2.無表情な女中
――女中の話は、まさに男爵令嬢 エステルの状況によく似ていた。
幼馴染の子爵令嬢 カレン、侯爵家嫡男 カイル。
エステルにとって無二の存在であった。
カイルに至っては婚約していた。けれど、今やその約束は破棄されている。エステルの不貞を疑ったカイルが一方的に破棄を望んだのだ。
エステルの家族すら彼女の不貞を信じた。カイルの家が男爵家よりも爵位が高い侯爵家ということもあり、彼の望むまま、あっという間に婚約の話はなくなった。
それは、親友であったカレンが皆にエステルの不貞を話したという事実と共に。
エステルは、すべてを失ったと思った。自分の立ち位置も見失い、どうすればいいのか、どう振舞えばいいのかすら、わからなくなった。
……そんな時に聞いた女中の話は、エステルの道筋を少しだけ照らした。
――元婚約者が悔しがる方法。
悩んだ末に彼女が決めたのは、カイルが好敵手だと度々口にしていた、キング侯爵セシルに仕えることだった。彼の心を射止めようなど、わずかなりとも思わない。ただ、多少なりともセシルの役に立てたなら、それでよかった。
もし、セシルが誰からも賞賛されるような侯爵になったなら、カイルは焦燥感を抱くだろうか? 悔しいだろうか? ――そうであればいい。
その想いが叶えば、エステルは十分なのだ。
セシル・ラフェーエル・キング。
現侯爵であり、カイルと同じ二十三歳。三年前まで王宮で騎士見習いをしていたが、騎士叙任式を経て正式に騎士の称号を得る。そうして、病弱の父から代替わりし、侯爵に就任した。
風の噂では、セシルの女性関係は華々しいと聞く。どんな花も――可憐であっても、妖艶であっても――彼にかかればいとも容易く摘まれていくのだ。しかし、本気の恋はしない。それが変わる事のない彼のきまり。
そして、その噂の真実をエステルは自分の目をもって知ることになる。
*** *** ***
広い回廊の片側に並ぶ大きな窓は採光が考えられて作られているために、日中は火がなくとも十分明るい。昼過ぎであるため燭台が必要ないのは当然であるが、淡い色味をした回廊が光を反射することで眩しくすら感じる。
回廊には掃除をしている女中が数名いるものの、一人につき範囲が決められているため言葉を交わすことは適わない。
その数名の内一人が、キング侯爵家の女中となったエステルである。カイルの元婚約者とわからぬよう、名は”エルー”と偽った。
窓枠を拭くエステルは、もう片側にある扉に背を向けている。慣れぬ仕事に、動きはまだ鈍い。
遠くから、先輩女中が「エルー」と名を呼んだ。
エステルが彼女の方へと顔を向ければ、彼女は手ぶりで「先に移動して別の場所を掃除している」という旨を伝えた。「了解」を伝えるため、エステルが頷く。すると、先輩女中は踵を返し、やがて角を曲がることでその姿は見えなくなった。
自分が担当している窓枠を拭き終える頃、辺りを見回すと女中は他に誰もいない。皆、次の持ち場へと移ったようだ。
それぞれに担当が決められているため、誰かが他の者の持ち場を手伝うことは滅多にない。それは女中として雇われ、金銭を受け取る対価なのだ。もちろんエステルに文句などない。まだ、不慣れなエステルのために、同僚たちと比べ仕事量を少なくしてくれさえいるのだ。
おそらく、他の者たちの負担になっていることだろう。その事実に、情けなくなった。
「……早く、動けるようにならなくちゃ」
拳を握って頷き、すぐさま足元に置かれた桶の取っ手に手を伸ばした――その時。
突如、背後の扉が開く。
エステルは慌てて桶を隠すように立ち、頭を下げた。その姿勢のまま視線を上げれば、ドレスの裾とよく磨かれた男性ものの革靴が見える。靴の主は、セシルで間違いないだろう。
口づけの音が回廊に響き、エステルは気まずさを覚えた。
視線の先にあるドレスの主が向きを変え、セシルと距離をとる。それから数歩歩んだかと思えば、彼女はぴたりと立ち止まる。
女性はセシルに背を向けたまま、囁いた。
「……引きとめてはくださらないのね」
返答はない。小さな囁きだったが、エステルにも聞こえたのだ。セシルに聞こえぬはずはないのに。
少しの間の後、女性はエステルの視界から消えた。
(きっと、追いかけてほしかったのね)
なんとはなしに、そう思う。
けれど、今のエステルが同情することはなかった。”恋”を心が拒絶していた。だから、誰かの恋心にも己の心を揺らしたくはない。
女性の足音が聞こえなくなると、今度は程よく低い声が降ってきた。
「顔を上げてかまわないよ」
そうは言うが、結局は命令である。エステルはそのままに従った。
目の前に立つセシルの装いは、軽く着崩されている。ボタンが一、二個とめられていないために覗く首もと、軽く梳いただけでさらりと流れる淡い金の髪が無防備さと色香を放つ。
彼の容姿は、もともと眉目秀麗だ。絵画の中の美しい神々のような顔立ちは侵してはならない神域を感じさせる。一方で、優しげな翠の瞳に惹きつけられ、触れたくもなる。魅惑的な男だとエステルは思った。ただそれも、客観的な考えに他ならない。
セシルは唇についた真紅の紅を親指の腹で拭いながら、口角を上げた。先ほどの女性との口づけでついた紅であるが、その紅も、それを落とす仕草でさえ凄艶さを醸す。
翠の瞳に射ぬかれたエステルは、それでも無表情で返した。
彼は不思議と、さらに笑みを深めた。
(きれいな色だけど、感情のない瞳ね……)
それがいいとも悪いとも思わない。もったいないとも思わない。ただ、感情を読ませない笑みと瞳に居心地の悪さを抱いた。
セシルは目を細め、問う。
「――私を最低だと思う?」
エステルはセシルの目を見つめたまま答える。
「判じかねます」
事実、どうとも思わなかった。そもそも、セシルが本気の恋をしないことは有名である。つまり、先刻の女性も一時の恋であることは承知の上の筈だ。しかし、未練を感じさせる言葉を残していった。――遊びの恋が、本気に変化した。
――勝手なのは、どちらだろうか。
エステルはそう思いながら、侯爵の反応を待った。
なにも言わず、ただ目を丸くして佇むセシル。
エステルは内心首を捻りながら、なお反応を見守る。早く仕事に戻りたいが、使用人の身からそれを口にするわけにはいかない。
やがてセシルは表情を改めた。
「……夜、仕事が終わった後、私の部屋へ来てくれ」
それだけ告げると、返事を待たずしてセシルは身を翻す。どの道、エステルに拒否権などなかったけれども。
*** *** ***
夜、エステルは命令通りセシルの部屋の前にいた。
すでに使用人の誰も回廊にはいない。
静かな、闇に包まれたそこは物悲しい空間だった。
目の前の、閉ざされた扉。この向こうに、主はいるのだろう。
――まったく予想しなかったわけではない。
エステルの家族は父を除いて皆、女であるために、邸に住まう貴族が使用人の娘に手を出すことはなかった。そも、父は色恋に疎いようで、そういった相手は妻であるエステルの母だけで満足していた。
しかし、他の邸では違う。エステルが参加した夜会では、邸の主が侍女との間にもうけた別腹の子の話題も耳にしたことがあるし、”庶子”という言葉が蔓延る貴族社会で、愛人となる女が身近にいる女でもおかしな話ではない。それこそ、使用人の女たちに手を出すのは邸の主だけではなく、彼の息子たちである可能性も十分高い。
だからこそ、覚悟していなかった、というわけではなかった。
だが、いざ自分の身にふりかかると、どうするべきか困惑する。
エステルは男爵令嬢なのだ。そんな自分が孕めば、醜聞だけでなく、血の継承についての問題も浮上する。エステルがただ男爵令嬢だというだけなら、まだよかったかもしれない。しかし、彼女はキング侯爵家の天敵ともいえるハーシェル侯爵家嫡男の婚約者であったのだ。今、ハーシェル家とエステルの実家はおおよそ関わりはない。けれど、世間はそう思わない。
セシルがエステルのことを承知の上で抱き、子ができた際認知すれば話は別だが、もし、かつてカイルと婚約していたことを知っているなら、セシルはエステルを部屋に呼んではいないだろう。さっさと解雇する可能性の方が高い。
それでも、今のエステルには選択肢があまりに少なかった。
解雇を覚悟で堂々命に背くか、言い訳を作って今日は辞すか、受け入れるか。”言い訳”という手段にとても甘美な誘惑を覚えながら、結局エステルは受け入れることを選んだ。それは、どうせ今日、その作戦が成功したとしても、ただ引き伸ばすだけの行為だと気づいていたから。
小さく溜息を吐き、目を閉じる。
己の気持ちを確認すれば、緊張はしているものの、”嫌”や”嬉しい”という感情はなかった。そのことに、安堵する。
――苦しいのも、悲しいのもいらない。
――心はからっぽのままでいい。
――でも、中身のないからっぽの容器ならば、きっといらない。
エステルは薄く目を開き、指先で顔にふれる。
口尻は上がりも下がりもしていない。頬は引き攣ることなく、筋肉の動きも感じない。――失われた表情は、そのまま。
(……これで、いい)
ぽつりと、心の中で呟く。
そうして、扉を叩いた。
入室の許可がおり、入った部屋には灯りがともされてはいなかった。
大きな窓から射し込む月光だけが明かりだ。
(今日は満月だったのね)と、エステルはどうでもいいことを考える。
乳白の光を放つ月を背に、セシルは執務机の前に立っていた。表情ははっきりとわからないが、なんとなく、いつものような虚無的な笑みを浮かべているような気がした。
閉じた扉の前で、主に対する礼をとる。顔を上げれば、セシルはエステルを小招いた。
指示通り歩むと、セシルは目前だった。
エステルは無言のまま、セシルを見上げる。
彼は目を細めてエステルの頬を手のひらで包んだ。セシルの親指は、挑発するようにエステルの唇を優しく撫でる。
なんの反応も見せない彼女に、彼はさらに口角を上げた。
「君は不思議な女だね。こうして触れても、照れも動揺も媚びも見せない。――でも、笑みの一つくらいは浮かべてほしいかな?」
言葉遊びだったのかもしれない。けれど、エステルは淡々と答えた。
「それは、命令ですか?」
そう答えたエステルの紫の瞳に、苛立ちの色はない。つまり、この言葉に深い意味はないのだろう。そう読み取ったセシルは苦笑した。
「そうだな……一度だけでも、見てみたいかな」
「……かしこまりました」
エステルの言葉に、セシルはわずかに目を見開く。
そのことを気にとめることなく、エステルは睫毛を伏せた。
(……笑う。どうやって、笑っていたかしら?)
もう、憶えていない。ただ、かつては意識せずともそうできていたような気がする。
ならば、その当時、どうして笑っていたかを思い出せばもう一度笑えるだろうか。
心には触れず、記憶を弄る。
――胸が痛くなる記憶の中に、楽しかった日々も確かにあった。
幼い頃、カイルが白詰草でつくった花冠をくれた。
騎士になるため、王宮へ行ってしまってからは、たくさんの文を交わした。
病気になった時、心配しながら、優しく甘やかしてくれた。
思い出せば切りがない。
――きっと、あの頃は笑っていた。
(……痛い)
胸が痛くて、締めつけられるように苦しい。懐かしさは眩く、今では直視することもかなわない。
笑うことが、こんなにも切なく難しいものだとは思わなかった。
それでも、笑った。笑みを浮かべることが、できたと、思った。
――けれど。
エステルの笑みを見たセシルは、それまでの表情を廃して瞠目した。
その理由をエステルが知るのは、自分の顎から雫が落ちた時だった。……涙が、頬を伝っていた。
(――ああ、失敗してしまったわ)
ぼんやりと、そう思った。