(2)
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結局クララクララのしゃっくりを止めるのに、ハンスさんが再びコップに水を汲んで来て下さって、それをクララクララが鼻を摘んで飲み干して――。
その後も色々とあったのです。ハンスさんがクララクララの背中に回って脅かしたり、ハンスさんがクララクララに早口言葉を喋らせようとしたり……。結局は、クララクララの知らないウチにしゃっくりは止まってしまっていて、クララクララの外気取り入れ装置の誤作動は収まっていたのです。
そうこうしているうちに――。
「クララクララちゃんは、さっきからしきりに時計を気にしているけど、誰かお客さんでも来るのかな?」
ハンスさんがクララクララに聞いてきました。実はそうなんです。今日のお客さんは午後二時に訪れる予定なのです。
そのお方は、一分一秒も遅刻される事などありません。そうかといって、お招きする側のクララクララが準備に夢中になっている早い時間に、訪問されることも決して無いのです。
恐らくは扉の前で、腕時計の長針さんと短針さんと秒針さんが午後二時丁度を告げたと同時に、クララクララの住む小屋の扉をノックされる事でしょう。
クララクララは、小屋の中で一番太い柱に掲げられた古い時計をもう一度見上げます。時計の針は、午後一時十八分を示しています。ロボットであるクララクララなのですが、時計の機能は内蔵されていないので、柱の振り子時計に頼るしかないのです。
「あー、ハイ。そうなんです」
クララクララは、ハンスさんに対して少し申し訳無く思い、下を向きます。
クララクララの返事を聞いて、少し悲しそうな表情に変化するハンスさん。栗色の太い眉毛の両方が下がります。そうして、栗色の髪を刈り上げた後頭部を大きな右手で掻きむしってらっしゃいます。
「あ、クララクララちゃんさ、唐突だけどさ、日曜日は暇なのかな?」
「日曜日ですか?」
「そう、日曜日」
急に話が変わりました。ハンスさんの言葉を受けたクララクララは顔を上げ、花を飾った窓の左横、壁に貼ったカレンダーを見ます。このカレンダーは、たくさんのウサギさんのイラストが描かれていて、ボルフマン商会から頂いた品なのです。勿論、クララクララのお気に入りで。
「日曜日には、特に予定のないクララクララです。いつもの日曜日の午前中は、家事を済ませた後に、遅い朝食と一緒に、届けられた新聞の分厚い日曜版を熟読するのが習慣なのですが、ハンスさんに暇かと問われれば暇ですし、そうじゃないかと言われれば、そうでもないのです。これでも、クララクララにもやることはあるにはあるのですが」
「いや、クララクララちゃんが忙しいんならいいんだよ。映画のペアチケットを姉貴が貰ってさ、クララクララちゃんを誘って見に行こうかと思ったんだ。いいんだよクララクララちゃんはムリしなくても、俺がクララクララちゃんの予定も考えずに勝手に誘っただけだから」
「映画ですか?」
クララクララは、ハンスさんの方を向いて尋ねます。
「そうなんだ。ウチの店のお得意さんが姉貴を誘おうとしたんだけど、姉貴は姉貴で、あんなだからさ。チケットだけタダでせしめて俺に売りつけてきたんだ。場所は、街の外れに新しくできたシネコンだよ。映画館は、まだ真新しくてピカピカだと云う話でね。恋愛映画なんだけどさ、クララクララちゃんは、こういうジャンルはどうなのかと思って……」
しねこん? クララクララには聞いたこともないような言葉です。
「恥ずかしながら、クララクララは映画館という所に一度たりとも行ったことは無いのです。足を踏み入れたことも無いのが実情です。いいえ、街の方にもお邪魔したことが一切ありません。ですから、映画を一回も観たことは無いんです。ですけど、新聞の広告欄やチラシを見て――映画とは何なのかと――大体の事は理解しているつもりです」
「じゃ、じゃあ、一緒に行ってくれるね!」
「あ、ハイ。クララクララには特に断る理由は無いですから」
「それじゃ、日曜日の朝、九時半に車で迎えに来るよ! 車と言っても今日乗ってきた店の営業車じゃないよ。友達から借りる外国製のビュンと早いヤツ。赤くて派手で格好いいスポーツカーだから、クララクララちゃんはきっと気に入ってくれるはず」
「ハァ……」
クララクララは曖昧な返事をします。車自体、あまり乗ったことが無いのです。クララクララはそういった機械的な匂いが大の苦手なのでして。クララクララの平衡感覚検出装置は、やや敏感に設定してあって、自動車に乗った後は、決まって頭がクラクラして、目が回った状態になるのです。
おじいさんが以前借りてきた車で、クララクララを街の方へと連れ出そうとしたときがありました。でも、車に乗せられて池の周囲をぐるりと一周走っただけで、クララクララは「出してー! 降ろしてー!!」と泣きわめいたのです。そんなクララクララの恥ずかしい過去。
「よかったよ。クララクララちゃんの返事がOKであって。そうだ、コレを渡しておこう」
ハンスさんが黒ジーンズのお尻ポケットから出してきたのは、てっきり映画のチケット――と、クララクララは思っていたのです。
「何でしょう?」
クララクララは身を乗り出し、前方メインカメラのカバーをパチパチとさせます。
「コレは、ボルフマン商会の割引優待カードだよ。利用金額に応じて、こうしてスタンプを押していくんだ」
ハンスさんはテーブルにカードを広げて見せて、クララクララに説明をしてくれます。
それは真新しい印刷したてのカードでした。カードの中心には、ボルフマン商会の旗印・チェッカーフラッグがはためいているのです。
「ハァ……」
クララクララにはチンプンカンプンなお話です。何を割り引いて、何を優待するというのでしょうか。
取り敢えずは、手にとってカードを見ると、つるつるした表面にはクララクララの名前が入っていました。こうした名前入りの品を持つのはクララクララは始めてでしたから、何だか気恥ずかしい思いです。
そうして開いたカードには、幾つか並んだ四角いマスがありました。その中にはクララクララの好きなウサギさんのシルエットをかたどった赤いスタンプマークが押されていました。
「どう、気に入ってくれた? クララクララちゃんはお得意様だから、サービスをしておくよ」
「ありがとうございます」
クララクララは笑顔でハンスさんに感謝の言葉を述べて、カードをエプロンの右ポケットに入れます。本当はお財布とかを持っていたならば、その中に仕舞うのでしょうが、クララクララはお金を持っていなくて、当然、お財布も持っていなくて。
「じゃあ、そろそろ行くね! 本当は配達の途中だったけど、クララクララちゃんに紅茶とクッキーをごちそうになってしまって。それじゃ日曜日の朝、九時半に迎えに来るからさ、待っていて欲しいんだ」
ハンスさんは立ち上がられると、クララクララに手を振りながら、小屋の扉を開けてスタスタと外に出て仕舞われました。
「ハンスどうだった?」
車から降りられた、ハンスさんのお姉さんのアンナさんの大きな声がここまで聞こえてきます。ハンスさんが何やら二言三言返されますと、バシンバシンと弟さんのハンスさんの広い背中を叩かれるアンナさんなのです。
「あっはっは! そりゃあーよかった! ハンスにやっと春が来たか! ねーちゃん嬉しいよ!」
「姉貴! 声がデカイ!」
そうハンスさんが言った後、二人は車に乗り込まれます。ハンスさんに春が訪れたそうですが、季節はもう――とっくに夏で。
「クララクララちゃん! 日曜日には弟をよろしくね!」
助手席の窓から上半身を出されたアンナさんは、クララクララに向けて大きく手を振ってらっしゃいます。クララクララは池のほとりまで進み出て、発進した車の赤いテールランプを見つめます。トロンと垂れ下がったハンスさんの両目ような形をしたテールランプです。
小屋の側には小さな池があって、その上には短い橋が架かっています。ボルフマン商会の白いワゴン車は、その橋をゆっくりと渡って暗い森の中を通る真っ直ぐな道を進んで行きます。
それが見えなくなるまで、クララクララは池のほとりに立って見送ります。これは、いつもの習慣なのです。
森の向こうから渡ってくる風が、クララクララの髪の毛と小さな可愛い花をあしらったワンピースのスカートを揺らします。もう、すっかりと気温も温かくなった昼下がりです。天気も最高です。
クララクララは、池のほとりの物干し台に干した白いシーツの乾き具合を確認した後に、小屋の扉を開けます。
そうして――。
「これからいらっしゃるキースさんのために、準備をしなければなりません!」
クララクララは、自分に気合いを入れる意味で、ホッペタをパシンパシンと両手で叩きます。もう、時間の余裕が無いのです。
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