バレンタイン抗議
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私はいわゆるリア充ではないが、その私だからこそ言えることがある。
日本人は盆と正月のみやっていればよい。
そして家族と先祖の縁を第一に考えるべきなのである。
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日本文化というのは、多様な事柄からなる重層文化だという話を聞いたことがある。
海を越えた先から日本にもたらされたものは稲作や製鉄技術に始まり、仏教・キリスト教等の宗教、果ては現在重大な問題となっている戦闘機飛び交う米軍基地が挙げられる。
それらを今までの日本から引っこ抜いてしまえば、ガタガタの骨抜きになってしまうことは事実であろう。
今回私が問題にしようとしている「バレンタインデー」も海外から輸入された文化であり、おそらく現代日本の多層文化の一角を担っているに違いない。
もともとバレンタインデーとは、戦争へと旅立つ兵士に許されぬ結婚を密かに行わせていた過去の聖職者の死を悔やむ記念日であったらしい。本来厳かな日なのである。
それをどこの誰が履き違えたかは知らないが、記念日は長い時間を経て、現代のようななりふり構わずチョコを配り、貪るような愚かな記念日へと姿を変えてしまったのだ。特に日本においての甚だしい履き違えっぷりは逆に尊敬のレベルまで値してしまう。
百歩譲って人類の好ましい営みである恋愛を第一に讃える日であることは認めても良いだろう。聖職者もそれくらいの理解は備えているだろう。
しかし、本来は厳かにそれを行うべきではないのだろうか。おおっぴらに騒ぎまわり、キャーキャーと声をあげて祝うのは、過去の兵士の苦労を踏みにじる行為ではなかろうか。そんな様子では犠牲になった聖職者もおちおち墓の中で寝ていられるはずがない。
今一度日本人はバレンタインデーの意義を確認し直すべきなのである。
勿論私は「チョコが嫌いだ」とか「恋人がいないのが悔しい」などのくだらない理由でこんな文章を書いているのではない。勇敢なる過去の聖職者の偉業を讃える日であることを忘れ、間違った社会の風潮に踊らされている愛すべき日本人を一人でも多く救うために筆をとっているのである。
決してリア充への恨みから行動を起こしているわけではないので、そこのところを意識して読み進めて頂きたいと思う。
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2月14日、少し立ち止まって街の風景を眺めてみて欲しい。
人々がどこかソワソワとしていて、それでいてどこか自信に満ち溢れた顔で、見慣れた普段の姿よりもやや輝いて見える街並みをゆっくりと、または急いで歩いているだろう。地域によっては雪なんかも降ってさらに良いムードが漂っているかもしれない。少なくとも長野はそうである。……少しばかり勢いは激しいのではあるが。
恐らくごく普通の一般人なら「ああ、今日はバレンタインデーか」などと軽い独り言で目の前に広がる光景に納得し、さらっと流してしまうのだろう。
しかし、私の抗議文に適当ながらも目を通している読者諸君には、もう一度、今度は十分に注意して自分の周辺を観察していただきたいのである(ただし観察の際にはあからさまにジロジロと人を見ないように。変態扱いされても私は一切責任をとるつもりはない)。
……お気づきになられたであろうか。そう、そうなのである。人はイベントや年間行事が訪れる際に舞い上がってしまいがちであるのだが、ことに2月14日バレンタインデーには恋愛感情という追い風が吹きに吹きまくるため、さらに人々が3mほど高く舞い上がり、そして知らぬ間に危険な世界を創り出す最悪にして最高の建築家となってしまうのである。
例えばあれだ。一見普通の自転車に乗った女子高生ではあるが、冷静に観察すると大変危険な存在であることがわかる。
利き手であろう右手には昨晩綺麗に飾ったチョコが入った紙袋を下げて、チョコの形を崩さないようバランスをとるために、全集中を注がれているが、一方の左手はただでさえ困難で危険極まりない、いわゆる「片手運転」を強いられており、滑りやすい雪道の中で完璧に運転をこなすことを求められている。とんだチャレンジャーだ。
ちなみに傘を片手に持ち自転車を片手で進ませる行為は国と国民の安全を守る警察によって取り締まられている。なぜか? 危険だからである。決してピエロ育成を禁止しているわけではない。
その女子高生を見た私は思ったのである。ああ、愚かなことよ。目先の幸せにとらわれて転倒の危険は意識できないのか。自分の体とその溶かしてもう一度固めた板チョコ、一体あなたはどちらが大切なのかと。
もし私が彼女に直接声をかけたのならばこう言うであろう。
「危険な行為は即刻やめたまえ。おとなしくその紙袋と偉大なる左手を置いていくが良い! 」
何も危険なのは行為だけではない。浮かれた心そのものにも十分に注意しなければ後々ひどい目に遭うだろう。
例えば彼のような人物だ。どこかでカカオの塊でも受け取ったのであろうが、受け取った本人の顔は湯煎にでもかけられたようにデレデレである。見ていられたものではない。
早急に彼のような人物は回収されて、普段の冷たい現実で固めてやるべきであろう。さもなくば周辺の気温は上昇し、やがて冬の寒さをも吹き飛ばす。放っておけば地球温暖化がさらに悪化するのも時間の問題であろう。
以上のような状態は紛れもなくバレンタインデーの意義を勘違いしたことに原因があるはずだ。故に私はこれをバレンタインデー抗議の理由の一つに挙げるのである。
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誤解をされると気分が悪いので一応記しておくが、私にだってバレンタインデーに小さな幸せを味わった経験はある。
ところが、この過去こそが私がバレンタインデー抗議をする理由の二つ目であるのだ。
説明をするために読者の諸君には少し私の昔話に付き合ってもらうことになる。
それは今からちょうど2年前、すなわち高校一年生のバレンタインデーのときであった。
部活に所属していなかった私はその日もそれまで過ごしていた日々と変わらず暇を持て余していた。そのときの私はどうかしていたのであろう。街を自信ありげに歩くリア充への堪え難い怒りに支配された精神は何故かその日の時間を駅前のデパートで潰すことを決定したのである。ところが着いたは良いものの、やはり目的もなかったためにブラブラとデパート内を歩くことしか私に選択権はなかった。
バレンタインデーだけあってその日のデパートは私がいつも見ていたものとは少しばかり様子が違っていた。「今年こそはプレゼントで思いを伝える! 」というようなキャッチフレーズがあらゆる商品の前に仁王立ちし、BGMは有名なラブソング、客はカップルがいつもの3割増しという邪悪の巣窟になっていた。一人者の私には大層危険な場所であったことはは間違いないだろう。
最初こそ店の雰囲気にあえて逆らい立派な勇者になってやろうと意気込んでいた私であったが、他人の視線の矢はぐさりぐさりと突き刺さり、時間が立つごとに寒くなっていく長野の冬が私の貧相な防寒具をあざ笑うので、とうとう心が折れてしまったのである。
そうした理由で帰ろうとしたときであった。
「あ! 久しぶりね! 」
声を辿り振り返ると私の目の前には一人の女性が立っていた。
「え…………え? 」
大内さん、彼女は私の小学生のときの同級生である。中学入学の際、私のように平凡な人間ではなかった彼女は私立の学校に受験・合格し、そこで私と道を違えた人物である。
小学生の頃には仲良くさせてもらったのだが、中学生となってお互い別々の学校に通うようになってからは関わることが少なくなり、彼女の家もメールアドレスも知らなかった私の頭から、彼女は徐々にその存在が消されていったのである。
思えば中学入学のころである。私が女性と接することを極力避けて生きていくようになったのは。
当時の私はいわゆる「中二病」による精神疾患が著しく、頭の中はあらゆる妄想で満ち満ちていたために女性と関わっている暇がなかったのである。
自分の名誉のために述べておくが、決して私が女性から拒絶されていたわけではない。私が女性を拒絶していたのである。
数年ぶりの異性との会話に戸惑う私に彼女は一切気づかず言葉を続けた。
「まさか、私のことを忘れたの?」
はっと気がついた私は驚く心を抑え、紳士的な態度をとることに意識を集中させた。……いや…………
「まさか。君が大内という名前を捨てたわけではないのなら、必ず私は君を知っている」
……彼女の予想外の態度が私を紳士の型にはめることを強要させたのである。
「そう……」
久しぶりに会ったにも関わらず、私がぶっきらぼうに返事をしたのがどうやら彼女は気に食わない様子であった。
「私の記憶が正しければ貴方とは4年ぶりのはずだけど。ちっとも変わっていないのね」
「一方の君は随分な変わりようだね。同じ歳の人間とは思えないほどの落ち着きぶりだ」
「あら、そうかしら。自分の変化には気づきにくいものね……」
そこで大内さんは黙ってしまった。私の頭が秒速40回転で次に取るべき行動を考えに考えていたことなど彼女はまったく知らなかっただろう。
が、 頭が答えを出す前に沈黙からくるプレッシャーに耐えられなかった私の口は、勝手に動くという予想外の働きをしたのである。
「少し、話さないか?」
こうして私は隅々まで回ったデパートを彼女ともう一度回ることになったのである。
自分から誘ったはいいが、話の種も持っていない私は結局大内さんに頼ることとなった。
当然ではあるが、 彼女は年齢特有の複雑な悩みを相談してくるわけでもなく、中学からの彼女の物語をたんたんと語った。迷いに迷った結果テニス部に所属したこと、今もテニスを続けていること、すごく英語ができるようになったこと、高校で小学生のころの友人と再会したこと、今は看護師を目指して勉学に励んでいること…………
一方の私はそんな彼女の話を真面目に聞くわけでもなく、彼女そのものを観察していた。端から見れば私はたいそうな聞き上手に見えただろうが、現実主義者の私には過去の話などどうでも良い訳であって、ただそこに存在していた「大内さん」の方が重要であったのだ。
小学生のころの大内さんと言えばおてんばで有名な男勝りの元気っ子であった。さらに成績優秀・スポーツ万能という分かりやすいエリート生徒であったため、やんちゃな我ら男子も彼女の前では小さくなってしまいがちであった。
彼女の武勇伝を一つあげるとすれば、インフルエンザで学級閉鎖ぎりぎりの教室に届けられた給食の牛乳瓶を一人で6本飲んでしまったことであろうか。3本目までは拍手で盛り上げていた私も最後には口を鯉のようにあんぐりと開けていた。記憶は今でも鮮明だ。
そんな太陽のように輝いていた彼女と、当時「生きた銅像」と讃えられたほど大人しかった私が、きっかけこそ忘れてしまったものの、親交を交わすこととなったのである。これはまさに神のいたずら、奇跡であったと言わざるを得ない。
「大内さん、ボーイッシュって言葉知ってる?」
「なぁに、それ?新しいスポーツ?」
「ううん、男みたいな女の子の事なんだって。大内さんはボーイッシュなんじゃないかなって思ったんだ」
「ふ~ん……でも私はボーイッシュではないわね」
「どうしてさ?」
「私が男みたいなくだらない生き物なわけないじゃない。そんなものよりずっとずっと華やかなのが私よ。 」
…… そんなことを平気で行ってのける大内さんに私は時に尊敬の眼差しを向け、時に信頼の絆を求めていたのである。
大内さんの話が終着点についたのは始まってからちょうど40分ほどであった。
話疲れたのであろう、「ちょっと休憩しましょう」という言葉を発した彼女は近くのベンチに座り込んだ。ため息を一つ……
一方の私は彼女の観察の結果、確信の持てる二つの事実に辿り着いていた。それは何か。
一つは、彼女に私が接触しなかった間、すなわち空白の4年間に、彼女の身に奇跡とも言える変化が起きたことである。あのおてんばで有名だった大内さんは今、まるで聖女のようなおしとやかさと美しさに包まれた「女性」に成長してしまったのだ。
そしてもう一つの事実はそんな別人のようになってしまった彼女に対して抱いた私の感情が懐かしさでもなく、ただの憧れでもなかったということである。
私は大内さんに一目惚れしてしまったのである。
人間というのは自分に不利な真実を突きつけられると、どんな手を使ってでもそれを否定しようとする。そうでもしなければ世間的に弱い存在となってしまう。
あの時の私もそうであった。自分自身で見つけてしまった真実にその一瞬で生きる目的を縛られてしまい、後々考えれば悔やみに悔やみきれぬ行動に走ってしまった。あのとき私の中のもう一人の私は青い服と赤い蝶ネクタイで変装でもして「真実はいつも一つ!」なんて叫んでいたに違いない。おかげで主体の私は黒く塗りつぶされた罪人となる。
「貴方はどうしていたの?まさか4年間何もせずに寝ていたわけではないでしょう?」
店内に設置されたベンチの温度を気にするそぶりを見せつつ、大内さんは私に柔らかな眼差しを向けた。
「いいや、何もありはしなかった。ただ勉学に勤しみ、今に至る」
前述のとおり「弱者」になるのを大変に恐れたゆえ、私はさらに紳士的な行動・言動に努めようとした。「本当のジェントルマン」とはなにか?そんなことを当時の私に求めてもおおよそ無駄な行いである。
「ふーん……」
彼女は沈黙を好んだのか。今の私には知る由も無い。
「恋は……しなかったわけ?」
唐突に放たれた言葉は私の脳の反応を待たなかった。
「へ?」
「だから」
大内さんの踏み込みは早かった。私に逃げ場を与える気はなかったのであろう。
「恋愛はしてこなかったわけ?」
「中学生は大人か?」微妙なところである。確かに身体は発達の経過途中であるが、精神はどうであろう。少なくとも独立した1個体ではある。
では「高校生は大人か?」。これもまた同じ回答が返って来るだろう。
しかし、しかしである。中学生でも高校生でも大人の道に片足突っ込んでいなければ前述の問いなど無意味である、必要とされないのである。故に彼らは背伸びをし、精一杯の主張をするのだ。そして私もその一人である。
「勿論。大内さんに言ってもしょうがないけど、今お付き合いをしている方がいて、今日のデートの待ち合わせがここなんだ。」
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これ以上私の思い出をわざわざ語る必要はなかろう。ただでさえ画面を前に私の過去の一部をあざ笑っている読者諸君、特にリア充の方々にさらなる笑いのきっかけを与える義務は私にはない。長野の冬は寒かった、ということだけ伝えておけばよいのである。
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もう一度主張をしておくことで、読者の諸君に私の考えを理解してもらった上でこの抗議文の幕を降ろそうと思う。
バレンタインデーは決してチョコを撒き散らし恋仲を大っぴらに祝い、デレデレと過ごすものではない。
過去の偉大なる聖職者に尊敬の念を抱く日であることを忘れてはならない。
そして、こんな見るに耐えない、野良の犬にも劣る過去の私をとどめ続ける2月14日など、今の私をさらに傷物にしようとするバレンタインデーなど、跡形もなく消えてしまえばよい。
カレンダーから省かれればよい。
いっそ14を数字列から削り取ればよい。
ただ、私は、ただただ………………
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私はいわゆるリア充ではないが、そんな私にも言えることがある。
日本人は盆と正月と、日本が作り出したホワイトデーを少しだけやっていればよい。
そして家族と先祖の縁を第一とし、ついでに3月14日に恋人に正直に接しているがよかろう。
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