結婚式で義母に飲まされたスープは、夫が私を身代わりにして死なせるためのものだった
披露宴が終わったあと、親族だけが残る控室で、義母の佳代さんが古びた朱塗りの椀を持ってきた。
中には黒糖のような甘い香りに、生姜と何種類かの薬草の匂いが混じった赤褐色の汁が入っていた。久世家では、嫁いできた女性が「嫁入り汁」を飲むのが昔からの習わしなのだという。
私が手を伸ばすより先に、隣にいた直人の顔から笑みが消えた。
「母さん、美月が嫌なら無理に飲ませなくていいだろ」
親戚たちは笑いながら、ただの縁起物だと言った。黒糖と生姜、それに身体にいい薬草が入っているだけだから心配はいらない、と。
せっかくの結婚式で空気を悪くしたくなくて、私は椀を受け取った。ひと口飲むと、強い甘さの奥に、乾いた草の根のような苦みが残った。
椀を戻そうとすると、佳代さんが私を見た。
「美月さん、最後まで飲んでね」
親戚たちの視線が一斉に集まり、私は仕方なく残っていた汁を全部飲み干した。
空になった椀を見た瞬間、佳代さんの肩からふっと力が抜けた。そして背を向ける直前、ほんの一瞬だけ笑ったように見えた。
あとになって知ることになる。
あの汁は、花嫁を祝うためのものではなかった。
1
二十歳を過ぎた頃、両親を相次いで亡くした。
大学を卒業してからは、両親が遺してくれたマンションで一人暮らしをしていた。久世直人と出会ったのは、その頃に出かけた旅行先だった。
直人は私より四歳上で、初対面から不思議なくらい一緒にいて楽な人だった。よく話すのに距離の詰め方は慎重で、何気なく話した好みを覚えていたり、体調を崩した時には薬を届けてくれたりした。
知り合って六年目に、私たちは結婚した。
付き合って四年目には直人の両親にも会い、その後は婚約、結婚と自然に話が進んでいった。直人は結婚前に同棲しようとも言わず、「美月のペースを大事にしたい」といつも言っていた。
私はそんな直人を、少し古風すぎると笑ったことさえある。
親戚や友人たちも、両親を早くに亡くした私が、これほど優しくて誠実な人と出会えたことを喜んでくれた。
あの頃の私は、その言葉を疑ったことがなかった。
2
結婚式が終わると、直人は五日後に自分の故郷へ行こうと言った。
直人が生まれたのは、北白県の御影山深くにある葛森という集落だった。最寄りの町からもかなり離れていて、幼い頃からそこを出ることだけを考えて勉強してきたのだと聞いていた。
私は、そんな直人の向上心が好きだった。
だから、結婚後に一度きちんと実家へ挨拶に行きたいと言われても、嫌だとは思わなかった。都会で育った私にとって、山奥の集落というものに少し興味もあった。
ちょうど連休と重なり、北白県行きの便は混んでいた。私たちが取れたのは五日後の飛行機で、義父母は一足先に帰郷し、私と直人はそれまで両親のマンションで過ごすことになった。
結婚式の夜、風呂から上がると、友人たちとのグループLINEには大量のメッセージが届いていた。
奈央が真っ先にからかってくる。
「で、昨日の夜どうだった? 美月、緊張して何もできなかったとか言わないでよ」
莉奈も続けた。
「明日はちゃんと報告してね」
顔が熱くなり、適当に返事をしながら、私は何度も浴室の方を見た。
直人が風呂から出てベッドに入ったところで、友人たちにおやすみと送り、スマートフォンを置いた。それからしばらく待ってみたものの、直人は何もしてこなかった。
思い切って寝返りを打ち、背中から抱きついた。
「直人、どうしたの?」
眠っていないことは分かっていた。
少し間を置いて、直人は私の方へ向き直った。抱き寄せられ、唇に軽くキスをされる。
「今日は疲れただろ。もう寝よう、美月」
結婚したばかりなのに、どうして何もしないのだろう。余計なことをいろいろ考えた末、私は恐る恐る聞いた。
「……したくないの?」
直人の身体がわずかに固まった。
けれど、すぐに笑って私の髪を撫でた。
「違うよ。今日は疲れてるし、最初の日を嫌な思い出にしたくないだけ」
そんなふうに言われると、それ以上聞く方が恥ずかしくなった。
けれど、その後の数日間も同じだった。直人は昼間によく外出し、夜になるとそのまま眠ってしまい、私が気にしていることに気づくと「実家に行ってからゆっくりしよう」と笑った。
少し変だとは思った。
それでも、六年間ずっと優しかった直人を、本気で疑うことはできなかった。
3
五日後、私たちは北白県へ向かった。
白澄空港から直人の親戚の車に乗り、高速道路を降りて国道へ入り、さらに細い県道を一時間以上走った。御影山へ入る頃には道幅も狭くなり、地図上の道路さえほとんど表示されなくなっていた。
山道はカーブの連続で、私は途中から何度も吐いた。
ようやく到着した時には足元もふらついていたうえ、その日に限って生理まで始まった。直人に支えられて部屋へ入り、シャワーを浴びると、そのまま眠り込んだ。
目を覚ました時には、もう夜だった。
少しだけ食事をして、もう一度横になろうとしたところで、これまで何もしなかった直人が突然抱き寄せてきた。
何度もキスをされ、私は困って身体を押し返した。
「直人、ごめん。今日は本当に気分が悪いから、また今度にして」
それでも直人は近づいてくる。
「美月は何もしなくていいよ」
その言い方に、少しだけ違和感を覚えた。
「そうじゃなくて、生理が来たの」
直人の動きが止まった。
私を見つめる顔から、すっと表情が消えていく。
「いつから?」
「今日。ここに着いた頃だけど……どうしたの?」
直人は答えなかった。
そのまま立ち上がって部屋を出ていき、強く閉められた扉の音だけが残った。
六年一緒にいて、生理が来たというだけであんな顔をされたのは初めてだった。
気分が悪くなり、私はグループLINEに愚痴を書き込んだ。
奈央からすぐに返事が来た。
「ちょっと待って。今までずっと何もしなかったのに、実家に来た途端したがって、生理だって分かったら怒ったってこと?」
莉奈は少し慎重だった。
「今日は移動で疲れてたんじゃない? 直人さん、今までそんな人じゃなかったでしょ」
奈央は納得していない。
「人なんて分からないって。六年付き合ってても、隠してることくらいあるでしょ」
読んでいるうちに、ますます気持ちが落ち着かなくなった。
それでも、空港からここまで長時間移動してきたのだから、直人も疲れていたのかもしれない。そう思い直し、少し言いすぎたことを謝ろうと部屋を出た。
階下に直人はいなかった。
改めて見ると、葛森には古い木造家屋が多く、その中で久世家の三階建ての家だけが妙に新しく見えた。周囲に住んでいるのも、ほとんどが直人の親戚らしい。
探しているうちに、家の脇に屋上へ続く階段を見つけた。
なぜか気になり、私はそのまま上へ向かった。
4
葛森は四方を山に囲まれていた。
夜風が木々を揺らし、都会では見られないほど多くの星が空を埋めている。昼からずっと続いていた気分の悪さも、風に当たっているうちに少しだけ落ち着いてきた。
手すりにもたれて空を見ていると、どこからか言い争う声が聞こえてきた。
最初は気にしていなかった。
けれど、風に混じって届いた声が直人のものだと分かり、思わず立ち上がった。
隣にある親戚の家の三階に明かりがついている。
そこには直人と義父、それに佳代さんの姿があった。
「父さん、もう少し待ってくれよ。美月が俺の子を身ごもれば、それで終わるんだ。そうなれば美月だって、簡単には葛森を離れられない」
手すりを握る指が止まった。
義父の声は、直人以上に苛立っていた。
「いつまで待つつもりだ。次の満月までだぞ。それを越えて『男孕み』が腹に根を下ろしたら、もう簡単には移せない。お前だって従兄がどうなったか見ただろう」
直人はしばらく黙っていた。
「千年以上前からの祟りだろ。今の俺にまで本当に起こるとは限らない」
「自分の番になってから泣いても遅い!」
佳代さんが二人の間へ入った。
「今は美月さんが月のものなの。その間は儀式が成立しないでしょう。焦って怪しまれたら、それこそ全部台無しよ」
義父が鼻を鳴らす。
「とにかく次の満月までだ。それまでに済ませろ」
佳代さんが少し間を置いて答えた。
「結婚式の嫁入り汁は飲ませたんだから、もう半分は終わってる。今は刺激しない方がいいわ」
妊娠、満月、祟り、そして結婚式で飲んだあの汁。
意味の分からなかった言葉が、一気につながった。
あの時、佳代さんが空になった椀を見てほっとしたような顔をしていたことまで思い出し、背中に冷たい汗がにじんだ。
もし直人が六年間優しくしてくれた理由そのものが、私をここへ連れてくるためだったとしたら。
それ以上考えるのが怖かった。
三人が部屋を出ていくのを確認すると、私は急いで屋上を降り、自分の部屋へ戻った。
友人たちへ連絡しようとスマートフォンを手にした時、廊下から足音が聞こえてきた。
足音は、私の部屋の前で止まった。
5
鍵が静かに回り、直人が入ってきた。
「美月、起きてる?」
眠ったふりはしなかった。直人は私の寝息まで知っているからだ。
少しだけ返事をすると、彼はベッドのそばに座った。
「気分、少しはよくなった?」
目の前にいるのは、六年間ずっと見てきた優しい直人だった。さっきの会話を聞いていなければ、何も疑わなかったと思う。
「まだ気持ち悪い。今日ずっと車に乗ってたからかな」
直人は横になり、私を抱き寄せた。
身体に腕が触れた瞬間、反射的に肩がこわばる。
「美月? どうした?」
気づかれた。
私は何とか力を抜いた。
「胃がむかむかするだけ。酔い止めか何か、ないかな」
直人は数秒、私の顔を見つめた。
「分かった。探してくる」
腕が離れ、ベッドが軽くなる。
足音が遠ざかったと思って振り返ると、まだそこに直人が立っていた。
思わず息が止まりそうになった。
「……どうしたの?」
何も知らないふりをして聞く。
直人はしばらく私を見たままだった。
「本当に生理なんだよね?」
まるで、私が嘘をついていることを期待しているような目だった。
「本当だよ。そんなことで嘘ついてどうするの。ナプキンもあまり持ってきてないから、明日買ってきてくれる?」
ようやく直人の顔が緩んだ。
「分かった」
今度こそ、彼は部屋を出ていった。
力が抜け、私はベッドに倒れ込んだ。
しばらくして、また扉が開く。
直人は梅干しと梅飴を持っていた。
「薬より、まずこっち試してみる? 乗り物酔いなら少し楽になるかもしれない」
さっきまで私を疑うように見ていた人と、目の前で心配そうに梅飴を差し出す人が、本当に同じ人物なのか分からなくなる。
「ありがとう」
直人はいつものように笑った。
それが、余計に怖かった。
6
その夜、私は体調を理由に、一人で寝たいと直人に頼んだ。
最初は嫌がったが、私が「いびきが気になって眠れない」とまで言うと、ようやく別室へ移ってくれた。風呂に入っている間さえ廊下で待っていた彼が、やっと部屋から離れた。
扉が閉まり、私はようやく息を吐いた。
ベッドへ戻ろうとしたところで、扉の下の隙間に黒い影があることに気づいた。
まだ外にいる?
確かめる勇気がなく、私はスマートフォンの録画を起動した。わざと床へ落とし、拾い上げる時にカメラを扉の下へ向ける。
再びベッドへ入り、明かりを消してから動画を確認した。
映像は大きく揺れ、そのあと扉の下の隙間が映った。
そこに、目があった。
直人が廊下に伏せ、床すれすれの位置から部屋の中を見ている。
手の中のスマートフォンを強く握りしめた。
心配している妻を見る目ではなかった。
私が逃げていないか、確認しているようにしか見えなかった。
私はすぐグループLINEに動画を送った。
奈央から真っ先に返信が来る。
「これ、もう普通じゃないよ。誰が妻の部屋をこんなふうに覗くの?」
屋上で聞いた話も一緒に送ると、しばらく誰も返事をしなかった。
やがて奈央が送ってきた。
「とにかく位置情報送って。呪いがどうとかは後でいい。先に美月を見つけないと」
位置情報を開いたものの、青い点は御影山周辺を大きく行き来するだけだった。道路や建物の情報も少なく、葛森という名前さえ地図上にははっきり表示されない。
「無理。御影山のこの辺りってことしか分からない」
「範囲広すぎるよ……」
画面を見つめながら、指先が冷たくなっていった。
7
莉奈も会話に入ってきた。
「本当に聞き間違いじゃない? 直人さん、今までそんな人には全然見えなかったよね」
「聞き間違いじゃない。それに今も、扉の外からずっと見られてた」
少しして、莉奈から返事が来る。
「だったら今は刺激しない方がいい。明日、何とか麓の町まで連れていってもらえない? 人のいる場所まで出られたら警察に行ける」
奈央も同意した。
「まずあの集落から出よう」
今の私にできそうなのは、それくらいだった。
その時、志乃から個別にメッセージが届いた。
「美月、今ビデオ通話できる?」
「どうしたの?」
「もしかしたら、場所を探せるかもしれない」
思わず身体を起こした。
「本当に?」
「まだ分からない。イヤホンつけて。つながったら声は出さなくていいから、部屋の中を全部映して」
言われた通りに部屋を映したものの、場所を特定できそうなものは何もなかった。
しばらく画面を見ていた志乃が、突然聞いた。
「前に住んでたマンション、私でも入れる?」
「前に預けた合鍵、まだ持ってる?」
「持ってるよ」
「よかった。たぶんブラシに髪の毛が残ってると思う」
意味が分からず、私は画面を見つめた。
「髪の毛?」
志乃は少し黙った。
彼女の母方の家は、昔から御影山系の修験道と関わりがあったという。
祖父は山で修行をしていた人で、志乃も幼い頃にいくつか教わっていた。ただ、普通に学校へ通い、就職して暮らしてきたため、友人に話したことはほとんどなかったらしい。
私の両親は、以前、家計が苦しかった志乃の家を助けたことがあった。
父親の事故で学費の支払いが難しくなった時、志乃が学校を続けられるよう支援したのが私の両親だった。それ以前から友人ではあったけれど、その出来事をきっかけに、家族同士の付き合いも深くなった。
「正確な場所までは無理。でも御影山のどの辺りかくらいなら、絞れるかもしれない」
それ以上、方法は聞かなかった。
「志乃、お願い」
彼女は短く答えた。
「待ってて」
8
翌朝、ナプキンが足りないことを理由に、麓の町へ連れていってほしいと直人に頼んだ。
「昨日あれだけ吐いたんだから、今日は休んでなよ。俺が買ってくる」
何度言っても答えは変わらなかった。
しつこくすれば疑われる。
私は諦めたふりをして部屋へ戻った。
グループLINEに結果を送ると、奈央はすぐに怒った。
「やっぱり外に出したくないんだよ」
莉奈も聞いてくる。
「他に方法ないかな?」
志乃のことを話しかけたところで、個別メッセージが届いた。
「私がどうやって探すかは、まだ他の二人には言わないで」
「どうして?」
返事が来るまで少し時間がかかった。
「家のことを広めたくないから」
それ以上、理由は聞かなかった。
志乃は代わりにグループLINEへ、車のナンバーや道路標識、宅配便の伝票など、場所の手掛かりになりそうなものを撮れないかと書き込んだ。
奈央がすぐ反応する。
「集落の名前だけでも分かれば全然違うよ!」
簡単ではなさそうだった。
それでも、何もしないよりはいい。
直人たちが家を空ける機会を待って、外を探してみることにした。
9
機会は翌日やってきた。
義父母は姿が見えず、直人も車で町へ出ていった。二階からしばらく様子を見て、周囲に誰もいないことを確認すると、私は家の横手から外へ出た。
途中で何人かの住民を見かけたが、すべて避けた。
葛森には久世姓の家が多く、そうでなくてもほとんどが親戚関係にある。誰が直人側なのか分からない以上、声をかける気にはなれなかった。
周囲を撮影しながら歩いているうちに、集落の奥に古い鳥居を見つけた。
その先に、小さな社がある。
石灯籠には苔が生え、拝殿もかなり傷んでいた。近づくと、湿った木の匂いに混じって、鉄のような臭いがかすかに鼻についた。
血に似ている。
奈央に写真を送ると、「入れそうなら少しだけ見て」と返事が来た。
側面の戸には鍵がかかっていなかった。
中には古い神具のほか、久世家の系譜や名が記された木札が並んでいる。けれど、最初はそれ以外に特別なものは見つからなかった。
そろそろ戻ろうとした時、風が入ってきて、供物台の下に垂れていた布が揺れた。
その奥に黒ずんだ石が見えた。
しゃがみ込み、スマートフォンのライトを向ける。
石碑には、古い言葉が刻まれていた。
――久世の男、穢れを孕む。
――十月十日満つる時、その身裂けて命尽く。
――血を絶やさぬため、外より女を迎うべし。
――嫁入りの椀を飲ませ、葛森の地にて夫婦の契りを結ぶべし。
――女、子を宿さば、祟りはその身へ移る。
――女の命尽きる時、男は生き長らう。
石碑の下部には、葛森の古い水路図のような線まで刻まれていた。
端には小さく、「根は泉にあり」とある。
そこまで読んで、ようやく意味が分かった。
久世家の男に起きる「男孕み」は、本当の妊娠ではない。
腹の中に、胎児のような何かが育つ。十月十日が過ぎれば、それは宿主の身体を破って死に至らせる。
助かるためには、一族の外から妻を迎え、嫁入り汁を飲ませたうえで葛森へ連れ帰り、この土地で夫婦の契りを結ばなければならない。
だから直人は、結婚式のあとも都会では私に触れなかった。
最初から、ここへ連れてくるつもりだったのだ。
この土地で私が直人の子を宿せば、祟りは私へ移る。
最後に死ぬのは、直人ではなく私になる。
私は慌てて石碑へスマートフォンを向けた。
写真を撮ろうとした瞬間、手から端末が消えた。
振り返る。
直人が立っていた。
10
その日から、私は完全に部屋へ閉じ込められた。
スマートフォンも取り上げられ、外には常に誰かがいる。直人は、私が屋上で会話を聞いていたことも、社の石碑を見つけたことも知っていた。
ただ、今すぐ儀式を完成させられるわけではなかった。
久世家の言い伝えでは、生理中に契りを結んでも祟りは移らない。だから生理が終わるまでの数日だけは、まだ時間が残されていた。
志乃が見つけてくれることを願うしかなかった。
三日目、佳代さんが食事を持ってきた。
盆の上には、結婚式で見たものとよく似た赤褐色の汁もある。
私は椀を見たまま動かなかった。
「先にご飯を食べて」
言われるまま食べ終え、最後に汁へ口をつけた。
結婚式の日とは味が違う。
反射的に吐き出そうとすると、佳代さんが私の手を押さえた。
「生きて帰りたいなら、全部飲んで」
顔つきは厳しかった。
けれど、視線だけが何度も扉の方へ向いている。
私は何も聞かず、残りを全部飲み干した。
空になった椀を確認した佳代さんは、わずかに肩を下ろした。部屋を出る前に一度だけ私を見たが、何も言わなかった。
直人は毎日部屋へ来た。
そして、私に気づかれないつもりなのか、必ずゴミ箱のナプキンを確認していった。
生理が長引いていることを、これほど願ったことはない。
それでも七日目の夜、ついにほとんど出血がなくなった。
眠りかけた頃、鍵が動く音がした。
直人だと思い、身体が一気に緊張する。
扉が開いた。
「私よ」
佳代さんの声だった。
11
明かりをつけようとすると、佳代さんがすぐ唇に指を当てた。
「つけないで。美月さんを逃がしに来たの」
私は布団をつかんだまま、暗闇の中の佳代さんを見た。
彼女は近づかず、少し間を置いてから話し始めた。
久世家は、もともと葛森にいた一族ではなかった。
御影山の反対側に、今では消えてしまった古い集落があり、久世家の祖先はそこに住んでいたという。
ある時、祖先たちは取り返しのつかないことをした。
何をしたのかは記録からも消されている。
ただ、その後から一族の男たちに「男孕み」が起こるようになった。
腹の中に肉の塊が宿り、月日が経つにつれて膨らみ、十月十日を迎える頃には身体を内側から破壊する。
久世家は祟りから逃れるため、一族の外の女性と何度も婚姻を結んだ。
けれど、それだけでは何も変わらなかった。
やがて彼らは御影山で修行していた一人の修験者を頼った。
その修験者が教えたとされるのが、嫁入り汁だった。
家の外から女性を迎え、嫁入り汁を飲ませる。
それだけでは祟りは動かない。
女を葛森へ連れ帰り、この土地で夫婦の契りを結ばせ、子を宿させて初めて「男孕み」は女の身体へ移る。
男の身体に最初の兆候が現れてから、次の満月までが祟りを移せる最後の期限だという。満月を越え、腹の中に祟りが深く根を張ってしまえば、もう他人へ移すことは難しくなる。
佳代さんは一度言葉を切った。
「直人に最初の痣が出たのは、結婚式の少し前だったの。脇腹に、久世家の男にしか出ない痣が浮かんだ。まだ腹は何ともなかったけど、主人はそれを見て、次の満月までしかないって……」
だから結婚式を終えた直人は、すぐに私を葛森へ連れてこようとした。
都会では私に触れず、この土地へ帰るまで待っていたのだ。
「お義母さんは……どうだったんですか?」
しばらく答えはなかった。
佳代さんも、結婚後に妊娠した。
最初の妊娠で、正臣さんの身体にあった祟りそのものは佳代さんへ移っていたらしい。
けれど、その子は途中で流産した。
本来なら十月十日をかけて佳代さんの中で育つはずだった祟りも、その時に流れが途切れた。正臣さんの身体からはすでに離れ、佳代さんの中でも完成しないまま、眠ったような状態になったのではないか。
残された記録を読んだ佳代さんは、そう考えていた。
その後、彼女は再び妊娠し、直人を無事に出産した。
久世家の人間にとっても、それは前例のないことだったという。
当時の佳代さんは、自分が何から逃れたのかさえ知らなかった。
三年前、佳代さんは偶然、古い社の裏に残されていた記録を見つけた。
そこで初めて、嫁入り汁の意味も、自分がかつて生贄にされかけていたことも知った。
佳代さんは若い頃に薬学を学び、結婚後もしばらく薬局で働いていた。
だから私たちの結婚式が決まった時、嫁入り汁の配合から、最も重要だと考えられるものをひそかに抜いた。
私はあの日、空になった椀を見てほっとした佳代さんの顔を思い出した。
彼女が待っていたのは、私が汁を飲み終えることではなかった。直人と義父が配合の違いに気づかないまま、儀式の最初の段階が終わることだった。
あの瞬間まで、佳代さんも賭けていたのだ。
監禁されてから飲まされた汁にも、同じように手を加えてあった。
私がすべて飲み干すまで佳代さんが離れなかった理由も、ようやく分かった。
佳代さんが私の手を握った。
「美月さん、ごめんなさい。直人は私の息子よ。だからこそ、私が止めなきゃいけない。どれだけ死ぬのが怖くても、あなたを身代わりにしていい理由にはならないもの」
喉の奥が熱くなった。
今夜、佳代さんは義父と直人、それに見張りをしている男たちの酒に、眠気が強く出る薬草を混ぜたという。
旧林道を通れば集落の中心を避けられるよう、手書きの地図まで用意してくれていた。
最後に、古い軽自動車の鍵を渡される。
「山道を少し下ったところに倉庫があるの。その裏に車があるから」
私は上着と財布だけを手にした。
佳代さんが裏口を開ける。
紙に書かれた道順を何度も確認して、外へ出た。
今度こそ逃げられる。
そう思った直後だった。
暗い道の先に、一人の女が立っていた。
「……莉奈?」
彼女は私の顔を見て、ゆっくり笑った。
「美月。やっぱり逃げるつもりだったんだ」
12
私はその場から動かなかった。
「どうしてここにいるの?」
莉奈は答えず、私の手にある車の鍵を見た。
「佳代さんも思い切ったことするよね」
背中に冷たいものが走る。
「私、葛森の場所なんて一度も教えてないよね」
莉奈は小さく笑った。
「教えてもらう必要がなかったから」
風に乱れた髪を耳へかける。
「私、子供の頃にここへ来たことがあるの」
何も言えなくなった。
「父親が久世なの。両親が離婚したあと、母に引き取られて、高梨に姓を変えたの。だから、美月は今まで知らなかっただけ」
その時、背後の扉が開いた。
直人が出てくる。
眠っていない。
莉奈を見ると、むしろ安心したようだった。
「助かった。もう少しで逃げられるところだった」
直人が私から鍵を取り上げる。
意味が分からず莉奈を見ると、彼女はあっさり言った。
「佳代さん、ここ数日ずっと様子がおかしかったから。直人には、今夜あの人から渡された酒には口をつけない方がいいって言っておいたの」
そこでようやく分かった。
佳代さんの計画は、始まる前から莉奈に気づかれていた。
莉奈と知り合ったのは、友人に誘われた飲み会だった。
酔った男たちにしつこく絡まれた私を助けてくれたのが彼女だった。揉めているところへ直人まで駆けつけてくれて、そこから私と莉奈は少しずつ親しくなった。
ずっと偶然だと思っていた。
けれど今、直人と並ぶ彼女を見ていると、あの出会いのどこまでが本当に偶然だったのか分からなくなった。
周囲の家にも次々と明かりがついた。
逃げ道はなかった。
私はもう一度、部屋へ連れ戻された。
13
翌日、莉奈が一人で部屋へ来た。
向かいに座った彼女は、以前のように笑わなかった。
しばらく黙ったあと、ぽつりと話し始める。
生まれた土地に縛られず、好きな人と好きな場所で暮らしている私が、ずっと羨ましかったのだという。
その一方で、私のことがずっと嫌いでもあった。
私が選んだ相手が、莉奈自身も長い間好きだった直人だったから。
「直人とは、どういう関係なの?」
莉奈は少し笑った。
「遠い親戚。結婚できないほど近い血縁じゃないよ」
彼女は子供の頃、葛森で何度か直人に会っていた。
両親が離婚してからは母親と町へ移り、久世家ともほとんど関わらなくなった。
それでも大人になって再会した時、ずっと直人に惹かれていたことに気づいたのだという。
けれど、莉奈自身にも久世の血が流れている。
久世家の祟りを移せるのは、一族の外から迎えた女だけだった。
莉奈では直人を助けられない。
だから直人が外の女性を探し始めた時、彼女は協力することを選んだ。
そのあと、私と知り合った。
友達になり、直人との交際を見守り、結婚するところまでそばにいた。
「じゃあ、最初から私を選んだの?」
莉奈は否定しなかった。
「私は直人に生きてほしかっただけ」
「直人が好きなのは勝手だよ。でも、どうしてそのために私が死ななきゃいけないの?」
莉奈の唇がわずかに動いた。
結局、返事はなかった。
そのまま立ち上がり、部屋を出ていく。
鍵がかかる音を聞きながら、私は壁にもたれた。
佳代さんのことも気になった。
それ以上に、もう何日も連絡が取れていない志乃が、本当にここまでたどり着けるのかが怖かった。
14
その夜、眠気に耐えられず横になっていると、また鍵が開いた。
莉奈かと思い、振り向かなかった。
突然、背後から強く抱きしめられる。
直人だった。
「ごめん、美月。もう時間がないんだ。俺は一人息子だし、まだ死にたくない」
私は必死に腕をほどこうとした。
「直人、落ち着いて。直人だって、ずっと都会で普通に暮らしてきたじゃない。病気かもしれないなら、ちゃんと病院で調べようよ」
直人の顔が歪んだ。
「病気じゃない! 俺は見たんだよ。従兄が死ぬところを、自分の目で見た!」
力が少し緩んだ。
直人の目が遠くなる。
十代の頃の直人も、「男孕み」など村の老人が子供を怖がらせるために作った話だと思っていた。
けれど、ある日訪ねた従兄の家で、腹が妊婦のように膨らんだ本人を見た。
従兄も最初は、久世家に伝わる方法で妻へ祟りを移すつもりだった。
けれど最後になって耐えられなくなった。
愛する妻を自分の身代わりにできず、わざとひどい言葉を浴びせて家から追い出した。
その後、従兄は一人で葛森を離れ、海外へまで逃げた。
それでも腹は膨らみ続けた。
病院では腹腔内に巨大な腫瘤があると診断され、手術で切除された。
一度は元の身体に戻った。
手術で助かったと思った従兄は、家族に無事な姿を見せるため、一度だけ葛森へ戻った。
ところが集落へ足を踏み入れたその日、平らになっていた腹が再び膨らみ始めた。
その大きさは、祟りが始まってから経過した月数と一致していたという。
六か月なら、妊娠六か月ほど。
どれだけ治療しても、切除しても、葛森へ戻ればまた現れる。
最後には従兄も、家に閉じこもるしかなくなった。
直人は、泣きながら助けを求める従兄を見た。
十月十日を迎え、その身体が耐えきれなくなるところまで見た。
それ以来、祟りを迷信だとは思えなくなったのだという。
「俺はまだ若いんだ。あんなふうに死にたくない。頼むよ、美月」
「だから私を代わりに殺すの?」
直人は目を伏せた。
「俺には父さんも母さんもいる。俺が先に死んだら二人がどれだけ悲しむか……。でも美月は、もう両親がいないだろ。向こうには二人がいるんだし……俺よりは」
途中で言葉が止まった。
それでも、もう十分だった。
「私の両親が死んでるから、私の命なら使っていいってこと?」
直人は私を見ない。
「自分が死んで親を悲しませたくないからって、だからって私を身代わりにしていいわけないでしょう。六年も一緒にいて、私のことをそんなふうに思ってたの?」
直人が顔を上げた。
これまで何度も見てきた優しい表情は、もうどこにもなかった。
「美月が分かってくれないなら……もう仕方ない」
直人が覆いかぶさってくる。
私は必死に抵抗した。
けれど力の差は大きく、腕を押さえられた瞬間、本当にここで終わるのだと思った。
15
大きな音とともに、扉が外から開いた。
「動くな!」
男の声が響き、二人の警察官が部屋へ飛び込んできた。
直人は私から引き離され、その場で床に押さえ込まれた。何が起きたのか分からないまま、私はベッドの隅で身体を縮めていた。
直人が完全に取り押さえられたあと、一人の警察官に支えられて廊下へ出た。
「美月!」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
少し離れたところに、志乃が立っていた。
「遅くなってごめん」
その姿を見た瞬間、張り詰めていたものが全部切れた。
私は声を上げて泣いた。
あとから聞いた話では、志乃は私のマンションに残っていた髪の毛を使い、家に伝わる方法で御影山のおおよその方向を絞っていた。
ただ、それだけを頼りに山へ入ったわけではない。
私との連絡が途絶えた翌日、奈央が志乃に「莉奈とも急に連絡が取れなくなった」と話した。
以前から莉奈の態度に小さな違和感を覚えていた志乃は、念のため彼女のマンションへ向かったという。
そこでちょうど、大きな荷物を車へ積み込み、出発しようとしている莉奈を見かけた。
髪の毛を使って絞った方角と、莉奈が向かった方向が同じだった。
嫌な予感がした志乃は、距離を取りながらその車を追った。
途中で何度か見失いながらも、北白県へ入り、最後に莉奈の車が御影山方面へ向かうのを確認したことで、葛森の位置をほぼ特定できた。
そこで志乃は110番通報した。
呪いや修験道の話はしなかった。
私がLINEで送っていた扉の下の映像、夫に外出を制限されていると話した記録、その後突然連絡が途絶えたことをすべて警察に見せた。
莉奈を追う途中で確認した道順も手掛かりになり、警察は葛森へ向かった。
家の外では、すでに複数の警察官が動いていた。
直人と義父、それに監禁に関わった数人がそれぞれ確保され、事情聴取を受けることになった。
佳代さんも警察へすべてを話した。
私も、閉じ込められていたこと、スマートフォンを奪われたこと、逃げようとした時に連れ戻されたことを説明した。
祟りの話をすべて信じてもらえたわけではない。
けれど、監禁されていた事実まで消えるわけではなかった。
その後、佳代さんから、嫁入り汁にはもう一つ秘密があったと聞いた。
古い配合の汁を繰り返し飲まされた女性は、次第に夫へ異常なほど依存し、逆らう気力まで失っていくという。
葛森の妻たちが長年外へ助けを求めなかった理由の一つが、それだった。
何も気づかなかったわけではない。
気づいても、離れようと思えなくなっていた。
志乃は古い社へ入り、私が見つけた石碑と、佳代さんが保管していた記録を確認した。
そこには嫁入り汁の配合だけでなく、葛森の古い水路についても記されていた。
石碑に残っていた「根は泉にあり」という言葉を頼りに、志乃は集落の旧水源を探し出した。
泉の近くには、祟りを集落につなぎ止めるために置かれたとされる古い石が埋まっていた。
志乃は残された記録に従って祓いを行い、その石を取り除いた。
それから、葛森の空気が少しずつ変わった。
長い間、夫に逆らったことのなかった女性が「嫌だ」と口にした。
別の女性は荷物をまとめ、子供の手を取って家を出た。
警察の聞き取りに応じ、自分たちがこれまで経験してきたことを話し始める人も出てきた。
数日後には、多くの女性が葛森を離れた。
もう夫に許可を求める人はいなかった。
直人は監禁や暴行など複数の容疑で逮捕され、その後起訴された。
他の女性たちの証言も集まり、葛森で長年続いてきたことが少しずつ明るみに出ていった。
最終的に、直人には実刑判決が下った。
私は裁判が続いている間に離婚手続きを進め、直人の服役中に離婚が成立した。
義父は一連の出来事のあとに脳梗塞で倒れ、大きな後遺症が残った。
佳代さんは離婚しなかった。
葛森を離れる前、私は一度だけ理由を聞いた。
「どうして、まだお義父さんのそばにいるんですか? あの人は全部知っていたのに」
佳代さんは長いこと黙っていた。
「間違ったことをした人よ。それは変わらない。でも、私はあの人を愛して生きてきた時間まで嘘にはできない。残るかどうかは、今度こそ私が自分で決めたいの」
私はそれ以上何も言わなかった。
少なくとも今度は、誰かに決められた選択ではなかった。
刑務所に入って数か月後、直人の腹部にも「男孕み」の兆候が現れた。
病院で治療を受けても、一時的に症状が収まるだけで、やがて再び膨らんだという。
その噂は刑務所の中にも広がった。
直人は、十月十日を迎える前に自ら命を絶った。
その知らせを聞いても、胸がすくことはなかった。
かといって、悲しくて泣くこともなかった。
私はただ長いこと座っていた。
六年間彼を愛してきた時間も、同じ六年間ずっと騙されていたという事実も、どちらか一方が消えるわけではなかった。
その後、私は両親が遺してくれたマンションを売った。
志乃が暮らしている町へ移り、御影山から遠く離れた場所で生活をやり直した。
久世家の祖先が何をして、あれほどの祟りを受けることになったのかは、最後まで分からなかった。
古い記録には、「償い」「血」「十月十日」という言葉だけが何度も残されていた。
時々、葛森のことを思い出す。
久世家の男たちは、自分の身体の中に別の命のようなものが宿り、長いあいだ逃げ場のない苦痛に耐えた末に死ぬことを恐れていた。
その恐怖から逃れるために彼らが選んだのは、自分の代わりに一人の女性を差し出すことだった。
葛森を離れた日、私は最後に一度だけ御影山を振り返った。
山は来た時と何も変わっていなかった。
木々の間を抜ける風も、夕暮れとともに暗闇へ沈んでいく集落も、きっとこれからも同じ場所にあり続ける。
ただ、あの日山を下りたのは、もう私一人ではなかった。




