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臨時侍女エリン

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 その邸の一角に阿鼻叫喚が響き渡ったのは、太陽が地平へと沈みゆく夕方のことだった。声の発生場所はとある一室で、悲鳴はこの部屋の主 エステルのものである。そして彼女が絶叫するに至ったのは、臨時侍女メイドをしているエリンの按摩が原因だ。



 明かりは寝台に置かれたナイトテーブル一つだから、室内は全体的に薄暗い。さらに、空間に満ちる香油の甘い香りによって、その部屋だけどこか神秘的な雰囲気が生んでいた。

 侍女服の袖をまくり上げたエリンはほのかな笑みを浮かべ、寝台にうつ伏せで横たわるエステルを見下ろす。香油に濡れた両手でエステルの素肌――といっても、下半身は大きな布で覆われ、上半身の隠すべき部分は寝台に伏せられているから見えないので、背中だけ――に触れ、先ほどまで行っていた按摩――エステルの阿鼻叫喚によって一時中断していた――を再開させるべく、手をゆっくりと動かす。

「エステル様、大げさです。まるで拷問にあっているかのような悲鳴でしたわ」

 エリンが優しく慰めるように背中を撫でれば、エステルは首をぷるぷると横に振った。

「大げさじゃない……大げさじゃないわ! あまりの痛さにお花畑が見えるかと思ったんだから!」

 必死に反駁するエステルにエリンはくすくすと軽やかな笑声を零す。

「それは、エステル様の様々な箇所が凝っているからです。それに按摩で亡くなった方がいるなんて聞いたこともありませんし――美しくなりたい女性ならば、誰もが経験していることなのですから、大丈夫ですわ」

「一体なにが大丈夫なのかわからないっ。命!? 命が大丈夫ということっ!??」

 涙目でエリンを振り仰いだエステル。彼女は涙目でじっとエリンを凝視したが、片やエリンは微笑むだけでなにも答えなかった。数拍して、やはり返答はしないままエリンは告げる。

「さぁ、エステル様、いきますわよ? 一休みばかりでは明日になってしまいますから」

 瞬間、ヒッとエステルが息を呑んだけれど、容赦なくエリンは再びエステルを揉み解し始めた。




***   ***   ***




 さて、ここから少し裏話である。

 エリンはセシルの母である女主人からも認められる按摩の腕を持つ。――キング侯爵領に本部を置き、大きな街に店を出しては荒稼ぎをするウィンベリー商会の会長エルマーとその妻ソニアの第三子、要するに使用人に傅かれる豪商出身の彼女が、だ。

 彼女の立場ならば、むしろ按摩を施されることはあってもその技術を身に着ける必要などないだろう。

 では、なぜそんなお嬢様育ちのエリンが按摩技術を有すのか――それは、かの家には習わしがあったからに他ならない。その習わしとは『この家に生まれた者は皆、一芸を身につけるべし』というもの。

 とはいっても、この”一芸”というのは、楽器や舞踏といった一芸のことではなかった。

 例を挙げよう。例えば、ウィンベリー夫妻の第一子エリックは一芸として専門的な会計に関する知識を始め、高速の計算力を身に着けた。また第二子エミリアは巧みな社交術と高度な裁縫技術、そしてそれに関する造形力を学んだ。最後に、第三子エリンと年齢の離れた末の弟エドガーは、芸術の才を見込まれて現在は芸術の盛んな国へ留学中である。

 このように、ウィンベリー家のいう一芸とは、お嬢様芸やお坊ちゃん芸とは一線を画す内容なのだ。

 傍から見れば、商会を継ぐだろうエリックの会計学や算術、また将来絵画などの買い付けに役立つだろうエドガーの一芸は身に着けるとして納得できたとしても、エミリアやエリンの能力は豪商の娘として必須とは思えない。そもそも、親の後を継ぐ予定のない彼女らはいずれ嫁ぐ可能性が高いし、良縁探しも多額の持参金を用意すればそう労せずして見つかるだろう。そうして選りすぐった嫁ぎ先では、本格的な労働を強いられるとは考えにくい。

 それでも、ウィンベリー家は二人の娘に一芸を身につけさせた。その理由は何故なのか。

 答えは、商会に悪い報せがあっても一人で生き抜けるようにという先祖代々の親心と、可愛い我が子といえども商人の子供であるからには、商会の手となり足となって、貴族との伝手を作る手駒となる為である。

 一芸という特技を身につけさせた娘を行儀見習いとして貴族の邸で働かせることで、貴族間や使用人間の情報を盗み、伝手を作り、結婚時の箔付けにもなるという一石何鳥が発生する。商人ならば、この機会を逃す手はないのだ。

 そんなこんなで、ウィンベリー家第三子エリンも一芸――美容の知識と技術、それも按摩に特化――を身に着けていたりする。




***   ***   ***




「痛たたたたた――――っ!」

「エステル様は本当に揉み解しがいがありますわ。こんなにむくんでいますし、凝ってらっしゃるのですもの」

「きゃぁあああああ――――――っ!!」

 繰り返される絶叫。繰り広げられる地獄絵図。それでもエリンの手は止まらない。

 涼しい顔で按摩するエリンの姿は、まるでエステルを痛めつけて楽しんでいるように見えるだろうが、なにも、エリンはエステルへの嫌がらせに按摩しているのではない。明日、エステルにとっての大舞台が控えているから、侍女として、また親しい者としてエステルの凝りを揉み解しているだけだ。

 エリンの勝手な我儘かもしれないけれど、これから挑む大舞台で、むくみの酷い主を晒したくはない。エステルには、万全の状態で大舞台に乗り込んでほしいのだ。ゆえに、エリンは容赦しなかった。


 不意に、エリンの耳がエステルの悲鳴とは違う音を拾う。その音は、部屋の向こうにある通路を歩く靴音のようだ。廊下の床には絨毯が敷かれているから靴音はあまり聞こえない筈だが、それでもコツコツと聞こえるのは、恐らくこの部屋の様子が気になった者達が絨毯の敷かれていない端を歩いているのかもしれない。その靴音も様々で、一刻も早くこの部屋から遠ざかりたいと言わんばかりの足早なものから、部屋でなにが起こっているのか気になってたまらなそうな、亀の如くゆっくりなものまである。通行人は使用人だろうが、彼ら彼女らの性格が靴音からもわかるらしいとエリンは思った。


 さて、それでも部屋を訪れる勇気を持った者はまだ一人として訪れてはいない。このまま誰も来ずに無事按摩が終了するかも――とエリンが考えた時だった。

 エステルの悲鳴にまじって、廊下と部屋を隔てる扉が叩かれた。

「あら」と呟くエリン。エステルは「……勇者さまが……あらわれ、た……」と息も絶え絶えに顔を枕に埋めた。

「少々お待ちくださいませ」

 そう告げて、エステルの素肌が見えないよう上半身にもタオルをかけ、エリンは扉へと歩を進める。ついで、主の姿が見えないよう配慮しながら小さく扉を開いた。

「ご用でしょうか?」

 扉の隙間から、光で満たされた廊下の明かりが零れる。よって、暗さに目が慣れてしまったエリンは、目を眇めて来訪者を見た。

 逆光を受ける来訪者は「あー……用というほどでもないんだが……」と後頭部を掻きながら苦笑した。そして、何故か口ごもる。

「……アール様?」

 慣れてきた目で青年を見上げるエリンに、アールは躊躇いがちに問うた。

「エリン、汗がすごいけど、なにかあったのか? その……ここを通ったみんなが、部屋から悲鳴が聞こえるって噂してたんだが」

 それにエリンは、上品に手の甲でこめかみから流れる汗を拭いながら、邪気なく微笑を浮かべて答える。

「なにか、ですか? ……とくに護衛の方を呼ぶような事態は生じておりませんわ。むしろ、ただ今乙女の秘め事中ですから、男性は立ち入り禁止です。心配はいりませんので、お気遣いなく」

「……秘め事?」

 首を傾げる青年に、エリンは重く頷く。

「ただ今エステル様は素肌を晒しておいでです。――まさか、乙女の秘め事を探るおつもりですか?」

「いや、そういうつもりでは……」

 目線を逸らしたアールに、エリンは笑みを深めた。

「そうですわよね。アール様ともあろう方が、乙女の秘め事を根掘り葉掘りお尋ねするなんてことも……もちろんありませんわよね?」

「あ、ああ」

 眉尻を下げながら頷いたアールをいいことに、エリンは一度頷いてから鋭い瞳で目の前の青年を見上げて言った。

「では、わたくしは忙しいので、これで失礼致しますわ」

 そうしてこれ以上の会話は不要とばかりに、早々に扉を閉める。

「うぅ……勇者さまは……」

 部屋の奥で、エステルが救いを求めて唸る。それにエリンは、主との距離を縮めながら答えた。

「去りましたわ」

「そんな……っ」

 がばりと枕から顔を上げたエステルは、自身にかかる影の主を恐る恐る見やった。そこには、悪魔――どころか魔王の微笑みを刻むエリンの姿。

「再開しましょう、エステル様」

 エリンの言葉に顔を歪めるエステルを無視して、エリンは準備運動とばかりに腕と手首を回す。

 そして次の瞬間、数分ぶりの阿鼻叫喚がその部屋に響き渡った。




***   ***   ***




 この後、アールの退散を機に、悲鳴は多分、恐らく、緊急事態でも事件が原因でもないと判じられ、エステルを助け出そうとした者は一人として現れることはなかった。

 ちなみに、エステルを救えただろう残り一人の勇者候補セシルは、この時仮眠中だったという。



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