とりまきその十六、罠にかかる
窓へと視線をやれば、木々は赤や茶に色づいていた。それは、私に秋の到来を告げる。
私は顔を上げたついでに、顔を傾けて首の凝りをほぐした。
現在、読書中。
幸い空は晴れているし、外で読書、というのも乙なものだろう。そう思う一方で、やはり室内で読書をする方が楽だとも思う。主に、風のいたずらを受けないとか、そんな理由で。
ふぅ、と息を吐く。
「ここのところ、ずっと読書をしているから目が疲れるわ」
というのも、以前はわざとのように日常生活の邪魔をしてきたヤツ――メイフィールド侯爵が、ここふた月ほど姿を現さなくなったからだ。
これ幸いと図書館通いしていたけれど、結局、父に図書館で結婚相手を漁っていることがばれてしまった。
そして、私は外出禁止が言い渡される。
「あー、最近出歩いてないから身体鈍ってる」
このまま太って巨体になったらどうしてくれるのかしら、と口を尖らせた。
ぐーっと伸びをしていると、扉を叩く音が鼓膜を刺激する。
侍女がお茶を持ってきてくれたのかもしれない。ああ、だったらお茶菓子は栗をふんだんに使った焼き菓子がいい。
ちょっとばかり期待しながら、腕を下ろして入室許可を出した。
「はーい、どうぞー」
身体の鈍りは心も鈍らせる。ずっとメイフィールド侯爵の毒牙にかからないよう気を張っていたが、諸悪の根源が来なくなり気が緩んでいるのだ。ゆえに、つい間延びした声が出てしまう。
ぐーたらと長椅子の背もたれにしな垂れかかっていたけれど、扉が開き、現れたのが父であることを認める。
私は慌てて姿勢を正した。
「あらお父様、なんですか?」
おほほほほ、と笑った直後。
私は時間が止まったような感覚に陥る。
――運命の出逢いに、時が止まった気がした。
よく恋物語で読んだ一文が脳裏に過ぎる、が。
――運命の出逢いだったらどんなによかったことか!!
(ちょ、ま、いやいやいや、認めない。これが運命だなんて私は認めない! なんでヤツがっ)
驚きついでに、グッと唾を呑みこんでしまい、咽る。どうやら気管支に入ったようだ。
ごほごほと咳き込む中、父はこともなげに部屋の敷居を跨いでいた。親子とはいえ、一応私も年頃の乙女なのだから、少しくらいは気を遣ってほしいものである。
そうして、父の後ろに続いたのは――乳製品を紅茶にぶち込んだ髪色をした、見目麗しい侯爵閣下。
(ちょっとまてまてまて、これまでの平穏は油断を誘う作戦だったのかゴルァアアア!!)
――と心の中で叫ぶのに、口に出せない鶏です。てへ。
かの侯爵は、私の目の前まで来た。来やがった。
さっきまでの私の平穏を返せと言いたい。いやいや上から目線ですみません! お願いします返してください! 土下座ですか? 土下座をご所望ですか!? という心の声が、侯爵に聞こえるはずもない。まぁ、心の声が聞こえるとか、心が繋がってるみたいな悪夢いらないわけだが。
侯爵は、いっそ不気味なほどに真剣な眼差しを向けてくる。もちろん私は目をそらす。
「――クローディア」という侯爵の声がしても、気づかないふりを決め込んだ。
でも、侯爵は侯爵様で、私は伯爵令嬢で。身分はあちらが上。財力もあちらが上。ともすれば、堂々と刃向かう勇気なんぞあるはずもなく。
誤魔化すように父を一心に見つめた。
父は、私に向けて片目を瞑って見せる。パチンッ、という効果音が聞こえた気がするが、気のせいに決まっている。それにしても……意味がわからない。
私の眉間に深い皺が刻まれたことに気づいたのか、父はさらに、無言のまま片方の手のひらを突き出した。その様から、「まぁ待て」と言いたいことを察する。
一体なにを待てというのか。本当に……意味がわからない。
すると、父はごほん、と一度咳払いし、にやにやと笑いはじめて言い放った。
「では、あとはお若い二人で」
待て。待て待て待て!! 本気で――意味がわからないっ!!
「おとうさまぁぁぁっ」
懇願するように、こそこそと退室しようとする父に手を伸ばした――が、空気が読めるような父ではなかった。知っていたけれど。知っていたけれどもっ。
……母はなぜあんな父と結婚したのだろうか。しかも、夫婦のにゃんにゃんっぷりも子どもの人数をみれば一目瞭然。どこがよかった、いやまじで。
扉が閉じる音は、私の心に北風を吹かせた。
がっくりと項垂れると、伸ばしたままの手が、あたたかいものに包みこまれた。
ああ、嫌な予感しかしない。
おもむろに顔を上げれば……侯爵が私の手を両手で握っていた。
(やっぱりか! やっぱりなのかこの野郎!)
決して、侯爵に握ってほしくて手を伸ばしていたわけではない。それを伝えたくとも、言い訳が瞬時に思いつかず、こめかみを波打たせつつも我慢した。
そろそろ血管が限界を迎える気がする。驚いた時に「もぉ、寿命が縮んだっ」と言う人がいるが、私は別の理由で寿命が縮んでいるな、と遠い目をして嗤った。
嗤いをおさめて彼を見上げれば、なぜか侯爵は床に膝をつく。それはまるで、歌劇の中での求婚場面のようだ。
(それなんて悪夢?)
背筋に冷たいものが走った気がした。
身体は遠のけないため、首を竦めて距離をとって侯爵を見る。
まっすぐに見つめてくる目は、とても真摯な色をしていた。正直、私は気まずさを覚えずにはいられない。
「……あの、手を」
「――我が邸に、来て欲しい」
「馬鹿おっしゃい」とは言えず、でも口を開けば言ってしまいそうだから、口を噤む。
「君に、メイフィールド侯爵家の医師を紹介したい」
「……。……え?」
直後、私は目を見開く。
無理もないことだ。それまで、図書館で青年に声をかければ、彼は毎度邪魔してくるのだから。信じられない。――いや、でもしかし。
(本当に紹介してくれるの? いや、でも……)
弾む心は喜色に染まっているが、油断禁物だ、と理性が囁いた。
「なぜ、ですか?」
問えば、彼は惑うことなく答えた。
「以前、君がうちの医師を紹介してほしい、と言ったことを憶えているか?」
「……なんとなく。……。――では、本当にっ!?」
「――ああ。紹介しよう」
私は嬉しくて頬が熱くなる。侯爵も、会心の笑みを浮かべた。
生まれて初めて私が(この男、いい人かも)と思った瞬間である。
――かつての私ならば、この侯爵の誘いは断っていただろう。危険なかおりのするものには、そもそも近寄らない、が私の鉄則だからだ。
しかし、脳内変換してしまったのだ。侯爵はここふた月現れなかった、つまり私への興味は失せた、と。そして、今まで口説いていたのに、突然それをやめて他の女性を口説いたら外聞が悪いから、私に恋人を見繕った後で誰かを口説こうとしているのではないか、と。
――正直、私はかなり凹んでいた。
間違っても侯爵うんぬんに、ではない。
侯爵がいないこのふた月、はりきって羽をのばして図書館に通いつめ……まぁ、色々思うところがあったのだ。
それは謹慎を父から言い渡される前のこと。私は図書館で学者見習いに声を何度もかけた。だが、社交辞令は交わせど恋愛に持ち込めたためしはない。
挙句。ある学者見習いはこう言った。
「なぜここに貴族令嬢がいらっしゃるのです? 申し訳ありませんが、令嬢の娯楽に付き合う暇はございませんので」
まるで、学問は男のため、とばかりの言葉。
確かに、女家庭教師は存在するものの、大学へは男性しかいけない。しかし、学ぶことは誰がしてもいいはずだ。
悔しさと屈辱に唇を噛み締める。
私の貴族としての矜持は、東洋のとある国で出回る春本よりも薄っぺらいものだが、学問を愛するものとしての矜持はかなりのものだと自負している。
それを、ズタズタに切り裂かれた気がした。
――これが、私の理想としていた学者見習いだろうか?
(違う。私の理想は、こんな人じゃない)
――もう、彼と同じ空気も吸いたくない。
好意は嫌悪へ移行した。
私は手巾を取り出し、目尻にあてながら出入り口に向かって駆け出した……かと思いきや。ふふん、と鼻で嗤いながら優越感に浸る青年の背後にまわりこんだ。ついで気配を殺しながら彼の真後ろに立ち、膝かっくんをくらわせる。
刹那、ベシャッ、という素晴らしい音をたてて顔面から倒れた青年。
お返し、とばかりに私は彼を鼻でせせら笑った。
「ご免あそばせ」
そして、今度こそ私は駆け去った。
――あの後は泣いた。咽び泣いた! このやるせない屈辱感、どうしてくれよう。
この瞬間から、私の中で理想の相手は医者の一択になった。
――つまり。
私は警戒心もなく、おちおち侯爵についていったのである。
*** *** ***
「はじめまして、クローディア様」
私の前に立つ男性が、穏やかに微笑みかけた。
――そこは、メイフィールド侯爵家の一室。
調和のとれた色合い部屋の中心で、私と二人の男性が対面している。一人は侯爵、一人は私の待ち望んでいた医師だ。
侯爵に連れられ、着いて早々彼は私に医師を紹介してくれた。仕事がはやい男である。
私は医師から目がそらせず、呆けながらも挨拶を返す。
「……はじめ、まして。あの……」
すると、医師は優しげに目を細めた。
「ようやっと、ヴィンセント様に結婚を決める女性が現れたこと、心から祝福致します」
「え、いえ、え? え?」
私は目を高速で瞬く。
医師は自身の胸に手をあて、洗練された礼をとった。
「申し遅れました。メイフィールド侯爵家の医師、リチャードでございます」
自己紹介が終わった彼は、ふぉっふぉっふぉ、と笑声を部屋に響き渡らせた。同時に、リチャードのもっさりと蓄えられた真っ白な口髭が揺れる。
(まてまてまてっ)
私は目の前の光景が信じられず、傍に立っていた侯爵を仰ぎ見た。訴えかけるように睨んだのに、ヤツ――メイフィールド侯爵はにっこりと楽しそうに笑い返してくる。
「クローディアの望み通り、紹介したが、なにか?」
もはや私の喉は乾燥し、口が震えて言葉が巧みに操れない。なんてもどかしい!
「お、おじいちゃん……リチャード、おじいちゃん……っ」
伝えたかったのは、リチャード医師は齢七十をこえていそうな老人だということ。
必死に言ったのに、ヤツと私の会話に入ってきたリチャードは目尻の皺を一層増やして、春のような和やかさを放つ。
「おお、孫のようなヴィンセント様の奥方にそう思っていただけるとは――光栄でございます」
「違……っ」
「ぜひともひ孫がみたいものですな」
ふぉっふぉっふぉ、と笑うリチャード。侯爵はにやりと口尻を持ち上げ、頷いた。
「じゃあ、これからがんばらないとな」
「それはそれは。ではお邪魔虫は退散いたします。――お子様、楽しみにお待ちしておりますよ」
もう、私は開いた口が塞がらなくなっていた。
(なに。なんなのメイフィールド侯爵家怖ぁぁぁ!! 空気読めない人しかいない! 誰もが読めないからこそ会話まで成立してるっ)
何度目かのふぉっふぉっふぉが聞こえるが、その声は遠のいていき、やがて扉の音とともに消えていった。
――ということは、部屋には私と侯爵だけ。
突如、視界が陰る。まさか……と思えば。
(やっぱり――っ! やっぱり侯爵距離縮めてた! 近っ! 侯爵近っっ)
私は両手で侯爵の胸板を押し、後ずさりをする。
一歩、また一歩……二歩目、三歩目、四歩目……――それを続けていたら、背に壁がぶつかった。
(逃げ場がっ)
蒼褪める。もう、乾いた笑いしかでなかった。
(どうしよう、どうしたらいい、どうしたら……っ)
冷や汗を滂沱と流しながら思いついた案は、先延ばし作戦だった。意味のない案かもしれない。でも、その内いい案が浮かぶかもしれない。いや、馬車馬よろしくがんばれ私の頭!
自分の頭に(がんばれ超がんばれ!)と声援を送りながら、侯爵を上目で見つめた。
彼のキャラメル色の瞳は、いつもの好奇心や愉悦といったものがこもってはいない。だが、その瞳が物語るものも理由も、私は知りたくないから無視をする。
「あ、あの、侯爵様っ! 私のこと、好みではないでしょう? ほらっ、思いだしてください! これまで夜会で口説いていた女性方の特徴!」
妖艶な女性や可憐な女性まで様々だったけれど、私のような地味な娘はいなかったではないか。そう思い出すよう念じながら、侯爵のどんな答えにも躱せる言葉を死にもの狂いで探す。
……そうして、思いついたのは二つ。
もし侯爵が私のことを好みだと答えたなら、「理想と現実は違います」と言う。
もし侯爵が私のことを好みではないと答えたなら、「ならば理想の相手を地の果てまでさがしてきてください」と言う。
完璧ではないだろうか?
死角などどこにもない! 来るなら来い! と挑戦的な笑みを浮かべた時。彼は、くすりと笑って私の顎を指でとらえた。
「好きになった女性が、好みの女性だ。――そうだな、でも、話の合う女性がいい。これは理想ではなく、条件だ。クローディア、君しかいないだろう?」
思いもしない侯爵の言葉。
思わず共感してしまった。屈辱を味あわせてくれた学者見習いよりも、よっぽど侯爵の方が素敵だと思……――て、違っ! 待て待て待て私っ!!
うっかり惑わされ、油断した隙に。
私の唇に、あたたかくて柔らかいものが重なった。
え、ちょ、まっ……のぉおおお――っ。
その後のことはいいたくない。というか、いえない。絶対いえない。
そして三ヵ月後、私は妊娠していることが発覚し、結婚が決まることとなる。
相手は、キャラメル色の瞳と、乳製品を突っ込んだ髪色をした淫魔だ、ということだけ報告しておく。