3.ヤサグレ侯爵様
カリカリ、という文字を書く音が室内に響く。
時刻は昼を過ぎ、休憩の頃合いだ。
執務机に向かってからずっと書類仕事をしていたセシルは顔を上げ、ペンを置いた。
騎士見習いとして王宮にいた頃は一日のほとんどを運動に費やしていたが、今では机仕事が多く、身体が鈍って仕方がない。
その運動不足の解消と性欲の処理をするために、女と閨を共にしていた面もある。
セシルは背もたれに身体をあずけ、天を仰ぐ。目を瞑ると、親指と人差し指で目頭を押さえた。
(……鈍ったな)
感じやすくなった肩や背中の凝りに溜息を零す。
――エステルを部屋に呼んでからというもの、セシルは女と遊ぶことはしなくなった。
もちろん、エステルと肌を重ねてはいない。彼女が涙を流しながら笑んだ時、背筋になにかが走るような――胸が締めつけられるような疼きを感じ、以来、なぜか女を抱こうと思わなくなったのだ。
セシルが好色家だと、多くの者は考えているだろう。しかし、彼は色事に溺れてはいなかった。
むしろ、彼を一番表しているのは、その笑みといえる。――虚無的な笑み。
彼は、王宮へ行くまでおおよそ恵まれた家庭環境にあった。いつまでも相思相愛な両親。忠実な使用人。幼く無邪気な弟。だからこそ、貴族特有のどろどろとした世界を知らずにいた。
その後、親元を離れ、王宮で見習い騎士として仕えると、今度は騎士道の教えを受けた。在るべき騎士像は、汚れを知らぬ潔癖なものだった。そしてセシルは、それを目指した。
だが、成長するに従い、セシルの同期たちは王宮に集う人妻と恋に落ちていった。妖艶な色気で誘う女たちの手管は、実に見事だった。無論、彼女らはセシルにも焦点をあてた。成長途中のセシルは幼さを残しながらも、当時から美しかったのだ。
だが、セシルがその誘いにのることはなかった。……むしろ彼は、軽蔑した。
その頃だ。彼が感情を読ませぬ笑みを仮面のように、顔に貼りつけ始めたのは。侮蔑も嘲笑も嫌悪も、すべて仮面の下に隠した。
セシルにとって、貴族の世界は到底受け入れられないものだった。いっそ愚かであったなら、彼が世界に見切りをつけることはなかったかもしれない。けれど、彼は現実を知っていた。
侯爵家嫡男であるセシルは、いずれ家を継がなければならない。貴族世界から逃げ出すことは許されない。それが、貴族の義務なのだ。
ずっと、ずっと逃げ出したかった世界。それでも、その願いは叶わないと知っていたから、諦めるように自分を含めたすべてを嘲笑うようにして、貴族世界に身を沈めた。
中途半端に理想を求めれば求めただけ辛くなる。夢を見られる余地はなくしてしまおうと思った。
その結果が、数多くの女性関係だった。
自分を心の底から軽蔑しながら、汚れた世界に身を落とした。
目を開け、身体を起こす。ついで椅子から立つと、空気を入れ換えるために窓を開けた。
風を感じることはないが、眼下に広がる庭園の緑が目に優しい。
目元を和ませながら見下ろしていると、一人の女中がそこにいた。銅色の髪を結った、娘。
「……エルー」
どうしてか、彼女のことが頭から離れず、気がつけば名前を調べていた。
気になってたまらない。彼女の紫の瞳に映りたい、と思う。
そうして、どれくらいの時間眺めていたのだろうか。
ふいに、背後から「セシル様?」という声がした。
驚き、両眉を上げながら振り返ると、女中のエリンが茶器の乗った盆を持って立っていた。
彼女は膝を折ることで礼をとる。
「勝手に入室して申し訳ありません。何度か扉を叩いたのですが、お返事がなかったので。もしや何かあったのではと……」
済まなそうに目を伏せるエリンに、セシルは表情を穏やかなものに変えた。
「いや、すまない。気がつかなかっただけだ」
セシルの答えにほっと息を吐いたエリンは、歩み、執務机に茶器を置く。
再び窓の外へと視線をやるセシルの耳鼻に、トポトポという茶が注がれる音と、芳しい香りが届いた。それでも、視線は一途にエステルへと向けられる。
庭園にいるエステルは、薔薇に触れながら品定めをしている様子だ。花瓶に活ける花を集めているのだろう。
「セシル様、それではわたくしはこれで失礼しますわ」
エリンが告げ、一礼した時だった。「待って」、とセシルが引きとめる。
エリンへと向き直ったセシルは、困り果てたような、神経を張り詰めるような、それらすべての感情を綯い交ぜにした表情で問うた。
「……女性がもらって喜ぶ物は、どんな物だ?」
エリンはつい、目を瞬いた。女性関係豊富なセシルに、わからないとは思えない。それでも、想像できる答えを口にする。
「そうですね……首飾りなどの宝飾品や花束はいかがでしょう?」
世間一般論を言ったつもりだが、セシルは落ち込むように溜息を吐いた。
――セシルも、そう思っていた。
ゆえに、エステルに贈り物を何度か捧げた。
今、セシルの脳裏にあるその時の記憶は、惨敗の連続としかいいようがない。
――宝飾品を贈ろうとした時、エステルは眉間に皺を寄せてこう言った。
「契約にないものはいただけません」
――桃色の薔薇の花束を贈ろうとした時、彼女は訝るようにこう言った。
「……。……花瓶を持ってはおりませんので」
しかし、今度のセシルは怯まなかった。宝飾品の後、何度も拒絶されて悟ったのだ。
だから、これまでの経験から、頑なに贈り物を拒む女性にどうしたら受け取ってもらえるか、という答えを分析していた。
セシルは残念そうに肩を竦め、悲しそうに薔薇を見つめる。
「そうか……。君が受け取らないなら、捨てるしかないな……」
浅ましくも、情に訴える作戦。だがしかし。
「土に還るのが早まる、ということですね」
結局、この日も敗北に終わったのである。
思い出せば虚しくなる、空振りっぷりである。
眉尻を下げながら、薔薇を選ぶエステルを見れば、その表情に感情は浮かんでいないものの、嫌そうではない。むしろ、どこか楽しそうだ。
「……植物が嫌い、というわけではないみたいなんだが……」
つまり、贈り物ではなくセシルを拒絶している、ということだろう。
エリンは初めて見る、捨てられた犬のような主に眉を上げた。ついで、彼の視線の先へと目を向ければ、同僚の女中がいた。銅色の髪の娘。彼女は常に表情はないが、エリンにとって不快な要素はなかった。
同僚ということもあり、彼女の部屋へ入る機会があったことを思い出す。
「エルーならば、桃色の薔薇を一輪だけ水飲みに活けていましたよ」
「え?」と呟いたセシルはエリンの微笑を見て、それが真実であると察する。直後、目を丸くしながら口元を片手で覆った。
「セシル様? お顔が赤いようですが……」
「いや、なんでもない。ありがとう、下がっていい」
顔を逸らしたセシルであったが、その顔が笑み崩れていることをエリンは悟る。
「失礼いたしました」
唇に弧を描き、エリンは衣を翻した。
――エリンが去って、すぐ後のことだった。
セシルは窓際に立ったまま茶を飲む。行儀が悪いとわかっていながら、エステルの姿を目で追ってしまう。そんな自分に自嘲しつつも、エステルが薔薇を集め終えるまで眺めていた。
すると、扉が叩かれる。
「入れ」と命じ、カップを机に置いた。
現れたのは、鉄色の髪を持つ近侍。少し吊り上った目尻の彼は、セシルの信頼する側近である。
その近侍は、複雑な面持ちで入室した。
「ご報告致します」
彼の手には、紙束があった。しかし、セシルはその日、彼から報告を受けるような仕事を命じた憶えはない。
不測の事態でもおきたのかと、セシルの顔にも真剣な色が浮かぶ。
「それは?」
紙束へと視線を下ろし、ついで近侍の瞳を見据えれば、彼は吐息をもらした後に主の瞳をまっすぐ見つめ返した。
「調書です。奥様から命じられ、調べたものです」
「……母上?」
セシルは眉を顰めた。
居心地の悪さを感じながら、近侍は続ける。
「奥様は、セシル様のご様子が変わられた理由は一人の娘だ、とおっしゃられました。ゆえ、その娘――エルーのことを調べよ、と」
若干表情が険しくなった主に、近侍は調書を差し出した。セシルはそれを受け取る。
「これが、その結果というわけか」
目を眇めながら手にした調書を捲るセシルであったが――ある頁に、目を瞠ることとなる。
*** *** ***
夜の帳がおり、使用人たちも部屋へ戻る時刻。
セシルは再びエステルを部屋へ呼んだ。
今度も、エステルは命に背くことなく部屋に招かれた。
前回と同じようで違うのは、硬質な空気が重く圧し掛かっていること。
けれどその張り詰めた空気に、今日のエステルも表情を機微も動かすことはなかった。
「お呼びでしょうか」
入室して部屋の中央まで進んだ彼女が、まず口にしたのはその言葉。
それまで執務机で調書に目を通していたセシルは、顔を上げた。硬い表情、優しい翠色をした瞳は、睫毛の陰のせいか暗い色をしている。
侯爵は調書を抛り、腰を上げる。そうしてゆっくりと、エステルの目の前まで歩んだ。
今この時ですら、エステルに動揺した様子はない。それは、セシルにとって自分を認識されてはいない錯覚を抱かせ、苛立たせる。
どうにかして、自分を認識させたいと思った。心に存在を刻みつけたい、そう願った。
その結果だろうか。
――彼は、暗い感情に惹かれてしまった。誘惑という甘美な毒は、少しずつ心へと浸透していく。
「――エステル・コーネリア・クラーク」
セシルが言った途端、目の前の娘は弾かれるように顔を上げた。彼女の瞳に自分が映っていることを確認し、胸が躍った気がした。
もっと、と思う。だから、言葉を紡ぐ。
「君のことを調べさせてもらった。……カイルと――カイル・セドリック・ハーシェルと、婚約していたそうだね」
自分で言いながら、苦さを覚えた。
そんなセシルの心を知らないエステルは、「……過去のことです」と反駁した。それは、かつて婚約していたことを認める言葉。
セシルの顔がわずかに歪む。――心のどこかで、否定してほしかったのだ。
カイルと婚約していたことを否定してほしかったのではなく、自分以外の男と婚約していたことを否定してほしかった。その、自分の心に気づくと、自嘲するしかできなかった。
「……どうして、ここに来た?」
どこか縋るような気持ちで問う。その理由がかつての婚約者のためだったなら――密偵として忍んでいたなら、セシルにはエステルの心に入り込む余地などない。
けれど、エステルの答えは違った。
「……居場所が、わからなくなったんです」
そう、彼女は始めた。
「婚約が破棄されて、心がからっぽになってから、自分が何をすべきか、何をしたいのかわからなくなりました。そんな時、女中たちが話しているのを聞きました。恋人を奪われた女性の話だった。私と違うけれど、似ていると、思った。女中たちは、もし自分だったら、元恋人が悔しがることをして仕返しすると言いました。答えを見つけたと、思った。――ならば私は、カイル様がかねてから好敵手だと……負けたくないと言っていた、セシル様の役に少しでも立とうと思いました。それがどんな形でもかまわなかった。洗濯するでも、掃除をするでも……」
静かな声で、そう締め括る。
語った彼女には、悲しさも悔しさも浮かんではいない。それがセシルに、エステルが女中になった理由が言葉の通りなのだと思わせた。
セシルはエステルを見下ろし、告げる。
「――君を、解雇する」
エステルはただ、「はい」と答えた。
薄い反応を見せた彼女の、纏められた銅色の髪をセシルは解く。長時間結われ、くせのついた銅色の髪がさらりと背に流れた。
その髪の一束を手にとると、セシルはそっと口づける。
「……だが、情報の漏洩は困る。微々たる可能性でも、潰さねばならない」
目を瞬くエステルの両頬を両手で挟んで固定し、己の顔を吐息がかかる距離まで寄せた。
「君を、この邸から出すことはできない」
エステルは不思議そうに目を丸くした。職は解雇、しかし邸から出さない。矛盾しているように思ったのだろう。
けれどセシルはその疑問に答えず、笑んだ。泣くように切なく、顔を歪ませて。
「……セシル、さ――」
エステルが名を呼ぶが、それを遮って強く抱きしめた。閉じ込めるように、強く力を込める。髪に顔を埋めて、黒く染まった欲望のまま、甘く囁く。
「どこにも、行かせない――」
誰のところへも。
続く言葉は、心の中だけで独り言ちた。