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侯爵様の婚約者(2012.4.23 ブログ初出)

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 燦々と光が降り注ぐ陽気な日。そんな日は、休憩時間を見計らってエステルは庭園で読書に励む。

 キング侯爵家の次代女主人となるべく、日々、婚約者セシルの母から教えを受けながら女主人の仕事を手伝っているが、休憩時間ももちろん存在するのだ。

 キング侯爵邸の図書室は広く、保管されている本の数も多い。種類も豊富で、エステルはそこで借りてきた本を大きな木の下に設置されている長椅子で読むのを日課としていた。その定位置は、晴れの日には木の葉の隙間から太陽の光が零れ、木陰はほどよく涼やかな場所を提供してくれる。

 そんな心地よい場所で、現在エステルが読んでいるのは『髪の歴史』という書名の本であった。どうしてそんな本を――と赤の他人が見れば不思議だが、背表紙に綺麗な装飾が施され興味惹かれたのだ。始めはどのような本なのかエステルも把握せずにそれを手に取り、表紙を開いた。そこで髪についての本だとようやく気づいたが、何気なくペラペラと頁を捲ってみるとなかなかに興味深いことこの上ない内容だった。

 ある時代は、公的な場で男性がきつく巻かれた、嵩の大きな鬘を被っていたらしい。またある時代は、女性が金髪に焦がれ、屋根裏の窓の下、髪を太陽の光にさらして脱色を試みたという。

 思えばエステルの参加する夜会にも、鬘をつけて参加する女性は少なくない。けれど今の時代は髪型を工夫するために使用することが多いから、目的は違う。きっと、こうして新たな歴史の一頁が増えていくのだろう。

 そんなことを考えながら本を繰っていくと、エステルはある文章に目を留めた。

『髪が柔らかく、脂体質の人は禿げやすい。遺伝の可能性もある』

「……あら、そうなの」

 この時のエステルは、その記述についてどこか他人事のように思っていたのである。




「エステル」

 名を呼ばれ、視界が陰り見上げれば、目の前には婚約者が立っていた。

「なんの本を読んでいたんだ?」

 日光が眩しいのか、目を細めながら彼はエステルの隣に腰掛ける。

「『髪の歴史』という本です。なかなか面白いですよ」

 言うと、セシルは開かれた頁に栞を挟んだ。

 エステルがセシルへと顔を向ければ、「かまって」と言うように舞い落ちた羽根が触れるほどの優しい口付けが落とされる。そんな甘えた素振りも愛おしく、エステルは素直に本を閉じた。

 すると、こてん、とエステルの肩にセシルは頭をもたげる。

「今日は甘えたですね、セシル様」

「そうか? ……そうかもしれない」

 二人でくすくすと笑う。エステルはセシルの頭を撫でた。

(……あら。……)

 セシルの淡い金髪。緩く癖づき、柔らかい髪質。

(あらあらあら)

 エステルはセシルの髪を指で梳きながら、表情をなくす。

(……べ、別に、どんなセシル様でも素敵だと思うわ)

 そう、エステルはセシルの容姿に惚れ込んだわけではない。だが。

(素敵だけれど……維持、存続のために努力するのは大切よね?)

 質や量が永遠に保たれなかったとしても、管理を怠らないことでそれが一秒でも長く続くというのなら。

(そうよ、セシル様の髪を一本でも多く維持するために……!)

 脳裏を過ぎる『髪が柔らかく、脂体質の人は禿げやすい。遺伝の可能性もある』という一文は、エステルの闘志に火をつけた。




***   ***   ***




 夜の帳がすっかりおりた時刻、空には煌々と満月が浮かぶ。

 その月は、セシルの髪と同じ色をしていた。そして満月という円形は……もしかしたら将来ツルッとしたセシルの頭の形かもしれない。

 そんなことを思考しながら、窓辺に佇んで睨みつけるように月を眺めていたエステルを、セシルは背後から壊れ物を扱うように抱きしめる。

「綺麗な月だな」

 セシルはエステルの頬に己のそれを寄せようと、少し屈む。拍子に、エステルの顔にセシルの髪が流れる。

(……やっぱり、セシル様の髪、柔らかい)

 そう思い、エステルは身体を捩ってセシルの腕から抜け出した。

「……エステル?」

 怪訝な顔をした彼。それはそうだろう。セシルはエステルがなにを考えているのか、さっぱりわかっていないのだ。

 エステルはセシルへと向かい合う。ついで彼の両腕をがっしと掴み、真摯な目で見つめた。

「……セシル様」

「ん?」

 首を傾げたセシルは、今日も今日とて麗しい。が、もしその髪がなくなったら――。

(違和感。太って歳をとって禿げるのはよくあると思うけれど……若いセシル様が早々にツルッとなさったら……違和感。いえ、私の感情なんてどうでもいいわ。……そんなことよりも、もしセシル様が夜会へ行って後ろ指をさされて傷つきでもしたら……っ!)

 だから、とエステルは一人頷く。

「セシル様、お尋ねします」

「ああ?」

「セシル様のご親族……いえ、お父様は……その、ですね……ふさふさですか?」

「……は?」

 セシルは目を点にした。突然なんの脈絡もない話をされ、なにを訊かれたのかわからなかったのだ。

「ふさふさ……?」

 セシルが呟く。他方で、わたわたと視線を彷徨わせるエステル。しかし、彼女はある一点を凝視していた。その一点が自分の髪だと気づいた彼は、「ああ」と一房前髪をつまみ、上目でそれを見つめた。

「髪のことか? 父は白髪がまじりつつはあるが、髪はあるよ」

 髪をはなし、穏やかに笑む。

 セシルの回答を受け、エステルは安堵するように表情を和ませながら次なる質問を言葉にした。

「では、あの、お爺様は……?」

「詳しくはわからないが、あったんじゃないかな。伯父らは早世してしまったから、そういった情報はないけれど」

「そ、そうですか」

 ほっと胸を撫で下ろしたエステルに、セシルは首を捻る。

「髪がどうかしたのか?」

 セシルにとっては素朴な疑問だろう。だが、エステルは身体をびくりと弾ませると、「いえいえいえお気になさらず」と言いながら、へらりと笑った。――言えるわけがない。婚約者の毛根を気にしているだなんて。

 それでもとりあえず、もうひと踏ん張りと思って問うてみる。

「そういえばセシル様は、どのように洗髪をしていらっしゃいますか?」

 セシルはやはり不思議そうにしながらも答えた。

「適当に……洗髪料をつけてガシガシと。従騎士時代は湯浴みの時間がとにかく短かったから、その癖かな」

 直後、エステルの表情は固まった。

(……なんてことかしら!)

 これは一刻も早く対策を練らなければならない。――そう、誰かを当てにしてはいられない。ならばいっそ自分の手で!

 そう密かに誓ったエステルは、セシルに勘付かれる前にとセシルの腕に己の腕を絡ませる。誤魔化すようにぎゅう、としがみつけば、彼は婚約者が自分に甘えていると思ったらしく破顔した。

 この機会を逃してはならない。エステルは決意し、婚約者を上目で見つめる。”おねだり”などエステルは不慣れであるが、それでも必死に甘える素振りを見せた。

「セシル様、あのですね……入浴の際、髪だけは洗わずにいてください」

「……なぜだ?」

「セシル様が湯からあがったら、私が洗面台を使ってセシル様の髪を洗いますから」

 目を瞬くセシルに、エステルはもう一押しだと一人意気込んだ。セシルに考える隙を与えてはならない。疑問を投げかける隙も与えてはならない。

(すべては、セシル様の髪を一本でも長持ちさせるためにっ)

 心の中でもう一度決意を新たにし、言葉を紡ぐ。その際、上目遣いは忘れない。

「駄目、ですか?」

 目を潤ませるといい、と女中時代に聞いたこともあるけれど、そんな芸当エステルにはできない。ゆえに、とにかく自分にできる精一杯を振り絞った。

「……わかった」

 頬をにわかに赤く染めたセシルが頷く。よく理解していなさそうな顔をしていたが、エステルにとってはむしろ望むところである。

 そして、エステルは満足げに笑みながら、今後自分がするべきことを思い描く。

(まずは頭皮にいい洗髪料の取り寄せ、次に頭皮にいい洗い方を調べなくちゃ)

 婚約者がそんなことを考えているのだと、侯爵様は知らない。



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