お返しいたします。あなたの家を支えていた帳簿、全部
「承知いたしました」
わたくしは、五年間胸に抱え続けた帳簿の束を、彼の手にそっと返した。
革表紙は手の脂で飴色に光り、角は擦り切れている。毎晩めくり、毎晩書き足してきた重みが、両腕からふっと消える。それだけのことが、奇妙なほど名残惜しかった。
ラングフォード侯爵家、嫡男クレイ・ラングフォード様。わたくしの婚約者であった方は、その帳簿を――身を引く証文か何かと思ったのだろう――勝ち誇った顔で受け取った。
「物分かりがいいな、アデライド。やはり君は賢い。だが賢いだけだ。社交界で映えるわけでもない、ただ数字を数えるしか能のない女を、いつまでも妻にしてはおけないのだよ」
「ええ。よく存じております」
わたくしは微笑んだ。怒りはなかった。恨みもなかった。あったのは、ただ、ようやくこの重荷を降ろせるのだという、静かな安堵だけだった。
「アンリエッタ嬢は美しい。伯爵家の令嬢で、舞踏会の華だ。君とは違う。家の格も、見栄えも、何もかもがな」
クレイ様の隣で、若く美しい伯爵令嬢――アンリエッタ・コルヴィル様が、気まずそうに目を伏せていた。罪はない方だ。何も知らされていないのだから。わたくしはその方に向けて、ほんのわずかに頭を下げた。
「おめでとうございます」
アンリエッタ様は弾かれたように顔を上げ、それから、いっそう深くうつむいた。聡い方だ。きっと、この場の何かがおかしいと、もう気づいていらっしゃる。
「では、わたくしはこれで」
わたくしはドレスの裾をつまみ、淑女の礼をとった。五年間で一番、背筋がまっすぐ伸びた気がした。
◇
廊下に出ると、古参の家令マルゴが青い顔で待っていた。
「アデライド様……本当に、よろしいのですか」
「ええ、マルゴ。とても」
「ですが、あの帳簿は……あれは、アデライド様が……」
老いた家令の声が震えた。この家で、わたくしの仕事の中身を本当に知っているのは、この人だけだった。
わたくしがラングフォード家に婚約者として迎えられたのは、五年前。十六の春だった。地味な子爵家の娘で、見栄えも家格も侯爵家には到底釣り合わない。けれど、当時のラングフォード家には、わたくしの「数字を数える能」だけが必要だった。
当主は放蕩で、領地は十年来の不作。帳簿は赤く焼け、債権者の督促は山と積まれ、領民からの不当課税の訴えは握り潰されたまま腐っていた。
「お預かりします」
そう申し上げたのは、わたくしのほうだった。婚約が整った日の夜、わたくしは半ば崩れかけたこの家の帳簿一切を、自分の胸に抱え込んだ。誰に頼まれたわけでもない。ただ、放っておけば三月で潰れる家だと、ひと目で分かってしまったから。
それから五年。
わたくしは化粧を施した数字で王室財務局への申告を毎年通し、債権者を一軒ずつ訪ね歩いて返済を引き延ばし、領民の告発状を「これはわたくしがお預かりします」と引き取っては、頭を下げて回った。詫び状は、何枚書いたか分からない。書いては破り、書いては破り、当主の不始末を、嫡男の浪費を、わたくしの拙い文字で詫び続けた。
そうして、この家は潰れずにきた。
「君がいなくても、家は回る」
クレイ様は、そう仰った。
わたくしは廊下の窓から、よく晴れた空を見上げた。
――いいえ、クレイ様。回っていたのではございません。わたくしが、回していたのです。
けれど、それを申し上げるつもりはなかった。脅すつもりも、思い知らせるつもりもない。わたくしはただ、お返ししただけ。預かっていたものを、正当な持ち主に。
それが不正にならぬよう。
◇
屋敷を去る前に、わたくしは一つだけ、しておきたいことがあった。
アンリエッタ様を、人気のない図書室に呼んだ。
「失礼を承知で、ひとつだけ」
若い令嬢は警戒した目をしていた。当然だ。婚約者を奪われた女が、何を言い出すかと身構えるのは。
「あなたさまを責めるつもりは、毛ほどもございません。どうか、これだけ覚えていてくださいまし」
わたくしは、声を落とした。
「この家の本当の帳簿は――化粧をしていない、本物の数字は――東の塔の三層目、古い聖書の裏に隠してございます。鍵は、家令のマルゴが持っております。もしあなたさまが、この家でお困りになることがあれば、まずそれをご覧になって」
アンリエッタ様は、ぽかんと口を開けた。
「……どうして、わたくしに、そのようなことを」
「さあ。なぜでしょうね」
わたくしは微笑んだ。理由を、自分でもうまく言えなかった。ただ、何も知らずにこの家に嫁いでくる人が、わたくしと同じように、知らぬ間に泥をかぶるのは――忍びなかった。それだけのことだ。
「あとは、あなたさま次第ですわ」
わたくしは礼をして、図書室を出た。
門を出るとき、振り返らなかった。背負っていたものは、もう、すべて置いてきた。あとはこの家が、預けられたものをどう扱うか――それだけのことだった。
◇
わたくしが去ってから、ラングフォード侯爵家の歯車が止まり始めるのに、ひと月もかからなかった。
最初に止まったのは、債権者への支払いだった。
これまで、毎月決まった日に、わたくしが街の金貸しを一軒ずつ回り、頭を下げ、わずかな利子を払い、返済期限を引き延ばしていた。その「決まった日」に、誰も来なかった。
金貸したちは戸惑い、やがて苛立ち、そして気づいた。あの地味な婚約者がいなくなったのだと。
督促状が、屋敷に殺到した。
クレイ様は、それを見て鼻で笑ったという。
「アデライドの嫌がらせだろう。あいつが帳簿を持ち出して、混乱させているに違いない」
――けれど、帳簿は、彼の手の中にあった。
◇
次に動いたのは、王室財務局だった。
五年分の申告書の再精査が局に上申された、という話が、後から伝わってきた。上申したのは、毎年この家の申告書を受け取りにきていた、若い監査官補だったという。
王室監査が、ラングフォード領に入った。
そして、化粧を落とされた数字が、白日の下に晒された。
申告書の下から、十年来の本当の赤字が現れた。握り潰されていたはずの領民の告発状が――いや、その「写し」が――きちんと一枚残らず保管されていたことが分かった。
誰が残していたのか。
アデライド・ヴェルニエ。
彼女は、告発状を握り潰してなどいなかった。原本を引き取り、領民に頭を下げて宥めながら、その写しを一枚残らず取り、整然と綴じて、帳簿の束に挟んでいた。
――いつか、正しく裁かれるべき日のために。
そしてその束は今、クレイ・ラングフォードの手の中にあった。彼が「勝利の証文」だと思って受け取った、あの飴色の革表紙の中に。
◇
三つ目の歯車が止まった。
アンリエッタ・コルヴィル嬢が、婚約を白紙に戻したのだ。
彼女は、東の塔の三層目、古い聖書の裏から、本物の帳簿を見つけ出していた。化粧をしていない、本当の数字を。そして、この家が何の上に建っていたのかを、すべて理解した。
コルヴィル伯爵家は、即座に手を引いた。
「映える令嬢」も、家の格も、何もかもが、クレイ・ラングフォードの手からこぼれ落ちていった。
◇
すべてが崩れたあとで、クレイ様は、ようやく、自分の手の中のものを見た。
飴色の革表紙の帳簿。婚約破棄の日、アデライドが「お返しします」と差し出したもの。彼が、勝ち誇って受け取ったもの。
そこには、すべてがあった。
化粧した申告書の下書き。本物の赤字の記録。債権者の名簿と、毎月の返済の記録。領民の告発状の写し。そして――何度も書き直された詫び状の、破られた下書きの束。
一枚の下書きには、こうあった。
『この度の不始末、すべてわたくしの管理不行き届きにございます。どうか、当主さまと若さまには、お咎めなきよう』
当主の放蕩を、嫡男の浪費を、自分の落ち度として詫び続けた、五年分の文字。
クレイ・ラングフォードは、そのとき初めて理解した。
自分は、防波堤を、自らの手で押し返したのだ。
押し寄せる波を五年間せき止めていた壁を、「物分かりがいい」と笑いながら、受け取ってしまったのだと。
◇
後に、クレイ様がこう漏らしたと聞いた。
「アデライドの……嫌がらせだ。あの女が、私を陥れたんだ」
けれど、考えてみてほしい。
アデライドは、何一つしていない。
告発もしていない。脅してもいない。財務局に密告したわけでもない。彼女はただ、自分が預かっていたものを、正当な持ち主に返しただけだ。
――それが、不正にならぬように。
動いたのは、債権者だった。財務局だった。コルヴィル家だった。そして何より、クレイ・ラングフォード自身の、五年間の無理解だった。
彼は最後まで、自分が何を握っていたのか、分からなかった。
◇
春の、よく晴れた日のことだった。
わたくし――アデライド・ヴェルニエは、生まれ育った子爵家の窓辺で、紅茶を淹れていた。
帳簿はもうない。督促状も、告発状も、書きかけの詫び状もない。両腕は、ただ、軽い。
五年ぶりに、わたくしは、何も背負っていなかった。
朝、庭を歩くと、足取りがおかしいほど軽くて、思わず笑ってしまった。こんなにも軽かったのか、と。重荷を降ろすというのは、こういうことだったのか、と。
そんなある日、子爵家の門を、一人の客が叩いた。
王室財務局の、元監査官補。今は局を辞したという、ユーリス・ターナー様だった。この五年、毎年わたくしの申告書を受け取りにきていた、無愛想な役人だ。
「突然、申し訳ない」
相変わらず、無愛想な顔だった。
「ターナー様。本日は、どのような御用で」
「ラングフォード家の監査を上申したのは、私だ」
わたくしは、紅茶のカップを置いた。
「……まあ」
「五年分の申告書を、見直していた。あなたの書いたものを」
ユーリス様は、懐から一枚の紙を取り出した。それは、五年前のラングフォード家の、最初の申告書だった。
「あなたの申告書は、毎年、字の濃さが違った。前半は薄く、後半にいくほど濃くなる。インクを足す間も惜しんで、夜通し書いていたのだろうと、思っていた」
わたくしは、言葉を失った。
そんなことを、見ていた人がいたのか。五年間、ただ一人。
「……お恥ずかしい。乱れた書類で」
「いや」
ユーリス様は、ようやくわたくしを見た。
「あれほど正確な書類を、私は他に知らない。――この家がまだ立っているのは、誰のおかげなのか。数字を見れば、分かった」
彼は、その紙をわたくしの前に置いた。
「これを、返しに来た。あなたが書いたものだ。あなたが、持っているべきだと思った」
わたくしは、その紙を受け取った。
五年前の、徹夜の文字。誰も評価しなかった、わたくしの仕事。たった一人だけが、ずっと見ていてくれた、字の濃淡。
「局を辞しました。あなたの申告書を、もう、受け取れなくなる」
「まあ。それは、もったいない」
「だが」
ユーリス様は、少し言い淀んでから、まっすぐにわたくしを見た。
「これからは、誰の家のためでもなく、あなた自身の数字を、数えてくれないか。――その隣で、私が、それを受け取りたい」
彼の口の端が、ほんの少しだけ上がった。五年間で、わたくしが初めて見る顔だった。
わたくしは、五年ぶりに、軽くなった腕で、その手を取った。
「お預かりいたしますわ。あなたさまのことは、生涯」
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