猫のしっぽが指差す方に、だいたい事件がある
雨が来そうな夜だった。
空が、スマホの画面みたいにうす暗い。充電が切れる直前の、あの心細い色。
「はぁ……レポート提出、明日なのに」
大学の帰り道。私は駅前の商店街を抜けて、自分のアパートへ向かっていた。
うちのゼミは、顔は優しいのに締切だけは鬼だ。
提出が明日ということは、今日が実質の締切。つまり私は、今この瞬間に“詰み”の入口に立っている。
そんな私の足が、アパートの角で止まった。
段ボールが置いてある。
そして段ボールの隙間から、目だけが見ている。
猫だ。
黒白のハチワレ。顔の模様が左右でくっきり分かれていて、なんだか証明写真がちゃんとしてそうなタイプに見える。
「……いや、無理。うち、ペット不可だから」
そう言いながら、私は段ボールの前にしゃがんでしまった。
無理と言いつつしゃがむ。人間の矛盾はだいたい膝から始まる。
猫は鳴かない。
ただ、じっと私を見る。
段ボールの外に、しっぽだけがぴょんと出ていた。
長い。やたら長い。
そのしっぽの先が、突然。
ピン。
斜め上を指した。
「……え?」
猫が、何かを指したみたいに見えた。
いや、見えたというか、完全に指していた。しっぽで。
その瞬間。
ガシャァン!
近くで自転車が倒れる音。続いて、子どもの泣き声。
「うわ、なに!?」
私は反射で走った。
段ボールの猫も、当然のように後ろからついてくる。
ついてくるな。
いや、ついてくるのはいいけど、うちに来るな。話が早いようで早くない。
角を曲がると、街灯の下で小さい子が座り込んでいた。倒れた自転車、散らばった荷物。泣き声は細くて、でも必死で。
「だいじょうぶ!? 痛い?」
幼児は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、首を横に振った。
その横で猫が、ちょこんと座る。しっぽはもう指していない。
仕事終わりの顔である。
「……お前、案内したな?」
猫は私を見上げた。
鳴かない。
顔が「業務です」って言ってる。
私はため息をついて、幼児の手を取った。
「お名前言える? おうち、どこ?」
「……ゆうた……」
「ゆうたくんね。おうちの人の電話番号分かる?」
分かるはずがない。私は周りを見渡し、交番の位置を思い出した。
「よし。交番に行こう」
猫が立ち上がって、当然のように一緒に歩き出す。
「いや、同伴者みたいな顔するな」
猫はしっぽをゆらゆらさせるだけだった。
交番では、おまわりさんが驚きつつもすぐに対応してくれた。名札には「久我」とある。
「迷子か。よく連れて来てくれたね。えっと、君は……」
「三枝ミオです。大学生です。えっと、猫は……」
猫を指さして言い淀むと、久我さんも猫のほうを見た。
「……猫も一緒に来たんだ」
「来ました。勝手に」
久我さんは苦笑して、ゆうたくんに優しく話しかける。
しばらくして、泣きながら母親が駆け込んできた。
「本当にありがとうございます……!」
私は慌てて手を振った。
「いえ! 私というより……猫が……」
口に出してから気づく。
猫が助けた、って何だ。猫はしっぽをピンとしただけだ。
でも、私にとってはそれがもう十分に“超常”だった。
交番を出るとき、猫のしっぽを見た。
もう指していない。代わりに猫が、じっと私を見ている。
(……うちに来る気だな)
嫌な予感はだいたい当たる。
◇◇◇
その夜。
猫は私の部屋にいた。
「……いるよね」
ベッドの上で丸くなっている。
タオルの上にちょこん。まるで最初からここが自分の居場所みたいな顔をしている。
「うち、ペット不可なんだけど」
猫は目を細めた。
言い訳を聞く気がない目だ。
私は仕方なく、コンビニで買ってきた猫用パウチを開けた。
猫は「当然」という速度で食べる。
「……お前さ、どこから来たの」
猫は鳴かない。
ただ食べ終わったあと、しっぽの先が机の下を指した。
ピン。
「……え、なに?」
机の下を覗くと、床に水滴が落ちていた。
天井の角から、ポタ、ポタ。
「うわ、水漏れ!?」
私は慌ててバケツを置き、管理会社に電話した。
夜遅いのに「明日の朝一で行きます」と言われて、少しだけ救われる。床が。
電話を切ると、猫は知らん顔で毛づくろいを始めた。
“これは業務ではありません”の顔だ。腹立つ。
◇◇◇
翌朝。
寝不足のまま、私は大学へ向かう支度をした。
猫は玄関までついてくる。ついてくるな。いや、ついてくるのはいいけど外に出るな。
「今日はダメ。留守番。頼む」
猫は玄関で座り、私を見上げた。
そして、しっぽがピン、と外を指す。
「……指すのやめて。今から講義なの」
でも指された方向から、誰かの声が聞こえた。
「うわ、滑る!」
私は反射で外に出て、アパート前のマンホール付近を見た。
水たまりができていて、踏むとつるっと滑りそうな感じになっている。
ちょうど、おばさんが荷物を抱えてそこへ足を出しかけていた。
「あっ! そこ滑ります!」
おばさんが止まり、驚いて足を引く。
「ありがとうねぇ」
「いえ……」
私は玄関を振り返った。猫はもうしっぽを戻して座っている。
顔が「業務完了です」になっている。
(こいつ、危険通知アプリより早い)
大学では普通に講義を受けた。
普通と言っても、眠気との戦いに勝った記憶はあまりない。教授の声が子守歌すぎる。
帰り道、駅前のコンビニに寄った。
レジで会計をしていると、後ろの客が焦った声を出した。
「えっ、財布がない! さっきまであったのに!」
店内の空気が、少しだけ固くなる。
こういうとき、人はだいたい“近くにいた誰か”を見る。
そしてなぜか、私が見られる。
え、私?
私が今買ったの、ヨーグルトと消しゴムと猫のフードなんだけど。
大学生の買い物としては健全すぎない?
「……あの、私……」
言いかけたとき。
足元に猫がいた。
「……来たの?」
留守番って言ったのに。
どうやら玄関の隙をついて、いつの間にかついてきていたらしい。器用か。
猫は鳴かずに、しっぽをピン、とレジ下のほうへ向けた。
私は反射でしゃがみ、レジ横の紙袋の陰を覗いた。
「あ、財布……ここ、落ちてます」
財布はそこにあった。
店員さんが拾って持ち主に渡す。持ち主は真っ赤になって頭を下げた。
「す、すみません! 疑って……!」
「大丈夫です……」
私は猫を見た。
猫はもう「関係ありません」みたいな顔で店の外へ出ている。
全部、空気みたいにやっていく。ずるい。
(……こいつが指すの、犯人じゃない)
指すのは、揉め事の芽。
解決の入口。
◇◇◇
夕方、私は商店街の端にある駄菓子屋「はるや」に寄った。
ここは大学生でも不思議と居心地がいい。おばあちゃんが私を「ミオちゃん」と呼ぶからだ。大学で“ちゃん付け”されるのはレア。
「いらっしゃい。今日は顔が薄いね」
ハルおばあちゃんが笑う。
「レポートが明日で……」
「それは胃じゃなくて、頭から来るやつだねぇ」
猫が店の中に入り、棚の間をすり抜けた。
ハルおばあちゃんが目を細める。
「あら、猫ちゃん。最近この辺、猫が増えた気がするよ」
「この子、うちの……じゃないんですけど、勝手に……」
「勝手に居る子は、縁がある子だよ」
縁って便利な言葉だ。断りづらさが全部包まれる。
そのとき、猫のしっぽが店の奥の棚の一角を指した。
ピン。
「……また?」
私はその棚に近づいた。
そこには、古い鈴が置かれていた。錆びているのに、触るとほんの少し温かい。
「これ、何ですか?」
ハルおばあちゃんが顔を上げた。
「それね、昔は厄よけの鈴だったのよ。町の運が散らないように留める、って」
「運を留める……」
「洗濯ばさみみたいにね」
「雑!」
思わずツッコんだ。
でも、その鈴を手に取った瞬間、空気がふわっと揺れた気がした。
薄い布が一枚、めくれた感じ。
猫が珍しく真顔になった。
(この鈴、なんかある)
ハルおばあちゃんが続ける。
「最近ね、細かいトラブルが増えたのよ。落し物、転ぶ子、変な噂。大ごとじゃないけど、町がちょっとピリピリしてる」
「それ、たまたまじゃなくて……」
「たぶんね」
猫のしっぽがもう一度ピン、と鈴を指し、次に出口のほうを指す。
ピン。
「……行けってこと?」
猫は鳴かない。顔が「そうです」って言ってる。
私は財布を握りしめた。
面倒くさい。けど、放っておくのも気持ち悪い。
この辺の感情は、レポートよりやっかいだ。
「ちょっと散歩してきます」
「返せるなら返しな。返せないなら、責任が生まれる」
ハルおばあちゃんの言葉が妙に重い。
◇◇◇
夕方の河川敷は、風が冷たかった。
猫は私の少し前を歩き、しっぽをピンとしたまま、ずっと同じ方向を指している。
「指しっぱなしって疲れないの?」
猫は無視。
仕事中の顔である。
河川敷の階段を下りたところで、フードをかぶった青年が立っていた。
手に、鈴に似た金具を持っている。
猫のしっぽがピン。今までで一番、強い。
「あの!」
私が声をかけた瞬間、青年は逃げた。
「え、待って! 私、走るの苦手!」
猫のしっぽがピン、と私の足元を指す。
走れって言ってる。理不尽。
私は息を切らしながら追った。
青年は曲がり角を抜けたが、何かを落とした。
カラン。
金具の部品が草の上に転がる。
私が拾い上げた瞬間、視界がチカッとした。
町のほうに、細い黒い糸みたいなものが伸びている。
あちこちに。絡まって。引っ張られて。
「……なに、これ」
青年が振り返った。目が合う。
青年の目は疲れていた。怒りというより、寝不足の目。
「……その猫、まだ働かされてるんだ」
「え?」
青年はそれだけ言って、また走って消えた。
私は立ち尽くした。
「働かされてるって何! うちの猫、労基案件なの!?」
猫は真顔で私を見上げ、しっぽを一回だけ揺らした。
肯定にも否定にも見える。ずるい。
◇◇◇
そして翌日。商店街で小さなお祭りがあった。
屋台、提灯、子ども、甘い匂い。平和の材料は全部揃っている。
最初は平和だった。
でも、少しずつほつれが増えていく。
「迷子! うちの子見ませんでした!?」
「うわっ、滑った! 誰だここに水撒いたの!」
「財布がない! また!?」
小さなトラブルが、連鎖みたいに広がる。
そして嫌な方向へ向かう。
「……あの子、いつも揉め事の近くにいる」
「猫連れてる子だよね」
「怪しくない?」
怪しいって何。
猫が怪しいなら分かる。私は普通だ。普通に大学生だ。普通にレポート終わってない。
久我さんが交番から駆けてきて、人をさばき始めた。助かる。けど手が回ってない。
猫のしっぽがピン、と商店街の裏路地を指した。
まっすぐ。迷いなく。
「……行けってことね」
私は腹をくくった。
疑われるのは嫌だけど、ここで動かないのももっと嫌だ。
何より、この猫のしっぽが指す方に、だいたい事件がある。
裏路地へ走る。提灯の明かりが届かない、細い道。
そこにいた。
フードの青年。鈴を分解して、何かを組み替えている。
手元の金具は、昨日見た部品と同じだ。
「あなた!」
青年が顔を上げる。逃げようとする。
猫が先回りするように前へ出た。しっぽがピン、と鈴を指す。
青年は唇を噛んだ。
「……邪魔しないでくれ。町の運が、偏ってるんだ」
「偏ってる?」
「この鈴は、運を留める。留めた運は近くの人に溜まる。商店街の中心だけが得する。外れの住宅街はいつも後回しだ」
青年の声は震えていた。怒りというより悔しさだ。
「だから均したかった。運をほどいて、みんなに回すつもりだった」
「でも今、迷子が出てる。転ぶ人もいる。財布の騒ぎも」
「……それは、想定外だった」
青年の目が揺れた。
「想定外って言葉、便利すぎない?」
私は言ってから、ちょっと自分が辛辣だと気づいた。
でも、止まらなかった。だって今、誰かが泣いている。
「じゃあどうすればいい。留める鈴のままじゃ、また偏る」
猫のしっぽがピン、ピン、ピン。
鈴の部品の“ある場所”を、順番に指している。
私はそれを見て、口を開いた。
「留めるんじゃなくて、ほどけにくくする」
「……何?」
「運を洗濯ばさみで止めるんじゃなくて、結び目を作る感じ。強く締めるんじゃなくて、ゆるく結んで、ほどける前に気づけるようにする」
自分で言っていて、何の話だと思う。
でも言葉は、意外と伝わる。
青年が鈴を見た。
「……ゆるい結び目」
「偏りが出たら、そこだけ直す。全部ほどいたら、町が絡まって転ぶ」
猫がしっぽで部品の位置を示す。
私が手を伸ばす。青年も、ためらいながら手を出す。
カチ。
部品がはまる。
カチ、カチ。
最後の金具を入れた瞬間、鈴がふわっと光った。
白い光じゃない。月明かりみたいな薄い光。
そして、私にだけ見える黒い糸がほどけていく。
絡まりが消え、糸がほどけ、町の空気がふっと軽くなる。
遠くで、子どもの声が聞こえた。
「ママ! いた!」
迷子が見つかった声。
屋台のほうからも、安堵の笑い声が広がる。
財布も見つかったらしく、小さな拍手が起きた。
青年が鈴を見つめたまま、低く言った。
「……俺、間違ってたな」
「気持ちは分かるよ。偏るの、嫌だもん」
私は息を吐いた。
「でも、迷子は均されなくていい。転ぶ人も、疑われる人も、均されなくていい」
青年が小さく笑った。
苦い笑いだ。でも、ちゃんと笑った。
「……ごめん」
「うん。今度は、雑じゃないやり方で」
青年はフードを深くかぶり直し、鈴をそっと置いた。
「……俺、戻せるかな」
「戻す場所、間違えなければ」
猫がしっぽをゆらりと揺らした。
もう指していない。仕事が終わった顔だ。
◇◇◇
祭りの終わり。
久我さんが私に頭を下げた。
「助かった。何が起きてたか全部は分からないけど……君が動いてくれたのは分かったよ」
「たまたまです。というか……猫が」
猫はその場で毛づくろいを始めた。
自分の功績に興味がないふりをするタイプ。腹立つ。
ハルおばあちゃんが飴をくれた。
「ミオちゃん、あんた、運が絡まったときに手を出せる子だね」
「それ褒めてます?」
「褒めてるよ。面倒を拾える子は強い」
私は苦笑した。
面倒を拾う強さ。大学の必修より難しい。
◇◇◇
家に帰ると、どっと疲れが押し寄せた。
靴を脱ぎ、カバンを置き、私は床に座り込む。
「はぁ……もう今日は平和でお願い……」
猫が私の前に座って、しっぽをピン、と指した。
「……え、まだ何かある? 今日はもう勘弁して」
しっぽの先が指しているのは、冷蔵庫。
私はゆっくり立ち上がって、冷蔵庫を開けた。
中段の一番手前。猫用パウチが、空だった。
「……事件って、これ?」
猫が私を見上げる。
鳴かない。
でも目が言っている。
“はい”。
私はふっと笑って、新しいパウチを取り出した。
「分かった分かった。今日の報酬ね」
猫は当然の顔で食べる。
食べ終わったらベッドへ飛び乗って丸くなった。
しっぽは、もう指さない。
私は電気を消して、布団に入った。
暗い部屋で、猫の寝息だけが小さく聞こえる。
「ねぇ」
私は小声で言った。
「明日は、平和でお願い」
猫は返事をしない。
でも、しっぽが一度だけ、布団の上でゆらりと揺れた。
約束ではない。
たぶん、合図だ。
“明日も、だいたい事件がある”。
……でも。
だいたい大丈夫なら、まあ、いいか。
私は目を閉じた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
「猫が事件を呼ぶ話」は世の中にたくさんありますが、今回は少しだけ捻って、
“事件の中心”ではなく、“解決の入口”を指すしっぽにしてみました。
つまりこの猫は、探偵というより……危険予知アプリの上位互換です。しかも無言。腹立つ。かわいい。
ミオも、最初は「巻き込まれたくない」側の人間です。
でも小さなトラブルって、放っておくとどんどん連鎖して、いつの間にか誰かが泣いてしまう。
だからこそ、ほんの一歩だけでも動ける人がいると、町は案外ちゃんと戻れるんだな、という気持ちで書きました。
そして猫は、手伝ったぶんだけ当然のように報酬を要求します。
……ええ、人生もだいたい同じですね。働いたら猫缶が必要です。
もし「この猫、続きでも働けそう」と思っていただけたら、嬉しいです。
次の事件はきっと、もっと些細で、もっと面倒で、そしてだいたい温かいはず。




