に、消えて無くなることはない。いつかまた帰ってくる。だから、自分も他人も羨ましがるものではないし、憎むものでもない。
これは、ただ一つの個性だからなのか?それとも自分の中の「仕方がない」という思考にあるからなのだろうか?
自分の気持ちとは複雑で、分かりそうでも結局よくわからないものだ。
「ーー」
勢いよく風が吹き、膨らんだレースカーテンは、そのまま勢いよく広がる。
さっきまでよく見えなかった景色が目の前に広がる。
まだ昼のように暖かく明るい空も、だんだんと夕焼けに差しかかろうとしている。
「ーーいい景色だな……」
いつ見ても、ここからの景色は最高だ。
陽と季節に合わせて色を変える山……そして大きな湖に流れ込む滝。
うむ、風流である。
涼しい風に吹かれながら、カイトは窓の縁に腰掛けそこから見える風景を眺めていたーー
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ーーこれはまずい
そう思ったのも、館内のどこを探しても優多がいないからだ。
お化けとか異形が苦手なのもあって、外には出ないかと思っていたが、それは間違っていたのか?
いや、でも外にいる可能性は、十分にある。
もし、館内で誰かと出会って、その人に館内を案内してもらっているとするなら、外にいる可能性もないわけではない。
なら、さっきから使っている千里眼でも見つからない。
「ーー範囲……拡大」
無限はそう小さく呟く。
ーー見えたっ!
そう心の中で叫ぶ。
見えたのは、メイドと仲よさそうに花壇の前で笑って話す優多の姿。
「いや、あれはーーシフィア?なんで優多と一緒なんだ?」
無限は、シフィアがいることに一瞬何が起こっているのかさっぱり分からなかった。
それは、優多と一緒にいるかというよりも……
「偶然居合わせたのか?いや、でもシフィアって今は長期休暇を取って実家に帰っているんじゃなかったっけ?」
そう、今シフィアは里帰りのため長期休暇を取っているのである。
あれ?おかしい……なんでだ?……もしかして?
無限は混乱する頭を抱え、今まで、そしてこれからを納得したかのように、フッと微笑んで、
「まったく……察しがいいのも困っちゃうな」
そう呟いてその場から消えた。否、瞬間移動して、優多の元へと向かった
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暖かい日差しの下で、シフィアと優多は花壇の花を鑑賞していた。
「綺麗ですね」
「はい、私。園芸担当ではないので中庭のお花を見るのは初めてです」
そう嬉しそうに言うシフィアをみて、優多も笑って
「そうでしたか、ちなみにシフィアさんは何のお花が好きなんですか?」
「私ですか?そうですね……薔薇やたんぽぽでしょうか?私の友人に似て、とても愛着のあるお花なんです」
「そうなんですか、でも僕も薔薇やたんぽぽも好きですよ。薔薇はクールなイメージがありますし、色々な花言葉もありますね。たんぽぽも、踏まれては立って、踏まれてはまた立ってと力強い花ですよね」
そう、笑って優多は返す。
ふと、シフィアの悲しそうな顔が浮かんでいた…
でも、一瞬のことで瞬きをするくらい、スッと自然にそんな顔は消え去って今は、さっきまでの笑った顔に戻った。
何か変な事でも言ったのだろうか?
そうだ、考えてみればたんぽぽの時の「踏まれては立って」って失礼だっただろう。
言葉を誤ってしまった……
「あの、すいません。たんぽぽのところ悪く言ってしまって……」
「……え?」
「え?」
よく分からないっていう顔をされた……あれ?違ったの?え、なんかすごく恥ずかしいじゃん。
「ああ、大丈夫ですよ。全然気に障ってませんから……それにどちらかというと優多様の考え方はーー」
そこの言葉は、優多には強く。何故か頭に心に残るように響いた……
『私と同じなんですから』
一瞬、1秒よりも早くでも、1時間ぐらいに長く感じた。
ーー時が……止まったのだ
細かく言えば、時間が遅く流れた。
実際は1秒よりも早いのだろう。だけども体感時間は全然違ったのだ。
1時間。いや、それは言い過ぎだろうか?
とにかく、一瞬だけこの空間の時間は遅く流れた……
「……どうしました?」
ぼーっとする優多に優しく声をかけるその人は、シフィアだった。
何が何だか分からず、優多はシフィアに声をかけようとしたがーーやっぱりやめた。
何かを知ってしまいそうで、
知らなくていいことを知ってしまいそうで、
それでも知らなきゃいけないことを知ってしまいそうで、
知ったら後悔してしまいそうで、
それでも絶対に何かを後悔してしまいそうで、
ーー結局、僕は考えるのをやめた。
「やっほーー!優多」
「ーーうぇ?」
突然目の前を宙に浮かんで現れたのは、無限だった……
突如としてそこに現れた彼は笑って、綺麗に一回転して着地する。
「お待たせ」
そうキメる無限に優多とシフィアは驚いた顔をしていた。
「む、無限さん!?」
「あ、主人さま!?」
二人は同様に驚く。
「何してるんですか?というか、今までどこに行ってたんですか?」
「ああごめんごめん。溜めてた仕事があったから、片付けていたんだ。シフィアーー」
「はい」
「優多のお世話お疲れ様」
「ありがとうございます。また、何かありましたら何なりと」
そう言ってから、シフィアは無限に微笑みかける。
「ーーところで」とシフィアは話を続ける。
「なぜ、優多様は香花界へいらっしゃったのですか?」
「ああ、それは優多に仕事の補佐をしてもらおうかなと思って」
「仕事!?補佐?……って何やるんですか?」
「えーっと…………優多にはうーん、そうだなあ〜」
と、悩み考える。
事前に決めてこなかったのか、と突っ込みたくなった。
「よしっ!決まった」
と、明るい顔で手を叩く。
「執事!優多の仕事は僕の執事になってもらおうかな」
「執事?」
その言葉に優多の脳内は一瞬白くなった。
執事……執事ってあれか?なんかふわふわとした毛の生えた……いや、それは羊だ。えーと……そうだ、死者を入れる……いや、それは棺だ。
そうだ、色々な庶務をする職業だったっけ?
「あの……なんで僕が執事を……?」
「うーん、まだこの館に執事がいなかったのと、色々と僕の仕事も手伝って貰いたいからね」
「そ、そうですか……」
優多はその言葉を聞き、そして思った。
ーー物凄く楽しそう!
自分は、とにかく家事や体力には自信ある。だからそれを活かせる仕事は嫌いではない。
だから今まで任されたことは一度たりともめんどくさいと思ったことはない。
「あれ?嫌だった?」
「あ!いえ!そういうことじゃなくて!」
まずい、知らず知らずのうちに変な感じで表に出てしまった……
大いに喜んではしゃぐことは避けようと我慢してたときの表情が多分嫌な顔に見えたのだろう。
一刻も早く誤解を解かなければ……
すると、横からメイドーーシフィアが入ってきた。
「主人さま、いくらなんでもいきなりすぎるのではないでしょうか?まずは下っ端から入った方が馴染みやすいでしょうし」
このメイドは優しさが時に人を傷つけるのを知らないのだろうか?それよりも、それは優しさというより、軽蔑。いや、単なる悪口ではないだろうか?
「そっか……それじゃあシフィアのいう通り下の方につかせた方がいっか」
「いや、賛成しないでくださいよ!シフィアさんの言ってることは、大体の割合が悪口ですよ!?」
「それに、優多様はきっと家事のやり方が分からないはずです。なので私が教える側に立たせて貰っても良いでしょうか?」
「いや、勝手に決めないでくださいよ〜〜」
「そうだね」
「そうだね!?いや、勝手に決めないでくださいって」
焦って困ったような目で無限とシフィアのやりとりを止めようとする優多を無視して、事が決まりそうになる。
もう……ダメだ、ここははっきり自分の意思を伝えないと……
「む、無限さん!」
「ん?」
「僕はちゃんと家事できます。掃除、洗濯、片付け、料理、整理や修理、裁縫など、家事ならなんでもできます。屋根の修理だって、ペンキの塗り直しだって、その他のことだって可能です」
「……」
無限は驚いた顔で優多の話を黙って聞く。
「体力面でも自信があります。まだこんな超人的な能力を持つ前ですが、シャトルランは120行きました。短距離だって5秒台ですし、握力は70……」
「とにかく」と優多は無限を説得させようとここから言葉を強める。
「僕は物覚えも良い方です。ですから、執事をさせてください!ほんとはやってみたかったんです。そういうのは小さい頃の憧れの一つなんです。だからやらせてください!」
そう、必死に優多は思いつく限りの言葉を無限に投げかける。
「そうか」と、安心したようなそんな心底ホッとするような声が聞こえた。
「やっぱり演技する方を選んで良かった。あーーもう、一向に弱気で強く否定しようとしなかったからどうしようかと思っちゃったよ〜〜」
「……え?」
「優多様、申し訳ございません……どうしても主人さまが試したいとのことだったので」
「あれま、それシフィアから言っちゃうの〜〜」
そう軽い気持ちで笑って言ってから無限は態度を切り替えて、
「まあなんていうか、どれだけ優多が、決断力や即戦力、応用力、説得力、勇気があるのか試してみたくなったんだよまあ、この実験の行き先が枝分かれしようと結局最後、答えは同じだったんだけどね。正直、この世界は辛いことや苦しいことの連鎖で、ときにそれが途切れないように見えたり、感じたりする場合もある。だけど、それを学び得ることで次からはもっと良くしたり、違うものに変えたりできる。ーーんで、それが一番分かりやすいのは仕事なんだ。だから、優多には分かって欲しくて、今回はこんな形だけど分かってね」
無限が語り終えたと同時に涼しい風が吹く。
気づけば空は満遍なく橙に染まり、紅い日が山に隠れようとしていた。
「もうすぐで夜か……」
「今夜は少し寒くなりそうですね。主人さま、食後に暖かい飲み物はいかがなさいますか?」
「うーん、大丈夫かな?代わりにチェルキから取り寄せた赤ワインが飲みたいかな?ワイン倉庫にあるはずだから259年もののやつをお願い。持ってくるときは、栓は抜かなくて良いよ。自分で抜きたいから」
「了解致しました。では私はこれで、夜の食卓の準備がありますので。では、また夜。お食事が用意できましたらお部屋にお伺い致します。優多様も主人さまの後にお伺い致しますので、よろしくお願いします」
「では」と一言置いて、彼女は館の方へ向かった……
彼女が完全に見えなくなった。すると無限は、軽くため息をついた。顔を見れば疲れ切った顔をして、またため息をつく。
少し心配になって優多は声をかけるが、無限は微笑んで「大丈夫」という。
「ちょっと寝不足みたい。ちょっと仕事頑張りすぎたのかも、寝れば完全に回復するから多分大丈夫」
と、無限も彼女のように館へ向かった……
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ーーあれからすぐに暗くなった……
それは、執務室に繋がる大きな自分の部屋にある、天板付きの白く豪華なキングサイズのベッドからちょうど真横にある大きな窓から見える景色をみてのことだった。
さっきまで橙に染まっていた夕焼けの空はもうとっくに暗く、輝かしく光る星が、満遍なく散らされた夜になっている。
やはり、間近で見たがあれはシフィアじゃない。自分の知るシフィアではない。
シフィアから漂う匂いもあまり良いものではないし、もちろんシフィアの匂いでもない、
だからといって無駄に騒ぎを立てるような真似はしたくない。
ここは一人でなんとかしないといけないだろう……
なんだろう……何か、
ーー何かいけない事が起ころうしているような気がする……