5.
曇り空の日のことだった。
それまで、エステルに邸内であれば許可なく出歩くことを了承していたセシルが、この日だけはなぜか「部屋から出ないでほしい」と願った。
それは、命令ではない。ゆえに、エステルは拒むことが許されている。
しかし、エステルの記憶にある、その言葉を告げたセシルの表情があまりに切望しているように見えた。だから、気がつけば頷いていた。
彼が安心するのならと、思ったから。
そうして、夫人部屋の卓で茶を飲んでいる時だった。
かすかに、馬蹄の音が聞こえた。
エステルは茶器を置き、窓へと振り向く。
(来客、かしら?)
もしそうだとすれば、来客に会わせないためにエステルを部屋に留めた、と考えてよいだろう。では、その来客とは誰なのか。
考えれば、エステルのことを知る人物ではないだろうか、という仮説が立つ。そうでなければ、エステルと偶然顔を合わせたとしても、相手はエステルを誰だかわからない。セシルが咄嗟に”知り合い””遠い親戚”とでも嘘をつけば、その場は凌げるだろう。
思い至れば、気になり、席を立って窓へと歩んだ。
窓の向こうには、黒味を帯びた灰色の雲が太陽を隠し、陰った世界。その中に、一台の馬車があった。豪奢な馬車は、貴族のものだと一目でわかる。よく目を凝らせば――。
「……カイル、様」
エステルの目が驚愕に見開かれる。
馬車に刻まれた紋章は、ハーシェル侯爵家のもの。エステルの、よく知った見慣れたもの。
心臓が大きく鼓動する。動揺は、身体を震わせた。
(――どう、して)
咄嗟に踵を返し、閉じられた扉へと駆け寄る。エステルの伸ばした手が扉の取っ手を掴もうとした時、それまで静かに控えていた女中がエステルと扉の間に割り込んだ。
女中との衝突を避けようと、本能が反射的に身体の動きをとめる。ついで、一歩後ずさって、エステルより少し背の高い女中を見上げた。
彼女は真剣な面差しでエステルをまっすぐに見つめる。
「エステル様、行ってどうしようというのです」
エステルが知る彼女の声よりも、幾分低いそれ。けれど、負けじと応戦するように見据え返す。
「……なにが、あるの」
セシルの思惑もカイルの思惑も、エステルにはわからない。そも、キング侯爵家とハーシェル侯爵家は天敵であったはずだ。交流があるほど仲がよいならば、エステルははじめからキング侯爵家に女中として入ってはいない。
ともすれば、自分のことしか思い当たらなかった。
女中はなおも厳しい表情を崩さず、口を開く。
「――ハーシェル家は、エステル様のご実家に資金援助を申し出られています。後ろ盾となる、と」
エステルは息を呑んだ。
思考が止まった脳が再び動き出し、はじめて浮かんだ言葉は”どうして”だった。
カイルとの婚約は既に破棄されている。それを望んだのは、他ならぬ彼自身だ。頭の中が混乱し、酔いが回った感覚に陥る。
そんなエステルを見兼ねたように、女中は言葉の続きを紡ぐ。
「条件に、エステル様と再度の婚約をお望みだと伺っております」
「……婚約?」
エステルは呟き、唇を噛んだ。
確かに、資金援助のための縁組み――政略結婚は、貴族の義務である。民からの税で暮らす対価は、民と領地を守ることなのだ。
(……わかってる)
民と領地を守る事こそ、貴族の課せられた責務。そのために、貴族は在る。
(――そんなこと、わかってる……けれど)
わかっていながら胸が締め付けられるように苦しいのは、エステルに感情があるから。
(セシル様の傍に、いたい)
それが自分のわがままだと理解している。これはただのわがままだ。だから、最終的にエステルは男爵の意思に従うだろう。それでも、エステルの心はエステルのものゆえに、誰かにどうこうできるものでもなかった。
心と身体は、伴わぬ行動もできる。政略結婚など、その代表。
きっと、再び心を凍結させれば、”セシルの傍にいたい”という願いも諦められるだろう。でも、そうすることに魅力を感じはしなかった。
覚悟せねばならない。残された猶予は、あとどれほどか。
逡巡すれば、ただ一つ、エステルは心にひっかかりを覚えた。
どうせキング家を去らねばならないのなら、もう訊いてしまおうと思った。もう、後悔はしたくないから、震える唇で、問う。
「……セシル様は、私をカイル様に引き渡すために、ここにいるよう告げたの?」
泣きそうに顔が歪んだだろう。必死に泣くのを堪えながら、エステルが女中に尋ねれば、彼女は首を横に振った。
「いいえ、違います。――セシル様は確かにこの部屋にいてほしいと、エステル様に言いました。ですが、セシル様はこの部屋の扉に鍵をかけてはおりません。いつでも、エステル様が望めば、この部屋から出られるようにしておいでです。先刻、わたくしがエステル様の行く手を阻んだのは、わたくしの意思です」
そして、女中は遠くを眺めるように目を細めた。
「――これから、セシル様は、カイル様と決闘します」
”決闘”という単語に、エステルは眉宇を顰める。
女中はそんなエステルの手をとり、両手で握りしめた。祈るように、彼女は睫毛を伏せる。
「必ず勝つと、おっしゃっていました。――セシル様からの託けです。なんらかの圧力がかかっても、必ず守るから心配しないでほしい。カイルが好きならば、彼の手をとって構わない。ただ、気持ちとは別の……責任や罪悪感で未来を選ばないでほしい。心から、エステルの幸せを願う、と」
その言葉を聴き、エステルは堪えていたものが決壊した。
涙が幾筋も頬を伝う。手を女中に握られているから、流れるそれを拭うことができなかった。
俯き、震える声で言葉を紡ぐ。
「……どうして、そんなにしてくれるの」
セシルへの問いであり、女中への、キング侯爵邸にいるすべての者への問いだった。
女中は優しい微笑を浮かべて答える。
「セシル様は、一度もエステル様を疑いませんでした。侯爵様の意思は、わたくし共の意思です。セシル様がエステル様をこの邸に閉じ込めたのも、本当は情報が洩れることを恐れたわけではありません。――エステル様を傍に置く理由がほしかったんです。あの方にとって、これがはじめての恋だから……本気の恋に、自分がどうすればいいのかわからなかったのです」
刹那、エステルは床に膝をつく。ついで、握られた手に顔を埋めた。
あまりにも不器用な男だと思った。だが、そこも含めてすべてが愛おしい。
今、彼のもとに走り、抱きしめたい。
(セシル様に、会いたい)
思ったが、カイルが来ているから、きっと彼はそれを望まない。
しゃくりあげるエステルの背を、女中がそっと擦った。
「エステル様、セシル様を信じてくださるのなら、待っていてあげてくださいませ。でも、それ以外の選択をするならば、扉へどうぞ。馬車もセシル様に命じられて用意してありますから、カイル様もセシル様も選ばない、という選択もあります」
女中の言葉に、エステルはゆっくりと顔を上げた。
待とうと、思う。でも、ただ待つだけではいられない。
セシルは、エステルをとても大切にしてくれた。ならばエステルも、彼を大切にしたい。そう示す行動をとりたい。
――自分になにができるだろう、と考える。
そうすると、いつも答えは一つだった。
エステルは女中に笑みを向ける。婚約を破棄されてから、誰にも見せてはいない、可憐な花のような笑み。
「私、厨房に行ってもいいかしら?」
――それは、戻ってきたセシルの疲れを癒す、もてなしをするために。
*** *** ***
時計の針は数刻経ったことを告げている。
カイルとの決闘で、無事勝利を収めたセシルは廊下を歩いていた。
王宮で従騎士として対戦した頃よりも、はるかにカイルは強くなっていた。おそらく、領地に戻ったあとも怠ることなく訓練していたのだろう。
――それはきっと、エステルのために。
苦い思いに溜息を吐く。
こめかみから頬を伝う汗に顔を顰める。決闘の最中は気づかなかったが、どうやら至るところに剣による浅い切り傷を負っていたようだ。
血の混じる汗を拭い、エステルへと思いを馳せる。
(エステルは、これからも傍にいてくれるだろうか……)
失恋して表情を失うほど愛した、元婚約者。その彼が迎えに来たのだから、カイルの手をとる可能性も低くない。
それでも、どうか、と思う。
――初恋は実らない。
よく耳にした言葉。はじめて聞いた当初は、他人事のようだった。
初恋とは、淡く儚いものだと思っていた。だからこそ美化され、いつまでも思い出の中で輝き続けるのだと。
しかし、セシルの初恋は淡くはなかった。
憧れや欲望だけの幻想ではない。エステルが幸せでいられるのならば、なにをも犠牲にしても構わないという気持ち。
エステルがカイルを選べば、セシルはもう彼女に好意を見せることは許されないだろう。そんなことをすれば、エステルは罪悪感に苛まれる。ゆえに、セシルは恋心を秘めるしかない。
侯爵夫人の部屋の扉前に立つ。
未来に怯えるように、取っ手を持つ手が動かなかった。
渦巻く感情のすべてを沈めるため、目を瞑って深呼吸する。
(――どうか)
神など信じたことはなかったが、生まれてはじめて祈りを捧げた。
そうして、扉を開く。
同時に、甘い香りとあたたかい空気がセシルを出迎えた。
驚き、目を瞬く。しばらくして視線を彷徨わせれば、卓で茶器と焼き菓子を並べていた銅色の髪を見つける。
「……エス、テル?」
独り言ちると、彼女はセシルへと振り返った。
「おかえりなさい、セシル様」
エステルは今までセシルが見たことのない、幸せそうな笑みで言った。そして彼女はセシルとの距離を縮め――セシルの目の前に立つ。
「お疲れ様です。汗を流したら、一休みしましょう?」
穏やかな表情のエステルに、セシルは見惚れるように惚けたまま動かない。
気にせず、エステルはセシルの顔を両手で包み、角度を下へと向ける。翠の瞳は、紫の瞳をまっすぐに見つめた。
エステルは髪を揺らして囁く。
「許してくださるのなら、私はずっとセシル様とともにありたいです」
言葉の直後、エステルとセシルの距離は益々縮み――やがて唇が重なった。
はじめての、エステルからの口づけ。
思いがけない出来事に、セシルは顔を紅潮させ、すぐに蕩けるように相好を崩した。
*** *** ***
卓には、二つの茶器が置かれている。そこに、茶が香りを放ちながら注がれた。
粗熱のとれた焼き菓子は、侯爵様の婚約者になるだろう女の手作りである。
長椅子で、その女は笑顔で出迎える。
――湯浴みから戻った、こぼれんばかりの笑みを浮かべた侯爵様を。