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もし、侯爵世界に日本的バレンタインデーがあったら




『クラーク男爵領のある地方には、バレンタインデーが存在しておりません。

 エステル様からのチョコレートは期待なさらないことを進言いたします』


 その手紙が届いたのは、ひとつきほど前のこと。

 送り主は、現在もクラーク男爵家で女中をしているマーサからだった。

 かつてはエステルの様子を気にかけてくれるよう派遣した彼女であるが、今は文化差について報告をくれるよう頼んでいる。




***   ***   ***




 執務机で仕事をこなしていたセシルは、顔をあげた。

 長時間書類仕事をしていたせいか、肩がこっていた。

 片肩に反対側の手を置きつつ腕をまわす。

 不意に扉が叩かれ、腕をおろす。

「入れ」

 短く告げれば、アールが現れた。彼の手元に積まれた書類があることから、追加の仕事であることがわかる。

 引き攣る口元をなんとか誤魔化してみたが、アールには通用しなかったらしい。

 彼はげんなりとしたセシルの顔に気づき、眉尻をさげて笑った。

「エステル様ではなくて申し訳ありません。これ、ご想像どおりの追加です」

 そう言って机の隅にある、山積み書類の上にそれをのせた。

 同時に、セシルは眉間に皺を寄せて問うた。

「……エステルと、なぜ期待したと思ったんだ? エステルはあまり執務室に来ないが……」

 首を傾げるセシルに、むしろアールこそが首を捻る。

「だって今日、二月十四日ですよ? バレンタインデーじゃないですか。……セシル様、お忘れだったんですか? 邸中の女の子がみんなはしゃいでいるのに」

 アールの言葉に、セシルは目を瞬く。

(ああ、そうか)と思った。

 ひとり頷く主を見て、苦笑したアールは言う。

「恋人同士の日をお忘れになるなんて、お疲れとしか思えません。どうか今日は早々に仕事を切り上げてはいかがでしょう? エステル様のためにもなるでしょうし」

 言いたいことを言うと、アールは踵を返して扉の向こうへと消えていった。


 取り残されたセシルは、ふとマーサからの手紙を思い出し、ため息をつく。


『エステル様からのチョコレートは期待なさらないことを進言いたします』


(チョコレートは期待するな、か)

 苦い記憶に渋面をつくる。

 別に、チョコレートがほしいわけではない。甘いものは嫌いではないし、エステルの作る菓子は好きだが、だからといって「ほしい」と縋りついてねだるものではないだろう。

 ……だが。

 気持ちを代弁するものが二月十四日に限ってチョコレートだというのなら、欲しくないわけがない。

 もやもやと渦巻く感情を払拭しようと窓へと視線をやれば、硝子の向こうの庭園で男女がなにやらをやりとりしている姿が見えた。

「…………」

 別に、男女のあれやこれに口を挟むほど野暮ではない。

 野暮ではない、が。

(…………いっそバレンタインデーなんぞ滅べばいいのに)

 ……いや、本気で思っているわけではない。本気では……多分、ない。

 しばし恨めしげに庭園を睨めつける。

 つい出てしまう溜め息。

 生産性のない行動をする自分に自嘲した。

 ついで、少しばかりやさぐれつつ視線を室内に戻し――立ち上がった。




***   ***   ***




「あら? セシル様?」

 庭園の一角で香草の世話をしていたエステルは、歩んでくるセシルに駆け寄った。

「どうなさったんですか?」

 セシルの目の前に立ち、銅色の髪を揺らす。

 一方、質問を投げかけられたセシルは視線を彷徨わせた。

 直後、なぜか天を仰いで返答する。

「……書類とにらめっこばかりで身体がなまったから、気分転換だ。……今日は寒いな」

 何気なく口にする。

 エステルはセシルの答えに納得したのか、「そうですね、もう二月ですからねぇ」と頷いた。そのやりとりは、まるで余生を過ごす老夫婦のようだったと、二人を目撃した使用人は後に語ったらしい。

 さて、その時のセシルといえば、それとなく……それとなく、気がかりをなくそうと奮闘をはじめたところだった。

「……もう二月、か」

 呟くと、ごほん、と一度咳払いした。

 そして、続ける。

「何日だったかな?」

「十四日です」

「そうか、十四日か。……………………」

「……? …………」

 それは、エステルがバレンタインデーを知っているのか聞き出すための、奮闘。これでも、セシルにとっては十分努力した結果だった。

(……エステルはやはり知らないんだな)

 セシルは、がっかり、がっくり、という言葉など比較対象にならないくらいの凹みを心に感じる。

 そうして苦笑を残し、再び邸へと戻っていった。




***   ***   ***




 夕食を終えた後も、セシルは書類と顔を合わせていた。

 今日は常に比べて仕事が多い。

 つい、エステルに好意を向ける男の嫌がらせか、もしくは呪いか、と思うが……カイルもバレンタインデーを知らないか、はたまた知っていても、エステルからチョコレートをもらったことがないだろう、という結論に至り、少しばかり同情する。

(……駄目だな。今日は無駄に卑屈だ)

 自己嫌悪に陥った。

 チョコレートがもらえないからなんだというのか。エステルの実家の地方にはその文化がないだけだ。別に好意がどうの、という問題ではない。

 それに、エステルは婚約者だ。

 これまで、隣にいることも許されなかったのに、今では隣にいることが当たり前の立場になったのだ。――それだけで、十分であるはずなのだ。

 セシルは書類を机をほうると、手のひらで目を覆った。

(どんどん貪欲になっていくな……)

 それは、とても幸せなこと。

 これまでは、貪欲になることも許されていない気がしていたから。


 しばらく瞑目していると、扉が叩かれ、声がした。

「セシル様、お邪魔してもよろしいですか?」

 エステルの声だ。

 驚き、姿勢を正したセシルが「入ってくれ」と伝えると、扉が開かれ、エステルが顔を覗かせる。

 現れたエステルは、カップをのせた盆を手にセシルのもとへと歩み寄った。

「エステル?」

 疲労の滲んだ顔に笑みを浮かべれば、エステルはカップを机に置く。

「……無理しないでくださいね」

 エステルは気遣わしげに上目でセシルを見つめた。

「ああ、ありがとう」とセシルは言葉を紡ぐと、カップから漂う甘い芳香に気づく。

 そちらへと視線を落とす。

 それは、濃厚なココアのようで……ココアではない飲み物だった。

 不思議そうに目を丸くするセシルに、エステルははにかんで笑む。

「ホットチョコレートです。……今日はバレンタインデーですから」

 わずかにエステルの頬は赤らんでいた。

 セシルは目を瞬きながら、「エステルはバレンタインデーを知らないと思っていた」と呟く。

 エステルは笑みに苦さを交えた。

「……先日、女中のみんなに教えてもらったんです。どうぞ、飲んでみてください。疲れた時には甘いものが癒してくれますから」

 セシルはエステルの言葉に頷きつつ、カップに口をつける。

 ――ホットチョコレートは、溜まった疲労を溶かすように、まろやかに甘かった。

 その味が気に入って飲み続けていると、強い視線を感じる。

 身じろぎするかわりに、カップから唇を離す。

 凝視していたエステルに、セシルはとろけるように微笑んでみた。

「おいしいよ。ありがとう、エステル」

「どういたしまして。味見、あんまりできなかったから……」

 安堵したように口角を上げるエステルを見て、セシルは眉をあげた。

「飲んでないのか?」

 尋ねれば、「バレンタインデーの存在を知ったのが遅かったので……材料がほぼ品切れ状態で」と返された。

 つまり、ほとんど飲んでいない、ということだ。

 甘いものが好きなエステルは、バレンタインデーのために、自分よりもセシルを優先させてチョコレートを使用した。その事実に、心が甘く疼く。

 そうして過ぎったのは、チョコレートよりも甘美な悪戯。

「エステル」

 セシルが名を呼び、執務机の前に立つエステルの腕をひいた。


 刹那、重なる唇。

 咄嗟の行動にびっくりして口を開けば、口づけは深くなっていった。


 しばらく時間が経ち、エステルの頭が朦朧とした頃、その拘束はようやく解かれた。

 それでも、吐息がかかるほどにしかひらかれていない距離。

 セシルはエステルの頬を手で包み込むと、会心の笑みを浮かべる。

「――どうだ?」

 その言葉は、なにに対してなのか。

 意味はエステルに伝わっただろうか。

「~~……甘い、です」

 エステルは顔を紅潮させ、眉間に皺をつくりながら必死に答えた。


 それは、キング侯爵邸でのとある一日のこと。




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