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妄想

作者: 竹仲法順

     *

 秋の日は涼しい分、何かと気を病みやすい。常に午前七時過ぎに起き出し、会社に行くあたしも最近メンタル面での体調が優れなかった。何かに囚われているような気がして、参ってしまっている。もちろん会社で仕事中はほとんど休めないのだし、昼時にランチ店に行って、日替わりの定食を食べられるのが一番幸福な時間だ。気になることはいくらでもある。確かにずっと続く仕事で倦怠するのは分かっていた。パソコンに向かい、キーを叩くのはしんどい。いくら業務だとは言っても。

     *

土橋(つちはし)

「何?」

「最近悩み事ある?」

「ええ、あるけど。……それがどうかした?」

「今の君見てると、毎日結構辛そうだなって思って」

「まあ、確かにそうだけど……」

 あたしも同僚の男性社員である菊川に言われてふっと思った。心身両面で疲れているから、体調が悪い。おまけに風邪を引き掛けていたので頭が熱っぽかったり、喉の調子が悪かったりもする。だけどそれは人間なら誰でもあることだと受け流していた。特に病院に駆け込もうとは思ってない。すると菊川がメモ用紙に街の精神科の住所と電話番号を書いてあたしに手渡す。そして言った。「今度の土曜日にでも行ってきなよ。会社休みなんだし」と。さすがに倦怠したままだと仕事にはならない。騙されたと思って行ってみるつもりでいた。

     *

 精神科というのは実に独特な空間だ。待合室には患者の気持ちを落ち着けるためのBGMが掛かっている。一際静かな場所で、待っている人間は皆、何もせずにボーっと宙を見ているだけだ。待ち時間もずっとスマホをネットに繋ぎ、情報を見続けている。あたしも悩める人間だが、さすがに精神科という場所には慣れてない。実社会で毎日生活しているから、自分がメンタルヘルスが悪いということ自体分からないのだ。

「土橋様、診察室へどうぞ」

 呼ばれ「はい」と答えて立ち上がる。そして診察室へと入っていく。室内には男性のドクターが一人いた。胸のバッジには院長とあり、北沼(きたぬま)(まもる)と書いてある。

「ああ、土橋さん。初めまして。院長の北沼です」

「お世話になります」

「どうぞお座りください。今から診察いたしますので」

 北沼がそう言って手元のノートパソコンのキーを叩き始めた。あたしも質問されたことを順次答えていく。淡々としていた。別に変わったことはない。北沼が電子カルテを使っているというだけで、やっていることは普通の病院と同じだ。ただ、違うのは質問事項がメンタルヘルスに関することであるというだけである。

「リラックスなさってくださいね。ここは病院ですから。普段溜まっていることや愚痴などを仰っても構いませんよ。そういったことに対処する場所ですから」

 北沼があたしの気分を落ち着ける。そして一通り質問が終わると、

「軽い鬱と精神的な疲労ですね。お薬を二週間分、お出しいたしましょう。幾分お仕事が重なっておられるようですから」

 と言い、処方箋を打ち始めた。これは看護師か薬剤師しか分からない。あたしも薬に関する知識はゼロだった。出された分を飲むだけだ。北沼が全て打ち終わり、カツンとエンターキーを押すと、受付のパソコンに送信された。そして一言言う。

「またお悪ければ、いつでもおいでください。私がお話をお聞きしますので」

「ありがとうございます。では」

「お大事に」

 椅子から立ち上がって歩き出す。足取りが重かったのだが、また落ち着けばそれに越したことはない。しばらく働きすぎた。その反動が今、来ているのだろう。だけど思っていた。耐えられないことなどないと。そう思えば気分がいくらか楽になる。それにあたしも楽観しているところがあった。気分が塞ぎ込んでいても、いつかは抜け出せると。会社で休む時間は昼食と合間の休憩時間だけだから、そのときは努めて休めるつもりでいた。

     *

「土橋様」

 受付の女性から呼ばれ、診察代を支払って処方箋を受け取る。四千円ちょっと取られた。やはり投薬してもらっているので料金が高いのだ。隣のビルの一階に処方箋薬局があるらしい。一礼して病院を出、歩き出す。北沼は軽めの精神安定剤と睡眠導入剤を処方したようだった。風邪気味であることも言ったので、風邪薬も併せて出したようである。

 外に出ると、幾分冷たい風に吹かれた。もうすぐ短い秋が終わり、この街にも冬が訪れる。これから年末ぐらいまでが書き入れ時になるのだ。ずっと仕事が続くので、なるだけ夜は体を休めようと思っていた。データの詰まったフラッシュメモリは持ち帰っていたのだが、別に家で仕事をすることはない。日常は淡々としているのだった。出社すれば、即業務開始である。それに変わりはない。

 処方箋薬局で薬を受け取り、乗ってきて駐輪場に停めていた自転車に跨り、自宅マンションへと帰る。薬の説明書きを見ると、横文字のものばかりで、主作用と同じく副作用も書いてあった。あたしもそういったことには全く疎いので知らない事だらけだ。だけど今の医療は比較的安全である。普通に分かりやすく書いてあった。患者に対してきちんとした説明をするために。

     *

 社で業務の合間の休憩時間にフロア隅に置いてあるコーヒーメーカーからコーヒーを注いで飲むことはある。だけど長々と休みは取れない。飲み終われば、すぐに仕事だ。あたしも実質ほとんど休む間もなく、自分のデスクでパソコンの画面を覗き込みながら、キーを叩き続けている。それが業務だからだ。そして残業まで含め、仕事が全部終了するのは、午後八時半過ぎとか九時前などだった。

 日々自転車で通勤している。雨の日も風の日も自転車を使い、通っているのだった。別に気にはならない。ここは街でも規模が小さく、オフィスも自宅マンション近くにある。家に帰り着けば、帰りに二十四時間営業のスーパーに寄って買っていた割引のお弁当を食べながら、アルコールフリーのビールをきっちり一缶飲む。そして入浴していた。その繰り返しだ。

 診察の際、北沼が言っていたことを改めて思い出す。「土橋さんの場合、少し妄想が入っておられますね」ということだ。自分が妄想しているなど一度も感じたことがない。だけどドクターは診察時、そう言っている。確かに精神病に掛かっていることは分かるのだ。メンタル面で辛いということが、である。そのために薬まで出してもらったのだから、飲むしかない。

 仕事のペースを落とすことは出来ない。だから、せめて昼食時ぐらい羽を伸ばすことが関の山だった。あたしも意識している。安定剤などを飲めば眠気が差すということを、だ。ずっとパソコンに向かいキーを叩く単純作業が続けば、誰でもきつい。病院を紹介してくれた菊川には感謝しているのだが、上司にはこういったことは絶対言えない。言えば何を通達されるか分からないからだ。

     *

 また通常通り会社に出勤する。薬類はちゃんと専用のポーチに入れて携帯していた。飲むべき分はきちんと飲む。医師が言っているのだから、そうするしかない。あたしも従っていた。ドクターの言い分に。ゆっくりとは出来ないのだが、ちょっと参ってるなと思ったときはなるだけ体を休める。別に長時間というわけじゃなかったのだし、ちょっと休めば回復していた。

「土橋」

「何?」

 横のデスクにいる菊川が声を掛けてくる。あたしも応じて問い返した。

「あれから紹介した精神科に行った?」

「ええ。……もう大丈夫よ。でも一つ気になったのが、ドクターがあたしのことを妄想してるって言ってたこと」

「妄想?誰でもあるよ、そんなこと」

「そうよね。あたしの考えすぎよね?」

「ああ。そんなこと気に病むんだったら、別のこと考えな。俺も別に君が妄想してるって思ったことは一度もない。ただ、顔色が冴えなかったし、行動パターンが崩れてるみたいだったから紹介しただけ」

「あなたももしかして飲んでるの?薬とか」

「そうだよ。俺も実はあの病院に世話になってるんだ。北沼ドクターとはずっと長い付き合いだよ」

「そう?だから紹介したの?」

「ああ。……でも大丈夫だって。いずれこの手の症状は治まるから」

 菊川が笑っていた。この人はずっと自分が精神病患者であることを隠してたんだなと思いながら、あたしも接する。普通の中年男性に見えても、実際は全然違うということを、だ。お互い普段は隣席にいても、合間に話をすることがある程度で、決して相手にのめり込むわけじゃない。それにずっと仕事が続いていた。変わらないのである。お互い勤務態度はよかったのだし……。

 それにいつしか、あたしも北沼の言った妄想という言葉を忘れてしまった。あれから二週間分、きちんと薬を飲み、鬱状態はひとまず治まる。そして秋が深まるのと同時に、体調もよくなっていった。自然に治癒する分もある。病気も全部薬を使うわけじゃなくて、自然治癒力に任せて治ることがあるのだ。そう思いながら、また仕事に打ち込んだ。ペース配分を考えながら……。

                             (了)


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