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何者

作者: 山本 文
掲載日:2026/10/29

 とある休日、私はある小説家の卵、あるいは先日ついに名のある文芸誌にその文章が掲載されたと聞いているので、もう小説家と言っていいかもしれない、そんな人物と会うために東武伊勢崎線の上りの急行電車に乗車した。もう夏の暑さは耐えきれないほどだというのに、車内の冷房はあまりに控えめだった。省エネというやつかもしれない。数年前までは電車に乗り込むと寒かった。当時はそれを有難迷惑に感じていたが、暑すぎるよりはずっとましだ、と火照ったままの体をドアの前の冷たい手すりに擦り付けながら考える。ちょうど昼食時を過ぎた伊勢崎線は思いのほか混雑していて、私の座る席はないらしかった。

 ところでこの小説家――K君は愛媛の生まれである。県の西の端、豊後水道に面した八幡浜市川上町ここにK君の生家がある。生家という語が生まれた場所を正確に示す言葉であれば、K君が出産されたのは南に西予市を挟んでまた隣、宇和島市中唯一の産婦人科の第二分娩室である。K君の母は陣痛のきたとき、丁度同市の実家に帰っていたというのがその訳なのだが、まあそんなことは些事と言えよう。間もなく母に抱かれて退院したK君は、車に揺られること約一時間、父とその両親、つまりK君の父と祖父母が同居する改築されたばかりの一軒家へ帰ってきたからである。その時の情景がまだ視覚さえ判然としないK君の人格形成に、何らかの影響を与え得ただろうか、常識的に考えれば否である。否であるが、宇和島から伸びるバイパスを八幡浜市街へ出る手前で右折して、車は榎峠を上る。ぐんぐん上ってその先に、収穫期の蜜柑が鈴なりのオレンジ一色の山肌と、午後の太陽を反射して燦然と輝く波のない入り江、大きなカーブを描きながら下っていく灰色の車道――が見えたその一瞬のあまりに絵画的な光景が、K君のたましいとでもいうべきものに一種の祝福にも似た光を与えた、そういうことだってあっても不思議ではないだろう。

 さてそのようにして家族五人の暮らす一軒家へたどり着いたK君であったが、しかし生まれてからの2か月ほどをほとんど母親と二人きりで過ごした。10月、蜜柑農家をしているK君の家族は、収穫期の蜜柑を摘み取ったり、出荷のために選別をしたり、朝早くから晩遅くまでその家業にかかりっきりだったからである。今は四六時中K君を腕に抱いてあやし、あるいはまどろみの様な午後の光の中で、K君を小さな木製のベッドに寝かしつけたりしている母も、来年の今頃はK君を保育園に預けて蜜柑を摘みに山を上ることだろう。農家にとって一年の集大成とでもいうべき収穫期の仕事は、それほど重要かつ人手を要するものであった。その一方で、こういう時期に生まれたことによって、K君は自身に血縁のある何人もの親戚と顔を合わせることが出来た。収穫作業を手伝いに来た彼らK君の親戚は、日が暮れて最も人手の必要な山での仕事を終えると、K君を一目見るために新しくなった家へお邪魔した。タオル地のおくるみから顔だけを出したK君は、その小さな体でどんな景色を感じただろう。代わる代わる自分を覗き込む顔、皺の多い手のひら、関節が膨らんだ指、それから声。きっとそれはやさしさに満ちたものだったに違いない。この光景もまた間違いなくK君の記憶に残ってはいない。が、こういう体験がK君の誰とでも臆することなく話し合える性格をはぐくんだことも想像に難くない。

 一番多く植えられている品種の蜜柑を摘み終えると正月である。家の持つ畑にはまだ何種類かの柑橘類が実をつけて収穫の時を待っているが、繁忙期は終わった、と言ってよい。ようやく母とK君に、父や祖父母を加えた一家団欒の時間が生まれた。もちろんK君はまだ家族と同じ炬燵に入ることは出来ないが、家族が集まりあるいはテレビを見たり、あるいは今年の収穫について、来年の計画について話す居間の空気の中で、はじめてK君は自分がその家族の一員であると感じられたことだろう。珍しく雪の降らない暖かい正月であった。

 K君の人生は大体このようにして始まった。K君は入り江になった波のない海に近い家の中で、やはり波のないのんびりとした幼少期を過ごした、と表現してよいと思う。家族の生活にも、もちろん両親二人にとってK君がはじめての子供であったから、変化はあったと言わなければならないだろうが、しかし全然波乱万丈とかいうのとは違った。それにはおそらく蜜柑農家という家業と、育児経験者である祖父母との同居が影響している。日々の仕事は変わらなかったし、母の苦労は特に祖母がそれを分担した。どんな一日でも、日が暮れるころには一家が揃って、家を改築するより以前から変わらない和やかな時間を過ごした。K君の誕生はその時間に嬉しい一人が加わった、そのような具合だった。明確に変わったことと言えば、K君の父が煙草を止めたことと、(K君の祖父もまた愛煙家であったが、K君の生まれる二年前に激しい喘息に見舞われ、一週間ほど入院したことをきっかけに禁煙に成功していた)こちらは全くというわけにはいかなかったが、父の競輪とパチンコの趣味が控えめになったことだ。

 波のない生活、ここまでそういうことを強調してきたが、言うまでもなくK君の人格形成に影響した生活習慣や事件はそれこそ数えられないほどにあった。例えば、両親二人とも眠りの深い方で、祖父母の寝室は二階である、それでK君の夜泣きに誰も気が付かないことがよくあった、だとか。しかしそのようなことをいちいち述べ立てることはしないでおく。K君の人格のどれほどがこの時分の経験や環境に基づいて形作られたのかは分からないが、いずれにしてもK君の記憶にはほとんど残っていない。


 北千住に着くと私はJR常磐線へ乗り換えるために階段を上って中央改札を出た。そこから左手につくばエクスプレスの改札があって、そのさらに奥がJR線の改札である。改札の向かい側はルミネ(私は学生時代にも北千住駅を乗り換えに利用していたのだが、その間この商業施設に一度たりとも足を踏み入れることがなかった。もちろん卒業してからも入店したことはない。だから見慣れたガラス扉の向こうに一体どのような商品を扱う店があるのか一切知らなかった)で、そこから出入りする人と、私のように乗り換えのために歩く人、北千住の街に用がある人が入り混じって、人と人がぶつかりそうなほど混雑していた。

 その一方で意外にも常磐線のホームに立つ人は少なかった。乗り込み口の位置を示す青と緑の線の前に、それぞれ3、4人の先客がいるのみだった。目的の駅は北千住からわずか数駅である。別に座れなくとも構わない、そう思いながらもなんとなく乗客の列の最後尾に加わった。5分ほどで上野行きの電車が入ってくるようだ。家から最寄り駅までの間に買っていたカフェラテのペットボトルをちびちび飲みながら、むき出しの線路のなんだかもどかしい空白を眺めて電車の到着を待っていた。

 ところでK君は小学生のころスポーツ万能の健康な男児だった。決してガタイのいい方ではなかったが、反射神経だとか動体視力だとか運動神経だとか、自分の体で反応したり、自分の体を思う通りに動かしたりすることが上手だった。それからまた、勉強のほうも得意だった。K君は別に勉強が好きだった訳ではないのだが、いつも満点に近い点数のテスト用紙を家へ持ち帰っていた。

 ここで二つのエピソードを紹介したい。一つはK君の通う八幡浜市立川上小学校の運動会での出来事だ。毎年9月に行われる運動会の最終種目であるリレー競走のアンカーの補欠にK君は抜擢されていた。K君はその時4年生である。川上小学校は全校生徒50名弱の小さな小学校ではあったし、また補欠という立場ではあったが、5年生6年生を差し置いてK君がアンカーに選ばれたことは、K君の運動能力の優れていたことを教えてくれる。

 さて、その補欠に選ばれてからK君は毎日徒競走の練習に励んだ。K君の生真面目な性格はもうこのころには出来上がっていて(この性格はいつの間にK君のものになったのだろう。おそらくたくさんの小さな要素が小石を道に敷き詰めるようにしてK君の人生を方向づけたのだ)、課外でも自主的にランニングなどしていたところを見るに、K君は他の選手の誰にも劣らない努力をしていた、と言っていいと思う。しかし同時に、K君は自分があくまで補欠である、そう強く意識していたことも述べておきたい。

 運動会当日は見事な秋晴れであった。夏の暑さが尾を引いてまだ暑いが、日差しは秋のそれであって、体を動かすのが気持ちいい。生徒のために用意されたいくつもの種目が、学年を跨いで誰もが顔見知りの生徒たちの間で穏やかに行われた。穏やか、と言ってもそれは観客である家族から見た印象であって、当の生徒たちのほとんどはいたって真面目である。それで玉入れの種目で熱を入れすぎた6年生のある少年が足を捻挫してしまった。これがリレー競争のアンカーの少年なのであった。K君の出番である。

 日も傾き始めたころ、最終種目のリレー競走が始まった。一番手から順に走り出し、二番手三番手とバトンを渡していく。最後にK君がバトンを受け取る――果たしてK君は200mのトラックを見事に疾走し、チームに一位の座を持ち帰った。それだけでなくK君の所属していた紅組の総合勝利もこれによって決まった。K君は今誇らしい気持ちだろうか、そういう気持ちもあることはあったのに違いない。しかし、第一にK君の胸のうちに湧いた感情は申し訳ないというような感情だった。この栄光は本来自分のものではなく、捻挫で出場できなかった6年生の受け取るべきものだったのに。そういう気持ちのもやもやと、一斉の拍手を浴びながら、本来自分のものでないはずの喝采を確かに喜ぶ自分がいることの後ろめたさが、誇らしい気持ち以上にK君の記憶に残った。

 もう一つはK君が6年生の時のことである。K君と両親は三人で東京へ旅行に来ていた。その2泊3日はK君にとって全部が夢のようであった。はじめての飛行機、はじめての大都会、見たこともない人込みや、見たこともない高層建築の群れ。初日は上野、二日目はディズニーランド、三日目は日本未来科学館へ行った。その三日目の博物館は特にK君の気に入った。運動も勉強も得意だったが、それに大した興味を持っていなかったK君が、自分の知識欲みたいなものを、はじめて手触りのある確かさで感じたのは、宇宙ステーションの模型の前でのことである。自分のまだ知らない世界がこんなにも遠くまで広がっていること、それを一つずつ知っていけることの喜び、K君の心は大きな宇宙の真ん中に瞬く星々に、その星の光に負けないぐらい輝く目を凝らしていた。

 しかしここで語りたいエピソードはK君の開眼とは別にある。昼食も済まし、そろそろ帰りの飛行機の時間も気になり始めるころ、K君は両親とはぐれてしまったのだ。K君が自分の状況に気が付いたのは、帰る前にあの魅惑的な宇宙ステーションをもう一度見ようと1階に降りて、ひとしきりそれを眺めた後のことである。最初は不安がK君を襲った。同時に両親に何も言わずに階を降りてしまった自分を責めた。4階までエスカレーターを上りながら、両親が自分を待ってくれていて、自分のしてしまった過ちが許されることを祈った。しかし一方で、その長いエスカレーターを上っていくうちに、K君は今まで感じたことのない身軽さを感じだした。別にK君は抑圧的な家庭環境に置かれていたわけではないのだが、おそらくはK君の性格が、自分自身に対して抑圧のようなものを感じさせていたのだろう。4階にも居なかった両親と合流するため、案内センターに助けを求めたK君は、自分の名前が館内放送されるのを聞きながら、その身軽さと見つめ合っているうちに、一人でこの場所に座っていることに満足している自分を発見して不思議な気持だった。その日愛媛へ帰ってからも、いやこの時から以降のK君の人生において、この満足感と自分のやさしさとの折り合いをつけることが、K君にとって大事な指針の一つになった。


 日暮里駅のアナウンスが聞こえて、私は慌てて列車を降りた。慌てて降りたものだから、聞き間違いではなかろうかと不安になって駅名の書かれた標識を探し回った。が、ここは日暮里駅で間違いなかった。K君と待ち合わせの喫茶店へは北口から出るのが早いが、そのK君からは30分ほど遅れる旨の連絡が入っていた。西口に向かった。私は日暮里駅にはあまり縁がないのだが、何度か谷中霊園へ上野から歩いてきたことがあった。その谷中霊園へは西口から出るのが近いのだ。

 何故私は谷中霊園へ来たことがあるのだろう。今まさに霊園を貫通する通りを歩きながら、しかしその何故の答えは見つからなかった。どんなに家系図をさかのぼっても、私の知る限り谷中霊園に葬られた親族はいないはずだった。この霊園には多くの著名人の墓石が並んでいる、それを目当てにはるばる上野から歩いたのだろうか。これもおそらく否だろう。私の尊敬する著名人は一人もこの霊園に眠ってはいなかったし、それにもしそんな人の墓があったとしても、私は他人の墓を眺めるためにわざわざ出かけるような性格ではなかった。ただ、この細い道と古い墓石の入り組んだ霊園の雰囲気が好きだった、とは言える。が、別に他の墓地でもよかったはずだ、ということも言えると思う。

 霊園の大通りはそれなりに人が歩いていた。皆が皆自分に縁のある者の墓参りというわけではあるまい。観光だろうか、それとも私のようにただ時間を潰しているだけだろうか。まあ、別段他人の目的など気にしていない。考えてみただけだ。ただ、多くの人間の眠る墓地を、全く無関係な私という他人が歩いている、こういう自分の行為の気持ち悪さみたいなものを、同じく関係のないかもしれない他人の存在が薄めてくれている、そういう意味で彼らの存在はありがたいとは言えた。人の流れにまぎれて墓地を一周するころには、ぼちぼち頃合いだろう。髪の生え際に滲み始めた汗を拭いながら、左手の墓地の奥へ入り込む道に進んでいった。

 ところでK君の高校進学はK君自身にとっても、K君の家族にとっても大事であった。結論から言えば、K君はあまり乗り気でない両親を説得し、足立区に住む母の従姉に当たるY氏の家に寄宿する形で東京の高校に進学した。世にそのような経歴を持つ高校男児はそれなりにいる。そのそれぞれが、多かれ少なかれ家族との間に問答があっただろうことも想像に難くない。K君と両親の間にあった対立は、世間のそれと比較してより激しいものだった、とは思わない。が、この穏やかな家庭の中においては際立った事件であったことも確かだ。

 K君はいつから家を出ることを考えていたのだろうか。中学へ入学したころはまだ親の家業を継ぎ、自分も蜜柑農家になるのだ、中学二年生の春、学校で書かされる将来の夢と書かれた空欄に科学者と記入しながらも、なんとなく自分の未来をすでに定まったものとして捉えていた。科学者の夢、それが全部嘘だったとは言わない。実際このころのK君は、勉強することが好きになっていたし、その先になんらかの希望を見出していたのに違いない。その希望へと続く道の途上に東京の高校があったのか否か、K君はこの一事件のあいだ両親には隠していたのだが、本当のところ少なくとも理屈の上では県内の高校に進学したっていいと考えていた。そもそも県内の松山東高等学校などは進学校として十分の立場にあったし、現代においてはいくらだって自主勉強によって可能性が開けることをK君は理解していた。このことに関しては、普段教育に関して口を出さないようにしている父(K君の父がこれまで教育に無関心であったということでは一切ない、と断っておく。K君の父はK君の意思を尊重するというある種の理念に基づいてK君と接していたに過ぎない)も、はじめてK君を自室に呼んで向かい合って座り、県内の高校を検討するように訴えたが、K君はあくまで東京の学校へ進学する決意を曲げなかった。

 目に見えるきっかけというのはなかった。が、その全部を反抗期だとか思春期だとかそういう年頃のせいにするのは乱暴に思える。K君の決断は年相応の悩み、親と自分、家業と将来、友だちとの関係、それから毎日八幡浜市中の中学校と家とを往復するバスの中から見る変わらない蜜柑畑の山肌と養殖の生け簀のちらほら見える海、見知った同級生と同じぐらい見知った町内ですれ違い挨拶を交わす誰々、そういう日常の中で醸成されてきたある種の渇望とK君という人間のせめぎあいの結果とでもいうべきだろう。

 一つだけK君を明確に東京へ惹きつけたことがある。Y氏の存在だ。母の従妹に当たるこの女性は、K君に関わりのある親族の中で唯一県外へ出た人物で、K母より15歳ほど年上の離婚経験者であった。K君はそれまでこの人物と2度ほどしか顔を合わせたことがないのだが、Y氏の家を家族で訪れた時に見た壁一面の本棚の記憶が、時が経つごとにK君の中で光り輝くものに見えだし、また別の時にY氏から貰った中島敦の短編集は、いよいよ進路を確定する中学三年生の夏ごろにはK君にとってバイブルと言っていい一冊になっていた。他にもK君は特にY氏の独り身に特有のどこか諦念というか、余裕というか、人生に対するそういった態度のある立ち振る舞いに尊敬の念を抱いていた部分があるのだが、Y氏について事細かに描写することは避けようと思う。とにかくK君が九州や大阪など、他の大都市ではなく特に東京にこだわったのは、こういった事実から形成されたY氏への憧れのような感情によるところもあったのは確かである。


 喫茶店の中はひんやりとして、それだけでも心地よかった。たった30分外を歩いただけ、それだけでも昨今の温暖化の影響下にある東京を歩けば汗だくになる。そこに来てやや強めの冷房と、体重を柔らかく受け止めてくれるソファチェアのあるこの喫茶店は、砂漠の中のオアシス、そう表現したって言いすぎではない。もちろん内装や調度品の趣味もよかったのに違いない。暖色系のランプを模した照明が天井からつり下がり、木目の見える深いブラウンのテーブルを優しく照らしている。通りに面した右手の窓は地中海か何か、穏やかな海に面した岬とその突端の灯台の図で、それが鮮明過ぎない色彩で夏の日差しを透かしている。こうして並べていくと少々やりすぎ、そういう感じもしないでもない。が、アンティーク調にきちんと統一された店内は、カウンターの奥の方から漂ってくる深煎りのコーヒー豆の香りと相まって、安心して座っていられる雰囲気づくりと、これから運ばれてくるコーヒーの味への期待を膨らませてくれている。

 K君はまだ来なかった。K君の到着を待つかどうか迷ったが、結局ブレンドコーヒーを注文した。本当はマンデリンか何か、ストレートのコーヒーを飲みたかったのだが、定まらない心のまま店員を呼んだところで、結局この店の選んだ豆の掛け合わせが一番じゃないかという気がしてきて、ついブレンドを選んでしまった。

 K君が来たらどんなふうに挨拶すれば良いだろうか。小説家としてデビューしたことについても、単におめでとうとかそういうのではない、気の利いた一言みたいなことを言ってやりたい。私は半分ほど席の埋まった喫茶店の店内をぼんやり見回しながら、その気の利いた一言なんてものを思いつくのを待っていた。

 ところでK君は大学受験に失敗した。しかしそれは一概に悪いことだったとも言えない。K君が小説家になると心に決めたのもこの失意と焦燥の浪人時代あってのことだったからである。

 ひらめき、というのとは違う。K君が小説を書く趣味を身に着けたのは、まだ受験勉強に本腰を入れない高校時代の初めのころのことだ。だが、当時のK君の小説(K君には自分の書いたものを小説と呼びたくない自意識があって、心の中では単に文章と呼んでいた)はどちらかと言えば打ち明け話のような性質の大きいもので、まだ一般に小説の担うような不特定の他人に向けた意図のようなものはあまり含まれていなかった。それはK君も自覚していたことで、それを飯の種にしようなどとは考えたこともなかったし、それどころかあまり誰かに読まれたいとも思っていなかった。

 さて、高校最後の一年が始まって、K君は今まで感じたことのない重圧を感じだしていた。もちろん勉強そのものも、K君の生真面目な性格を考えると本人に強い負荷を掛けていたのに違いない。が、それ以上にどの大学へ行き、どの学問を学ぶか、ということがK君の悩みの中心だった。というのは、K君はまだ実家の蜜柑農家を継ぐべきか否か迷っていたからである。夏になり、学校で最後の進路調査があったとき、K君はその憎い白紙に第一志望は慶応大学理工学部、第二志望は愛媛大学農学部と記入した。別にK君は父と母が自分に蜜柑農家を継ぐことを強要しないことは分かっていた。分かっていたが、言ってしまえばK君の厄介なやさしさみたいなものが、自分の気持ちの全部を肯定することを拒んでいたのだ。心の定まらないまま受験当日を迎えたK君は、学力は十分であったにもかかわらず志望校のどちらにも受からなかった。

 受験に失敗したことでK君の前には、今まで考えないことにしていた選択肢、大学進学を諦めて実家に戻るという選択肢が、現実に選択可能なものとして現れた。結論から言えばK君は、そのどちらもを選ばないという言わば第三の選択肢として浪人することを選んだのだが、K君にとってこれほど中途半端な状態は生まれて初めてであったし、そのような状態をK君の性格がよしとしなかったことは間違いない。K君の苦悩は殆ど肉体にも感じられる苦痛と言えるほどになっていた。またここで立ち止まる選択をしたことで、正しい人生と自分という人間の対決の中で、進むべきと思っている道の周辺にとどまっていたK君の前には、今や岐路というのでは足りない、無数の道の重なる茫漠たる空間が広がっていることを発見し、K君はついに自分自身と正面から向き合う時期を迎えたのである。

 どうにか結論を導きだそうともがくうちに春が過ぎ、夏の初めにはK君の苦痛はそれなしには自分を定義できないほどに、K君のたましいみたいなものに食い込んでいた。次第に学業はおろそかになり、反対に小説を書く時間が増えだした。それは苦痛を表現することで苦痛から逃れたりそれを昇華したりする側面もあったのには違いないが、苦痛と対決するうちにK君の内に生まれた自尊心みたいなものも多分に影響していた。

 小説の深度とは別にK君をより小説に傾倒させたきっかけが一つある。それは高校からの友人で同じお茶の水の予備校に通っていたS氏の存在だ。S氏は春ごろにK君が小説の趣味を打ち明けて以来、K君にとって唯一の読者でもあり、そのS氏から言われる催促の言葉がK君の小説を自分だけの物語から、誰かと共有する物語へと変えていった。二人はよくお茶の水から橋を渡って、湯島聖堂を経由して秋葉原駅へ向かう道を歩き、話した。特に今通う予備校のこと、受験のこと、将来のこと、そして時にはK君の小説の出来について。自分の苦悩を身の内に抱え込み勝ちで、あるいは一人きりで破滅しそうになっていたK君を救っていたのは、この散歩の時間だったといっても過言ではない。

 年が変わりK君は次の受験でまたしても志望校に落ちた。K君は前の年の秋ごろには小説にのめり込むようになり、またその自分を肯定するようになっていたから当然と言えば当然である。一応述べておくと、K君は志望校には落ちたが大学へは進学した。だがその大学も2年と少しで辞めて自活の道を選んだのだから、語るべきことはあまりない。実際のところ大学へ入学した時にはすでにK君の心は決まっていたようなものだった。この苦しい時期を経て秘密の告白に過ぎなかったK君の小説もいつしか他人に読まれるものとしての風格を帯びてきた。それはK君の不断の努力と、友人であり第一の読者であり続けたS氏、K君の生活を支えた敬愛するY氏、K君の道を尊重し続けた家族の存在のたまものであったことは言うまでもない。


 喫茶店を出て、まだ日暮里に用のあるらしいK君とそこで別れた。

 話すべきことは話した。本当だろうか?いや、私にはK君に尋ねたいことが、情報としてというよりもK君の言葉で、K君の声で聞きたいことが、それこそこんこんと湧き出る泉の水のようにいくらでもあったのに違いない。だが聞けなかった。

 日暮里駅に着くとその構内には人だかりが出来ていた。が、改札から続く人の川の流れは一歩ごとに段々と細くなり、常磐線のホーム、私の家路に当たるその下り側には雨上がりの水たまり程度の人しか居なかった。私の後ろの上り線と、そのまた線路を挟んで後方の山手線からは人のざわめきが聞こえる。その大きな塊のような存在を感じる。来るべき電車はまだ来ない。空っぽの線路と、後方の充溢に挟まれながら、私はただ待っていた。

 ところでK君と親しくしているこの私は、一体何者なのだろう。

 K君の人生をさも出来上がった物語かの如く語る私。

 自分のことについては何一つ語るところを持っていない私。

 それはK君についても言える。

 ここまで語られてきたこの人物は、本当のところは一体何者であるのだろう。

 今はまだ、一切が不明瞭なままである。

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