第1話 【なごみの夜】
午後九時十二分。
介護付き有料老人ホーム「グリーンヒルズなごみ」の夜勤が始まって三時間が過ぎていた。
フロアにはテレビの音が小さく流れている。
だが、その静けさは一瞬だった。
「帰る!帰るんだよ!」
廊下の奥から怒鳴り声が響く。
八十二歳の田中義雄が車椅子から立ち上がり、出口へ向かって歩き出した。
認知症。
レビー小体型認知症。
昼夜逆転。
幻視。
そして夜間せん妄。
夜になると別人のようになった。
「泥棒がいるんだ!」
「警察呼べ!」
「家に帰る!」
離床センサーが鳴る。
ピーピーピー。
その直後。
別の部屋からナースコール。
さらに別の部屋からもコール。
廊下の反対側では利用者が転びそうになっている。
「主任!」
新人介護士の佐藤美月が半泣きで叫んだ。
「どうしたらいいですか!」
夜勤リーダーの大森恵子は時計を見た。
二十一時十三分。
まだ夜は長い。
「とりあえず田中さん。」
「でも他も……」
「全部は無理。」
美月は言葉を失った。
大森は慣れた様子で続ける。
「優先順位。」
「え……?」
「介護は全部助けられないの。」
大森は田中の腕を支えた。
田中は振り払う。
「触るな!」
「家に帰るんだ!」
美月は別の利用者のコールへ走った。
その背中を見ながら、大森は小さくため息を吐いた。
今夜も二人体制だった。
利用者七十八人。
介護士二人。
看護師不在。
応援なし。
当たり前の夜だった。
同時刻。
施設長室。
施設長の佐久間誠は机に並ぶ数字を眺めていた。
入居率。
人件費。
離職率。
収支。
すべてが赤字寸前だった。
コンコン。
ドアが開く。
事務長が入ってくる。
「また辞めるそうです。」
「誰だ。」
「三階の介護士。」
佐久間は眉一つ動かさない。
「今月何人目だ。」
「四人目です。」
「補充は。」
「応募ゼロです。」
沈黙。
事務長は続けた。
「夜勤が回りません。」
「回してください。」
「限界です。」
「限界なのは経営も同じです。」
事務長は何も言えなかった。
佐久間もまた疲れていた。
国は人を増やせと言う。
家族はサービス向上を求める。
職員は辞める。
しかし介護報酬は簡単には増えない。
数字だけが積み上がる。
翌日。
午前十時。
一人の男が施設へ現れた。
黒いスーツ。
整った髪。
無駄のない歩き方。
榊真司。
メディカルリンク所属。
肩書きは業務改善アドバイザー。
もちろん偽りだった。
本当の仕事は別にある。
解任請負人。
組織にとって都合の悪い人間を排除する男。
施設長の佐久間が出迎える。
「お待ちしておりました。」
榊は笑顔を作った。
「こちらこそ。」
施設長は応接室へ案内する。
コーヒーが置かれる。
そして一枚の紙が差し出された。
榊は目を通す。
そこには数名の職員の名前が並んでいた。
問題職員一覧。
その中に一人の名前があった。
佐藤美月。
介護士。
二十二歳。
勤続一年。
備考欄。
『現場への不満が多い』
『業務改善を頻繁に提案する』
『上司への反抗的態度あり』
『内部告発リスク』
榊は紙を閉じた。
施設長は苦笑した。
「真面目なんですがね。」
「真面目すぎるんです。」
「組織というものを理解していない。」
榊は何も言わない。
病院編で何度も見てきた言葉だった。
組織を守るため。
現場を守るため。
患者を守るため。
そう言いながら誰かが切り捨てられる。
その日の夜。
再び田中義雄の叫び声が施設中に響いた。
「帰る!」
「帰るんだ!」
「誰か助けてくれ!」
大森は疲れ切った表情で呟いた。
「もう無理だ……」
誰にも聞こえない声だった。
しかし榊だけは、その言葉を聞いていた。
そして気付いていた。
この施設で壊れかけているのは利用者だけではない。
職員もまた、限界に近づいていることに。
だが、この夜。
まだ誰も知らなかった。
数週間後、一人の利用者が死亡することを。
そしてその死が、グリーンヒルズなごみに隠された闇の入口になることを。




