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侯爵様と女中ととりまきその十六とその他(番外編を集めたの)  作者: えんとつ そーじ
*パラレル ヤサグレ侯爵様と無表情な女中 (完結済み)
18/25

4.

軽いR15です。ご注意ください。




 瞼の向こうから光を感じ、エステルは夢から覚める。

 彼女が横たわる寝台は、使用人に与えられた部屋に設置される寝台とは質が違う。滑らかな絹の手触りをしたシーツ、ふんわりと包みこむような羽毛の布団に枕、それらはおおよそ重さを感じさせない。

 エステルがまどろみながら見上げた天井も、過度な華美さを感じさせないながらも意匠をこらした、権威を示すものだった。

 なにが現実で、どこまでが夢なのか、その境目が日ごとに曖昧になっていく。日にちの感覚は、もはやあまりない。それほどに、エステルはぼんやりと日々を過ごしていた。

 起き上がれば、数人が寝られるだろう大きな寝台に自分一人。

 そうしてゆっくりと布団の中から抜け出すと、部屋の隅に控えていた女中が顔を洗うための洗面器に水を注いだ。

 エステルが洗顔している最中、女中は扉を開いて別の者に目覚めの茶と朝食の準備を指示する。

 ――少し前までは、むしろエステルこそが使用人側であった。そんな毎日が一変したのは、エステルが男爵令嬢であり、キング侯爵家の天敵 ハーシェル侯爵家嫡男の元婚約者であったとわかった日。

 あれから、セシルはエステルを寝室に連れるようになった。

 けれど、肉体関係はない。――とはいっても、子をす行為まで至っていない、という意味ではあるが。

 彼は、エステルに侯爵夫人のための部屋を与えた。本来ならばその部屋で生活することが許されるのは、侯爵と結婚した者だけ。しかし、彼はなにを思ってか、エステルをそこに住まわせ、侍女ではなく、彼女と交流のあった女中を傍に置いて世話係とさせた。

 侯爵夫妻の寝室は、侯爵の執務室と夫人の部屋に挟まれており、扉を隔てるだけの続き部屋になっている。どの部屋の鍵もセシルが持っているはずだが、なぜか彼はどの扉にも鍵をかけることはなかった。

 ――彼が、どうしたいのかがわからない。

 エステルを不穏分子として邸に閉じ込めているならば、もっと厳重な警備が布ける場所に幽閉し、見張ればいいのだ。それこそ、監禁のように。

「エステル様、お茶をどうぞ」

 女中が淹れたての茶を差し出す。

「ありがとう」と返して茶を啜るも、エステルには違和感が拭えなかった。目覚めて、使用人に用意された茶を飲む。これはエステルが貴族扱いされている証である。

 飲み終わり、女中にティーカップを返すと、今度は導かれ、夫人部屋の卓につく。そこには、既に朝食が用意されていた。

 パン、卵、果物、野菜スープ。女中の時とは違い、大人数のための料理ではなく、個人のための料理、という印象を受ける。

 どう考えても、セシルはエステルを貴族として扱っている。それは、身分を重んじた対応なのだろうか。それとも――……。

 エステルはスプーンを手にとり、野菜を掬う。口に含めば、繊細でやさしい味がした。

「……おいしい」

 無意識下で呟く。傍に控えていた女中は「ようございました。料理人も喜びます」と嬉しそうに答えた。

 ――この居心地のよさに、複雑な心境であることは否めない。

 実家であるクラーク男爵家にいた頃、使用人の哀れむ目や両親の憐憫の情に、自分が邸の中で扱いに困る存在だと感じた。だから、邸を出た。

 それと比べ、むしろキング侯爵家にいる自分の存在の方がはるかに厄介者であるのに、エステルは大切に扱われていると身を持って感じる。

 ――わけが、わからない。

 どうして大切にするのだろうか。

 思いだすのは、寝室で見せる、セシルの笑み。

 彼は変わったと、エステルは思う。以前までは、常に虚無的な笑みを浮かべ、胸の内を誰にも見せようとはしなかった。

 だが、今は――。セシルはエステルに二つの笑みを見せるようになった。

 日中にエステルと顔を合わせると、彼は苦しそうに顔を歪ませ、微笑む。

 そして夜は……。寝台の上で、まるでエステルの存在を確かめるように彼は抱きしめる。彼女の身体を弄り、翻弄する。普段、表情のないエステルであるが、胸等の性感帯に服の上からでも口づけられ、触れられれば反応をしてしまう。

 未婚の、それも年頃の娘がはしたない、と思いつつも、彼の愛撫によって理性の箍が外れてしまうのだ。

 そうして顔を紅潮させ、快楽に酔うようになると、セシルは心の底から嬉しそうに笑み、エステルの唇に深く口づける。舌を口内に侵入させ、這わせ、やがて彼女のそれと絡ませる。すべてを奪うようで優しく、貪欲でありながら愛しむ動きに拒むことも忘れてしまう。

 口づけたまま目が合えば、穏やかな翠色の瞳に熱が秘められていることに気づかされる。呼吸すらもままならず、目を潤ませて乱れるエステルを歓喜するかのように見つめる、その眼差しに。

 甘美な毒のようなひとであり、エステルを宝物のように扱うひと。

 ――彼は、エステルに様々なものを与える。けれど、その対価を求めることはしなかった。

 夜伽が目的ならば、エステルでなくとも、かつてのように女性を招けばいい。それに、彼はなぜかエステルに最後まで行為を求めることはない。

 一体エステルをどうしたいのか。どうして求めないのか。

 ――セシルは、キング侯爵家の情報が漏れないよう、エステルを邸に閉じ込めた。

 ――だが、彼は夜、いつだって切なくエステルの名を呼ぶ。

(……私は、どうしたらいいのかしら?)

 ――そして、自分はどうしたいのだろう?

 脳裏に過ぎるのは、セシルの儚げな微笑み。

 その理由が知りたいと、思った。どうしたら愁いのない顔で笑ってくれるだろうか、と。

 ともすると、答えは自然と浮かんできた。

(私は――ここに、いたい)

 からっぽだったはずの心が、誰かの考えではなく、自分の感情で満たされる気配がした。




***   ***   ***




 どうやらエステルの傍に控える女中は、エステルのお傍付きではあるが、監視のための見張りではなかったようだ。

 朝食を終えた後、それまでの彼女は夫人部屋で本を読んだり外を眺めて過ごすことが多かった。

 しかし、セシルに心からの笑みを浮かべてほしい、という願いが生まれ、そのために動こうという目標を掲げてから、少しずつ先の計画を立てるようになった。

 今、エステルにできることは少ない。女中としてならば、身の回りの世話くらいはできるかもしれないのだが、現状を見る限り、セシルはエステルに女中をさせることを拒む可能性が高い。

 行動範囲はおおよそ狭い。邸からは出られない。一方で、夫人部屋や寝室から出ようとしても、女中はなにも言わず、扉を開けてくれる。

 ゆえに、エステルは部屋の卓で”自分にできること”を紙に書き出すことにした。

 おそらく女中は、セシルからエステルの行動の許容範囲を教えられているだろう。ならば、その範囲をこえた時、女中から止めが入るはず。

 手元の紙を見下ろす。

 そも、まずエステルは自分に何ができるのか、から考えねばならない。

(優秀だったなら……セシル様の相談に乗れるかもしれないけど)

 私事の相談や、愚痴ならばいくらでも聴ける。セシルが話そうと思ってくれるなら。

 ――だがしかし、仕事についてのことだったら。

 男爵家の事情も詳しくないエステルに、侯爵の悩みを聴くのは役不足といえる。

 ――それ以前に。

(セシル様は自分の弱みを私にみせてくれるかしら……?)

 そこまで考えて、エステルは自分の眉間に皺がくっきりと刻まれていることに気がついた。指先でそこに触れる。

「……私、今、困ってる?」

 目を瞬く。

 心は、いらないと思っていた。からっぽになってしまったのだから、あっても仕方がないと。けれど、どうやら今のエステルはからっぽではないらしい。

 ――無関心でいるのは、確かに楽だった。

 楽しくもない変わりに、悲しくもならない。惨めさも、痛さも、感じなくて済む。ただ、生きている実感すら失っていた。

 なにも感じずに、心を殺して人形のように生きることと、血が流れる痛さを伴ったとしても、心のままに人として生きること、どちらが幸せだろうか。

 ――心の底に沈めた”感情”の入った箱。

 ――セシルはどうして無表情のエステルを見て、悲しそうに笑むのか。どうして快楽に溺れるエステルを見て、喜色を滲ませた笑みを浮かべるのか。

 その答えを知るには、”感情”の入った箱を再び開けねばならない。

 エステルは無意識に俯き、拳に力を込めた。

(セシル様は、痛みを知っている)

 だから、エステルまでもが泣きたくなるような笑みを浮かべるのだ。

 ――開けようと、思った。少しでもセシルの気持ちがわかるように。

 無関心でいることは楽だが、それは自分が楽なだけで、周囲はそうではないのだから。

 決意を込めて顔を上げると、卓の傍に立っていた女中が茶を淹れていた。

 香り高い茶が、エステルの前に置かれる。目が合えば、女中は目元を和ませた。つられるように、エステルの表情も穏やかなものにかわる。

「ありがとう」

 言って、茶に口をつける。

(……おいしい)

 なぜか、いつもより格段にそう感じ、首を傾げた。

「茶葉を替えた?」

 問うと、女中は首を横に振る。

「いいえ。いつもと同じ葉でございます」

 茶の淹れ方は、茶葉によって異なる。それを熟知している女中が、蒸らしの時間をかえたとも思えない。

 では、変わったのは――。

(私?)

 心境が変わったことで、五感までかわるのだろうか。不思議に思ったが、そういえば、と気づく。

(そういえば、もうずっと、食事の味もお茶の味も感じていないわ。花の香りすら……)

 驚き、ついで大きく息を吐いた。そうして、女中を見上げる。

「あの……訊きたいことがあるの」

 小さな声だったが、女中は両眉を上げた後、嬉しそうに「はい、なんでしょう?」と目を細めた。




***   ***   ***




 男爵邸にいた頃、エステルは香草を育て、よく菓子を作っていた。

 普通、貴族の令嬢は菓子づくりをすることはない。エステルの場合は貴族としての矜持や意識が若干低く、貞操観念は貴族でありながら潔癖ともいえ、庶民のような生活をすることに抵抗を覚えることはなかった。

 もともと、裕福ではない男爵家である。夜会は元婚約者と共に参加せねばならなかったために足を運んだが、生活の中で贅沢三昧などできようはずもない。

 そうした価値観から、エステルは女中をすることになんの劣等感も抱きはしなかった。

 はじめ、エステルは菓子が好きなだけだった。それが、いつしか興味に変わり、どんな菓子が世の中に存在するのか調べるようになった。やがて、探究心は自分で菓子作りをすることへと向かい、ついには菓子作りに使う香草を育てるに至る。

 両親や元婚約者はあたたかい眼差しで見守ってくれた。


 過去を思い出せば、内から滲み出る苦さに顔を顰めたくなる。

 だが、自分になにができるか、と考えた末に思い浮かんだのは、セシルの体調にあった菓子を提供することだった。

 それが許されるか女中に問えば、彼女は二つ返事で「問題はありません」と答えてくれた。

 正直、これに対してエステルは驚きが隠せなかった。

 ――口に入るものを作ることが許される。

 信用がなければ、許可などでようはずもない。たとえ女中が傍で見ていたとしても。

 ――信用、されているのだろうか。

 ――そこまで信用され、大切にされている。では、なぜセシルはエステルを邸に引きとめるのか。

 エステルはキング侯爵邸にいることを、心地よく思っている。だから、もし問うて煩わしいと追い出されたら困る。ゆえに、心の中でだけ呟いた。


 厨房に入ることが許されたエステルは、早速菓子作りにとりかかる。

 疲れが癒えるように、と考えた結果、作るのは檸檬と蜂蜜を使った焼き菓子。

 久々の菓子作りで腕が少々鈍っている気がする中、以前の記憶を引きずり出して手を動かした。

 その間、料理人と女中はずっとエステルから目を離さない。

 見張りだろうか? とエステルは思い、視線を彼らへと向ければ、見守るような目をしていた。それに、心がくすぐったく感じる。

 そして、あらかた生地の準備が終わり、エステルは型にそれを流し込んで釜に入れた。


 それからどれくらいの時間が経っただろうか。

 檸檬の菓子が焼きあがり、試食を始める頃だった。

 突如、バタンッ、という大きな音とともに、扉が開け放たれた。

 エステルを含め、厨房にいた皆が目を丸くしてそちらへと振り向く。

 ――そこにいたのは。

「……セシル様?」とエステルが呟いて、目を瞬く。

「侯爵様かい。一体全体どうしたっていうんです?」

「セシル様、いかがなさいましたか?」

 口々に使用人たちが言葉を紡ぐ中、セシルは息を切らして厨房の中へと歩を進めた。

 いつも整えられている淡い金の髪は乱れ、装いも着崩れている。日々目にするセシルとは違う、余裕のなさ。しかし、少し首元が緩められて覗く鎖骨となにかを切望するような表情がいっそ艶冶だった。

 セシルは迷うことなくエステルとの距離を縮める。

 これから皆で試食する、という和やかな空気は一瞬にして払拭されたが、調理台の上に置かれた焼きたての菓子は甘い香りを漂わせる。セシルの放つ重い空気とはまったく逆である。

 その温度差を感じながら、エステルはついに目前に立ち止まったセシルを見上げた。

「セシル様?」

 首を捻れば、セシルはエステルの肩を掴み、腰を屈めて正面から紫の瞳を見つめた。

「……突然いなくなったから、心配した」

 その言葉を零すとともに、彼は睫毛を伏せる。いつも見る、切なげな顔だった。

(違う。笑ってほしかっただけなのに……)

 エステルが口を開こうとした時、女中が説明をはじめる。

「申し訳ありません。セシル様からは、人との接触、邸の外への外出以外は自由にして構わない、と許可をいただいていたため、厨房への移動をご報告いたしませんでした」

「……そうか。いや、私が勝手に慌てただけだ。すまない」

 答えたセシルは自嘲のような苦笑を漏らす。

 なにが彼をここまで焦らせたのか。エステルには検討もつかないが、やはりもっと幸せそうな顔が見たいと思った。

 だから、場の空気にそぐわないと自覚しながら言う。

「お菓子を、作っていたんです。私にできることはこれくらいですが……それでも、少しでもセシル様のお役に立ちたかった」

 私の自己満足ですが……。

 そう続けると、大きく目を見開いたセシルは、ついで焼きたての菓子へと視線をやった。

「……これは、エステルが作ったのか?」

 彼は一つ、手にとる。

「はい。まだ味見はしておりませんが……おいしかったら、休憩のお茶菓子としてご用意したいと思いました」

 エステルの言葉をきき、直後、セシルは菓子を口へと運んだ。

 そうして咀嚼し――エステルの望んだ笑みをこぼす。それは、喜悦がありありと表れた笑み。

「おいしい。――ありがとう、エステル」

 つられてエステルもはにかむように笑みを返す。

 刹那、セシルは瞠目した。それから彼が浮かべたのは、嬉し泣きをするように目を細めて、顔を歪ませた笑みだった。

「――エステル」という言葉とともに、彼はエステルを腕の中に閉じ込めた。強い力に、エステルは呼吸が苦しくなるが、その腕をほどこうとは思わない。不思議と、あたたかさと力強さが心地よかったのだ。

 セシルの胸に顔を寄せれば、彼の鼓動が伝わった。若干早く感じるそれは、今のエステルの鼓動と同じだった。




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