00-01『夜の森』??/??
財布は学ランの上着ではなく、ズボンに入れておく主義だったのでタケヤが最初に気がついたのは財布を無くしていることだった。
二番目に気がついたのは、財布を無くしたことに気がついた理由だ。
財布をズボンに入れたまま、ここまで全力疾走すれば当然太ももの辺りに財布が当たるはずなのにそれがない。つまり財布がない。走る途中でどこかに落としたのだろう。
三番目に気がついたことに、タケヤは驚く。今、自分は財布を落としたことをあまり気にしていない。
四番目は二番目の補足みたいなものだった、自分は全力疾走している、そして、ここはどこかも判らぬ夜の森。
しばらく待ったが、五番目は来ない。
なぜ、財布を落としたことも気にせず夜の森を必死に走っているのか、肝心の部分が判らない。
心臓や筋肉が悲鳴を上げているのを、タケヤは冷静に感じ取る。体育のマラソンの授業で体が苦痛を感じるのとはまったく異質の感覚だ。
苦痛は驚くほどにない。ただ心臓に恐ろしく負担がかかる勢いで走っているのが判る。苦痛を感じる余裕さえないのだ。
このまま走り続ければ死ぬ。が、それでも立ち止まるよりは遥かにマシなのだろう。
そうなると、何かから必死に逃げているとしか考えられなかった。
意地でも振り向きたがらない首をなんとか動かし、走りながら、サッと背後を見る。
夜の狭い視界に怪しい物は見当たらない。
それでも足を止める気にはならない。
一瞬進行方向から視界を外したせいで、タケヤの足が木の根に引っ掛かる。
普通の走り方なら、よろめく程度で済んだが、全力疾走でバランスを失い、タケヤの体は地面を転がる。
やばい。
すぐそこで道が途切れ、崖になっている。
立ち上がる余裕はない。このまま崖に向かって転がるしかない。
崖の向こうは断崖絶壁で転落して死んでしまうか? いや崖の下までは見えないが、途切れた道の先には藪や木が見える。
道は途切れた。
崖に突っ込む。
右手は藪に伸ばし少しでも落下の勢いを殺そうとし、左手は、目に藪の小枝が刺さらないように顔を覆う。
バキバキと藪の枝が派手な音を立てて折れる。
落下というよりは、急な坂道を転げ落ちた程度で助かった。
今更思い出したように息が上がる。
疲れた。
タケヤは顔を覆う手をそのままに息が戻るのを待つ。
パキッ。
藪の小枝が折れる音だと思ったタケヤは、慌てて左手を元に戻し周囲を見回す。正体不明の襲撃者が藪を踏み越えてやって来た音ならどうしよう。……いや、襲撃者などいたのか? だいたい、僕は何から逃げていた?
パキッ、ベキッ。ガタ。
周囲は明るく、しかも温かかった。あれは小枝を踏んづけた音なんかじゃない。木が爆ぜる音、焚き火の音だ。
いや、焚き火どころじゃない。少し離れた所で井桁に組まれた材木が盛大に燃えている。キャンプファイヤーだ。人影も見える。それも一人じゃない。遠くてよく判らないが何か話しているようだ。
ほっと息を吐く。
人影を見た安心感と共に、タケヤの耳に激痛が走った。急激な気圧変化で耳がキーンとなる、あれを酷くした痛みだ。耐えられないほどではないが、苦痛なことに変わりはない。
「なんだこれ!」
耳を押さえ思わずタケヤは声を上げると喉にも痛みが走る。
タケヤは助けを求めようと人影に視線を向けた。人影はこちらに背中を向けているので、まだ自分の存在には気がついていない。
人影はどれも赤い革のコートのようなものを着ている。長いコートだ。コートの右肩には文字? いや数字が……途端、眼球にも激痛が起きる。
刺激のある液体の中で突如溺れるような苦痛にタケヤは襲われる。とうとう鼻まで痛くなってきた。
が、その痛みは唐突に去った。
痛みは消えたが耳や喉、そして目には少しの違和感が残る。こうなれば、鼻にも残っているのだろうがこれはよく判らなかった。
鼻に問題があるかが気になったタケヤは周囲の匂いを嗅ぐ。森特有の、木の匂い、土の匂い、キャンプファイヤーからだろう、木の燃える焦げた匂い。
焦げた匂いが少し強い。脂の混ざったようなまとわりつく感じがする。
(まあ、そんなことはどうでもいいや)
あまりどうでもいいことではなかったと、人影に向かい軽やかに走りだしたタケヤはすぐに知ることになる。彼のタガも歯車もまだ完全に元に戻ってはいないのだ。
全てはゆっくりと、スローモーションで。
タケヤは、オーイと声を上げゆっくりと人影に向かい走る。
人影はタケヤの声に気が付き、ゆっくりと振り向く。
人影は火の側以外にも数人いた。全員同じ格好をしている。赤い革のロングコート。
制服なんだろうかとタケヤは考えた。制服の人間が制服を着たままキャンプファイヤー。タケヤは考えた。制服とはいえ学生には見えない。会社員にも見えない。これは少しおかしい。ゆっくりとタケヤの足が地面を蹴る。
振り向いた人影の顔は判らなかった。全員仮面を着けていたからだ。銀色の鏡のような仮面。表情を形作るものはない。のっぺりとした鏡の仮面だ。
振り向いた人影が剣を抜く。
剣を抜く動きだけがヌルリと速い。
コートの連中は全員、剣を所持していた。コートの腰に杖というか板状のものが差し込まれていたのは見えていたが、それがまさか鞘だとは思いもしなかった。
異形の剣、大きさは日本刀に近い。
長い薄めの板にグリップが付いたようにしか見えない。黒色の金属板、あるいは滑らかな板状の石。
形以外に異様なのはその表面に浮かぶ模様だった。油膜、シャボン玉の表面に浮かぶ縞模様。あれに似ているが、色は青単色で、その青い線が板全体を覆っている。
薄いとはいえ、そこそこ厚みがあり、とても刃を連想させるものではないはずだった。
とても剣には見えないものを、タケヤが正確に剣と認識できた理由はたった一つ。武器を構えるコートの連中の動作に、手慣れてはいるが、それでも危険な刃物を扱う慎重さを感じとったからだ。
これはもう、絶望的にキャンプファイヤーじゃない、これでキャンプファイヤーだったら、そっちの方が異常だ。
キャンプファイヤーじゃなければなんだろう? 暖を取る、明かりを取るにしては少々火力が大袈裟過ぎる。煙の量も多い。
さすがのタケヤの薄々気が付き、嫌々ながらも炎の中を覗く。
予想は当たり、材木と一緒に燃やされる焼死体と目が合う。いや目の部分はとっくに焼け落ちているので目が合うというのはおかしい。おかしいといえば、焼け死んだ死体を焼死体というわけで焼かれている死体を焼死体と呼んでいいのだろうかとタケヤは考えた。どうでもいいことを考えて現実逃避をしようしても、コートの連中が剣を構え自分にゆっくりと迫る現実からは逃げられない。
タケヤは考える。彼らは死体処理をしている軍隊的な何かで、別にここの死体は彼らが殺したわけとかじゃなく、剣を構えているのも唐突に現れた僕を警戒しているだけで、あの剣で殺戮の限りを尽くしたとかじゃ……タケヤの背後で音がし、彼は振り向く。
いつから居たのか、そこにはコートの男が立っている。彼はタケヤに剣を向けてはいない。おそらく彼のものと思われる剣は、彼が足を持って引きずっている死体の胸に突き刺さっていた。
鏡の仮面に、タケヤは絶叫する自分の顔を見た。
「う、うわぁぁ!」
男は言った。
「うるせぇ。驚いたのはこっちだよ」
タケヤの意識はそこで途切れた。