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「紅茶は、もういいよ」
そうキースさんに言われて、ティーポットにお湯を注ごうとストーブの上からヤカンを持ってきたクララクララは固まってしまいました。
そのままキースさんは左肘をテーブルに突き、左拳の上にアゴを乗せられて、頬杖をついて仕舞われます。
何事かを思案されながら、再び開いた黒革の手帳に目を通されています。クララクララは、どうやらキースさんを怒らせてしまったようです。
キースさんとお会いするのも、これで五回目なのですが、クララクララが馴れ馴れしくしてしまったのが、キースさんの気に障ってしまわれたのでしょうか?
「あ……の……」
クララクララは、ゆっくりとヤカンをストーブの上に戻して、画像認識装置の絞りを激しく動かします。クララクララにとっては、キースさんに嫌われてしまうことが何よりも怖い事なのです。何がいけなかったのでしょうか? ご結婚されていらっしゃるか――の質問が、ストレート過ぎたのでしょうか。
「クララクララ君、私の話を聞いてはくれないかな」
決心されたような表情で、クララクララの方向を見るキースさんです。キースさんは軍服の胸ポケットからボールペンを再び取り出されて、右手の親指の付け根の上でクルリと回されました。どうやらクララクララの事を怒ってはいらっしゃらないようでした。
クララクララは、ホッ――安心して、キースさんの向かいの席に座ります。
テーブルの上に乗った一輪挿しには、クローバーの白いお花が飾ってありました。先ほどまでキースさんの軍服の襟を飾っていたお花です。
「話ですか? クララクララは、キースさんのお話を聞けるほど、経験豊富ではありませんが」
クララクララは申し訳無く思い、目線を下げます。テーブルクロスの上にクッキーのカケラが落ちていたので、右手の人差し指の腹にくっつけて、ワンピースのポケットの中に入れてしまいます。
このクッキーは、キースさんの為に焼いたのだけど、味付けに失敗してしまいました。キースさんに食べさせなくて良かったと――それだけを思うクララクララなのです。
あ、でもでも、砂糖の代わりに塩を入れてしまったジンジャークッキーを、食べて仕舞われたハンスさんには申し訳無いと思っているのです。ですから、日曜日には思いっきりおめかしして、一緒に映画に行って楽しみたいと思います。
おめかし? どうしましょう。フリフリのレースの付いたデイジー柄のワンピースを。これも、クララクララの普段着でした。
「いや、こういう話をクララクララ君に聞かせるべきではないとは承知しているんだが、私も軍では孤立しているのでね。こういった愚痴や不満を聞いてくれる上官や部下は居ないんだ。同期は殆どが、あの戦争で戦死してね。友人と呼べる存在も居ないんだ」
キースさんは、白い陶器製の一輪挿しを持ち上げて、口の方に持ってきて話しかけてらっしゃいます。何か意味があるのでしょうか? クララクララはキースさんの不思議な行動を見て、首を軽く傾けます。
「キースさんが、孤独に悩んでいるのですか? 意外です。キースさんほどの人ならば、大勢の人が慕って集まるはずですが……」
クララクララは、すっかり冷めてしまった自分の紅茶を口に運びながら、上目遣いにキースさんのお顔を眺めます。
「私には、人徳など無いよ。世間に喧伝されている様な、英雄性に対する崇拝など皆無なのだよ。クララクララ君にあえて告白をするならば、戦争時の私の行為は、決して胸を張れる勇敢な行いなどではなかった。陸軍士官学校在学中に最前線に投入された私は、臆病な心持ちから、その場から逃げ出すことに必死なだけだったんだ」
横を向き、少しだけ視線を落とされて話されるキースさんです。キースさんの過去のお話です。クララクララは真剣な面持ちでキースさんに向き直します。
「臆病なのですか? キースさんが――ですか?」
クララクララは、思案の外です――そんな顔をして、紅茶の入ったカップをお皿の上にゆっくりと戻します。
「当時、私の率いた部隊は、本隊からはぐれて敵陣深くに取り残されてしまった。一番の年下の私が、年上の部下達を率いてね。ちぐはぐな話だ。あの戦争の末期には、そうしたことがたくさんあった。幸い、私の部下達は、皆が特殊な技能を携えていてね。私達は、運が良かったとも言える。そうして、敵の中心部近くに混乱を起こして、その隙に逃げ出したのに過ぎないのだ」
その時のキースさんの表情は、痛恨の極み――奥歯を強く噛みしめてらっしゃいます。
「あの戦争とは、二十年前の戦争の事ですね。クララクララは学校には行っていないので、その辺の歴史には詳しくないのですよ。新聞にも時々キースさんの記事が載っていますが、その時のキースさんの英雄的行動の詳細は掲載されてはいないのです。あ、そうでした。キースさんの記事の切り抜きがありますよ。元はおじいさんが新聞記事を集めてらっしゃったのですが、クララクララがその後を引き継ぎました。キースさんの事が書かれていれば、どんなに小さくて些細な事でも、切り抜いてスクラップブックに貼っているのですよ。そうでした――そこの棚のバインダーに」
クララクララは、パン――胸の前で手を叩いて椅子から立ち上がり、背後にある書棚の2番目の段から、キースさん関連のバインダーを取り出します。第1部と2部はおじいさんが集められたのですが、3部からはクララクララの担当となりました。おじいさんの使われたスクラップブックは、茶色の表紙の味気ない品物でしたが、クララクララは、ボルフマン商会のハンスさんに注文して取り寄せて貰ったウサギさんのマークが入ったピンク色のバインダーになっています。表紙の中央で、白抜きのウサギさんがピョンと跳ねていて、可愛いのです。
「私の記事を? スクラップにして集めている?」
キースさんは、少々驚いてらっしゃったのか、宝石のように青い瞳がユラユラと揺れているのです。動揺されている様子です。
「ハイ、先週のキースさんは、孤児院を訪問されて、クマさんのぬいぐるみや、飛行機のプラモデルをお子さん方にプレゼントされていましたね。その前は、老人ホームに表敬訪問されて、おばあさま方から大人気でした」
クララクララは取り出したスクラップブックの最新のページを開いて、記事を指でなぞりながら会話します。切り抜いた新聞紙に使った糊が完全に乾いていなくて、所々が皺になっていました。その皺を、指の腹で伸ばします。
「可愛い絵と文字だね。それは、クララクララ君が書いたのかね? そうして、その似顔絵は、私なのかな」
スクラップブックをのぞき込むキースさんが、細くて長い人差し指で示したのは、クララクララが思いまま描いたキースさんのお顔なのでした。新聞記事の写真では、子供達に囲まれて困った顔をされているキースさんの姿がありました。そのとなりの記事では、おばあさま方に揉みくちゃにされて、同じ表情のキースさんが居たからです。クララクララは、その様子がとっても可愛いと感じました。
そんなクララクララが描いたキースさんの似顔絵は、ちっとも似て無くて――クララクララは、あっという間に顔面の表面温度が上がってしまいました。赤色に変わります。のぼせそうな気分です。
「は、恥ずかしいです。でも、キースさんは、至る所で大人気です」
クララクララはハンスさんに向けたように、努めて口角を上げて、目尻を下げてキースさんに微笑み掛けます。
昨日の夜も、鏡の前で練習したのですよ。ニッコリ、ニッコリ、ニッコリ――という具合に。
「私は、軍の広報活動に利用されているだけだ。孤児院の子供達には、将来の兵士候補生として。そうして、老人ホームの人々は、多くが二度の戦争で身内を亡くされた方々だからな。軍も、贖罪の意味で行っているのだよ」
キースさんは、スクラップブックを閉じられようとするので、クララクララは意地になって反抗します。だって、この記事たちからは、キースさんへの愛が感じられるのですから。
「コチラのキースさんは格好良かったですよ。でも、どうして陸軍のキースさんがフライトジャケットを着られて、空軍の戦闘機に搭乗されるのですか?」
クララクララは率直な疑問を口にします。
「どうやら、私の信奉者は空軍に多く居てね。空軍が導入を決めた新型ステルス戦闘爆撃機のお披露目に、私を招待したというわけだ」
今度のキースさんは、見開きの新聞記事が貼られた2ページ分の場所でクララクララが手で必死に隠している部分を、クララクララの手の下からバインダーを引っ張り出して、見て仕舞われます。
キースさんの反撃です。
「恥ずかしいです。消え入りたい思いです」
バインダーのクラフト紙のページには、クララクララの描いたヘタクソな飛行機の絵があるのです。クララクララの描いた飛行機は、航空力学を考えると、とてもお空を飛びそうにはありません。この時は、ボルフマン商会から購入した四色のボールペンのそれぞれの色を使って、キースさんへの思いの丈を書き殴ったのです。
「クララクララ君から、私に向けられる感情は、気恥ずかしくもあり、痛いのだ。多分、君は私に失望して去って行くことになるだろ。過去の大勢の人物達と同様に……」
キースさんの寂しそうなお顔と言葉。クララクララは、場違いにも見とれてしまっていたのです。子供達やおばあさん方に囲まれて、にこやかな作り笑顔を浮かべられる人ならば、きっとクララクララは好きになることはないのですから。
「キースさんは、他の人から向けられる感情を過敏に感じ取られる方なのだと、クララクララは思うのです。多くの人は好意を向けているのに、それを悪い方に取って仕舞われるのですね。アレルギー症状と一緒なのですよ。新聞で読みました。クララクララの家に配達される新聞の家庭の医学入門の欄です。本来なら人間の体に無害であるはずの物質に――いいえ、体には必要不可欠な食べ物でも――体の免疫細胞とやらが、攻撃命令を出してしまうんです。クララクララも、この時期にくしゃみが多発することがあるのですが、それは、この森近くの牧場に多く育つカモガヤの花粉に反応したのではなく、あくまでもロボットのクララクララを人間に似せたおじいさんの――余計なお世話で追加された機能なのだと思うのですが」
クララクララは、初夏になると、目がかゆくなって、涙と鼻水が止まらなくなってしまう時期があるのですが、それはきっとおじいさんが気を回して仕舞ったことの結果だと思うのです。
それによって、クララクララは大変な迷惑を被ってしまっているのですけれど。
「そうか、それは私も同じだよ。私の場合は、薬を飲んで症状を緩和しているがね。そんな人間の好意、敵意の反応感情をアレルギー症状に例えるとは、愉快な見解だよクララクララ君。そうだな、そうかも知れないな。そのような見方があるとはね」
キースさんは、気を楽にされたのか、肩の力が抜けて両腕がダランと垂れ下がります。そうして、クララクララの方に向けて歯を見せて笑われました。キラリンと綺麗な白く光る歯が、クララクララには眩しく写ります。
「あ…………」
その時でした。
突然の出来事です。
それは、前触れもなく訪れます。クララクララに、急にピンチが訪れて仕舞ったのです。これはいけません! 早く対処しないと。
「どうしたんだクララクララ君?」
キースさんはクララクララの顔と柱の振り子時計とを見比べてらっしゃいます。クララクララに不意に訪れた危機。クララクララは額にビッシリと汗を掻いてしまいました。
今すぐにこの場所から脱出しなければなりません。クララクララは、テーブルの下に隠されている両足をモジモジとよじります。
「いえ、あの、その、キ、キースさんは、そ、そろそろお迎えの時間が…………」
クララクララも壁の上方に掲げてある時計の文字盤を見つめたまま、しどろもどろになりながら、キースさんに向けて語るのです。
「迎えの時間は、午後四時丁度だ。まだ十五分の余裕がある。運転を任せているヨハン・フェルゼンシュタイン少尉も、私と同じく時間に正確な男だ。一分一秒も遅れることもなく、かといって、私とクララクララ君が熱心に話し込んでいる時間にドアを乱暴にノックするような無粋な男でもない。それに、そこの掛け時計も、時間は正確に刻まれているようだが」
キースさんは、再び腕時計を覗かれて、振り子時計との誤差を確認されているのですが、クララクララにとっての問題点はそこにあるのではなく。
ああ、ピンチのレベルが時間と共に刻々と上昇していきます。そうして、恥ずかしさの気持ちも沸き上がってきて、クララクララは顔を真っ赤にしてしまいます。
「キースさんは…………いじわるです」
そう言ったクララクララは、椅子が大きな音を立てるのも構わず立ち上がります。椅子の脚と木の板の床が擦れて大きな音を出しました。クララクララの苦手な不快な音ですけど、構ってはいられません。
「どうした? クララクララ君、何を慌てている?」
キースさんは、移動しようとしたクララクララの左手首を大きな右手で掴まれます。強い力でした。そうしてクララクララは、進退が窮まってしまったのでした。
「……イレです。おトイレに行きたいのです。先ほどは、しゃっくりを止めるために水をたくさん飲みましたし、今もお紅茶をいっぱい飲みましたし」
クララクララの電子頭脳が恥ずかしいと思う反応よりも、危機的状況に対するロボット特有の防衛反応の方が勝ってしまっていたようです。
「ああ…………またやってしまった」
キースさんはそう言われて、腕を離されます。クララクララは小走りになって小屋のドアに向かいます。ドアのノブに手を掛けたときに、キースさんのお姿をチラリと横目で拝見しましたが、ガックリとうな垂れて椅子にドスンと腰掛けていらっしゃいました。
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