第四話 婚約
私が青馬様と婚約させて戴きましたのは、その翌日の事でございました・・・。
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結局その夜飛び出して行かれた青馬様を見付けだす事は、屋敷中の者が一晩中八方手を尽くして捜し回ったにも拘らず、出来ませんでした。
ところが、皆が心配で眠れぬ夜を過ごして、夜明けと共に再び捜索に向かおうと表に出ましたら、いったい何処に潜んでいらしたのか、何食わぬ顔で素振りをなされておられる青馬様が庭にいらして、皆仰天しつつもご無事なお姿に安堵したのでございます。
一睡もなさらずにお帰りをお待ちになられておられた青湖様もお父様も、その夜の事を青馬様に問い質すような事は、一切なさりませんでした。
そして、その日を境に、青馬様は変わられました。正確に申せば、お顔つきが変わられたのです。
口数は相変わらず少なく、以前のような快活さは失われたままでございましたが、屋敷に戻られた朝、青湖様とお父様に帰宅の挨拶をなされた折に、
「菫殿との婚約の件、慎んでお受け致します。」
そう仰せになられて上げられた青馬様のお顔は、何かを悟られたような青湖様と同じお顔をなされていらして、私は、胸が締め付けられる思いが致しました。
私はこの世で一番大切な御方を苦しめる存在でしかないのでしょうか?
そんな自分が情けなくて哀しくて、遣る瀬ない気持ちでいっぱいの筈ですのに、その一方で、青馬様が婚約を承諾してくだされた事に、叫び出したい程の喜びを感じております、もう一人の自分が居る事も又事実でございました。
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この日私と青馬様は、青馬様が十五歳になられて元服なされたら、祝言を挙げるというお約束の下、婚約させて戴いたのでございます。
そしてそれから更にひと月程経ったある吉日、青湖様とお父様は祝言を挙げられ、私達は不可思議な縁により、婚姻させて戴く前に家族となってしまいました。
青馬様は形式上私の義弟となられましたので、それ以来私の事を、『姉上。』とお呼びくだされるようになりました。
それは至極当然、自然な事にございます。
それなのに、以前のように『菫。』と名をお呼び戴けなくなって、まがりなりにも家族となり、より近しくなった筈の距離が、逆に広がってしまうたような寂しさを感じてしまう。
人の欲とは何と底知れぬものでございましょうか。
ほんのひと月程前迄は、青馬様との縁談が一日も早く正式に決まりさえすればそれで良いと思うておりましたのに、青馬様が婚約を受け入れてくだされた事で、あれ程戒めておりましたのにも拘らず、とうとうお心迄望むようになってしまうたのです。それが叶わぬのなら、せめて私に微笑み掛けて、名を呼んで戴きたいと願うておるのです。
私は、行き場の無い抑えられぬ想いを持て余しておりました。
◇◇◇◇
それからの数年間も、私達は周囲との交わりを極力避けて、ひっそりとこの山里で暮らして参りました。
決して豊かではございませんでしたが、静かに日々を過ごすにつれ、ここでの生活にもすっかり慣れ、次第に追っ手の影に怯える日も少なくなりつつありました。
私も、この静かで平穏な毎日が、いつまでも続いてゆくものなのだと思える程に、凪いだ心を取り戻せておりました。
(それですのに!)
(何故?)
(何故?)
私の心の中で繰り返し繰り返し紡がれるその言葉。
ある夜を境に再び私の心は掻き乱され、生涯苦しみ続ける事になったのでございます・・・。